元旦メッセージ
2006.1.1(日)
ベック兄メッセージ(メモ)
西軽井沢国際福音センターにて
新年おめでとうございます。
今一緒に歌いました歌は、昔から私の最も好きな歌なのです。そして今から読む箇所も、
ずいぶん昔から私の一番好きなみことばの一つなのです。
コロサイ書1章10節
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また、主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに
実を結び、神を知る知識を増し加えられますように。 |
というみことばです。この箇所は、私たちの結婚指輪に刻まれているみことばです。
「神のみこころにかなった生活をし、真に主を喜ばせよ」と。
イエス様を信じ、また出会った兄弟姉妹たちは、イエス様のない人生の無意味さを認識するようになりました。また、いかなる尽力も努力も、主なる神と人間の間の隔ての壁を取り除くことができないことも信じられるようになりましたので、自分が破産したことを宣告し、自分の債務をイエス様に告白する恵みにあずかるようになったのです。
幼子のような信仰で罪の赦しを求めたことの結果として、イエス様の血潮によって自分が贖われ、神の子どもとされたことが信じられるようになったのです。そして、もはや裁かれることのないことも確信できるようになりました。更に、イエス様を体験するようになった兄弟姉妹は、イエス様に喜ばれたいと切に望むようになったのです。
最も大切なことは、「主に喜ばれる」ことです。新たに信仰に導かれた人たちに対して、パウロは書いたのです。
テサロニケ人への手紙・第一 4章1節
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終わりに、兄弟達よ。主イエスにあって、お願いし、また勧告します。あなたがたはどのように歩んで神を喜ばすべきかを私たちから学んだように、また、事実いまあなたがたが歩んでいるように、ますますそのように歩んでください。
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救われている人と、救われていない人との区別はいったいどういうことなのでしょうか。救われている人はイエス様に喜ばれたいという願いを持っていますが、救われていない人はイエス様に対して盲目であり、イエス様のみ声が聞こえません。私たちは、毎日毎日、私の思いはイエス様に喜ばれるかどうか、私たちの言動はイエス様に喜ばれるかどうかを新たに問うべきではないでしょうか。これこそが最も大切です。
人間に気に入られることは大切ではありません。主に気に入っていただくことこそが、大切です。私たちはこのことについて真剣に考えるとき、驚かざるを得ないのです。
・いったい私たちはどのようにしたら、光そのもの、少しも暗いところをご存知ない主に
喜んでいただけるのでしょうか。
・いったい私たちはどのようにしたら、絶対的な聖さと神聖さそのものであられるイエス様に喜んでいただくことができるのでしょうか。
・いったい私たちはどのようにしたら、愛そのものであられるイエス様に喜んでいただくことができるのでしょうか。
イエス様は光そのものです。けれど何と多くの利己的な性質、偽善と二重人格が私たちのうちにあることでしょう。
イエス様は絶対聖なるお方です。しかし何と多くの嘘と不純とが、私たちのうちにあることでしょう。
イエス様は愛そのものです。しかし何と多くの自己追求と自己中心が、私たちのうちにあることでしょう。
イエス様はいかに私たちを気に入ってくださるのでしょうか。
人間の創造以前に、主なる神はみこころにかなう人間が欲しいと計画してくださったのです。
エペソ人への手紙 1章4節をお読みします。
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すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
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とあります。
主ご自身がご自分の方から、私たちと主との間の裂け目をふさぐ道を用意してください
ました。すなわち、御子主イエス様が私たちの贖いの代価を支払ってくださったのです。
その代価は、イエス様がささげてくださった「いのち」です。
ローマ書5章8節
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しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
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と。
父なる神はどうして人間を喜ぶことがおできになるのでしょうか。
それは、私たち人間が主に喜ばれる生涯を送ろうと自分の力で努力することではなく、イエス様が私たちの罪のあがないのために死んでくださり、そしてよみがえって私たちのために生きてくださっていることなのです。
イエス様のものになったとしても、イエス様をお喜ばせしようとする自分の努力はすべて敗北から敗北へという結果に至るだけです。生けるまことの神が喜んでくださるのは、
私たちのうちに生きて働かれる主イエス様のなされるみわざだけです。今、受け入れてくださるものは、私たち自分自身の素晴らしさではなく、ただイエス様の贖いのみわざの故なのです。
イエス様のうちにあるもの、すなわちイエス様と結びついているものの生涯は変えられ
ます。そこに実を結ぶことが見られます。
ヨハネの福音書 15章4節から8節
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わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。
あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。 |
自分の努力ではなく、私たちのうちにおられるイエス様、これこそ勝利と祝福と実を結ぶことの秘訣です。毎日毎日、「主よ、私は何をしたらよいのでしょうか、あなたは何を望んでおられるのでしょうか」と尋ねましょう。そうすれば主の祝福が豊かに注がれます。
イエス様に喜ばれる奉仕とはいったいどういうことなのでしょうか。
自分自身を無にした奉仕であり、イエス様のために喜んで犠牲を払う備え、そしてまた自分自身をささげ、自分自身を否定する備えのできた奉仕ではないでしょうか。
それには、自己否定が要求されます。すなわち自我の死、自分自身の願いを捨てること、自分自身の利益を捨てることです。
失敗することは大きな問題ではありませんが、曖昧にすること、隠すこと、陰でこそこそすることは、悪いことです。ただ人前だけ上手に繕い、人間を喜ばせようとする人は、ものごとを曖昧にしたり、隠したりします。しかしイエス様の前に光のうちを歩む人は、隠したり、曖昧にしたりすることはできません。
イエス様に喜ばれる生涯、これこそ、私たちの人生の内容であるべきです。その秘訣は
私たちのうちに主イエス様がおられるということです。私たちはいつも失敗ばかりする者
ですが、イエス様は何でもおできになります。イエス様により頼み、信頼する者は、勝利から勝利にと進みます。
ヘブル書の著者は、イエス様のおかげで私たちはみこころを行なうことができると書いたのです。
ヘブル人への手紙 13章21節
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イエス・キリストにより、御前でみこころにかなうことを私たちのうちに行ない、あなたがたがみこころを行なうことができるために、… |
エノクという男は、主のみこころにかなう人でした。聖書は語っています。
創世記 5章23、24節
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エノクの一生は三百六十五年であった。エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。
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ヘブル人への手紙 11章5節
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信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。
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聖書ははっきり語っています。エノクは主に喜ばれる人でした。主に喜ばれるというこ
とはエノクにとって、日々主とともに歩むこと、一瞬一瞬主と結びついていることを意味
しました。
信じるということは、ただ単に主のみことばを幼子のように受け入れるということだけ
ではなく、意識して主にのみ、より頼むということでもあります。
ヘブル人への手紙 11章6節
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信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。 |
信仰がなければ主に喜ばれることは不可能だとあります。
いったいどうすれば私たちは主に喜んでいただけるのでしょうか。
それは私たちが主を信頼し、主とともに歩むことによってです。それは、日々主に信頼してお従いするということを意味します。
パウロは次のように書くことができたのです。
ローマ人への手紙 8章37節
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しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。
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ピリピ人への手紙 4章13節
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私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。
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私たちは、ただ救われて、聖められるためにだけにこの地上にいるのではありません。
主の器となるために、用いられるために救われているのです。
私たちを通して、イエス様はご自身を啓示なさりたいと思っておいでになります。
私たちを通して、イエス様はご栄光をあらわされたいと願っておいでになります。
ただイエス様だけがご栄光をお受けになってくださり、私たちの周囲の人々が救われる
なら、私たち自身のことはどうなろうとかまわないという心構えを、私たちは持っている
でしょうか。
パウロは次のように告白したのです。
使徒の働き 20章24節
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けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。
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私たちも、詩篇の作者と同じように、次のように祈ることが出来れば幸いと思います。
詩篇 143篇10節
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あなたのみこころを行なうことを教えてください。あなたこそ私の神であられますから。あなたのいつくしみ深い霊が、平らな地に私を導いてくださるように。
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詩篇 25篇4節、5節
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主よ。あなたの道を私に知らせ、あなたの小道を私に教えてください。あなたの真理のうちに私を導き、私を教えてください。あなたこそ、私の救いの神、私は、あなたを一日中待ち望んでいるのです。
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最後に歴代誌から読んで終わります。
歴代誌・第二 16章9節
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主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。
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