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メ ッ セ ー ジ ・ 証 し 集


主とともに歩もう
   
2003.1.5(日) 吉祥寺・福音集会
ベック兄メッセージ(メモ)

 
創世記 5:24
ヘブル 11:5
ユダ  14
テサロニケT 1:9〜10

 新しい年が始まりました。365という数字は、聖書の中に出てきます。今引用されたエノクは、365才になったのです。365才になり、天に引き上げられたと、聖書は言っているのです。どうして引き上げられたかと言いますと、この世が裁かれる前に、ノアの洪水の前に、彼は引き上げられたのです。確かに、エノクについては沢山書かれていないのです。今読んだ箇所だけなのです。合わせて8節です。けれども、彼の特徴について、聖書ははっきり言っているのです。創世記、5章22節。
   エノクは…神とともに歩んだ。

 今年は、いわゆる羊の年です。今年何を学ぶべきなのでしょうか。おそらく、迷える羊に過ぎない。相変わらず駄目な者です。聖書は、「正しい人は一人もいない」。そうすると、今日集まった兄弟姉妹は、「正しくない人々」です。「善を行なう人はいない。一人もいない」。正しい結論は、「善を行なうことのできない人の集まり」になります。そして、今、公人兄弟が言われたように、やっぱり初めの愛から離れたら大変です。けれども、「私は初めの愛から離れていない」と言える人はいるでしょうか。おそらく、いない。そうすると、今日の集まりは、「初めの愛から離れた連中の集い」であります。(笑い) 私たちは笑いますけど、そうなのではないでしょうか。そうすると、やっぱり神とともに歩んでいないのではないでしょうか。
今年は羊の年ですけれど、「小羊なるイエス様の年」にしましょう。小羊なるイエス様について考えると、嬉しくなります。世の罪を取り除かれたお方です。どうして、「神の小羊」と呼ばれていたかといいますと、聖なる神の裁きを代わりにお受けになったからです。いつも生きておられ、我々のことを考えて、心配して、愛していてくださり、とりなしていてくださるお方です。
そして、今歌いましたように、「小羊イエスにみさかえあれや、ハレルヤ」とあります。黙示録5章に書かれている事実です。もしかすると、今年、私たちはこの崇拝に参加するようになるのではないでしょうか。
確かに、羊として生まれる者は、死ぬまで羊です。今朝、飽戸兄弟は祈られたのです。「歩みの遅い者です」と。その通りです。自分のことについてだけ考えると、がっかり。イエス様のことについて考えると、もう嬉しくなります。
「エノクは、神とともに歩んだ」。もし、今、公人兄弟が言われたように、今年の最後の日に、「あの兄弟、あの姉妹は、神とともに365日歩んだ」と言えたら、幸いなのではないでしょうか。
けれども、主とともに歩むこととはいったい何でしょう。信仰によって歩むことです。目に見えるものによらないで、主を仰ぎ見ながら歩むことです。
エノクは、間違いなく主を畏れた者でした。間違いなく、主を心から愛した者でした。
心から崇拝した者でした。彼の生活の特徴とは何でしょうか。今、読みましたヘブル書の11章5節に、
   信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなく
  なりました。神に移される前に、神に喜ばれていることが、あかしされていました。

 結局、彼は主だけを仰ぎ見たのです。「主が栄光をお受けになれば、私は大満足です」という態度を取ったのです。確かに彼は信じたけれど、信仰とは何でしょうか。みことばに従うことです。そうでないと、交わりはあり得ない。エノクは必ず、みこころをたずねたし、みことばに従ったのです。だから、主との親しい交わりを持つことができたのです。エノクの時代とはメチャクチャな時代でした。けれども、エノクは主だけに頼ったのです。妥協せず、主にだけ仕えたのです。従って、彼は当時の世界の中で異分子そのものでした。毎日毎日、戦いの連続でした。けれども、「大切なのは自分ではない。みこころだけがなるように」、これこそがエノクの心からの願いでした。
「自分は大切ではない。主のみこころが大切である」。この態度を取る人々とは、初めの愛から離れていない人々です。ですから、テサロニケ第一の手紙1章の9節、10節を読んでもらいました。彼らは初めの愛を持っていた人々でした。確かに、短い間に導かれ、救われたのです。パウロは、テサロニケからすぐ逃げなければならなかったのです。三週間だけ、みことばを宣べ伝えて、イエス様を紹介したのです。それで、大勢の人が導かれただけではなく、初めの愛に満たされたのです。
   私たちがどのようにあなたがたに受け入れられたか、また、あなたがたがどのように
  偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、また、神が死者の中から
  よみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださる
  イエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことは他の人々が言い
  広めているのです。

初めの愛があれば、そんなに伝道しなくても、周りの人々は皆、気がつきます。求めるようになります。導かれます。テサロニケの人々は、結局自分のことを忘れ、主に仕えたいと望んだだけではなくて、仕えるようになったのです。そして、彼らは天から来られるイエス様を待ち望むようになったのです。「今日かもしれない」。エノクもそういう気持ちを持っていたに違いない。「今日引き上げられるかもしれない」。
主のみこころとはいったい何なのでしょうか。テモテ第一の手紙、2章4節に書かれてあります。
   神はすべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。
 
神の切なる願いとはそれなのです。イザヤは、主の器として次のように言ったのです。主の呼びかけです。イザヤ書、55章8節、9節。
   わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なる
  からだ。――主の御告げ。――天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道
  よりも高く、わたしの思いは、あなたの思いよりも高い。

結局、全然違う。イエス様は同じ内容について次のように話されたのです。
マルコ8章34節、35節。
   だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、
  そしてわたしについてきなさい。

自己否定なしに、主とともに歩むことはできない。エノクは主とともに歩んだのです。
今朝、松田兄でしたか、祈りの中で言われたのです。「今年は戦いの年になる」。もちろん
そうです。サムエル記T、18章17節に次のような言葉が書かれています。
  「勇敢にふるまい、主の戦いを戦ってくれ。」

戦いとは自分の戦いではないのです。主の戦いです。そして、主は、「わたしはわたし
の教会をたてる」。私たちはどうせ、駄目なのです。
 けれども、それにしても、「勇敢にふるまい、主の戦いを戦ってくれ。」とあります。
結局、主のみこころとは、すべての人が助けられることであり、悪魔の願いはこれと正反対のもので、すべての人がのろわれ、滅びることです。ですから、主のみこころと悪魔の狙いとはもちろん全く違う。
 主は、人間が真理を知るに至ることを望んでおられるのです。真理とは一つの教えではない。イエス様は、「私が真理です」と言われたのです。
結局皆、救いの神であるイエス様を、十字架の上で犠牲になられた神の小羊なるイエス様を知ることこそが、主なる神の切なる願いです。
 悪魔の願いは、すべての人が試みにあって誘惑され、間違った道に行くことです。
主のみこころと悪魔の狙いが対立しているから、主とともに歩みたいと思う者は、必ず戦いの中に投げ込まれるのです。他の道がない。ですから、キリスト者の生活とは戦いそのものです。
 パウロは、次のように当時の信じる者に書いたのです。エペソ書4章1節、2節ですが、
   さて、主の囚人である私はあなたがたにすすめます。召されたあなたがたは、その召し
  にふさわしく歩みなさい。謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び
  合い、平和のきずなで結ばれて、御霊の一致を熱心に保ちなさい。

パウロは主に捕らえられ、主の虜になってしまったのです。「ふさわしく歩みなさい。」
そうしないと、主とともに歩むことができない。
パウロは、「信じる者の生活とは戦いであり、また、一つの競争でもあります。走りま
しょうよ」と。パウロ自身も言ったのです。「私は走らなければ大変なことになる。私は
失格者になる可能性がある」。結局、自分の信じる者としての人生は、実を結ばない人生
になる可能性がある。
 ヘブル書12章1節に、
   こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのです
  から、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている
  競争を忍耐を持って走り続けようではありませんか。

 我々の生活とは戦いであり、また競争のようなものであるべきです。けれどもそれだけ
ではなく、信じる者の生活とは、旅人、寄留者の歩みです。
 前に話したようにエノクは寄留者でした。異分子でした。彼は大切にされていなかった
のです。彼と同じ時代にいたラメという男は、大勢の女性と結婚した。そのときまでなか
ったらしいのです。結局、そういう時代でした。けれどエノクは、主にだけ頼ったのです。
 ペテロも、当時の信じる者に書いたのです。ペテロ第一の手紙2章11節です。
   愛するものたちよ。あなたがたにお勧めします。
  旅人であり、寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。

そうしないと、主とともに歩むことができない。主に用いられ得ない。
 主に従う兄弟姉妹は、寄留者、或いは異分子として、この世で歩まなければならないと聖書は言っています。これを一言で表現すると、戦いの生活です。
このような歩みをするために、人間は自分自身の力に拠ることはできず、ただ、主の力に拠り頼む以外に方法はありません。ただイエス様に従いたい兄弟姉妹はだれでも、この戦いの中に投げ込まれた者です。もちろん、この戦いとは、決して人間に対する戦いではない。我々の敵とは悪霊であり、悪魔です。エペソ書6章12節。ご存知の箇所です。
   私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者
  たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。

「格闘」、戦いです。「血肉に対するものではなく、」目に見える世界に対するものでは
なく、です。悪霊さえも天国にいるのです。悪魔もそうです。悪魔も毎日主のところに行って、我々を主に訴えています。「見て、見て。あの吉祥寺で集まっている連中は、大したものではないでしょう」。けれども、我々の弁護士はイエス様です。「わたしは勝利を得た。彼らの過去の罪、現在の罪、将来の罪の問題は解決されている。彼らはわたしのものです。彼らは、わたしの姿に変えられるようになります」と必ず言われます。このような弁護士を持つ人々は幸せなのではないでしょうか。もう恐れる必要はない。心配する必要はない。
けれども、我々が自分の力に頼れば、悪魔は大いに喜びます。「考えてみて、あなた。愛されているでしょう? イエス様に。イエス様は、自分の血潮を流してくださったし、すべてを捧げてくださった。けれど、あなたはあまり立派になっていないし、相変わらず可笑しいでしょう? もう少しみことばを学んでもらいたい。立派になってもらいたい」と、悪魔は言うのです。そして、大体99パーセント、信者たちは悪魔の嘘を信じます。「やっぱり頑張らなくては」。だから、悪魔の勝利になる。
結局、迷える羊として生まれたものは、死ぬまで迷える羊です。我々の出来ることは、過ちを犯すことしかできません。けれども、それは問題ではないのです。いくら迷える者であっても、羊飼いの近くにいれば、OK。羊飼いは面倒を見てくださる。導いてくださる。「私はどうでもいい。イエス様が盛んになれば、私は衰えなければならないのではないか」と、バプテスマのヨハネは言ったのであります。

我々の人生とは戦いの人生です。三種類の敵があります。
@この目に見える世界です。イエス様は次のように言われました。ヨハネ伝17章14節。
  「わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。
   わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではないからです。」

 「世」、この目に見える世界です。知らん顔をすればいいのですが、けれどそうではないのです。憎んだのです。
エノクのように、主とともに歩む者は必ず憎まれます。聖書は、この世の友は神の敵であるとはっきり言っています。ちょっと驚くべきことばですけれど、信者に、一度イエス様の救いにあずかった人々に、書かれている言葉です。
 ヤコブ書4章4節です。あまり丁寧な言葉を使っていない。ヤコブは。
   貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。
  世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。

「貞操のない人たち」。「愛する兄弟姉妹」ではないのです。「世の友となった者」と書い
ていない。結局、救われているのは救われているけれど、用いられません。初めの愛から
完全に離れてしまっているのです。この世との内面的な分離がなければ、本当に主との交
わりにあずかることができません。エノクのように、主とともに歩くことができない。

A番目の敵とは、もちろん、自分です。聖書は、「肉」という言葉を使っています。
 ガラテヤ書5章17節です。339ページ。
   なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに
  対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができない
  のです。

 パウロは、ロマ書の中で、「私はなんというみじめな人間なのだろう」と叫んだことがあります。ここで「肉」とは、人間のわがままな意思のことを意味しているのです。自分のことばかり考える者は、知らないうちに悪魔に動かされてしまうもので、悪魔の虜になります。そうすると、主とともに歩むことは不可能になります。
 自分の最大の敵は、結局自分です。「自分は正しい」と思えば、もうおしまい。だから、絶えず、「主よ。みこころは何ですか。教えてください。あなたを喜ばせたいけれど、どうしたらいいの? わからないから、明らかにしてください」と、祈り続けるべきではないでしょうか。

B番目の敵とは、この世と肉を利用する悪魔です。
ペテロ第Tの手紙5章8節に、当時の信じる者を励ますために、はっきりした態度を取るために、主とともに歩むために、ペテロは次のように書いています。
   身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるしし
  のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。

羊の最大の敵とは、「しし」なのではないでしょうか。ライオンが出てくるとおしまい。
我々の敵とは、この目に見える世界、自分自身、それから悪魔です。悪魔は、今の目に見える世界の支配者です。今の、「目に見える世界の君」と呼ばれているものです。

これら三つのことを軽く考えることは、大きな間違いです。悪魔は、日夜、主とともに歩みたい人を攻撃しようと隙を狙っています。主は、だからこそ聖書の中で、何百回も信じる者に向かって言われます。「恐れることはない。わたしはあなたがたとともにおり、あなたがたの代わりに戦っているのです」。敵は、決して想像上の偶像物ではない。このような恐るべき敵の力のために、恐れをなすことは全く当然です。けれども大切なのは主です。主がともにおられれば、主とともに歩むと、経験します。すなわち、「主にとって不可能なことはない。そして、知らないうちに私たちは圧倒的な勝利者となる」。
 ロマ書8章37節に書かれています。
   私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、
  圧倒的な勝利者となるのです。

「なるかもしれない」のではない。「なる」。決まり。ここで大切な言葉とは、「私たちを愛してくださった方によって」です。自分でいくら頑張っても、何にもなりません。
イエス様のために全てを捨てて、イエス様とともに歩むようになったペテロは、確かに恵まれた男でした。けれども、彼は長い間、自分自身のことを、全く知らなかったのです。「私は、努力すれば何とかなる」。マタイ伝の16章の中で、おもしろい二箇所が書かれています。主に頼るようになったペテロと、自分の力に頼ったペテロです。全く違う。異なった霊の働きの結果としてとしか言えない。16章15節から、
   イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
  シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」すると、イエス
  は、彼に答えて言われた。バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに
  明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。

 すごい証しです。「幸せ」。父の働きの結果として、彼の心の目が開かれるようになり、
「イエス様、あなたこそ、生ける神の御子であるキリストです」。21節から、違う霊によ
って動かされたペテロについて書かれています。
   その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法
  学者たちから、多くの苦しみを受け、殺され、そして、三日目によみがえらなければ
  ならないことを弟子たちに示し始められた。するとペテロは、イエスを引き寄せて、
  いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはず
  はありません。」しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。
  あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思って
  いる。」

別の訳によると、ペテロはイエス様を抱きしめて、愛の現われとしてイエス様を抱きし
めてはっきり言いました。「主よ。…」。ちょっと考えられない。
ユダに向かってイエス様は一回も、「サタンよ。…」と言ったことはないのです。ユダに対する最後の言葉とは、「友よ。…」です。イエス様のために全てを捨てたペテロに向かって、イエス様を抱きしめたペテロに向かって、「サタンよ。…」とイエス様は言われたのです。人間の肉とは、いかにひどいものであるか。
結局、ペテロは、イエス様が死ぬために来られたことが、全然わからなかったのです。罪滅ぼしのために、何とかなると思ったのですけれど何にもならない。ペテロは、その時、本当の意味でのイエス様の弟子ではなかった。少なくても、イエス様はこのようなペテロを使うことはできなかったのです。そうすると、ペテロが完全に駄目になることを、主は計画されました。そのために悪魔は用いられたのです。悪魔は主が許されなければ、何にもできません。ですから、悪魔は頼んだのです。「あなたの弟子の、ペテロというやつを駄目にしたいけれど、いいですか?」イエス様は、「OK」。結果として、ペテロは盲目にされてしまった。三回も、「イエス様のことか、わからない。関係ない。」と言ったのです。ちょっと、考えられない。けれども、聖書は短く言っているのです。ルカ伝22章62節。
   彼は外に出て、激しく泣いた。

 「もう、おしまい。赦され得ない罪を犯してしまった。もう、終わり」と、彼は思ったのです。どうして、自殺しなかったのか、ちょっと不思議で不思議でしようがない。このような態度を取る者は、もう信頼できません。使いものにならない。けれど後でわかった。イエス様のせいだ。もしイエス様が悪魔に、「絶対許さない」と言われたならば、そんなことにはならなかった。ペテロにとって、用いられる器となるために必要だったのです。
五旬節のときのことを考えてください。ちょっとだけ喋ったでしょう、彼は。自分の考えていることを言おうとしなかった。旧約聖書のあちこちの箇所を引用して、それだけ宣べ伝えたのです。結果、三千人が悔い改めて、導かれ、救われた。考えられない奇跡です。そして、ペテロは傲慢にならなかった。他の弟子たちに、「あなたたちは何ですか、俺を見なさい」と言わない。自分の失敗を忘れられなかった。やっぱり必要だったのです。

主は、器を捜し求めておられます。勝利者なるイエス様は器を求めておられ、その器を通して、ご自分の勝利を明らかにすることがおできになるのです。イエス様は、同労者を捜し求めておられます。コリント第一の手紙3章9節を見ると、次のように書かれています。293ページです。短かい箇所です。
   私たちは神の同労者です。

エノクのように、神とともに歩む者です。コリント第二の手紙6章1節。321ページ。
初代教会の人々の証です。
   私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。
  神の恵みをむだに受けないようにしてください。

「私たちは神とともに働く者です」。「エノクのように神とともに歩む者です」。
かしらなるイエス様は、からだである兄弟姉妹を通してお働きになり、ご自身を明らかになさりたいと望んでおられます。主こそ、我々の生活の中で最優先されるべきです。
 よく知られている山上の垂訓の中で、マタイ伝6章33節に、
   神の国とその義とを、まず、第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、
  これらのものはすべて与えられます。

結果として、必要なものは必ず与えられますと。
歴代誌Tの28章。旧約聖書の668ページ。9節の後半です。
   全き心と喜ばしい心持ちをもって神に仕えなさい。主はすべての心を探り、すべての思い
  の向かうところを読み取られるからである。

  
我々の日常生活の中では、何が最優先を占めているのでしょうか。我々の目指すところ
は何なのでしょうか。我々に与えられている義務は、福音を宣べ伝えることです。イエス様を紹介することです。
信じる者はどういうふうに一つになり得るのでしょうか。結局、一つになると、悪魔は何もできなくなる。けれども、皆同じことを考えなくてはいけないのではないでしょう。人間は皆違う。これも主のせいです。皆同じように造られたなら、問題にならないでしょう。皆違う。どういうふうに一つになることができるでしょうか。
もちろん、相談によって成り得ない。まずやっぱり福音を宣べ伝えましょう。救われていない家族、親戚、同級生、皆、イエス様を知ってもらいたい。結局お互いの祈りが必要です。ですから周りの人々の救いのために、やっぱり一つにならないと、悪魔は喜びます。
 もう一つは、首を長くして、イエス様を待ち望むことです。テサロニケの兄弟姉妹は、主を待ち望むようになった。再臨を信じたのではない。待ち望んだ。「早く来てもらいたい。できるだけ、夜になる前に来てもらいたい」そういう切なる願いがあれば、やっぱり、御霊が働くようになります。

マルコ伝16章15節です。
  「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。」
  
これは、我々の果たさなければならない義務なのではないでしょうか。
けれども、私たちが、「よしやろう」と思っても上手くいきません。無理です。主は人を遣わしたいけれど、なかなか遣わしてもらいたいという人が、見つからないのではないでしょうか。2600年前、主はやっぱり、福音を宣べ伝えてもらいたいと切に望まれたのですけれども、行こうと思う人はいなかったようです。その時、イザヤは召されました。ちょっと、見てみましょうか。1041ページになります。イザヤ書6章1節から。
   ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。

誰かが死ぬと、やっぱり人はいろいろなことについて考えます。悲しくなるし、寂しく
なるし、どうして、何故かと考えるかもしれない。けれど、王が死んだ年、彼は主を見た
とき、嬉しくなったというよりも、叫んだのです。5節。
  「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んで
  いる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」

結局、主を見る者は自分自身を見るようになる。そうすれば、もう大変です。もう駄目
としか言えません。けれども、それで終わりではなかったのです。彼は、自分の惨めさを
認めただけではなくて、言い表わしただけではなく、清められたのです。7節。8節。
  「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も
  贖われた。」私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言って
  おられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」

 もう赦された。受け入れられた。プラスアルファ、主は赦されると忘れられます。
これは、イザヤの心がまえであり、心からの願いでした。「主よ。遣わしてください。」彼はもちろん、用いられるようになりました。
 イエス様は、当時の弟子たちに、「わたしはあなたがたを人間を獲る漁師にしよう」と言われました。意味は、「エノクのように主とともに歩みなさい。そうすると、知らないうちにあらゆる束縛から解放され、自由になります」。主との交わりこそが、全ての全てなのではないでしょうか。
 イザヤ書22章30節に、がっかりしてしまわれた主について、次のように書かれています。1282ページです。エゼキエル書22章30節。
  「わたしがこの国を滅ぼさないように、わたしは、この国のために、わたしの前で石垣を
  築き、破れ口を修理する者を彼らの間に捜し求めたが、見つからなかった。」

 「私を遣わしてください」という思いを持つ人はいなかった。「わたしは捜し求めたが、
見つからなかった。」とあります。イエス様は私たちを捜し求め、「私についてきなさい。
エノクのように私とともに歩みなさい。私はあなたを人間を獲る漁師にしてあげよう」と、
呼んでおられるのです。

今日、この世が必要としているのは、主とともに歩む兄弟姉妹なのではないでしょうか。
なぜならば、そういう人々だけが、この「世の光であり、地の塩」であるからです。
イエス様の弟子とは、この堕落した時代にあって、主のいのちのみことばをしっかりと
受け止め、主の声に聞き従う者です。私たちは、主の呼びかけに従い、主について行くのでしょうか。「主よ。お願いします。あなたとともに歩みたいです。」そういう願いがあるのでしょうか。

エノクのように主とともに歩くこととは何なのでしょうか。
・もちろん、主とともになり、主と一つになることです。
・また、いうまでもなく、光のうちを歩むことです。
・そして、みことばに留まるものです。みことばに従うことであります。

                                     了


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◆メッセージ(ベック兄)

※一部、テープの転換による不明部分あり

神のみことばは神のみことばである(5) 2006. 4. 18
神のみことばは神のみことばである(4) 2006. 4. 11
神のみことばは神のみことばである(3) 2006. 4. 4
神のみことばは神のみことばである(2) 2006. 3. 21
家族の救い 2006. 3. 19
神のみことばは神のみことばである(1) 2006. 3. 14
主イエスは神の子キリストである(4) 2006. 3. 7
主イエスは神の子キリストである(3) 2006. 2. 28
主イエスは神の子キリストである(2) 2006. 2. 14
主イエスは神の子キリストである(1) 2006. 2. 7
勝利の生活の秘訣 2006. 1. 24
イエス・キリストのからだ 2006. 1. 17
主の永遠からの予定 2006. 1. 10
元旦メッセージ 2006. 1. 1


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