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メ ッ セ ー ジ ・ 証 し 集


イエス・キリストのからだ
   
2006.1.17(火)
ベック兄メッセージ(メモ)

 
ローマ人への手紙 12章1節から5節
 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。

コリント人への手紙・第一 12章12節から27節

 ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。たとい、耳が、「私は目ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょうか。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うことはできないし、 頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うこともできません。それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。


先週は、『主なる神の永遠からのご予定』について、いっしょに考えてまいりました。もちろん永遠とは何であるか全くわかりません。想像できません。主は永遠の昔から何を
お考えになっていらっしゃったのでしょうか。私たちは、おもに二つの個所をいっしょに学んでまいりました。その二つの個所を通して、主のご予定とは何であるかがはっきり示されています。
初めの箇所は、
ローマ人への手紙 8章29節

 神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子の姿に似た者にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。

神がこのことについてお考えになったときには、もちろん罪という問題は存在していなかったのです。人間もまだひとりも存在していませんでした。おいでになられていたのは、初めのない終わりもない主イエス様だけでした。

次にもう一箇所、
ヘブル人への手紙 2章10節

 神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。

この個所を読むと、父なる神のご予定は、罪という問題によっても変わることはなく、主イエス様は救いの創始者であられるのです。

主が多くの兄弟たちの中で長子となられること。また、多くの子たちを栄光に導くことこそ、主のもっておられたご目的そのものなのです。
父なる神は、御子なる主イエス様だけでなく、多くの子らをご自分のものになさりたかったのです。またイエス様が長子となられることが、永遠からのご目的です。そして主なる神は多くの子らを得たいと思っておられましたが、それは、あの子、この子と個々別々の子どもを欲っしておられたのではありません。ひとり子であられる主イエス様のために、ひとりの花嫁を望んでおられたのです。
イエス様の花嫁とは、すなわちまことの教会です。主の恵みによって救われたすべての
人々はまことの教会であり、イエス様の花嫁なのです。

では先週と同じように、主のご目的についてもう少し考えたいと思います。
今、司会の兄弟のお読みになりましたローマ書12章の中には、「花嫁」ということばは出て来ませんが、神の同じご目的について書き記されています。すなわちイエス様のからだなる教会について述べられています。ですから今日のテーマ、「『イエス・キリストのからだ』、イエス・キリストのからだなる教会」について考えることにしましょう。

二つに分けて考えましょう。
1.みことばを通して示される事実について
2.人生を通して示される現実について

イエス様のからだの実際的な面について考えると、それは兄弟姉妹の共なる生活の必要性です。共にする生活とは、信じる者お互いが喜びと悲しみをともにする生活を言います。
また、同じ目的を目指す生活を言います。信じる者の群れは、お互いの霊的成長の場所、証しの場所、共に戦う場所、また共に満たされる場所です。
主のご目的はこのような共なる生活です。それによってのみ、私たちはかしらなるイエス様のからだとして用いられるのです。

1.みことばを通して示されている事実は、
まず、聖霊の宿によって私たちは主イエス様とひとつにされているという事実。
次に、同じ聖霊を宿している者は、お互いの一致をもっているという事実です。

もう一度、ローマ書12章を開きましょう。本当に大切な個所です。
ローマ人への手紙 12章1節から5節

 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。

このローマ書12章について考える前に、今まで学んで来た前の章のことを思い出してみましょう。
・1章から8章までは、一つにまとめて考えることができます。
・9章、10章は、たとえを語っており、ローマ書全体から見ると括弧にくくって考えてよいところです。
・5章では、罪の赦しの事実です。
・6章では、キリストとともに死に、よみがえったことの事実について書かれています。
・7章では、キリスト者は自らは何もできない者であり、イエス様がすべてであられるという事実。
・8章では、神の御霊に導かれるという事実。
これらのことが述べられています。

この8章までの結果が、今日取り上げた12章で述べられているのです。
12章に入ってその初めに、パウロは、信じる者は全てを主にささげてこそ、主に喜ば
れる者となると献身を勧めています。
ローマ人への手紙 12章1節

 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

続いて12章の5節になると、パウロはイエス様のからだについて述べています。
5節

 大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。

ローマ書の最後の16章25節、26節を見ると、このイエス様のからだとは父なる神による奥義であって、長く世々にわたって隠されていたが、今の世にあって明らかにされたと記されています。イエス様はこの奥義を私たちに現わされ、示すためにこの世においでになったお方なのです。
また、更に、
コリント人への手紙・第一 12章26節、27節

 もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。

次に挙げる問題は大切な問題ではないかと思うのです。すなわち、
・イエス様が考えておられる救いと、私たちが考えている救いの間には、違いがないでしょうか。
・私たちの十字架に対する考えと、イエス様の十字架に対するお考えとの間には、違いがないでしょうか。
・私たちの御霊に対する考えと、イエス様の御霊に対するお考えとの間には、違いがないでしょうか。

なるほど、私たちは十字架の大切さを知っていますし、いつも十字架のみわざに感謝をささげています。けれど私たちは、十字架そのものは、イエス様があるご目的を達成されるために設けられたひとつの手段にすぎないということを知っているでしょうか。

このイエス様のご目的とは、イエス様のからだです。これに至る道が「十字架」です。もし、私たちが本当に「十字架」を自分のものとして体験するなら、イエス様のからだが何であるかを知るようになります。

私たちは罪を赦され、救われ、主の前に義とされ、罪の支配から解放されたことを喜ん
でいます。私たちがいただいているこのような喜びを、失われゆく多くの人々の魂もその喜びをいただくように救いにあずかるということは、本当に大切なことです。
けれど、救いをいただくだけでは十分ではありません。私たちは前進しなければなりません。主なる神が願っておられることは、滅びゆくたましいが救いにあずかることばかりではありません。救われた人々が勝利の生活を送り、イエス様のからだに加えられることを主は心から願っておられます。

私たちがイエス様のからだに加えられることがどんなに大切なことか、私たちは知っているのでしょうか。イエス様のからだについて、すなわちまことの教会について語ることは簡単ですが、実際にそれを見ることは、また別の問題です。
例えばドイツのベルリンの町の地図を見て研究することと、実際にベルリンの町を見る
ことは違うのではないでしょうか。料理の本を勉強することと、実際に料理をすることの間には、やはり違いがあります。イエス様のからだに対する教理を研究して、知るだけで
は決して十分ではありません。実際にそれを見なければなりません。

一般的に私たちが信者と言いますと、イエス様に救われたひとりひとりの人を考えます。
また救いとは罪の赦しだけだと考えています。聖めやイエス様のからだがそれに含まれる
ことはあまり考えないのではないでしょうか。そして私たちは、もし私たちの群れの信者
が熱心に聖書を読み、祈りに燃えているなら、それで満足するかもしれませんが、それはイエス様のからだのあり方ではありません。
私たちの救い、聖め、御霊の力、日々の十字架、これらはみなイエス様のからだに至る
道であることなのだと知るならば、本当に幸いと思います。

主のご目的は、一人のお方すなわちイエス様と、このイエス様と一つにされた兄弟姉妹
です。だれかが救われますと、初めその人は救いを自分一人のものとして、自己中心に考
えますが、やがてはイエス様のからだにまで考え及ぶようになります。このイエス様のからだに至るための手段は、今話しましたように十字架です。
私たちがイエス様のみからだの一つの部分であるとしたら幸いです。イエス様、主なる神は、一つにされた兄弟姉妹を考えておられます。かしらなるイエス様と溶け合った兄弟姉妹を見ておられます。
「まことの教会はイエス様のからだである」と、手紙を見ると何度も書き記されています。まことの教会はからだのようなものだとは聖書に書かれていません。事実、「イエス様のからだの一部である」と書かれています。

私たちは、本当にイエス様と一つにされたことを知っているのでしょうか。イエス様と一つにされたということと、実際にそうされたのだということを深く知っているのでしょうか。次のように書かれています。
コリント人への手紙・第一 10章17節

 パンは一つですから、私たちは、多数であっても、一つのからだです。それは、みなの者がともに一つのパンを食べるからです。

日曜日ごとに、私たちは裂かれたパンを食べます。裂かれたそのパンをあとでもう一度
もとへ集め直すとすれば、もとの一つのパンになります。決して二つのパンにはなりません。イエス様のからだも、これと全く同じです。生まれ変わった兄弟姉妹は、イエス様の霊を内に宿し、イエス様の一部分となったのです。生まれ変わった兄弟姉妹の中には、イエス様が聖霊によって住んでおられます。
イエス様はパンのように裂かれたお方ではありません。ですから、イエス様とすべての救われた兄弟姉妹は全く一つです。御霊を宿している兄弟姉妹は一つであって分けることができないということは、動かすことのできない事実です。これを実際に信仰によって自分のものとする度合いにしたがって、主のからだのご栄光を経験することが出来ます。

この場合も、私たちの信仰にしたがって、この奥義が開き示されてきます。イエス様は、「あなたの信じたとおりになる」と。今日も御声を掛けておいでになります。主は、「もし信じるなら神の栄光を見る」と約束しておいでになるのです。

イエス様は、ひとりひとりのバラバラな兄弟姉妹に満足しておられません。私たちが心
から主イエス様を信じるなら、そのとき御霊は私たちの心の中に宿られるようになります。そのとき、私たちはキリストのからだになることができます。そしてこのからだに対して主はみこころの全部を傾けてくださいます。

このイエス様のからだの実際的な面をちょっと見てみたいと思います。
まず、私たちは心の目を開いて、イエス様は何を願っておられるか、主のみこころを知
らなければなりません。
私たちはただ自分自身のために、霊的な経験を得ようと努めているのでしょうか、また、未だ主を信じていない人々を私たちの群れに加えるために、努めているのでしょうか。
私たちはいろいろな伝道をしますが、そのとき滅びゆくたましいが天国へ行くようにとそれだけを考えているのでしょうか。それとも、イエス様のからだが満たされ、完全になることも願っているでしょうか。
もしイエス様のからだが満たされるという願いをもつなら、私たちの物を見る目がいろ
いろな面で開かれてきます。イエス様のからだの教えそのものは、そんなに大切ではありません。例えば、ローマカトリック教会でさえこの教えをもっています。からだは一つだから教会も一つであると教えます。しかしカトリック教会は、聖書と違ったかしらをもっています。かしらはローマにいます。

聖書で語られている、私たちの兄弟姉妹のまことのかしらは天にいます主イエス様です。
イエス様のからだについての教えを説いて、その教えのように教会を作ろうと思ってもできません。それを実際に心の目で見なければなりません。

まことの教会がご自分のためにどんなに価値があるかをイエス様が私たちに教えてくださるとき、そこに何が起こるのでしょうか。その結果は、ひとつの新しい知識を加えた
というだけで終わりません。必ずこの人のうちに何かの革命が起こります。いろいろなこ
とが変えられてきます。

人々はどのようにして主イエス様のからだになることができるでしょうか。
あれこれしようとする結果ではありません。ただ、イエス様を心の内にお受けすることによって、主イエス様のからだとなることができるのです。私たちがどのような者であるか、全く関係ありません。イエス様が私たちのうちに住んでおられるか、おられないかが事を定めます。天から下って来られたいのちのパンであるイエス様をお受け入れしたので、あなたはキリストのからだとなっています。イエス様のからだは、取りも直さずイエス様です。

もう一度、コリント第一の手紙を見てみましょう。
コリント人への手紙・第一 12章12節から13節

 ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。

確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。
パウロはここで何を言いたかったのでしょうか。パウロは、イエス様とキリスト者は分
けられるものではなく、全く一つであるということを言いたかったのです。

主イエス様はかしらです。そしてからだである兄弟姉妹のうちには同じ永遠のいのちが宿っていますから、からだも主イエス様です。
イエス様のからだになるためには内住の御霊によることだけにあるのです。それ以外のものは主に属しません。むしろ、まことの教会の妨げとなるばかりです。
もしイエス様のからだとなるなら、おのれにつけるものは全て除かれなければなりませ
ん。このために十字架が必要です。十字架は、自分の考えや自分につけるもの全てが除かれるため、主がお用いになる手段です。

ある人々は賢く、神のことをよく理解し、主に熱心にご奉仕します。しかし場合によっては、教育のない田舎のおばあちゃんのほうが、教育を受けた人々よりよほど主イエス様ご自身をよく知っている、ということも見受けられます。これは、生まれつきの知恵ではイエス様のことを知ることができず、主なる神の知識を受ける分だけしか与えられないのです。主に対するご奉仕も、上からの力を着なければできないということを私たちに教えてくださいます。
私たちの自らの力が砕かれ、自らの能力に絶望しなければ、まことの奉仕はできません。
「イエス様。どうかこの時代におけるご自身のみこころを教えてください」と、へりくだってエペソ書を読むなら、イエス様はご自分のからだを私たちに示してくださるに違いありません。

まことの教会は、主ご自身のご目的です。私たちの中から出るものは、全て抹殺されなければならなりません。十字架によって自らにまとわりついている主に反するものは、全てきよめられなければならなりません。そして、日々十字架に磔殺(たくさつ *磔にして殺すことの意)され、きよめられ続けなければなりません。私たちは、自分の力で主にあずかることはできません。私たちのうちに十字架が負わされなければなりません。困難や苦しみを通されなければならないのです

私たちは、主のものになってからもなお、主から出たもの以外の習慣をもち続けていることがあります。やがて、それは主のみこころにかなわないことを上から教えられ、その習慣から離れなければならないときがやって来ます。それは苦痛を伴いますが、そのようにしてイエス様のからだが建て上げられていくのです。自分勝手な道を歩んでいくところに、キリストのからだは建て上げられていきません。私たちは、主のからだとして、自ら欲っすることを行なうことができません。
例えば、指を動かすとき筋肉もいっしょに動きます。筋肉だけそのままでいたいと思ってもできません。主のからだも、かしらである主イエス様に従わなければならないのです。
私たち全部が、私たちは主のからだであり、自らの力で思いのまま一歩たりとも歩むことのできない者であることを知るようになるなら、本当に幸いです。
あらゆる個人的なものは捨て去らなければなりません。かしらとほかの肢体から離れて、
自らの道を歩むことはできません。

私たちが霊的に前へ進むためには、ひとりでは歩めません。どうしてもほかの兄弟姉妹といっしょに生活することが必要です。私たちはほかの兄弟姉妹とともに主にゆだねていかなければなりません。ひとりでは主の欲っし給うように主に仕えることはできないのです。この共なる生活の訓練をするために、主は私たちにいろいろな悩みや苦しみを、困難を通して導いてくださるのです。

私たちはイエス様を必要とすればするほど、主にある兄弟姉妹との交わりを必要とします。なぜなら、イエス様のいのちは教会全体に、すなわち主イエス様のからだ全体に沁み込んでいるからであり、私たちに与えられた賜物はすべてイエス様のからだを建て上げるために与えられるからです。

イエス様のからだは、生まれつきの性質と全く反対のものです。イエス様のからだは、
聖さと兄弟姉妹に対する全き信頼のうちにだけ建て上げられていくものであり、生まれつきの性質は罪のうちにあり、主にある兄弟姉妹を心から信頼できないという性質をもっています。罪の赦しと生まれつきの性質からの解放に心を留めているのではなく、さらに進んで主のからだにも心の目を開いていきたいものです。

多くの兄弟姉妹は、自分が自分のために多くの実を結ぼうと、聖められることを願って
いますが、イエス様のからだのために実を結ぶことを考えません。十字架は、自らの道を選び取ることに死んで、ひとりぼっちの信者になったのではなく、イエス様のからだに加えられたのだということを知るべきであると私たちに教えています。
もしこれを知るならば、私たちはほかの信者との交わりがどんなに大切であり、尊いも
のであるかがわかるようになります。そのとき、ねたみはなくなり、おのれを高めること
は消え去り、自らのために働くものもなくなるのです。自分の願い、自分の目的はどこか
へ行き、ただイエス様のからだを建て上げることが唯一の願いとなるに違いありません。

私たちは多くあってもキリストのからだであることを、深く悟りたいものです。これは
御霊だけが教えてくださることです。御霊によりこれを教えられるとき、私たちの生活は
いろいろな面で変えられます。これらのことを知り考えていくなら、教会の支配という問題も自然に解かれていきます。
ある人間的な支配は、主の御座にいます主のみこころに逆らって立ちます。人間的な支配が行なわれるとき、イエス様は教会のかしらではなく、ひとりの人間が教会のかしらになってしまいます。そうなると、教会は神の宮ではなくなり、ひとつの宗教に陥ってしまいます。
まことの教会の中でだれが支配者であるか、人間か、主のみか、この問題はいつもあります。

旧約聖書の中でその例を見ることができます。
ダビデの場合がそうです。イスラエルの民は、新約聖書のキリスト者の群れと同じように主に選ばれた人々でした。そして新約聖書で、イエス様が油注がれ、全く御霊に満たされたのと同じように、ダビデは主の選民イスラエルの指導者、王として、主によって御霊に満たされました。けれど、ダビデがまことの指導者となるまでには大変な戦いがありました。初めに、ダビデは外敵ゴリアテと戦わなければなりませんでした。(ゴリアテはこの世の未信者を意味します。)次にダビデは内敵と戦わなければならなかったのです。すなわちサウルとの戦いです。
サウルは初め、ダビデとともに外敵ペリシテ人たちに対して力を合わせて戦ったのですが、のちにダビデをねたみ、信仰を同じくする者でありながら、ダビデと戦うようになりました。ダビデを除こうとしたのです。(サウルとは、あらゆる組織や制度を象徴しているのです。)サウルは、イスラエル人の中で一番背が高く、また学識にも秀でていましたが、主のみこころに逆らっていました。しかし、ゴリアテがダビデの手によって打ち倒されたので、サウルの本当の支配力は無くなってしまったのです。

主イエス様は、今日、教会の全き支配者となられることを願っておられます。そのためにまずこの世を表わすゴリアテを打ち殺さなければなりません。この世から全く分離されなければなりません。
私たちの戦いは、人間の血肉に対する戦いではなく、天上にいる諸々の悪霊に対する戦いです。この目に見える霊の力に打ち勝つとき、主の力が私たちの前にさやかに現われて来るのです。父なる神はイエス様とそのからだが、ともに支配されることを願っておいでになります。

もし私たちがこのローマ書5章から8章を確実に体験するなら、主は私たちを12章に導いてくださり、私たちは主イエス様のからだについてよく知るようになります。
十字架は、右に曲がり左に曲がることなく、私たちを真っ直ぐ主イエスのからだにまで導きます。ここに至るとき、今までかつて経験したことのないことが私たちのうちに起こるはずです。
多くの兄弟姉妹は、イエス様のために私は全部ささげ十字架のまことの意味を知った、イエス様と一つにされイエス様と一つのからだであることもわかった、と言いますが、その人のうちに何も起こりません。これは心の目で本当にイエス様のからだが何であるかを見ていない証拠ではないでしょうか。

イエス様が私たちの心の目を開いてくださり、霊的に見えるようにしてくださったら、本当に幸いです。そのとき、今まで起こったあらゆる苦しみ、誤解、悩み、それらのものは主のからだが何であるかを知るために必要であったということがわかります。あらゆる困難を通して、私たちは有能な用いられる主イエス様のからだの一部となることができるのです。自らの中には何も良いものがない、何も価値のない者だということを知るとき、イエス様に用いられる肢体となるのです。

主のみこころは、エペソ書の5章27節にはっきりとまとめて書かれています。
エペソ人への手紙 5章27節

 ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。

とあります。
「しみがない」ということは、全ての罪がかき消され、その痕もとどめていないという
ことです。「しわがない」ということは、しわは年寄りのしるしですから、過去のあらゆる失敗思い煩いが今はすっかり無くなっているということを意味します。そのたぐいのものがないとは、悪魔や悪霊や人に足をさらわれるようなことが全く取り去られてしまっているということを意味します。

私たちが今生きている末の世はまもなく終わってしまうでしょう。悪魔の力はいよいよ
強くなり、あらわになってきます。私たちの戦いは天上にいる諸々の悪霊に対する戦いで
あると、パウロはエペソ書6章に書いたのです。
エペソ人への手紙 6章12節

 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです

私たちは悪霊に打ち勝つために、悪霊を打ち負かすために立てられています。これに勝
利を収めるにはひとりの力ではどうすることもできません。何をしてもダメ。だからこそ
いっしょになって、いっしょに戦うことが必要なのです。よみの力は主イエス様の教会やイエス様のからだに打ち勝つことはできない、とイエス様は約束してくださいました。
マタイの福音書 16章18節後半

 わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。

「あなたたち人間にはできないから、わたしはわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てない」と書かれています。

私たちは、自分でひとりの信仰生活をするのではなく、ともに交わりのうちに戦っていくなら、パウロが言うように、私たちはこれら全てのことにおいて勝ち得て余りあると勝利の叫びを上げることができるのです。

最後にもう一度、エペソ書に戻りまして、二、三箇所読んで終わりたいと思います。
エペソ人への手紙 1章22節

 また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

すばらしい個所です。
2章19節から22節

 こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。

4章12節から16節

 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。

主が願っておいでになることを私たちも願うようになるなら、必ず祝福されます。



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メッセージ・証し集インデックスページ

◆メッセージ(ベック兄)

※一部、テープの転換による不明部分あり

神のみことばは神のみことばである(5) 2006. 4. 18
神のみことばは神のみことばである(4) 2006. 4. 11
神のみことばは神のみことばである(3) 2006. 4. 4
神のみことばは神のみことばである(2) 2006. 3. 21
家族の救い 2006. 3. 19
神のみことばは神のみことばである(1) 2006. 3. 14
主イエスは神の子キリストである(4) 2006. 3. 7
主イエスは神の子キリストである(3) 2006. 2. 28
主イエスは神の子キリストである(2) 2006. 2. 14
主イエスは神の子キリストである(1) 2006. 2. 7
勝利の生活の秘訣 2006. 1. 24
イエス・キリストのからだ 2006. 1. 17
主の永遠からの予定 2006. 1. 10
元旦メッセージ 2006. 1. 1


2005年度のメッセージ集
2004年度のメッセージ集
2003年度のメッセージ集