神のみことばは神のみことばである(5)
2006.4.18(火)
ベック兄メッセージ(メモ)
ヨハネの福音書 5章39節
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あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。
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申命記 32章47節
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「これは、あなたがたにとって、むなしいことばではなく、あなたがたのいのちであるからだ。このことばにより、あなたがたは、ヨルダンを渡って、所有しようとしている地で、長く生きることができる。」
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詩篇 119篇72節
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あなたの御口のおしえは、私にとって幾千の金銀にまさるものです。 |
97節
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どんなにか私は、あなたのみおしえを愛していることでしょう。これが一日中、私の思いとなっています。
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140節
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あなたのみことばは、よく練られていて、あなたのしもべは、それを愛しています。
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今読んでいただきました個所は、主イエス様、それからモーセ、またダビデの、信仰の告白ではないでしょうか。彼らはみな、みことばの大切さを知っていたのです。ですから最近、神のみことばである聖書の大切さについて学びました。今日も続けたいと思います。
昨日、W兄からちょっと珍しいものを受け取りました。A兄弟の書かれた小冊子です。自分の葬儀のために書いたものでした。すばらしい証しです。半分以上はみことばです。写真も入っていますし、CDも入っています。
彼は、主に在って本当に喜んでいます。現在もちろん入院していますし、もう退院できないでしょう。けれど最近、娘さんもはっきり救いの確信を得るようになり、そればかりではなく、ほかの人々にもイエス様を知ってもらいたいと知人・友人も連れて来るようになっています。本当に嬉しいことです。けれど、このA兄弟にとり、すべてのすべては、やはり「聖書」なのです。
聖書がなければ人生はもうおしまいです。そして聖書に書かれている事がらを絶対的な権威をもった神のみことばとして受け入れなければなりません。みことばに耳を傾けない者は、決して生き生きとした信仰を持つことができないのです。
みことばを読む場合の本当の目標は、イエス様を体験的に知り、イエス様に出会い、そしてイエス様を受け入れること。また、イエス様をよりよく知ることであるべきです。単なる頭の知識として付け加えたとしても、意味の無いことになるのではないでしょうか。理解力をもって聖書を理解しようと思えば、うまくいきません。主イエス様の時代の聖書学者たちは、残念ですがそのような読み方をしていました。
ですから、イエス様は厳しく彼らに言われたのです。
ヨハネの福音書 5章39節
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あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。 |
当時の聖書学者たちは、みことばそのものを受け入れようとしなかったのです。しかしそうなのです。聖書の中心は、ひとつの教えではなく、イエス様そのものです。「聖書が、わたしについて証言している」と。
40節
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それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。
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これは悲劇的なことです。
聖書は、単なる教理が問題なのではありません。イエス様ご自身が問題です。なぜなら、
イエス様は、「聖書が、わたしについて証言している」と言われましたので、「イエス様ご自身」ということは、考えられないほど大切なのです。「わたしのことばは永遠に残る」とイエス様は約束してくださいました。聖書を読むことと、いのちを得ることとは、決して二つのことではありません。みことばを自分のものにすると、私たちは「生かされる」のです。元気になります。これこそモーセの経験したことではないでしょうか。
モーセは、今読みました個所の中で、
申命記 32章47節前半
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これは、あなたがたにとって、むなしいことばではなく、あなたがたのいのちであるからだ。
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と。
聖書はすべて主なる神の息が吹き込まれることによって書かれたものです。主の感動により、主の息吹により、霊感によって、書かれた書物です。ですから聖書は、「主の教え」というよりも、「主の啓示」と言わなければなりません。
主は、みことばをもってご自身をお現わしになります。主のみことばは、私たちにとって、「いのちのパン」とならなければなりません。なぜなら聖書は、教理や真理の原則を語っているよりも、「いのちのパンそのもの」であるからです。イエス様は、私たちの「生きるいのちのパン」になりたく思っておいでになるのです。
私たちはイエス様によって、みことばによって、生きているのでしょうか。みことばは、
私たちにとって本当に大切なものとなっているのでしょうか。私たちの心の食べ物をどこで見つけるのでしょうか。聖書の中だけです。
聖書はイエス様を啓示します。そしてイエス様こそが、私たちの渇けるたましいにとって、いのちの糧です。ですからダビデは、
詩篇 119篇72節、97節、140節
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あなたの御口の教えは、私にとって幾千の金銀にまさるものです。どんなにか私は、あなたのみおしえを愛していることでしょう。これが一日中、私の思いとなっています。あなたのみことばは、よく練られていて、あなたのしもべは、それを愛しています。
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主イエス様は、みことばを愛する人々を捜し求めておいでになるのではないでしょうか。聖書は本当に、私たちの唯一の土台であるべきです。聖書が、不動の土台であり、信じる者に対する教えと生活に対する唯一の権威であるべきです。主なる神のお語りになったみことばは、使徒たちと預言者たちが受け取ったことばとして、変わることがありません。すなわち、送り手のことばと受け手のことばは等しい、ということが聖書の語っていることなのです。
今まで、私たちは大きく分けて次のようなことを学びました。
第一番目、主なる神が聖書の発起人、著者である。
第二番目、主のみことばが人間、すなわち使徒たちと預言者たちに与えられ、吹き込まれたものである。
今から、第三番目の点について考えたいと思います。すなわち、使徒と預言者たちに与えられ、受けたものを伝え、さらに宣べ伝え、そして書き伝えたことについてです。
別のことばで表現すると、
第一番目、語られたみことば
第二番目、受け取られたみことば
第三番目、書かれたみことば
について、考えてみたいと思います。
人間が、主から受け取ったみことばを書き記したということです。主はときどき召した人たちにお語りになり、受け取った事がらをさらに宣べ伝えることを禁止なさいました。公にしてはいけない。書いてはいけないと。そのような場合、私たちは主が語られたことだけはわかりますが、ほかのことがらについては主が何を語られたかがわかりません。
例えば、主はダニエルに次のようにおっしゃったことがあります。
ダニエル書 8章26節
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「先に告げられた夕と朝の幻、それは真実である。しかし、あなたはこの幻を秘めておけ。これはまだ、多くの日の後のことだから。」
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結局、公にしてはいけない。書いてはいけないということです。
聖書の最後の、黙示録10章4節を見ても同じようなことが書かれています。
ヨハネの黙示録 10章4節
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七つの雷が語ったとき、私は書き留めようとした。
すると、天から声があって、「七つの雷が言ったことは封じて、書き記すな。」と言うのを聞いた。 |
もう一箇所、似ている個所ですが、コリント第二の手紙12章。パウロが、自分のいろいろな経験について書き記したところなのです。
コリント人への手紙・第二 12章4節
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パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。
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けれども主のみことばすべてが、ただ受け取られただけで、もし語られ、また書かれることがなかったなら、私たちは主について何も知らず、聖書も持たなかったことでしょう。
使徒たちと預言者たちは、みことばを、聖霊を通して受け取っただけではなく、さらに
聖霊を通してみことばを宣べ伝え、書き記したのです。
みことばの霊感は、初めから終わりまで主のみわざです。主のみことばの伝播は、神のみこころの表われであり、主のみことばを与えること、また受け取ることと同じように、主のみこころです。聖霊の働きを通して受け取られたみことばは、変わることなく、語られたり書かれたりしたみことばになります。受け取られたみことばが主によるものであるなら、宣べ伝えられたみことばも主によるものです。そのことについて、聖書は私たちに何と言っているのでしょうか。神のみことばを人間が理解できるなら、主は人間のことばの形でお語りにならなければなりません。
私たちは小さな子どもに、私たちの言うことを分からせようとするなら、子どもの話しかたで話さなければなりません。けれど、私たちが話すことは、私たちのことばであり、それがただ子どもの話の形になっているというだけです。私たちの話している事がらは、私たちのことばであるに違いありません。
霊感の奇蹟のひとつは、語られた神のみことばが人間のことばに変わることです。変圧器は高電圧から低電圧に電流を変えます。神のみことばは使徒たちと預言者たちを通して、人間のことばに変えられました。神のみことばである聖書は、内容的には完全な神のみことばであり、形式的には完全な人間のことばです。
二つの点について、もう少し詳しく考えたいと思います。
1.人間となった神のみことばとしてのイエス様。
2.文字となった神のみことばとしての聖書。
1.人間となった神のみことばとしてのイエス様。
神はイエス様を通して私たち人間にご自身を啓示なさりたいと思われたとき、次のよう
になさいました。
ピリピ人への手紙 2章7節
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ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
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主イエス様というまことの人間の形を通してのみ、私たちは主なる神を具体的に把握し、
知ることができたのです。みことばそのものである主なる神は、隠されたままでいること
はなく、人間となり、「私たちは神の栄光を見た」とイエス様の弟子たちは言わざるを得なかったのです。すなわち、私たちは主の不完全さを見たのではなく、むしろ、私たちは恵みとまことに満ちておられたひとり子としての栄光を見た、と弟子たちは言ったのです。
よく知られているヨハネ伝1章14節。
ヨハネの福音書 1章14節
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ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。 |
これはイエス様の弟子たちの証しです。ですから、イエス様は聖霊により、処女マリヤ
からお生まれにならなければならなかったのです。
イエス様のご降誕については、次のように記されています。
ルカの福音書 1章35節
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御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。」
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主イエス様は「人間となられた神のみことば」です。イエス様は本質上、完全な神の御子であられ、形式上は、この地上におられる間、完全な人の子なのです。
ピリピ人への手紙の中で、このすばらしい事実について次のように書かれています。
ピリピ人への手紙 2章2節から7節
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私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
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聖書は、「ことばが人となった」という事実を、私たちに告げ知らせていますが、この
大変な転換がどのようにしてなされたのかについては説明していません。今読みました、
ヨハネ伝1章14節、「ことばは人となった」。ルカ伝1章35節、「聖霊と処女マリヤを通して生まれた」云々とあります。
聖霊は主イエス様の創造的な力であり、マリヤという人間は受け取り人となり、生むために用いられた器となったのです。この展開はどのようにして行なわれたのかという、私たちのあらゆる問いに対して、聖書はただ、「聖霊によって」という答えを与えています。
人の子主イエス様は、しもべの形をおとりになりましたが、まったく完全であり、私たちと同じ人間でありながら、罪を知らないお方でした。主イエス様のうちには神のご性質が満ち満ちている、とパウロはコロサイ書2章9節に書き記したのです。
コロサイ人への手紙 2章9節
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キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。
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けれど私たちがイエス様のうちに父なる神を見ることができるために、イエス様は人の
形をとってくださったのです。
2.文字となった神のみことばとしての聖書。
聖書は、文字となった神のみことばであり、聖霊の働きによって出来上がりました。主なる神のみことばは、使徒たちと預言者たちを通して語られ、また、書かれた人間のことばになりました。
聖書は、しもべの形をとられた、すなわち人間のことばの形をとられた、神のみことばです。
聖書は、人の子である主イエス様と同じように完全で、誤りがありません。
聖書は、内容的にも形式的にも完全です。
神の御子から人になったみことばへの転換の奇蹟を問うとき、聖書は「聖霊によって」というただ一つの説明として、私たちにお語りくださいます。ちょうどそれと同じ答え、聖書が私たちに与えてくれるのは、私たちが文字となった神のみことばの奇蹟を問うときです。すなわちそれは、聖霊によるのです。
多くの人々は、何とかしてこの転換の奇蹟を説明したいと思い、あらゆる可能な形式的な説明を試みてきました。例えば、ちょうど先生が読み上げる文章を、一字一字、生徒が書き写すのと同じように、聖霊がみことばを伝え、使徒たちと預言者たちがそれを一言、一言書き写したことではないかという解釈や学説もあります。けれど決してそうではありません。いくら考えても人間には説明がつかないので、聖書は単純に事実だけを述べて、
「聖霊によって」という表現を使っているのです。
主なる神の霊による霊感とは、まず主の語られたこと、それから、人間を通して受け取られたことだけでなく、みことばの伝播もそうなのです。したがって、みことばの伝播もまた、神のみこころと導きによるものです。主なる神はご自身の啓示、すなわちみことばを全人類に伝えるために、書物という手段をお選びになりました。
文字による継承、(すなわち受け継がれること)は、口によるものよりも確かであり、時間的にも制限されず、いつの時代にも通用します。
主なる神が、歴史上アブラハムを通して、救いのご計画を実行し始められたとき、文字
はすでに発明されていました。モーセはエジプトのあらゆる知恵の中で教育されました。ですから、その中には当然、文字も含まれていました。使徒行伝の中で、モーセについて次のようにステパノによって証しされています。
使徒の働き 7章22節
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モーセはエジプト人のあらゆる学問を教え込まれ、ことばにもわざにも力がありました。 |
主なる神ご自身がお書きになった、と聖書は記しています。出エジプト記31章18節
を読むと、次のように書かれています。主ご自身がお書きになったことについてです。
出エジプト記 31章18節
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こうして主は、シナイ山でモーセと語り終えられたとき、あかしの板二枚、すなわち、神の指で書かれた石の板をモーセに授けられた。
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「神の指で書かれた」とあります。
32章16節
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板はそれ自体神の作であった。その字は神の字であって、その板に刻まれていた。
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ともあります。
モーセは、主のことばを書き写すように命令されたのです。
出エジプト記 17章14節前半
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主はモーセに仰せられた。「このことを記録として、書き物に書きしるし、ヨシュアに読んで聞かせよ。…」
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24章4節前半
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それで、モーセは主のことばを、ことごとく書きしるした。
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34章27節
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主はモーセに仰せられた。「これらのことばを書きしるせ。わたしはこれらのことばによって、あなたと、またイスラエルと契約を結んだのである。」
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民数記 33章2節前半
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モーセは主の命により、彼らの旅程の出発地点を書きしるした。
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申命記 28章58節、59節前半
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もし、あなたが、この栄光ある恐るべき御名、あなたの神、主を恐れて、この書物に書かれてあるこのみおしえのすべてのことばを守り行なわないなら、主は、あなたへの災害、あなたの子孫への災害を下される。
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云々とあります。主はお書きになったのであり、モーセも書きました。
サムエルも書いたのです。
サムエル記・第一 10章25節前半
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サムエルは民に王の責任を告げ、それを文書にしるして主の前に納めた。
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エレミヤも、みことばを書くように要求されています。
エレミヤ記 36章2節
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「あなたは巻き物を取り、わたしがあなたに語った日、
すなわちヨシヤの時代から今日まで、わたしがイスラエルとユダとすべての国々について、あなたに語ったことばをみな、それに書きしるせ。」
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6節
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「だから、あなたが行って、主の宮で、断食の日に、あなたが私の口述によって巻き物に書きしるした主のことばを、民の耳に読み聞かせ、また町々から来るユダ全体の耳にもそれを読み聞かせよ。」
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17節、18節
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彼らはバルクに尋ねて言った。「さあ、どのようにして、あなたはこれらのことばをみな、彼の口から書きとったのか、私たちに教えてくれ。」バルクは彼らに言った。「エレミヤがこれらすべてのことばを私に口述し、
私が墨でこの巻き物に書きしるしました。」 |
23節
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エフディが三、四段を読むごとに、王は書記の小刀でそれを裂いては、暖炉の火に投げ入れ、ついに、暖炉の火で巻き物全部を焼き尽くした。
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28節
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「あなたは再びもう一つの巻き物を取り、ユダの王エホヤキムが焼いた先の巻き物にあった先のことばを残らず、それに書きしるせ。」
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51章60節
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エレミヤはバビロンに下るわざわいのすべてを一つの巻き物にしるした。すなわち、バビロンについてこのすべてのことばが書いてあった。
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云々とあります。
ダニエルも書くように命令されたのです。
ダニエル書 7章1節
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バビロンの王ベルシャツァルの元年に、ダニエルは寝床で、一つの夢、頭に浮かんだ幻を見て、その夢を書きしるし、そのあらましを語った。
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とあります。
音楽家が、ある時は竪琴、ある時はオルガン、ある時はバイオリン、ある時はラッパに
よって自分の中にあるものを表わそうと試みるように、主なる神は語りたいと思われると
き、全能の力をもって、ある時は王、ある時は羊飼い、ある時は祭司、ある時は医者、あ
る時は神学者、ある時は漁師、ある時は取税人を選び、言い表わしたいことを表現なさい
ました。
主なる神の御霊が、選ばれたひとりひとりの個性を用いて書かせました。主なる神の御霊が人間に臨み、また御霊が支配し、お用いになります。私たちは聖書を書いた人たちの語っていることを聞くことができ、彼らの人間的な個性を見ることもできます。彼らは、みことばをそれぞれの個性に応じて宣べ伝えました。それは、確かに人間の形によるものではありますが、完全なみことばです。私たちはいろいろな書物の作者の個性によって、聖書の中に、言い表わすことのできないほどの豊かさを見出すことができます。
旧約聖書において、
・モーセは、教養の高い指導者であり、生まれながら民の指導者であり、レビの家系をも
つ感情的な男でしたが、主の恵みによって最も柔和な人間になったのです。
・イザヤは、王の家系をもつ預言者であり、すでに千年王国の約束された平和の国を見た
者でした。そして支配者の洞察力をもって自分の時代を見通しました。
・エレミヤは、感受性の強い詩人の性質をもち、イザヤの苦しみと悩みに深く同情し、共
に耐え忍び、イスラエルの民に対する神の悲しみを理解することができました。
・アモスは、羊飼いであり、羊飼いの経験する事がらを通して、主のみことばを宣べ伝え
たのです。
・ダニエルは、賢い政治家であり、バビロン帝国の大臣であり、将来の世界史を主によっ
て見させることができました。
・エゼキエルは、祭司であり、宮の中の状態と将来の宮に対する目を開かれました。
更に新約聖書においては、
・マタイは、取税人であり、天の御国に対する幻をもつことができました。
・ルカは、医者であり、罪人の救い主を見、この方の癒す能力を確認しました。
・ヨハネは、神秘主義者であり、神の御子の本質ならびに主との交わりの本質をもっていました。
・ペテロは、行ないの人であり、彼のいろいろな思い出はマルコ伝に再現されており、彼
の手紙の中では、主の将来が描かれています。
・パウロは、考える人であり、聖書の真理をもっとも簡潔に言い表わす人となりました。
・ヤコブは、実践的な信仰の代表者です。
これらの使徒たちはみな、聖霊のご支配を受け、啓示を受け、その霊が駆り立てられました。彼らは目覚めた状態で神のみことばを受け取り、開かれたたましいと明晰な理解力とをもって、みことばを聞き、記しました。彼らは主のみことばを宣べ伝える器に過ぎな
かったのです。けれど大切なことは、聖書が常に主のみことばであること、しかも完全で、
間違いのない人間のことばの形をとっているということです。
神のみことばでありながら、人間のことば。そしてまた人間のことばでありながら、神
のことばです。いったいそんなことが、どうしてあり得るのでしょうか。
聖書は、神の奇蹟を私たちに説明してくれませんが、証しをしてくれます。
主イエス様の処女降誕はどうして可能なのでしょうか。人間は年老いてからどうして生
まれ変わることができるのでしょうか。
このような私たちの問い、すなわち、「どうして?」という問いに対して、聖書はいつも、「聖霊によって」という答えだけを与えています。みことばの霊感はどうして可能なのでしょうか。
ペテロは説明したのです。また証ししたのです。
ペテロの手紙・第二 1章21節後半
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聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。
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とあります。人間の口をお造りになった方が、この口をご自分の思う通りに使うことがおできにならないでしょうか。
出エジプト記 4章11節、12節
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主は彼に仰せられた。「だれが人に口をつけたのか。だれがおしにしたり、耳しいにしたり、あるいは、目をあけたり、盲目にしたりするのか。それはこのわたし、主ではないか。さあ行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたの言うべきことを教えよう。」
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私たちが召されたのは、主の奇蹟を説明するためではなく、福音を宣べ伝えるためです。
聖書のことばはどれもみな「主のことば」です。聖書の中に書かれているひとつひとつのことばは、本当に神のみことばなのでしょうか。それとも一部分は神のことばで、ほかの部分は人間のことばというように、交じり合っているのでしょうか。
残念ながら今日の大部分の神学校で教えられている事がらが、そのようなものなのです。
すなわち、ちょうど化合物の中に含まれている空気のように、神のみことばも人間のことばの混合物の中に含まれている、という考え方です。けれども、もしもそうだとするなら、
どれが神のことばで、どれが人間のことばであるかを判断するのはいったいだれなのか、
という疑問が起こってきます。両者を区別する権威はどこにあるのでしょうか。
神のみことばと人間のことばを正確に区別することは、もっとも大切なことになるでし
ょう。少しでも間違って判断するなら、それは悲劇的なことになるでしょう。すなわち、
神が語られたことを、人間が語ったと言ったり、その逆に、人間のことばを神のことばだ
と言ったりすることなどは、まことに悲劇的と言わざるを得ません。間違った判断によって、人間が永遠の滅びに行くこともあることを考えると、とんでもないことであると言わざるを得ません。
ひとことで言いますと、被造物であるちっぽけな人間は、これほど重大なことを判断す
る能力を持っていないのだということです。「確かに聖書の中には神のことばが含まれている」と言う人がいますが、そのようなことは確固たる土台とはなり得ません。
そのような人々は結局、はっきりとした確信を持てなくなってしまいます。また、そのような人々は、聖書は信じるかもしれませんが、みことばの何たるかを知らないのです。これこそ現代人の絶望の根源ではないでしょうか。またこれは、多くのいわゆる牧師たちの問題でもあります。
彼らはどれが神のことばで、どれが人間のことばであるかを区別できないために、人を
導くことができません。医者が患者に薬を間違えて死なせるよりも、はるかに恐ろしい悲
劇は、神のみことばと人間のことばと間違えて判断し、教えることではないでしょうか。
多くの教会で牧師は確かに福音を語り、ただ主イエス様によってのみ救いが成就される、
と言われるのですが、聖書のことばがまことに神のことばであり、信頼するに足るもので
あることを伝えることができなければ、語られた福音も十分な効力を発揮することができ
ません。聖書全体を神のみことばとして受け取る者だけが、確信と安らぎと支えを持つこ
とができるのです。
人は、聖書を全部神のみことばとして持つか、さもなければ全然持たないかのどちらか
ではないでしょうか。つまり、人間は聖書を「神のみことば」として完全に認識し、信仰と人生の土台を見出すか、そうでなければ聖書の要求を現代人にはとても信じられないこととして退け、聖書全体を失うかのどちらかです。
わかりやすい一例を挙げてこのことを説明してみますと、列車は橋を渡ればすぐ目的地にたどり着くことがわかっているとします。もしもその橋が頑丈な橋であれば、乗客はみな安心して乗りますが、その橋が危ない箇所もあるということがわかれば、だれもその列車に乗って、その橋を渡ろうとはしないでしょう。
聖書の場合も同じようなことが言えます。つまり、聖書のある部分は確かで、別の部分は不確かであるとするなら、結果的には聖書全体が不確かなものになります。
イエス様は、「あなたのみことばは真理です」と喜んでお祈りなさいました。私たちも、
何があってもこの態度を取るなら、絶対に後悔しません。聖書は「元気のもと」です。
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