勝利の生活の秘訣
2006.1.24(火)
ベック兄メッセージ(メモ)
ローマ人への手紙 6章6節
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私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
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コリント人への手紙・第一 2章2節
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なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。 |
ガラテヤ人への手紙 2章20節
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私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
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今日は、『勝利の生活の秘訣』について考えたいと思います。
すべてのキリスト者は遅かれ早かれ、自分の生活の妨げとなるものは、実は自分の周りの環境や人にあるのではなく、自分の心のうちにあるのだということに気づきます。
なぜ信じている大多数の者は、霊的に進歩しないのでしょうか。それは、自分の生活の支配者がイエス様ではなくて自我であるからです。
信じる者のうちに、二つの相い逆らういのちがあります。御霊によって新しく生まれたキリスト者は、もちろん永遠のいのちを与えられていますが、生まれながらのいのちは、この新しく与えられた神のいのちを外に出さないように覆い隠そうとします。
コリント第二の手紙は、聖書の中でも特別な手紙だと思います。なぜなら、パウロは、自分のことについて、また信じる者の悩みについて、いろいろなことを明らかにしたからです。
このコリント第二の手紙4章では、生まれながらのいのちを「外なる人」と呼び、そして神のいのちを「内なる人」と呼んでいます。
コリント人への手紙・第二 4章1節から18節まで
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こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めに任じられているのですから、勇気を失うことなく、恥ずべき隠された事を捨て、悪巧みに歩まず、神のことばを曲げず、真理を明らかにし、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々のばあいに、おおいが掛かっているのです。そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。私たち自身は、イエスのために、あなたがたに仕えるしもべなのです。「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。
倒されますが、滅びません。いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです。「私は信じた。それゆえに語った。」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語るのです。それは、主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたといっしょに御前に立たせてくださることを知っているからです。すべてのことはあなたがたのためであり、それは、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現われるようになるためです。ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。 |
16節で、「たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」
とパウロは言うことができたのです。「外なる人」をもってしては、どうしても主なる神に喜ばれる生活をすることができない、という体験をもたなければならないときが、やがてやって来るはずです。いつも同じ失敗をし、いつも同じ罪を犯します。それを繰り返して、ついに自らに絶望してしまった経験をお持ちでしょうか。
この経験は、もし私たちが霊的に前進し、実を結びたいと心から願うなら、どうしても
経なければならないことです。どんなに熱心でも、どんなに一生懸命祈っても、一度この
霊的破産を通されなければダメです。
短く三つの点について、考えたいと思います。
1.「外なる人」と「内なる人」
2.死によって実を結ぶこと
3.壊された器
1.「外なる人」と「内なる人」について、パウロは手紙の中でいろいろのことを書いたのです。
例えば、ローマ書の7章22節を見ると、「内なる人」という表現が出て来ます。このローマ書7章は、本当に正直なパウロの証しです。二十何回も、私、私、私、私…ということばが出てきます。自分が中心になると、上手くいかないのは当然です。
ローマ人への手紙 7章22節
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すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいる。
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この「内なる人」とは、もちろんイエス様なのです。主の救いにあずかったパウロは、
ここで何とかしてイエス様のみこころにかなった生活をしようと努めているのです。
エペソ書の中で、パウロはエペソにいる兄弟姉妹に、「内なる人」という表現を使って書き記したのです。
エペソ人への手紙 3章16節
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どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。 |
パウロは、ここではエペソの信者にこのように書き送っています。「あなたがたはすでに救われているが、あなたがたの内なる人はさらに強められなければならない」と書いたのです。
前に読みましたコリント第二の手紙4章16節も、同じ意味です。
コリント人への手紙・第二 4章16節
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私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
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「日々」とは毎日という意味です。ここでパウロはコリントの兄弟姉妹に、「内なる人は日ごとに新しくされ、日ごとに上から新しい力を受けなければならない」と書いています。
今挙げましたみことばを見てもわかりますように、聖書は、救いにあずかった人々には
内なる人と外なる人があることを示しています。聖書で言う「外なる人」とは自我のいのちであり、「内なる人」とは主なる神によって新しく与えられた神のいのちのことです。つまりイエス様のことなのです。
バプテスマのヨハネは「彼は必ず栄え、私は衰えるべし」、あの方は盛んになり私は衰えなければならないと言っています。ヨハネが言った「彼」とは、もちろん内なる人、即
ち神のいのちであり、「私」とは外なる人、即ち自我のいのちです。
私たちが主イエス様に仕え、霊的に前進しようと思うならば、内なる人、つまり内に住んでおられる主イエス様が、私たちの内で自由をお持ちにならなければなりません。内なる人が外なる人によって縛られていては、実を結ぶ奉仕はできません。
内に住んでおられる主イエス様は、私たちの心の中で、現実的に主となり、支配者となりたく思っておられます。イエス様は当然そうあられるべきお方ではないでしょうか。
私たちの内にイエス様が支配者となっておられることが最も大切です。私たちの内なる
方は時々、牢屋に入れられたように縛られてしまいます。当然自由にお働きになることができなければなりません。私たちの内に住んでおられるイエス様が私たちを自由にご支配なさることができるその度合いに従って、私たちはイエス様のために役に立つ者となり、主の目に尊い者となるのです。
外なる人、即ち自我のいのちを満足させようと努める人はたくさんいるでしょう。この世は、自我のいのちを満足させるためにすべてのものを備えています。映画やテレビ番組、また広告雑誌などは、人間の外なる人を満足させるために作られています。イエス様の救いにあずかった私たちは、内なる人を養うために何をしているのでしょうか。
イエス様は、「人はパンだけで生きる者ではなく、主なる神の口から出るひとつひとつのことばによって生きるのである」と言われました。私たちは、本当に主のみ口から出ることばによって生きているのでしょうか。
ドロップしたキリスト者を見ると悲しいですが、主のみことばをいただいてみことばに生かされていかなかったために、信仰の戦いから落ちてしまったことがわかります。ただ聖書を読むだけではなく、もっとよくイエス様を知ろうと心掛けて、聖書の中にイエス様を求めようとしない者は、次第に霊的に片端になってしまいます。正しく聖書を学び、正しく祈りをしないキリスト者は、同じところに留まったままです。
私たちは内なる人のために何をしているのでしょうか。パウロのように、外なる人は滅
びても、内なる人は日ごとに新しくされていく、と言えるなら幸いではないでしょうか。
2.死によって実を結ぶことについて、いっしょに考えたいと思います。
よく知られている個所は、ヨハネ伝12章の24節ではないかと思います。
ヨハネの福音書 12章24節、25節
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まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。
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一粒の麦の中にいのちがありますが、そのいのちは堅い殻によってしっかりと包まれています。いのちが外に現われるためには、堅い殻が破られなければなりません。殻の中にあるいのちが問題ではなく、殻を破っていのちが現われるか否かが問題です。
麦の殻は、私たちの外なる人、自分のいのち、自我のいのちを表わし、一粒の麦の殻の
中にあるいのちは、内なる人、即ち神のいのちであり、イエス様ご自身であることを意味
します。
内なる人、つまり主のいのちが自由にされるには、外なる人、即ち自我のいのちが小さくされなければなりません。イエス様は盛んになり私は衰えなければなりません。何と多くの人々が、ただ自我のいのちだけしか持っていないことでしょう。主なる神のいのちについては何にも知りません。ただイエス様に出会った人々だけが、永遠のいのちを持っています。
ヨハネは、その第一の手紙の中で次のように書き記したのです。
ヨハネの手紙・第一 5章12節
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御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。
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「いのちを持っていません」。即ち救われていない、ということです。
多くの人は、器だけを見て、器を大切にします。即ち外なる人だけを見ていますが、私たちは器の中に入っているナルドの香りを尊びたいものです。
ですから、キリスト者の中にも二つの種類があるのではないでしょうか。
すべてのキリスト者はイエス様を内に宿し、永遠のいのちを持っていますが、ある人は、内なる人が押し潰されてしまって外に現われず、またある人は、私たちの心の内を自由にご支配されて、外に現われています。
ですから、キリスト者にとって問題なのは、いかにして永遠のいのちをいただくかでは
なく、すでにいただいた永遠のいのちが、いかにして私たちのうちで自由にお働きになれるかということです。救いにあずかった人々の内なる人が外に現われて初めて、ほかの人々に祝福をもたらしていくことができるのです。
しかし多くの実を結ぶためには、まず一粒の麦が死ななければなりません。次に一粒の麦が死ぬためには、まず地に蒔かれ、土の中に埋められます。つまり一人ぼっちになります。光が見えません。そして外の殻が腐ってダメになります。このようにして死にきるなら、私たちもパウロと同じように経験することができるのです。
コリント人への手紙・第二 4章16節
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私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
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11節
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私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。
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3.壊された器です。
マルコ伝から一節を読みましょう。
マルコの福音書 14章3節、4節
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イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、食卓に着いておられると、ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油のはいった石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ。すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。」
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「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。もったいない…」と言ったのです。
ヨハネの福音書 12章3節
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マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。
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もう一箇所、よく引用される個所です。
コリント人への手紙・第二 2章14節
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しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。
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今読みました個所を見ると、マリヤは価の高い匂い油を持っていました。自分のために
使いたくなかったようです。もったいないと思ったに違いありません。けれどイエス様を
知るようになってから、イエス様だったらふさわしいと思ったのでしょう。この香り高いナルドの香油の香りが家中に満ちる前には、まず匂い油の入った器が壊されなければなりません。もし器が壊されなければ、香り高いナルドの油は匂わなかったでしょう。
信じている大多数の者は、香油をしっかりとしまったまま、信仰生活を送っているようなものではないでしょうか。イエス様をお受け入れして、永遠のいのちを与えられていますが、いのちを外に現わしていくことをしません。
パウロは、このような人たちについて次のように書いたのです。
テモテへの手紙・第二 3章5節
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敬虔の形をしていても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。
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多くの兄弟姉妹の足りないところは、いったい何でしょう。中身よりも器を大切にしているのではないでしょうか。多くの兄弟姉妹は、熱心であればそれで良いと思い、それが肉の力、自分の力であるかどうかを見分けないで、この世の教育を問題にします。つまり、彼らは器だけを見、外なる人だけを見ています。しかし大切なことは、器よりも中身ではないでしょうか。器は隠れ、ただ内なる主のみが現わされていきたいものです。
私たちは土の器であり、内なる人はイエス様ご自身です。生まれつきの賜物や能力は、
主のご支配のもとになければ、何の役にも立ちません。まず砕かれることが大切です。私たち自身は消えて無くなってもいいのです。ただ内に住んでおられるイエス様が、私たちを通して現われていくことが大切です。
主の御霊は休みなく私たちに働きかけておられます。御霊は私たちを導いて、私たちが
自我に死に、へりくだりきって、ただイエス様の御栄えのために主の道具として用いられるように導いておいでになります。
外なる人は破られなければなりません。殻は砕かれなければなりません。なぜなら、「死」
なくして実を結ぶことはなく、霊的破産なくしていのちと祝福をもたらすことはできないからです。このことを、深く主イエス様に教えていただきたいものです。
少し小さな困難が来ると、不平を言い、つぶやきが出、度を失ってしまいます。主なる
神は、私たちの内に御座を占められてから、私たちの内でひとつの目的をもって働き続けておいでになります。それは器の中にある永遠のいのちが、つまり内なる人が、自由に外に現われていくために、外なる人が壊されていくことなのです。土の器の中に持っている宝が外に現われていかなければなりません。
こんにち差し迫って必要なのは器ではなく、外に溢れ流れていく主のいのちです。またこの世が求めているものは、器ではなくイエス様の光です。
コリント人への手紙・第二 4章6節
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「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。
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しかし、外なる人に死に、内なる人に生きることは、悩みを通してのみ生み出されるのです。もし私たちが本当に主に仕え、ほかの人々に祝福をもたらそうと願うなら、自我のいのちを捨てなければなりません。
イエス様は次のようにおっしゃられたことがあります。
マタイの福音書 10章38節、39節
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自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。
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イエス様の救いにあずかった多くの人たちが、自分に対する主のみこころは何であるか
を知っていないことは、大きな悲劇です。私たちは、主の私たちに対するご目的を深く知
りたいものです。
私たちの心の目が主のご目的に向かって開かれるなら、今までのいろいろな問題や悩みや苦しみは、私たちのうちに、また私たちを通して、内に住んでおられるイエス様が現わされるためであったことがわかります。
私たちの過去に起こった出来事に無駄はひとつもありません。主イエス様は最善の道を
歩ませてくださいました。どんなに苦しいときも、また先が見えなく苦しかったときも、
イエス様はそのような時にも最善を為していてくださったのです。これらのすべてのことはただ一つ、イエス様は栄え私が衰えるために為されていました。
イエス様の御霊が私たちのうちに自由を得るために、外なる人は砕かれなければなりません。イエス様はこの目的を目指して私たちを導いておられます。その導きはひとりひとりによって違います。ある人には早く、ある人には遅く主はお働きになります。ほとんどの場合、自分がゼロとなり、イエス様が自分のうちに「主」となられるには、長い時間がかかります。心の内に主のご支配を妨げるものを持っているので、主は前へ導くことがおできになりません。
まだ主にささげていないものを持っているなら、今日それを主におささげしましょう。
「イエス様。あなたのために、兄弟姉妹のために、またあなたを知らない人々のために、
私はすべてをあなたにささげます。あなたが私のうちにあなたを通して外に現われること
がおできになりますように、私は私自身をあなたにすべておささげいたします」とすべてを主に明け渡したいものです。
私たちは、今までに自分自身に恐れを抱いたことがあるでしょうか。いくら救われたとしても、どんな悪いこともできる可能性をもっているのだということに、気づいたことがあるでしょうか。巨人ゴリアテのような自我が、自分の前に立ちふさがり、どうしてもそれに勝つことができず、パウロのように、「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから私を救い出してくれるのでしょうか」と。
イエス様は言われました。
ヨハネの福音書 12章25節
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自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。 |
自己否定は自分の権利をささげることです。自己否定は自分に拠り頼まないことです。
「私の心ではなく、あなたのみこころを為してください」。これがイエス様の生涯お変わりにならなかった態度でした。ですから、イエス様から恵みの流れが、いのちの泉が、人々に分け与えられていたのです。
私たちの願い、考え、感情、意志すべてが、主のご支配のもとに置かれるとき、私たちの内からもいのちの泉が湧き出てくるはずです。私たちの生まれながらの考え、感情、意志は決して霊的ではありません。これを御霊のご支配にゆだねるとき初めて、それはみこころにかなうものとなります。それらをイエス様にささげることにより、霊的な者になります。自分自らの考え、感情、意志を自分からイエス様にささげなければ、私たちの内から主のいのちは流れ出ないのです。
多くの人々がいっしょにする決心ではなく、ひとりひとりが決心しなければなりません。
「主よ。私は自らに絶望しています。自ら何もすることができません。どうか私を通して
ご自分のみこころを為さしめてください」と言いたいものです。
アブラハムは信仰の父と呼ばれました。アブラハムは、イサクをささげる前にイシュマ
エルという子どもをささげたのです。救いにあずかった者の多くは、反対のことをしたい
のではないでしょうか。イシュマエルをささげようとせず、イサクだけをささげます。自らの肉の力で、主に仕えようとします。聖めは、罪からの解放よりもっと深く大きいものです。それは自分の意志を主にささげ、肉による支配を主におゆだねすることです。
アブラハムは、勇気を奮い起こして、自ら出たイシュマエルを荒野に捨てました。その
あとで、アブラハムにもたらされた主の祝福は、どんなに大きかったことでしょう。
私たちもアブラハムの勝利の生活にあずかるためには、どうしたらよいのでしょうか。アブラハムと同じように、自分の最も愛するものを主にささげることによって勝利の生活を送ることができるのです。
前に話したことがあるのですが、ドイツのアイドリンゲン姉妹会の神学校の校長先生であるヘーデ姉妹は本当にすばらしい姉妹です。まだ生きていらっしゃいます。おそらく九十何歳なのではないでしょうか。彼女はあるとき自分の生まれながらの性質を非常に苦にしたことがあります。いったいどうしましょうか。私は何をしなくてはいけないのでしょうか。いつも悪魔に試みられ、「お前は繰り返し、繰り返し同じ失敗をしているではないか。お前はもうダメだ」、そういう声を何度も聞いたのです。けれどもある日、解放されたのです。どうしてかと言いますと、夢を見たのです。夢は夢なのですが、彼女にとって大切な夢になったのです。その夢とは、
遠くに何かある。木でしょうか、人間でしょうか。いや、動いていない。もう少し近づ
くと、十字架だったのです。もっと近くに行くと、どなたか架(か)かっている。もっと近づくとびっくりしました。自分でした。そこへ悪魔が彼女を攻撃しようと思い近づいて、「ああ、死んでしまったのか」と分かって、悪魔は逃げてしまったのです。
彼女にとってこれこそ解放でした。私はああしなくてはいけない、こうしなくてはいけない、ではありません。「全く役に立たない者です。捨てられるべき者です。死に価する者です」と。結局、古き人が十字架につけられたのでした。
ある兄弟は、八年間も集会から離れてしまったのですが、再び戻って来た時、彼は次のように告白しました。「私は十字架につけられていなかった」と。
十字架を見るとそこにはイエス様だけではなく、私たちの古き人もそこについています。
ローマ人への手紙 6章6節
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私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
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どんなに悪魔が攻めてきても、私たちはこのみことばをもって立ち向かうことができます。イエス様の勝利は完全なる勝利です。イエス様は私たちの古き人とともに十字架につ
けられて死んでくださいました。生きているのはもはや私ではなく、イエス様が私のうちに住んでおられます。悪魔は私たちに対して何の権利もありません。「悪魔よ。退け」と言うことができるのです。
私たちのもっている問題が何であろうと、イエス様のご臨在を深く心に覚えるまで、主
の御前に静まり、主のご臨在を確信したなら、みことばを開いて、主のみ声を聞きましょう。そうするなら、日々新たなる力を上からいただく勝利の生活を送ることができるようになります。
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