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死は終わりではない 葬儀を通しての証し
故 一瀬賢治氏 『必ず天国で、皆さまといっしょに。』 2001年1月17日葬儀
 私にがんという病気、試練が与えられたことは、私はもちろん家族も、友人も、キリスト集会の方々も、会社の方々も、考えもしなかった、予想外のできごとでした。「あんなに元気だったのに、どうして?」、「あんなにエネルギッシュに動いていたのに、どうして急に。」というのが、その時の皆さまの言葉でした。私に近い、親しい方ほどそう思われたようです。

 しかし、実は私は、皆さまが思われるようなショック、「予想外のできごと」、という気がしたわけでもなかったのです。なぜかというと、次のようなことがあったからです。

 自分で振り返ってみても、その頃の私の信仰はあまりにも生ぬるいものでした。私はこの世で、目に見え、価値があると言われるものは、そのほとんどを持っていました。そして私は、この世の欲をさらに追いつづけ、不品行を重ね、闘争し、人をさばき、酩酊し、高ぶり、さばく者でした。聖書に書かれてあるとおりです。

肉の行ないは明白であって、次のようなものです。
不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。(ガラテヤ書 5:19-21)


 そもそも私がイエス様を受け入れ、救われた原因は、自分の持っている傲慢の罪をイエス様に赦していただこう、というところから始まっていました。ですから私は、「なるほど、主は、こうなさるのか」と思ったのです。そのわけを、少し説明しましょう。


愛の試練

 今回の試練には、与えられる前の予兆がありました。その一つは、四年前の次男の家出でした。当時、中学二年生だった次男が、ちょっとした親子喧嘩がもとで二週間ほど家出してしまいました。親の思い通りにならない子供、という問題を通して、私たち夫婦が本当にサタンと戦って祈り続けているのか、という問題を、主に突きつけられたのです。子供の家出は世間にもよくあることで、そう大きな問題でないかもしれません。しかし、私たちにすれば、「せっかく順調だったのに、こんなことが起こってしまった」という大きなショックを受けました。生ぬるかった信仰に、一つの問いかけがなされたのです。

 この子供の問題を通して、不安定な、危なっかしい信仰に対して、何度も主から愛の試練をいただき、私たち夫婦が一致するようにと、次々に祈りの課題を与えられました。

世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もし、だれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、暮し向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。(ヨハネT 2:15-16)

 まさに私の信仰は、「世と世にあるもの」を中心に据えた情けない信仰でした。
 次に訪れた試練は、会社の危機という、これも私にとって非常に大きい試練でした。放っておけば会社は倒産します。小さな会社ですから、私が持っている資産はすべて担保に入ってます。倒産すれば、ほかに担保を提供していただいている方々にもご迷惑をおかけし、資産は全て売り払わなければならず、再スタートするにしても、ゼロからでなくマイナスからの出発となりますから、本当に悩み苦しみ、焦りの日々を過ごしました。去年、一昨年のことでした。その時も私は、「何が何でも自分の頭で考え、自分の力で克服しなければならない」と、そのことばかりを考えていました。主に委ねるのとは正反対の所に立っていたわけです。

「自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」(マタイ 6:20)


 このみことばにあるように、「私の心がある宝」は、この世の見えるもの、お金、地位、業績などであり、私はいつもそれにこだわっていました。私は試練に会ったとき、ヨブのように主に対して疑問を投げかけ、問いただす者でした。「なぜ、このようなことを、私に起こされるのですか」と。「信仰を持ち、礼拝も守っているのに。もし、会社がおかしくなったら、社員とその家族数百人の人々の生活が脅かされることになる。そのようなことを、なぜ私の上に起こされるのですか」と。

 もちろんそれは、主に対して、抱いてはいけない考えであり、信仰とはまったく正反対の、サタンの大好きな考え方です。

「だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。」(ヨハネ 7:17)

 まず第一に、主のみこころを知ろうという願い、そのみこころを行なおうという心がなければ、主はご自身のみこころを明らかにしてはくださいません。そのことは、理屈では十分にわかっているつもりでしたが、実際に自分に降りかかってくる災難、主からいただく試練は、素直に受け止めることができなかったのです。

 そして三番目に、今年になってから、同じ会社にいる私の親友、私の最も信頼する片腕の経理担当常務が、突然心臓発作で倒れ、亡くなりました。小さな会社ですから、経理、総務関係は安心して彼に預け、任せきっていましたので、想像を絶するパニックに陥ってしまいました。会社のこともさることながら、歳も私と同じだった親友を、突然失うという信じられないことになったのです。ここでも私は、ますます主に向かって、「なぜ、どうしてですか」と問いただすような態度をとってしまいました。

主よ。いつまでですか。あなたは私を永久にお忘れになるのですか。いつまで御顔を私からお隠しになるのですか。(詩篇 13:1)

主は、いつまでも拒まれるのだろうか。もう決して愛してくださらないのだろうか。主の恵みは、永久に絶たれたのだろうか。(詩篇 77:7-8)


このように、つらい試練を次々に与えられると、どうしても、「主よ、なぜ私を、彼を、お見捨てになるのですか」と尋ねてしまいます。

 創世記にあるようにエデンの園で、蛇がエバを誘惑してからというもの、人間は罪を犯すけれども罰は逃れようとしてきました。主は私たちが持っていると思っているすべてのものの真の所有者であり、それを私たちから取り上げる権利も持っておられます。私たちは、与えられた試練の谷間にあって、一人悶々と悩み苦しみますが、私たちは、このような苦難に際して、聖書にあるヨブやダビデのように対応することがなかなか難しく、耐えがたいこの世の試練の中にあって混乱すると、霊的な危機に陥ってしまいます。それがまさしく私の姿でした。神を見失い、自分の力で何とかしようとし、自分の考えで理解しようと、いろいろなことを考えるようになってしまいました。その結果、主が実際におられることさえ疑うほどの不信感にとらわれ、期待と夢は幻滅と絶望に取って代えられるようになってしまいました。最大の欲求不満は、主はただお言葉ひとつで全宇宙を創造されたお方であり、全知全能のお方である、と知っているところから来るわけです。

 「主は、助けることがおできになるし、癒すこともおできになる。救うこともおできになる。しかし、なぜ、それを今、してくださらないのか」。私はそのような者でないにしても、全身全霊をもってイエス様を信じてきた者にしてみれば、イエス様に見捨てられた、というように感じてしまう、それこそは恐ろしいサタンの罠がそこにあるのです。神に見捨てられた、という思い、そこを狙ってサタンはそっと近づき、「神様などいない。お前は一人ぼっちなんだ」とささやくのです。そのようなサタンのささやきに耳を傾け、信仰が揺らぎ、ますます自分の思いの方向へ行こうとしていた私に、主は、最終的な試練を、愛をもってお与えくださったのです。それが、今回のこの私の病気でした。このように、自分ではどうしようもなく信仰が揺らぎ、サタンの方へと引きずられかかっていた私に対して、主は、大きな救いの愛の御手を差し伸べてくださったのでした。

だれでも兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たなら、神に求めなさい。そうすれば神はその人のために、死に至らない罪を犯している人々に、いのちをお与えになります。死に至る罪があります。この罪については、願うようにとは言いません。不正はみな罪ですが、死に至らない罪があります。神によって生まれた者はだれも罪の中に生きないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。私たちは神からの者であり、全世界は悪い者の支配下にあることを知っています。しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。(ヨハネT 5:16-20)


希望、そしてたった一つの後悔

 私は今、特別に悲観的になっているわけではありません。あと何日、生きられるかわかりませんが、それは皆さまもいっしょです。それよりも今、この病気を宣告されてから、毎日毎日が私にとっては本当にすばらしい一日一日であり、いままで五十年間生きてきた中で、これほど充実した二ヶ月はありませんでした。新しい一日一日が、すべてが美しく感動的であり、目に見えるもの、耳に聞こえるもの全てが、新しい体験でした。また、家族と過ごす、残された時間も、今まで仕事をしていれば到底ありえなかったような中身の濃い時間を過ごさせていただいています。心から感謝をしています。

 主は私に、何を語りかけておられるのか。初めに言いましたように、「主が私の傲慢の罪を打ち砕くため、そして私を全く空しくするため」、そのためにこのようなさまざまな試練を与えておられるのです。もちろん、その目的は、「主だけを愛し、主のみもとに行くことを切に願い、この世の悪を憎み、礼拝し、真実の祈りを捧げる者に変え、主だけに拠り頼んで生きる者に変えられるため」です。私が自分の肉の力ではなく、ただ主の力に頼って生きるようになるためであり、主の前でへりくだることができるようになるためです。

 ですから私は、この病気を与えられたことによって失ったものは何もありません。「またそんな強がりを言って」と思われるかもしれませんが、それは真実です。もちろん、たとえば孫の顔を見たいとか、その前に子供が結婚する相手の方を見たかったとか、結婚式に出たかったとか、それは言い出したらきりがないのですが、そのようなことは、本当の幸福とは無縁のことです。私がこの病気によって失った、この世の、今から思えば取るに足りない物、かつてはそれにすがりついていたわけですが、そのようなものを失った代償として、大きな大きなものをいただくことができたのです。それは「主と共に歩むことができる」という喜びであり、「もうちょっとで天国へ行ける」、という喜びです。

 ただ一つだけ、本当に悔やまれることは、すばらしい主の福音を、もっと多くの人々に宣べ伝えることができなかったことです。

 今から思えば、時間はいくらでもあったのに、主の愛を説くことをせず、親、兄弟、友人、会社の方々、また私と出会った方々に対して、心から主の愛を説こうという気持ちを持たず、すり抜けてきてしまったことを、今は本当に後悔しています。

 この世での最期の時になって、イエス様は私の姉の家族を西軽井沢の福音センターへ導いてくださり、私の長男もベックさんとお話する機会があり、母もそろって福音センターで過ごすことができました。自分のこの世での命と引き換えに、それでやっと自分の家族にイエス様のことを伝えることができたわけです。このことを思うと、今まで救われてから十年間、全く何もしていなかった自分が、本当に主に申し訳なく、悔い改めています。

 「わたし(イエス様)よりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分の十字架を負ってわたしについてこない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」(マタイ 10:37-39)

 このみことばは何度も読んではいましたが、今やっと、このみことばの持つ真の意味がわかりました。また、黙示録には、こうあります。

 「目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたし(イエス様)は、あなたの行ないが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。」(黙示録 3:2-3)


 同じ黙示録で、最近私がよく読んでいるのは次の箇所です。

 御霊も花嫁も言う。「来てください。」 これを聞くものは、「来てください。」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。(黙示録 22:17)

 「勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座につかせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。」(黙示録 3:21)


 「この世は地獄だ」と、本当に思っている人は少ないと思います。クリスチャンでも、「この世は地獄だ」と、はっきり宣言できる人がどれだけあるでしょうか。しかし、「主の御座のあるところは天国だ」と思っている方々は、たくさんおられます。私がとってきたあいまいな態度、つまり「この世はまんざら悪くもない。天国はもっといい所だろうけれど、この世は言うほど悪くない」といった、生ぬるい信仰が、結局は周りにおられた導くべき人々を置き去りにし、最終的には地獄であるこの世に見捨てていく人生しか歩んでこられなかったことを、心から悔い改めております。

 みこころでしたら、あと数ヶ月、この世の地獄で生きなければならないのかもしれませんが、主が用意してくださったご計画にそって歩んでいけたらと、毎日妻とともに祈っております。

 最後になりましたが、たくさんのキリスト集会の方々にお祈りいただき、ドイツやアメリカの皆さまにもお祈りいただいたことを、本当に心から感謝申し上げます。

 必ず天国で、イエス様と、皆さまと、共に過ごすことができることを確信しております。

(2000年10月)


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次男、雄治さんから 父親、賢治さんへの手紙
 長いこと祈っていた次男の雄治から、手紙が来ました。それをご紹介します。

 「お父さん、会社のこと、十五年以来の親友を失ったこと、そして私のこと・・・・・・・・・、私が心配をかけたことが、がんのきっかけになってしまったのではないかと思うと、恐ろしくて、いまさら後悔し謝っただけで済むとは思っていません。今までに、これほど家族をかけがえのないものだと思ったことはありません。私は一生懸命生まれ変わろうと努力しています。こんな勝手なことをしてしまった私を許してくれてありがとう。今まで愛し続けていてくれてありがとう。私はお父さんがいなくなっても一生懸命生きていきます。お父さんが言っていた聖書の言葉を、今は素直に読むことができます。自分の誤りに気がつくことができてほんとうによかったです。お父さんの大切さを知ることができてよかったです。お父さんほんとうにごめんなさい。そして、ありがとう。」





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故 一瀬賢治氏の証し
 愛の試練
 
希望、そしてたった一つの後悔

次男、雄治さんからの手紙


恐れるな。人が富を得ても、
その人の家の栄誉が増し加わっても。
人は、死ぬとき、
何一つ持って行くことができず、
その栄誉も彼に従って下っては行かないのだ。

詩篇 49:16-17

私たちの国籍は天にあります。
そこから主イエス・キリストが
救い主としておいでになるのを、
私たちは待ち望んでいます 。

ピリピ人への手紙 3:20