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Laity - 信徒像を問い直す - 信徒による宣教 秋本 隆二
1. 基本的視点

 「教職による信徒の支配は、教会史における大きな罪であった。それは信徒からも教職からも神が意図しておられる役割を奪い、教職を破壊させ、教会を弱体化し、福音の進展を妨害する。それにもまして基本的に非聖書的である。数世紀にわたり『万人祭司制』を主張してきた私たちは、いまや全信仰者に奉仕が与えられるように主張する」

 「牧師は奉仕を独占してはならない。むしろ、他の人々を励まし、その賜物を用いさせ、弟子たちを訓練し、弟子たちを作り出すことによって奉仕を拡大しなければならない」

(以上、『教会成長シンポジウム』第三巻14頁で引用されている、第二回ローザンヌ世界伝道会議におけるマニラ宣言より)


 「LAITY(*1)と宣教」とのテーマが与えられ、準備していたところ出会ったのが上記の文献である。「信徒性」についての問題意識は今や世界的潮流のようだ。

 このような認識に立つ場合、我々の進むべき方向は二つに分かれる。まず第一のラインは、これまでの牧師中心の宣教方法を基本的に継承しつつ、その一部の奉仕を信徒に任せていくやり方である。『教会成長シンポジウム』のパネリストたちは全員教職者でいらっしゃるので、前掲書で上記のような方向性に沿ってとるべき方策が検討されているのは当然の流れであろう。

 ただ、ちょっと気になるのはここでの基本トーンが、(牧師による信徒の)「訓練」であり、また(牧師による信徒の)「意識改革」であり、つまるところ(牧師が、牧師の)「弟子を作り出すこと」とならざるを得ないという点である。すなわちこの牧師主導型をとる限りは、どこまで行っても必ず人間である「牧師」が良くも悪くも宣教の鍵を握ることになるのである。言い換えるならば、どこまで行っても人間中心であることには変わりないのである。

 さて、これとは別に、あまり一般的ではないが、もっと分かりやすい第二のラインがある。それは、信徒に全部の奉仕を任せてしまうやり方である。これを徹底すると牧師制度を否定するという方法に行きつく。「教職による信徒の支配が大きな罪」であり「基本的に非聖書的」というのであれば、歴史的にみても、また制度上も「奉仕を独占」するおそれの強い牧師制度をとらなければ良いのである。頼るべき人がいなくなれば、いきおい私たちは神様により頼まざるを得なくなり、結果として聖霊が自由に働かれる神中心の宣教・教会形成がより容易になるであろう。

 私の基本的視点を明らかにするまでの前置きが長くなった。私は第二のラインをとり大いに祝福されている教会(*2)に集っている。教会史上に位置づけるならば、ブレズレン(*3)の流れを汲む教会である。このような教会は教会史の初めから今に至るまで少数派ではあるが常に存在したのである。

 このような第二のラインにいる私が、第一のラインにいるであろう多くの皆様方に申し上げることは何もないとも思った。しかし、両者は出発点において全く異なるものの、実際の相違点はさほど大きくはないのである。すなわち、牧師制度を否定しても、一人の牧師が行なう奉仕を多くの人で分担しているのだから牧会の働き自体を否定するわけではなく、また同じ平信徒という立場にある霊的指導者の存在を否定しているわけでもない。他方、牧師制度をとりつつも、トップに立つ者の意識・姿勢次第では「万人祭司」の理想を現実化し、その結果いきいきとした「いのち」のある教会を建てあげることもできるようだ。実際そのような例を私たちは多く見ることができる。結局、両者の違いは「牧師」という言葉にどれだけの役割を担わせるかの違いに行き着くようにも思われる。したがって第二のラインの私の経験も少しは第一ラインの皆様方に参考にしていただける部分もあるかもしれない。

 念のためにつけ加えておくが、私は第一ラインが誤りで、第二ラインのみが正しいなどというつもりは毛頭ない。そもそも私には「牧師制度」を云々するだけの知識も能力も資格もない。ただ、あたかも「進化論 VS 創造論」論争の際に「創造論」も「進化論」同様に、科学的に十分成り立ち得るという論証から始めるように、牧師制度をとらないという選択も聖書的にみて十分根拠のあることだということは確認しておきたい。その上で問題とすべきは、いずれのラインに立つにせよ、信徒一人一人が心から喜んで主体的に主のために働ける雰囲気がいかに作り出されてゆくかを知ることであろう。


2. 信徒による宣教の実際

 私の教会には常時50名前後のメッセンジャー(*4)がおり、主のご用に当たっている。たとえばある週の土日だけで、最低27名が日本全国の集会ないしは家庭集会で主の証し人としての奉仕をしている。

 彼らは、私のようなサラリーマンンであったり、経営者・弁護士等の独立事業主であったり、あるいは教師であったりと様々な立場にあるが、職業を持っているという点では共通している。

 彼らはいきなりメッセンジャーとして派遣されるのではない。最初は集会の司会や、簡単な自分の証しを語るところから始められ、次第に祈り会での短い学びをするように求められ、最終的に50分程度の話ができるように訓練されてゆく。ただ訓練のための具体的なプログラムはなく、すべてぶっつけ本番「オン・ザ・ジョブ・トレーニング」である。また話した内容について誰かから指導・批判されることもまずない。すべて話すことによってそれぞれが直接神様から教えられてゆくのである。

 3ヶ月毎にスケジュールが決められており、たとえば今回私が派遣されるのは土日宿泊型としては山口・広島と大阪、その他日曜のみの当番は印旛、川越、吉祥寺である。したがって、1ヶ月平均1回強はどこかで話をするという計算になる。これはメッセンジャーの中では平均的な回数である。

 素人ゆえの苦労は多い。つい仕事の忙しさにかまけていると直前になるまで準備ができないこともある。上記の山口・広島ルートのように土曜の午後に山口市で家庭集会、その夜と翌朝は広島市で集会と三回メッセージを求められる時などはいつも苦戦する。一回くらいならどこか別のところで話したものを手直しして使えるものだが、三回分ともなるとだいたい種がつきてしまい、下手をすると土曜の集会の後に必死で次の日の原稿を用意しなければならないこともある。「我々職業を持ちながら奉仕する者は時間が足りないからこそ自分の能力にではなく主により頼むことを学べる」と先輩の兄弟(*5)は言う。まさに奉仕しながら訓練を受けているのである。

 ところで我々素人は実際にどのような話をするのか。専門職でない私たちは、社会で経験し主から教えられたことをベースに、みことばを語らざるを得ないという限界はある。したがって、専門家ゆえ可能な神学的に正確な知識に基づくみことばの深い「ときあかし」などは通常期待できないであろう。ところが、そのような素人の話でも、否、素人であるからこそ「みことば自体が語る」という経験を我々はしばしばさせられるのである。

  素人ゆえのメリットもたくさんある。たとえばコピーライターの兄弟のメッセージは、実に計算し尽くされた言葉の運びで聴衆を魅了する。経営者の兄弟の話の、日々の取引上の苦労から出た言葉には納得させられる部分が多い。弁護士の兄弟はあたかも弁論をするがごとくに説得的に論理を展開する。某大学教授の兄弟の話はその肩書きと名前を聞いただけで多くの未信者が話を聴きに行こうという気になるし、クリスチャンも未信者を誘いやすい。聴く側からすると、いろんな人がいろんな立場から話をすることで飽きがこないばかりか福音の諸側面を現実に即して多角的に知り得ることになる。


3. 信徒が主体的に宣教に参加するには

 現在の私の立場上、「話をする」側からの奉仕の話が中心になったが、教会の宣教活動においてメッセンジャーの仕事というのはその一部分にすぎない。家庭を開放し、未信者に定期的に連絡をし、そして彼らのために祈り続ける存在がなければこのような働きは存続し得ないのである。

 たとえば山口市の家庭集会には現在、山口県各地から15名前後の方が集っておられるが、近くの施設に住む下半身に障害を持つI兄の介護のできる男性が山口にはいないため、毎回広島から、ボックスカーで応援がくる。それぞれの兄弟姉妹が自分のできる範囲で重荷を負い合って集会は運営されているのだ。メッセンジャーとて例外ではない。「講師」「先生」として遣わされるのではなく、あくまで単にみことばを取り次ぐというひとつの役割を負っているにすぎない。

 これほどまでにそれぞれが喜んで主を証しする奉仕に携われる根底には、日々新たにされる救いの喜びと滅びゆく魂への悲しみがある。私たちの教会が全国各地に広がったのは親族に福音を伝えていった結果なのである。「自分の行く天国に両親も、兄弟も、○○じいちゃんも」との思いが集会を開き、メッセンジャーを派遣する原動力になっている。たしかに家族・親族の救いということはいかなる人でも真剣になれる課題なのである。

 これに加えて、牧師制度・記名式月定献金制度・会員制度などのない自由な雰囲気も重要である。「強制」のあるところには「上質」のものは生まれないというのが最近の心理学やマネジメント理論の定説であるが、これは教会政治についても十分妥当するであろう。組織でしばられない自由な雰囲気があるからこそ、それぞれが自分の賜物に応じて喜んで主に仕えることが可能になるのだ。

秋本 隆二
(上智大学86年卒・東京地方裁判所職員)


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メッセージ・証し集インデックスページ

 1. 基本的視点

 2. 信徒による宣教の実際


 3. 信徒が主体的に宣教に参加するには

コイノニア
発行:キリスト者学生会関東地区卒業生会
会報 第24巻 通巻第93号
1994年12月1日

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(*1) Laity : 一般信徒 (牧師等の聖職者に対して素人の信徒)

(*2) 教会 : ここでいう著者の集っている教会は、『教会』ではなく『キリスト集会』と呼ばれる。ここではわかりやすくするために「教会」と称している。
  『キリスト集会』と呼ばれるのは、信徒たちが教わるために集まるのではなく、集まることで共に祈り共に主を賛美することを尊重するためである。

(*3) ブレズレン : プロテスタント教会の派の一つ。

(*4) メッセンジャー : 説教(メッセージ)を取り次ぐ人。男性の信徒たちが主となって参加している。

(*5) 兄弟・姉妹 : キリスト信者に対する呼称。男性信徒に対しては『兄弟』、女性信徒に対しては『姉妹』と呼ぶ。
 「天におられるわたしの父のみこころを行なう者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」マタイ12. 50より。