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メ ッ セ ー ジ ・ 証 し 集


主の永遠からの予定
   
2006.1.10(火)
ベック兄メッセージ(メモ)

 
エペソ人への手紙 1章3節から14節
 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。神はこの恵みを私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、神が御子においてあらかじめお立てになったご計画によることであって、時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。このキリストにあって、私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです。私たちは、みこころによりご計画のままをみな実現される方の目的に従って、このようにあらかじめ定められていたのです。それは、前からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえる者となるためです。またあなたがたも、キリストにあって、真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。

 一昨日は、家内の七十六歳の誕生日だったので、御代田でお祝いをしました。その時、
最も大きな喜びだったのは、家内の妹であるエミリエ姉妹から長い電話があったことです。普通に話すことができましたし、昔のこともちゃんと覚えています。ただ、まだ歩くことができません。ベッドの中のほうがよいのですって。(笑) そういう意味で私たちと似ているのではないでしょうか。自分のためにずっと祈ってくれた兄弟姉妹にくれぐれもよろしく、よろしくと何回も何回も言っていました。家内が、「やはりあなたはミヘルスベルクまで歩けるようにならないと駄目。あなたのためにたくさんの兄弟姉妹がキャンプに行くから」と。N兄の話によりますと、彼はそういう患者を経験したことがあるそうです。そしてその患者さんはちゃんと歩けるようになったそうです。エミリエ姉妹は、五、六週間ずっと意識不明でしたので、現在の病状にまで快復できたことはちょっと奇蹟ではないかと思います。ですから、続いて感謝して祈ってください。

 今日のテーマは、『主の永遠からの予定』についてです。
 今まで何度も、ぜひとも知らなければならない、永遠に変わらない主のなされた事がらについて学んできました。乱れきったこの末の時代にあって、私たちはしっかりとした岩のように堅く立たなければなりません。誰からも、また何者によっても、動かされることのない、主が流された血潮の事実の上に立たなければなりません。
 今一緒に歌いました歌も本当に大好きな歌です。結局、確信が必要不可欠です。心からこのように歌うことができれば、もう悪魔はどうすることもできません。

 私たちはみな、尊いイエス様の流された血潮の価値について考えてきました。私たちは
それだけではなく、毎日の信仰生活においてこのイエス様の流された血が必要です。です
から、もっともっとイエス様の流された血に対する感謝の気持ちを深くしたいものです。
 イエス様の血潮とともに、イエス様の十字架についても学んできました。私たちの古き
人は、キリストとともに十字架につけられ、死に葬られてしまったことも見てきました。
同時に、私たちは新しく造られた者として、イエス様とともによみがえらされたことも見
てきました。
 それから、最も大切なことは、これらの事実が私たちの個人的な体験とならなければ、
何の役にも立たないということも繰り返し話しました。

 三つの点に分けて考えたのです。
1.私たちはイエス様とともに死に、よみがえったという事実、上からの啓示による霊的
 知識について。
2.この知識が自分のものとなっているという信仰の計算をすることについて。
3.死人からよみがえらされ、主のみこころに従って歩む者として、おのれを主にささげ
尽くすことについて。
 即ち、信仰への道は、「知ること」、「計算すること」、また、「ささげること」です。

 私たちはどうしたら霊的に成長することができるのでしょうか。どうしたらイエス様に
似た者となることができるのでしょうか。憧れの生活をすることができるのでしょうか。
これらはみな、一人一人の信者についての問題であると思いますが、主のお考えはもっともっと広い視野を持っておられるのです。ですから今話しましたように、今日は、主の永遠の昔からのご予定について、考えたいと思うのです。

 主はどのような目的で、人間を創造されたのでしょうか。
主はいったいどうして、滅びゆく人間を救い出してくださるのでしょうか。
この二つの問題を考えてみたいと思います。
1.主の永遠からの創造におけるご予定
2.主の永遠からの救いにおけるご予定
に分けて、主の予定を学んでみたいと思います。

1.「主の永遠からの創造におけるご予定」とは、いったい何でしょうか。主はなぜ人間をお造りになられたのでしょうか。答えは三つです。
@ 主の性質にあずかるため。
A 主の愛に報い、応えるため。
B 永遠のいのちを得るため。
 これは人間を造る前に主の持っておられたご予定でした。子どもは何かを作るとき、何を作るかはっきり決めないで始めてしまうかも知れませんが、主はそのようなことをなさいません。天地の創造主は、成し遂げることができないようなことをお始めになりません。

 私たちの救い主なる主イエス様の場合には、先ほどの三つの主のご予定を完全に満足さ
せておられました。即ち、
@ イエス様は、父のかたちであられました。父と同じご性質を持っておられたのです。
A イエス様は、父の愛に応えることのできたお方でした。ですから、父はイエス様に
  対して、「これはわたしの愛する子。心にかなう者である」と言われたのです。
B イエス様は、永遠のいのちを自らのうちに持っておられたのです。

 主なる神の、人間に対する創造におけるご予定は何だったのでしょうか。
みことばは次のように語っています。よく引用される箇所です。
ローマ人への手紙 8章29節

 神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。

 もう一箇所、
ヘブル人への手紙 2章10節

 神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。

 弟子たちは、次のように言うことができたのです。
ヨハネの福音書 1章14節

 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

「父のひとり子」と書いてありますが、父なる神は、
・御子イエス様だけではなく、多くの子らをご自分のものとなさりたいのです。
・それから、ひとり子であられるイエス様が長子となられることが、父のご目的でした。
けれど、イエス様が長子となられるためには、ほかの多くの子どもがいなければなりません。主なる神が創造のときに予定しておられたことは、多くの子らをお持ちになり、その中でイエス様が長子となられることでした。
 主なる神は多くの子らを得たいと思っておられましたが、それはあの子、この子と、別々
の子どもを欲っしておられたのではありません。ひとり子なるイエス様のために、一人の
花嫁を望んでおいでになるのです。多くの子らのひとかたまりが、聖書の中で、「花嫁」と
呼ばれています。全てのまことの信者の一群れなのです。このことから、耳から入った単なる表面的な知識にとどまらず、上からの示しによって、心の目でこの事実を見ることにより、私たちが変えられれば本当に幸いです。私たち一人一人が、創造におけるこの主のご予定をはっきりと心の目で見ることです。

 まことの教会とは何でしょうか。いわゆる、救われた罪人のひとかたまりだけではありません。主なる神は、人類が堕落する前にすでにこのまことの教会を予定しておられたのです。

 今から、第一の人であるアダムを考えてみましょう。アダムはエデンの園に住んでいま
した。エデンの園の中央には、二本の木が生えていました。それは、「いのちの木」と「善
悪を知る木」でした。結局、「いのち」と「死」の木だったのです。
創世記の2章を見ると、次のように書かれています。
創世記 2章7節から9節 

 その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木とを生えさせた。

創世記 2章15節

 神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」

 アダムは、何が良いか、何が悪いのか分別がつかないように造られていました。例えば、善悪のわきまえを知らない三十歳位の男の人を想像してみてください。あなたは、成長の遅れた男だと思うに違いありません。アダムはちょうどそのような男でした。
 主なる神は、アダムに、「エデンの園のどの木からでもその実を取って食べてもよろしい。
けれど、善悪を知る木の実を食べてはいけない。食べると死んでしまうから」と言われま
した。同じ園の中央に、いのちの木もありました。主はどの木から取って食べてもよいと言われたのですから、いのちの木の実を食べてもよかったのです。アダムは罪に汚れてもいませんでしたし、きよくもありませんでした。善悪を知らなかっただけです。
けれども、アダムはいのちの木の実を食べるか、善悪を知る木の実を食べるか、どちらかを選ぶ立場に立たされたのです。と言いましても、そのときのアダムは、どちらを選んだらよいかわからなかったはずです。善悪の判断ができない人間だったからです。しかし、アダムは主のところに行って、「どちらを選べばよいのですか」と尋ねることはできたはずです。けれど、アダムは自らどうすることもできませんでした。まったく主なる神に拠り頼んで生活をしていたのです。

 この二本の木は、人の二つの生き方を表わします。一つは神の生き方であり、もう一つ
は人間の生き方です。
いのちの木は、主なる神を表わしています。主は、いのちの源そのものです。そして、
このいのちの木の実は、イエス様です。木を食べることはできませんが、木の実は食べられます。イエス様は食べることのできる実のようなものです。即ち、私たちが受け入れることのできる神のみかたちです。この木は、園の中央にありました。主はその実を食べなさいとアダムに強いることをなさいませんでした。
そして、いのちの木の隣には、善悪を知る木がありました。この木は、私たちは主に尋
ねる必要がない、自分でできる、自分でわかる、自分は利口だという姿を表わしています。
主なる神に拠り頼まないことは罪であると、聖書は語っています。

 アダムは、ついに善悪を知る木の実を食べてしまいました。その時、何が起こったので
しょうか。
まず第一に、主との交わりが絶たれたのです。自分で善悪を知るようになりました。利口になりました。独立しました。
第二に、自由を得たのではなく、逆に悪魔の奴隷になったのです。
第三に、アダムの霊は死に、主なる神に対する感覚が無くなったわけです。

 アダムは、罪を犯す前に主と交わる能力を持っていましたが、主のいのち、永遠のいの
ちはまだ持っていなかったのです。もし、アダムが主なる神に尋ね、主に拠り頼み続けて
いたならば、主はアダムをいのちの木に導き、その実を食べることによりアダムに永遠の
いのち、つまり主なる神のいのちをお与えになったはずです。アダムは、創造主に造られた者となったばかりではなく、主の子となることができたはずです。主ご自身に拠り頼むことにより、アダムは神の子となったはずです。
 けれど不従順と不信頼により、アダムとそのあとに連なる子孫全人類は、神ののろいの下に置かれたのです。

 結局、この世には三つの生き方があると言ってもよいでしょう。神の生活、倫理の生活、
動物の生活です。
ある、いわゆる立派なクリスチャンだと思われる人がいて、その人は社会運動を広めながら伝道をしている有名な哲学者でした。ある時、一人の主を知る人が、その哲学者のところに行って、主なる神の永遠のいのちを受け取ることの大切さについて話しました。その、いわゆるクリスチャンの哲学者は、ちょうどそのとき重い病気にかかっていました。その枕元には犬が一匹いました。伝道者はその哲学者に、「この犬は何という名前ですか」と聞きますと、哲学者は「ストロビー」と答えました。すると伝道者は、「それは苗字ですか。名前ですか」と尋ねますと、哲学者は、「苗字でもないし名前でもない。この犬はただストロビーというのです」と。その哲学者の名前はコジマでした。伝道者は、「それではコジマさん、今度からこの犬をストロビー・コジマと呼んだらいいでしょう」。哲学者は怒りました。そこにはコジマさんの娘二人もいましたが、主を知る人は、みんなに説明したのです。「このストロビーという犬は、どんなに利口でも馬鹿でも犬は犬ですから、決してストロビー・コジマにはなりません。
同じように、私たち人間がどんなに背伸びしても人間ですから、主なる神の生活をすることはできません。私たちがどんなに利口でも愚かでも、よい人間でも悪い人間でも、生まれつきのままなら、主なる神のいのちを自分のものとすることはできません。神の御子である主イエス様を受け入れ、イエス様を食べなければ、神のいのちにあずかることはできません。主のいのちにあずかることなく、主の子どもとなることはできません」と主を知る人は哲学者に順々と説き聞かせたのです。彼はその日生まれ変わり、神の子となることができ、大いに喜ぶようになったのです。

 全人類はアダムの子孫として、主ののろいのもとにうめき苦しんでいますが、主なる神の永遠からのご計画は、人間がこの状態になることではありませんでした。人間が神の性質にあずかり、神の愛に応え、永遠のいのちを持つことが主のご予定でした。
 イエス様が多くの兄弟たちの中で長子となられるために、主は多くの子らをお求めになっておいでになります。けれども主に対する不従順と主に拠り頼まない心から、全人類は主のご予定に反し、主ののろいのもとに陥ってしまったのです。

 このようになってしまった人間に対して、主はなおご自分の予定を最後まで成し遂げることがおできになるのでしょうか。前から言っていますとおり、主のご予定は永遠からの予定です。どんなに罪が入ってきても、主のご予定は狂うことはありません。私たちの主は、先の先まで、また全てのものごとを見通しておられるお方です。何ものによっても驚かされることのない神です。私たちの主は、決して行き詰まってしまうことのない、知恵に満ちておられるお方です。私たちの主は、不可能を知らない、全能なる力の神です。

 今まで、「主の永遠からの創造におけるご予定」について考えました。今度は、「主の永遠からの救いにおけるご予定」について考えたいと思います。
 

2.「主の永遠からの救いにおけるご予定」について 
なぜ救いが必要になったのでしょうか。主の永遠からのご予定のために救いが必要です。
残念なことに、多くの人はこのことを知らないようです。

 主なる神は、人類に神の永遠のいのちをお与えになりたいのです。主は人間が堕罪する前から、人間には永遠のいのちが必要であることを知り、永遠のいのちを与えようとしておいでになるのです。
 いのちの木は、人間が罪を犯す前に、すでにエデンの園の中央にありました。人間が罪
に陥る前に、主なる神は木の実であられる御子イエス様を人間にお与えくださったのです。
主なる神の永遠のいのちとは、罪の赦しを得させる薬のようなものではありません。

 救いにおける主のご予定は、いったい何でしょうか。何のために、主は人を救う必要が
おありだったのでしょうか。
@ アダムが失ったものを回復するため、元通りにするために、また、悪魔のわざを滅ぼすために救いが必要でした。けれどそれだけではなく、
A 主なる神の永遠からのご予定が成し遂げられるためにも、救いが必要でした。

 私たちは今日まで何度も、救いが必要な理由についての、つまりこの一番目の理由について学んで来たのです。即ち、アダムが失ったものを元通りにするため、即ち人類の罪が尊い主イエス様の流された血潮により拭い去られ、古き人が十字架につけられ、また、主イエス様とともに死に、そして、アダムの堕罪以前の状態に回復されたという事実を学んできたわけです。イエス様の血潮と十字架は、アダムによって失われたものを回復する手立てでした。
 この罪を覆う血潮の力、罪から解放する十字架の力を自ら体験した者は本当に幸せです。更に、まだまだそれを超えて広いところがあります。主なる神の永遠のご予定が実現されていかなければいけません。
そして、この主のご予定は、罪と何の関わりもないものです。

 あまり良い例でないかもしれませんが、ドイツに面白い童話があります。
 ある時、一人の洋服屋さんがパンを食べていました。パンの上に七匹のハエが止まって
いましたが、洋服屋さんは新聞を丸めてそのまま振り下ろすと、七匹ともいっぺんに死ん
でしまったのです。その洋服屋さんは、それから背中に看板をぶら下げて、「一撃で七匹
いっぺんに殺した」と書いて(笑)、世界中を歩きまわり、恐れられ、また素晴らしい成功を収めたという面白い話があります。
 けれど、生けるまことの神は、御子主イエス様の死によって、人間の罪を赦し、罪の力からの解放をされただけではなく、この一撃で多くのより素晴らしいことを成し遂げられたのです。主なる神の永遠からのご予定が、一つの狂いもなく成し遂げられたのです。

 けれども、多くの信者は、イエス様の死により、主なる神のご予定が成就されたという事実を知らないでいます。父なる神の測り知れぬ知恵と御子イエス様の御救いを思うとき、また上からの光によってそれを知るとき、ただ御前にひざまずき、礼拝せずにはおられなくなるのです。私たちの罪が赦され、古き人の力が抹殺され、それよりも更に広い偉大な主のご計画があります。

 父なる神は、御子を多くの兄弟の長子となさり、多くの神の子を求めておられたのです。ですから、イエス様は自らのいのちを差し出されました。イエス様が十字架にかかり、さばかれ、私たちの罪の負い目を自ら負われ、私たちの古き人の力を抹殺してくださいました。そればかりではなく、十字架にかかり、自らのいのちを死に渡されたのです。
ですから、イエス様の死は、アダムが失ったものを回復するため、罪の赦しと罪の力からの解放だけでなく、加えて自らのいのちを与えることにより、人類に永遠のいのちを得させるための死であったと言うことができるのです。
 エペソ書の5章25節を読むと、次のように書かれています。
エペソ人への手紙 5章25節

 キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられた…

「キリストは教会を愛し、そのためにご自身をささげられた」。これはイエス様の死の積極的な面です。イエス様は私たちの罪と罪の力のために死なれたばかりではなく、私たちに永遠のいのちを与えてくださるために死なれたのです。

 この事実をしっかりと掴むため、最後に四つの例をもって考えてみたいと思います。
1.アダムが眠らせられ、エバが造られたことです。
創世記 2章21節から23節

 そこで神である主が、深い眠りをその人に下されたので彼は眠った。それで、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。こうして神である主は、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。すると人は言った。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」

 そして、今読みましたエペソ書の箇所を本当は一緒に読むべきでしょう。
エペソ人への手紙 5章25節から27節

 夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。

 主の教会とは何であるかというと、私たち救われた罪人の集まりであり、その裏には罪が大きく場を占めていると考えられます。
 主なる神の目でご覧になる教会は違います。主の教会は、御子から取り出したものであり、これは神が永遠の昔から予定されていたところのものであり、罪の影すら見えない、罪とは関わりのないものです。

 今までの学びを通して分かるようになったことと思いますが、イエス様の十字架上での贖いの死は、罪に陥り、神なく、望みなく歩む者のため、また神に敵対する者のためであったことがわかります。けれども、このエペソ書5章25節を読むと、イエス様の死は、罪のためだけではなく、違ったご目的のためでもあったということもわかります。「キリストは教会を愛して、そのためにご自身をささげられた」。この主の愛を、御霊は夫と妻の間の愛に例えています。
 エペソ書5章には、イエス様が罪のために死なれたことについては、書いてありません。教会を建て上げられるために、ご自身をおささげになったことが書かれています。これを説明するために、パウロは創世記2章を取り上げたのです。
 創世記3章以下を読んでいきますと、主なる神はアダムとエバの罪を負うために動物を
殺し、その皮を着せたことが書かれています。引き続いて、カインとアベルのささげ物の
問題、また多くの動物がいけにえとしてささげられたことも記されています。
 しかし、これらは全部、イエス様の死が罪人を赦しきよめるためであったことを象徴しています。即ち、イエス様は罪人のために死なれたという面を物語っています。

 そして、イエス様の死は罪のためばかりではなかったということを教えてくれる箇所が旧約聖書の中にあります。それは今話しましたように、堕罪の前、創世記2章です。パウロは、御霊の導きにより、この創世記2章を例に取りました。
 主なる神はアダムを眠らせました。もし信じる者が死にますと、その死について聖書は、
「死んだ」ということばを使いません。「眠った」と言います。信者は罪を赦されて、永遠のいのちを持っていますから、「死んだ」と言わないで、「眠った」と言います。アダムの場合もそうでした。アダムが罪を犯す前のことでしたから、「眠った」と言っているのです。
 主なる神はアダムを眠らせました。罪を犯したからではありません。そのあとで罪を犯
したのです。エバが罪を犯したために、アダムは眠らされたのではありません。そのとき、
エバはまだ造られていなかったのです。
 眠らされたのは、アダムから何かを取り出して、新しいものを造り出すためでした。ア
ダムが眠らされたのは、その妻エバを造り出すためでした。主なる神は、アダムから妻のエバを取り造り出すためにアダムを眠らせました。結局アダムは死にました。アダムの死はイエス様の死を象徴しています。救いは罪に対しての薬にすぎません。救いはアダムが後に罪を犯したから必要となったのです。けれど、主なる神の永遠からのご予定は、人間を罪から救い、元通りにするといったことではありませんでした。

 多くのキリスト者は、救いだけを考えて、人間は救われるために造られたかのように考
えています。アダムは、永遠のいのちを得させるいのちの木の実を食べませんでした。で
すから、永遠のいのちを持っていなかったのです。単なる造られたいのちしか持っていな
かったのです。
 たとえアダムが罪を犯さなかったとしても、イエス様はどのような方法によったか分りませんが、人類に永遠のいのちを与える必要があったのです。けれど、アダムは罪を犯しました。ですから、アダムが罪を犯す前に必要だったものに加えて、罪の赦しも必要となったのです。

 アダムが本当に救われるため、永遠のいのちを得るために、イエス様は犠牲になられた
のです。主は自らのいのちを与えることにより、人類の罪を赦し、それに加えて、アダム
が罪を犯す前に必要としていたもの、即ち、永遠のいのちまで同時にお与えになりました。 
驚くべき主のみわざです。ですから、信者は堕罪の前にアダムが持っていたものよりも、
もっと多くのものを持っているわけです。キリスト者は、永遠のいのち、神の子、主イエ
ス様の兄弟、これらのすべてを持っているのです。

 アダムは、エバが生み出されるために眠らされました。エバは別のものとして造られま
せんでした。アダムのからだから取り出されていたのです。同じように、主なるイエス様
は、真の教会をともによみがえらされました。教会は主から取り出されたものです。
 イエス様は十字架につかれ、自らを死に渡されましたが、それは、傷もしみもない教会、
花嫁、即ち、着飾った花嫁を生み出すためにそうされたのです。


2.二番目の例は、一つの麦が死に、多くの実を結ぶことです。
 ヨハネ伝12章24節を読むと、次のように書かれています。
ヨハネの福音書 12章24節

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」

 この例えを使って考えたいと思います。
 この「一粒の麦」は、だれでしょうか。言うまでもなくイエス様です。神のいのちは、
神のひとり子であられるイエス様の中にだけあります。
 そして、この一粒の麦は土の中に埋められて死んでしまいました。どうしてでしょうか。それは、ほかの多くの麦が罪を犯したからでしょうか。いいえ、まだ多くの麦はそこにありませんでしたから、そうではありません。ほかの麦が多くの実を生み出させるために、一粒の麦は死んだのです。
 一粒の麦である主イエス様は、贖い、罪の赦しを得させるために十字架で死なれただけ
ではありません。多くの実を生み出すために自らを死に渡されました。一粒の麦の死は、
ほかの実を贖うためではなく、ほかの多くの実を生み出すためでした。

「キリストは教会を愛し、そのためにご自身をささげられた」。一粒の麦が死ぬことにより、
多くの麦粒の中で第一の麦粒となりました。ひとり子は、死によって、多くの兄弟たちの長子となられました。
 この事実は、ヨハネ伝1章と2章を読むとよくわかります。1章14節、前に読みました箇所ですが、
ヨハネの福音書 1章14節

 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

「父のひとり子」とイエス様は呼ばれていますが、その後20章までの間に、イエス様は
死んで、よみがえられたのです。

 そして、ヨハネ伝20章の17節を読むと、次のように書かれています。
ヨハネの福音書 20章17節

 イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る。』と告げなさい。」

 1章からずっとイエス様は父なる神を、「わたしの父」と単数形で呼んでこられましたが、死とよみがえりのあとでは、複数形で「あなたがたの父」と呼んでおられます。 
 また、信じる者を、「わたしの兄弟たち」とお呼びになりました。ひとり子なるイエス様
は長子となられたのです。父なる神は、今や多くの子どもをお持ちになり、御子主イエス
様は、多くの兄弟たちのところに行って「伝えなさい」と言われたのです。

 ヘブル人への手紙の中で、また次のように書いてあります。
ヘブル人への手紙 2章11節、12節

 聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです。それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、こう言われます。「わたしは御名を、わたしの兄弟たちに告げよう。教会の中で、わたしはあなたを賛美しよう。」


3.三番目の実例は、ルカ伝に書かれています。
 即ち、イエス様が洗礼を受けられて、火が通されたことについての箇所です。
ルカの福音書 12章49節、50節

「わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。だから、その火が燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。しかし、わたしには受けるバプテスマがあります。それが成し遂げられるまでは、どんなに苦しむことでしょう。」

 主イエス様が来られたご目的は、私たちの心の中にイエス様の霊が火となってともされるためでした。けれども、イエス様が肉体のかたちをとって地上におられたとき、イエス様の代行者、御霊はまだ下りませんでした。「わたしには受けるバプテスマがあります」と語られていますが、これはイエス様の死を意味しています。ここを読みますと、イエス様の死は、人類の贖いだけでなく、心にご自身の霊を火と降り注ぐためだったことがよくわかります。

 イエス様は、死によって肉体のかたちのイエス様から、霊のかたちの主イエス様となられたのです。イエス様は、今や私たちとともにおられるイエス様だけではなくて、私たちのうちにおられる主です。私たちは、うちに火のように燃える神の霊により、主イエス様の御霊により神の子となりました。

 ローマ人への手紙の8章15節、16節を読むと、次のように書かれています。
ローマ人への手紙 8章15節、16節

 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。


4.最後に第四番目の例は、人の子の肉はいのちであることについてです。
 ヨハネ伝の6章35節を読むと、イエス様は次のように言われたことがわかります。
ヨハネの福音書 6章35節

 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」

 イエス様は、「わたしは天から下って来たパン、生けるパンである。わたしを食べる者は
わたしによって生きるのです」と言われました。ユダヤ人たちはそれを聞いたとき、そのことはできないと言いました。もっともなことです。肉体のかたちをとっておられたイエス様を食し、受け入れることは全く不可能です。
 イエス様は自らのいのちを与えるために、死ななければなりませんでした。イエス様は
死とよみがえりにより、だれもが、食べ、受け入れることのできるよみがえりのからだ、
霊のからだとなられました。
 ヨハネ伝の1章12節、13節を読むと、次のように書かれています。
ヨハネの福音書 1章12節、13節

 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。

とあります。イエス様は私たちの生活を改善しようなどとはされませんでした。ご自身
のいのちを、私たちにお与えになりたかったのです。
ヨハネの福音書 6章51節

「わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」

 主なる神の永遠からのご予定は、人間のうちに、神のいのち、永遠のいのちが宿ること
でした。そのためにイエス様は、自らを死に渡されたのです。
ヨハネの福音書 6章57節

「生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。」

 イエス様によって生きるということは、自分一人では何もできない、完全にイエス様に
拠り頼まなければならないということを意味します。

 多くの兄弟姉妹は、良い信者は強い人たちであると考えています。けれど、良い信者は
主によって生きる人たちです。私たちは、強くなるために力を受けません。イエス様が、
私たちのうちに宿り住んでおられるのです。
 こうなりますと、「主よ。忍耐を与えてください。兄弟を愛する愛を増し加えてください」
と願うより、「自らは忍耐も愛も無い。うちに住んでおられるイエス様、あなたが忍耐し、
あなたが愛することをしてください」ということになります。これが、主に頼る生活です。

 素晴らしい金持ちがお嫁さんをもらいました。お嫁さんは何も持っていませんでしたが、
夫にあって多くの財産を自分のものとすることができました。結婚により、二人は一体と
なりました。
創世記 2章24節

 それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。

 そして、前に読みましたエペソ書5章31節です。
エペソ人への手紙 5章31節

「それゆえ、人はその父と母と離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」

 パウロは、続いてエペソ書5章の32節に、
エペソ人への手紙 5章32節

 この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。

 エバがアダムから取り出され、二人は一つとなったように、教会はイエス様から取り出
され、イエス様に用いられ、栄光の主とともに一つにされたのです。
 イエス様は、聖霊によってマリヤの胎に身ごもられました。
マタイの福音書 1章20節

 主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。」

 私たちも同じように、聖霊によって、主によって、生まれ変わった者です。ですから、
イエス様は、ニコデモにヨハネ伝3章5節で言われたのです。
ヨハネの福音書 3章5節

「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。」

ヨハネの福音書 1章13節

 この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。

イエス様と私たちのいのちの源は同じです。イエス様が天国で持っておられるいのちを、
私たちにお与えになりました。ですから、私たちは主に喜ばれる生活が送れるはずです。
私たちの生活が改まったのではなく、イエス様のいのちが私たちのいのちとなっていたのです。

 今日は、神の永遠からのご予定について考えました。主の永遠からのご予定は、罪と何の関わりもないということがはっきりわかります。
 イエス様の死によって、私たちはアダムが堕罪する前に持っていたものよりもっともっと多くのものを持つようになった、ということも絶えず覚えるべきではないでしょうか。
 罪が赦され古き人が殺されたばかりでなく、主なる神の持っておられる永遠のいのちにあずかる者とされたのです。永遠のいのちを持つことにより、神の子どもとされ、主イエス様の兄弟とされたのです。イエス様を受け入れた者一人一人は、神の家族の一員とされたのです。

 私たちは、この世に求めるものを何一つ持ち合わせていません。この世には望みになるようなものは何も無いはずです。悩みや苦しみを通して、主は私たちの心に天国を慕う思いを起こさせ、全き者としてくださいます。

 主なる神のご予定とは何でしょうか。前に読みました箇所をもう一度読んで終わります。
ヘブル人への手紙 2章10節

 神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。

 そして、エペソ書5章。
エペソ人への手紙 5章25節、27節

 キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたのは、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。

 次の約束が成就されます。黙示録の19章の6節と7節です。
ヨハネの黙示録 19章6節、7節

 また、私は大群衆の声、大水の音、激しい雷鳴のようなものが、こう言うのを聞いた。「ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた。私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。」

 これこそ主の永遠からのご予定です。主なる神がこれに対し、私たちの心の目を新たに開いてくださるなら、本当に幸いと思います。



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◆メッセージ(ベック兄)

※一部、テープの転換による不明部分あり

神のみことばは神のみことばである(5) 2006. 4. 18
神のみことばは神のみことばである(4) 2006. 4. 11
神のみことばは神のみことばである(3) 2006. 4. 4
神のみことばは神のみことばである(2) 2006. 3. 21
家族の救い 2006. 3. 19
神のみことばは神のみことばである(1) 2006. 3. 14
主イエスは神の子キリストである(4) 2006. 3. 7
主イエスは神の子キリストである(3) 2006. 2. 28
主イエスは神の子キリストである(2) 2006. 2. 14
主イエスは神の子キリストである(1) 2006. 2. 7
勝利の生活の秘訣 2006. 1. 24
イエス・キリストのからだ 2006. 1. 17
主の永遠からの予定 2006. 1. 10
元旦メッセージ 2006. 1. 1


2005年度のメッセージ集
2004年度のメッセージ集
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