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メ ッ セ ー ジ ・ 証 し 集


主イエスは神の子キリストである(1)
   
2006.2.7(火)
ベック兄メッセージ(メモ)

 
ヨハネの手紙・第一 5章9節から13節
 もし、私たちが人間のあかしを受け入れるなら、神のあかしはそれにまさるものです。御子についてあかしされたことが神のあかしだからです。神の御子を信じる者は、このあかしを自分の心の中に持っています。神を信じない者は、神を偽り者とするのです。神が御子についてあかしされたことを信じないからです。そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。

ヨハネの手紙・第一 5章20節

 しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。


今読んでくださいました箇所は、よく知られている箇所です。おもに20節は、本当に素晴らしい箇所です。
世の中には、儲けるための宗教団体があります。エホバの証人です。彼らはいつも、「イエス・キリストは神ではない。神ではない。神の御子に過ぎない」と言い続けているのですが、今の20節の中ではっきり、「イエス・キリストは神の御子だけではなく、神である」と書かれていますから矛盾を生じるのです。そのため自分たちの聖書を作り出したのです。昔、彼らは文語体の聖書を使っていました。文語体の聖書は今の聖書よりも正しく訳されたものだと思いますが、現代の方々には理解が困難であるため、新しい訳が必要になったのです。エホバの証人はずっと文語体だけを使っていたのですが、結局自分の教えと違うものであるため、別の聖書を作らなくてはならなくなったのです。

では、イエス・キリストとはどなたなのでしょうか。これこそが最も大切な質問の一つ
ではないでしょうか。
福音書の中で、例えば、「…するといっしょに食卓にいた人たちが心の中でこう言い始めた。『罪を赦したりするこの人はいったいだれだろう。このキリストとはいったいだれであろう』」。よく知られているマルコ伝6章の中で、「この人は」、「この人は」、「この人は」と何度も出てきます。6章の1節からちょっと読みましょう。
マルコの福音書 6章1節から3節

 イエスはそこを去って、郷里に行かれた。弟子たちもついて行った。安息日になったとき、会堂で教え始められた。それを聞いた多くの人々は驚いて言った。「この人は、こういうことをどこから得たのでしょう。この人に与えられた知恵や、この人の手で行なわれるこのような力あるわざは、いったい何でしょう。この人は大工ではありませんか。マリヤの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではありませんか。その妹たちも、私たちとここに住んでいるではありませんか。」こうして彼らはイエスにつまずいた。

心から主に従おうとしませんでしたし、正直になろうとしなかったからです。
マルコの福音書 6章4節から6節

 イエスは彼らに言われた。「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。」それで、そこでは何一つ力あるわざを行なうことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった。イエスは彼らの不信仰に驚かれた。それからイエスは、近くの村々を教えて回られた。

「この人」とは、いったいどなたなのでしょうか。言うまでもなく、イエス・キリストご自身であられ、「キリスト教」という宗教を作ったお方ではありません。まことの主イエス様は、宗教と全く関係のないお方です。このイエス様を信じることこそが、最も大切なのです。

ある知恵遅れの子どもが、同級生たちにいじめられ大いに悩んでいました。あの子は何もできない、全く役に立たない者だとみなに思われました。知恵遅れだったので、みんなからのけ者にされ、話し相手にされず、クラスの中で完全に無視されたのです。けれど、ある時クラスの中のみんなが自分の考えていることについて話すように、と先生に勧められました。子どもたちは気持ちよくいろいろなことについて喋ったのですが、その知恵遅れの子どもの番になったとき、ほかの子どもは、「無理だよ。あの子は何もできない」と言ったのです。けれど先生は、「みんな静かにして。もしかすると一言言えるかもしれませんから」と。みな静かになりました。知恵遅れの子は、なかなか話すことができなさそうにみえましたが、話し始めました。何分間もかかって一言だけ言えたのです。
その子どもの心の中には、知恵遅れの者として生まれたのに、自分の運命を訴えようとする気持ちがなく、自分をずっと無視した同級生に対する不平不満もなかったのです。子どものゆっくりゆっくり話した一言は、「私はイエス様が大好き。イエス様も私を大好き」。それを聞いた同級生たちは、びっくりして泣きながら、「悪かった。悪かった」と言って、知恵遅れの子のところへ行って握手をしたのです。その知恵遅れの子は、イエス様を信じるようになったので、やはり嬉しかったのでしょう。
「私はイエス様大好き。イエス様も私を大好き」と言える人は幸せではないでしょうか。

今日から二、三回に亘って、「主イエスは神の子キリストである」という題名について、一緒に考えてみたいと思います。
みなさんもご存知のように、聖書は私たちに理論や教えを伝えようとしているのではあ
りません。事実を伝えようとしています。そして、私たちは、この聖書の事実をただ頭の中に蓄えている知識として知るだけでは役に立たないのです。生活の中にどうしてもその知識が生かされていかなければなりません。それほどに体験的に知らなければならないのです。このように生活の中に生きて働く知識を、私たちは必要としています。
この知識は、頭の知識とは遠くかけ離れた知識であって、私たちの人格から切り離して
考えることのできないほど深い知識です。私たちは今、末の世の暗黒の時代に生きていますが、私たちが日々を生活するには、岩のように堅い、しっかりとした土台が必要です。この土台は、先ほど申しましたように、この生活の中に沁み込んだ知識、聖書に書かれている神の永遠に変わらない知識でなければならないのです。

人間には多くの悩みや苦しみがありますが、それに対する主なる神の備えは、ご自身の
ひとり子であられる主イエス様です。私たちはいろいろな願いを持っていますが、主がそ
れに応えられるとき、イエス様を私たちにお示しになります。そのほかのどのような方法もお取りになりません。

聖書は、一つの定まった目的をもって書かれたものです。
1.聖書はイエス様の神性を述べています。
2.聖書は人に永遠のいのちの確信を与えます。
3.聖書は人にまことの希望を与えます。
ヨハネ伝に、次のように書かれています。
ヨハネの福音書 20章31節

 しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。

もちろん、この「いのち」とは永遠のいのちであり、主イエス様ご自身です。聖書を読むと、イエス様は、人間的な外形をとった神の御子であられたことがよくわかるはずです。
おもにヨハネ伝の中で、何度も同じことが書かれています。「イエスは神の子キリストである」。例えば、
ヨハネの福音書 1章1節

 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

続いて読むとわかります。この「ことば」とは、神の話すことばでもなく、人間の話すことばでもなく、イエス様ご自身です。

ヨハネの福音書 17章5節

「今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。」

 
パウロは、また次のように書いたのです。よく引用される箇所です。
コロサイ人への手紙 1章16節、17節
 なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。

世が造られる前に、万物よりも先に、イエス様は父なる神のみそばで栄光をお持ちにな
られたということを、聖書ははっきり語っています。
ヘブル人への手紙の1章にも、同じようなことが書いてあります。
へブル人への手紙 1章2節、3節

 この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。

私たちは、このイエス様の偉大さについていくら考えても、想像できませんし、つかめませんし、説明することもできません。
パウロは、ピリピ人への手紙の中で、この主についてまた次のように書いたのです。
ピリピ人への手紙 2章6節、7節

 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。

いつ、主なる神は、御子を万物の相続者と定められたのでしょうか。これは世が造られ
る前でした。そのあとで生きておられる主なる神は、御子主イエス様によって全てをお造
りになったと聖書は語っています。
ヨハネの福音書 1章3節

 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

とあります。何という素晴らしい主でありましょう。私たちの主イエス様は。
一切のものは御子によって造られ、御子のために造られたのです。創造はイエス様なしに無意味です。

多くの人たちは、「これはよく考えた理論でしかない。だれがこのような理論を証明する
ことができるのか」などと言うのですが、主イエス様を信じ、イエス様を愛する者たちこそ、証明そのものではないでしょうか。
私たちはイエス様を信じる以前は、人間の生きる目的とは何か全く知らなかったのです。けれど、今私たちの生活は無意味ではありません。
イエス様は、万物よりも先に、父なる神のみそばで栄光をもっておられました。
イエス様は、父の栄光の輝きであり、父なる神の本質の真の姿です。
永遠から永遠に亘るイエス様は、神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿です。
即ち、イエス様は生ける神の御子です。それは永遠の事実です。

イエス様の神性について、いくつかの証しと、しるしを考えてみたいと思います。
おもに七つの証しがあります。
1.生ける神ご自身、父なる神ご自身が、イエス様の神性について証しされます。
ヨハネ伝の5章を読むと、次のように書かれています。
ヨハネの福音書 5章37節

「また、わたしを遣わした父ご自身がわたしについて証言しておられます。あなたがたは、まだ一度もその御声を聞いたこともなく、御姿を見たこともありません。」

ヨハネの福音書 8章18節

「わたしが自分の証人であり、また、わたしを遣わした父が、わたしについてあかしされます。」

マタイ伝の3章を読むと、その父の御声について書き記されています。
マタイの福音書 3章16節、17節

 こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」

これは父の証しです。「これは、わたしの愛する子」と。
似ている箇所は、17章に出てきます。
マタイの福音書 17章5節、6節

 彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」という声がした。弟子たちは、この声を聞くと、ひれ伏して非常にこわがった。

とあります。もう一箇所、ヨハネ第一の手紙に戻りまして、
ヨハネの手紙・第一 5章9節

 もし、私たちが人間のあかしを受け入れるなら、神のあかしはそれにまさるものです。御子についてあかしされたことが神のあかしだからです。

父なる神ご自身が、何度も、「この主イエスは、わたしの愛する子である」と言われたのです。

2.イエス様ご自身が証ししてくださったのです。
ルカ伝の22章を見ると、次のように書かれています。
ルカの福音書 22章69節、70節

「しかし今から後、人の子は、神の大能の右の座に着きます。」彼らはみなで言った。「ではあなたは神の子ですか。」すると、イエスは彼らに「あなたがたの言うとおり、わたしはそれです。」と言われた。

ヨハネ伝10章に、一文章だけですけれど、
ヨハネの福音書 10章30節

「わたしと父とは一つです。」

エホバの証人は、「イエス・キリストは神の子にすぎない。『神』ではない」と。けれど、
わかるでしょう。人間の子は人間でしょう。猫の子は猫です。神の子は神です。(笑)

今ヨーロッパは、混乱の中にあるのです。ニュースを見るとわかるでしょう。イランとデンマークはもう関係を持ちたくない云々と。全く混乱しています。結局、イスラム教徒たちは何と言っているかと言いますと、「神は子どもをもっていない。イエス・キリストは神の御子ではない」と。もちろん現代の考え方の違いだけではありません。まさに、宗教戦争です。ヨーロッパは全く駄目ですから。その状態を主は全部許しておいでになるのです。ヨーロッパで、イエス様は本当に神の子であると確信をもって証しする人は少ないのです。ですから、このようになってしまったのです。
反キリストは、まもなく現われるでしょう。今の混乱の世界を一つにすることができるのは、反キリスト以外にはありません。今の政治家たちはみな駄目です。結局、宗教を全部一つにしないと平安になり得ないのだと思っているのです。確かにこれは反キリストにしかできないでしょう。けれども、その前にイエス様は迎えに来られますから、私たちは期待を持って毎日待ちましょう。

イエス・キリストは、本当に父と一つであると書かれています。
ヨハネの福音書 10章37節、38節

「もしわたしが、わたしの父のみわざを行なっていないのなら、わたしを信じないでいなさい。しかし、もし行なっているなら、たといわたしの言うことが信じられなくても、わざを信用しなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしが父にいることを、あなたがたが悟り、また知るためです。」

ヨハネの福音書 12章45節

「また、わたしを見る者は、わたしを遣わした方を見るのです。」

ヨハネの福音書 14章7節から10節

「あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」ピリポはイエスに言った。「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください。』と言うのですか。わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。」

ヨハネの福音書 16章5節

「しかし今わたしは、わたしを遣わした方のもとに行こうとしています。しかし、あなたがたのうちには、ひとりとして、どこに行くのですかと尋ねる者がありません。」

イエス様は何度も、「生ける唯一のまことの神はわたしの父である」と。
父なる神は、イエス様を指して「これは、わたしの愛する子である」と言われたのです。

3.三番目の証しは、バプテスマのヨハネの証しです。
同じくヨハネ伝1章です。次のように書かれています。
ヨハネの福音書 1章34節

「私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです。」

バプテスマのヨハネははっきりわかりました。「このイエスは、預言されまた旧約時代で約束された救い主であり、宗教家ではなく、人間の罪の問題を解決するために来られたお方であり、神の御子である」と。

4.四番目の証しは、イエス様のなされたわざが証しします。
ヨハネの福音書 5章36節

「しかし、わたしにはヨハネの証言よりもすぐれた証言があります。父がわたしに成し遂げさせようとしてお与えになったわざ、すなわちわたしが行なっているわざそのものが、わたしについて、父がわたしを遣わしたことを証言しているのです。」

とあります。

5.旧約聖書が証しします。
ヨハネの福音書 5章39節

「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。」

旧約聖書の中心になるのは、一つの律法や教えよりも、救い主なるイエス様についての預言です。

6.聖霊が証しします。
ヨハネの福音書 15章26節

「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。」

結局、父なる神は救いのご計画をなしてくださり、イエス様がこの救いを成就してくだ
さり、そしてこのイエス様の成し遂げられた救いを、人間個人個人のものにするために、
聖霊のお働きがどうしても必要なのです。「御霊がわたしについてあかしする」。

7.イエス様を信じる者が証しします。
同じくヨハネ伝15章です。
ヨハネの福音書 15章27節

「あなたがたもあかしするのです。初めからわたしといっしょにいたからです。」

今まで学んできたように、聖書ははっきり語っています。即ち、「イエス様こそが唯一のまことの神の子である」ということです。

けれども、主なる神の最大の敵である悪魔も、悪霊も、この事実を認めざるを得ません。
使徒行伝19章、今日は15節だけ読みます。本当は全部読んだらよいかもしれません。
使徒の働き 19章15節

 すると悪霊が答えて、「自分はイエスを知っているし、パウロもよく知っている。けれどおまえたちは何者だ。」と言った。

「我イエスを知る」と悪霊は告白したのです。
マタイの福音書 8章28節、29節

 それから、向こう岸のガダラ人の地にお着きになると、悪霊につかれた人がふたり墓から出て来て、イエスに出会った。彼らはひどく狂暴で、だれもその道を通れないほどであった。すると、見よ、彼らはわめいて言った。「神の子よ。いったい私たちに何をしようというのです。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来られたのですか。」

悪霊は、イエス様を「神の子」と呼んだのです。似ている箇所は沢山あります。例えば、
マルコの福音書 1章23節、24節

 すると、すぐにまた、その会堂に汚れた霊につかれた人がいて、叫んで言った。「ナザレの人イエス。いったい私たちに何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。」

ルカの福音書 4章41節

 また、悪霊どもも、「あなたこそ神の子です。」と大声で叫びながら、多くの人から出て行った。イエスは、悪霊どもをしかって、ものを言うのをお許しにならなかった。彼らはイエスがキリストであることを知っていたからである。

悪霊どもが、イエス様が神の子であり、神の聖者であり、油注がれたキリストであるこ
とを知っていることが、今読みました聖書の箇所で明らかです。

イエス様がこの地上に肉体の形をとり生きておられる間、悪霊どもは絶えずイエス様を
観察し続けていました。イエス様が御霊によって荒野に導かれ、悪魔によって試みられた
とき、悪霊もともにそこにいて、主イエス様がいかにそのときを過ごされたかを一部始終見ていたのです。そのとき、イエス様が石をパンに変えられなかったこと、また悪魔の前にイエス様は決して膝をかがめられなかったことを悪霊たちはみな見て、そして、これはいまだかつて我々の経験しなかったことだと言い合ったのです。
また、イエス様が変貌山で御姿を変えられたとき、そのまま罪無き者として栄光のうち
に入ることのできたお方にもかかわらず、自ら選んで喜びを捨て、十字架を背負われた、その事柄も、悪霊どもは全部見て知っていたことでしょう。悪霊どもは、絶えずイエス様を見守り、主の目的が達成されないようにとあらゆる画策を巡らしたことでしょう。

イエス様がゲッセマネの園で苦しい祈りを捧げられたとき、無数の悪霊どもがその場を
おおっていたに違いありません。聖書は、イエス様の苦しみの祈りの時を表現しています。
即ち、「暗黒の時」と言っています。この世の君なる悪魔は、ゲッセマネの園でイエス様
に対して最後の戦いとばかり戦いを挑みました。けれど、イエス様は自らの力では決して
行動されずに、「わが心ではなく、父よ。あなたのみこころをなしたまえ」と祈り続けられ
たのです。そのとき、悪霊どもは、仕方がなく退散せざるを得ませんでした。
加えて悪霊どもは、そののちにイエス様が十字架で叫ばれた「全てが終わった」というみことばを聞き、確かにイエスは全ての者に勝ち給うた勝利者なることを悟りました。

悪霊たちは、イエス様を非常によく知っています。「我イエスを知る。我イエスを知る」
と叫んだのではないでしょうか。「我は彼の神の子なること、油注がれたキリストなること、永遠なる神なることを知る」と悪霊は叫ばざるを得なかったのです。
悪霊は主イエスを知っています。主イエス様が生ける神の子であるということを知って
います。「私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です」。主イエスの一番の敵でさ
え、イエス様を、「神の子」、「神の聖者」と告白せざるを得ませんでした。

続いて、イエス様の神性に対するいくつかのしるしを見てみたいと思います。
1.イエス様の先在性について、ちょっと考えたいと思います。
ヨハネの福音書 1章30節

「私が『私のあとから来る人がある。その方は私にまさる方である。私より先におられたからだ。』と言ったのは、この方のことです。」

ヨハネの福音書 8章58節

 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」

アブラハムは、イエス様よりもおよそ二千年前に生まれた者でした。けれどイエス様は、
「アブラハムが生まれる前からわたしはいる」と言われたのです。
そして、イエス様のヨハネ伝17章に出てくる祈りの中で、イエス様はまた次のように告白されたのです。イエス様の先在性についての一箇所です。
ヨハネの福音書 17章5節

「今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。」

ヨハネの福音書 17章24節

「父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。」

2.イエス様の権威について、一箇所読みましょう。
マタイ伝の7章29節です。当時の国民の判断は正しかったのです。イエス様がご自身を現わされたとき、彼らはびっくりしたのです。「今までの聖書学者の話と、この主イエスの話では全く違う。逆ではないか」と。
マタイの福音書 7章29節

 というのは、イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。

とあります。
マルコの福音書 1章21節から28節

 それから、一行はカペナウムにはいった。そしてすぐに、イエスは安息日に会堂にはいって教えられた。人々は、その教えに驚いた。それはイエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。すると、すぐにまた、その会堂に汚れた霊につかれた人がいて、叫んで言った。「ナザレの人イエス。いったい私たちに何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。」イエスは彼をしかって、「黙れ。この人から出て行け。」と言われた。すると、その汚れた霊はその人をひきつけさせ、大声をあげて、その人から出て行った。人々はみな驚いて、互いに論じ合って言った。「これはどうだ。権威のある、新しい教えではないか。汚れた霊をさえ戒められる。すると従うのだ。」こうして、イエスの評判は、すぐに、ガリラヤ全地の至る所に広まった。

とあります。当時のパリサイ人、律法学者たち、聖書学者たちはみな、立派な学校教育を受けていました。彼らはみな聖書を勉強し、疑わずに信じたのです。彼らは、安息日ごとに聖書について話しました。彼らが聖書の中心なるお方を受け入れようとしなかったのは悲劇です。結局、イエス様とこの学者たちの間には、大変大きな差がありました。

マルコの福音書 1章22節

 人々は、その教えに驚いた。それはイエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。

とここに書いてあります。
マルコの福音書 1章27節

 人々はみな驚いて、互いに論じ合って言った。「これはどうだ。権威のある、新しい教えではないか。汚れた霊をさえ戒められる。すると従うのだ。」

イエス様の権威ある教えによって、人々は目覚めさせられたのです。パリサイ人たちは、
人間的な知恵による古い教えを持っていました。権威を持っていない者は、いつも人間の
知恵を必要とします。人間的な知恵は人を目覚めさせることはできません。それは覚せい剤ではなく、睡眠剤ではないでしょうか。

今まで、私たちはイエス様の先在性について、そしてイエス様の権威について考え、学んできました。三番目に、イエス様の先見について考えたいと思います。

3.イエス様は、何でも前もって知っておられるお方です。
ヨハネの福音書 6章64節

「しかし、あなたがたのうちには信じない者がいます。」― イエスは初めから、信じない者がだれであるか、裏切る者がだれであるかを、知っておられたのである。―

イエス様は、弟子たちを選ぶ前の夜、全く寝ないで夜通し祈られたのです。一つの戦いだったでしょう。父は、「あのユダを選びなさい。彼はあなたを裏切る者となる」。
イエス様は彼について、「彼は生まれなかったほうがよかった」と言われたのです。三
年半も、裏切る者と一緒に生活するのは考えられないことです。普通の人間にはできるものではありません。彼はいつもイエス様に向かって、「主よ。主よ」と言っていたのです。しかし心の中では、イエス様を主と一秒も思ったことがなかったのです。正直になり主に従おうとしなかったのはユダでした。イエス様ははっきりわかっておられたのです。「彼はわたしを裏切るようになる」と。
ヨハネの福音書 13章1節

 さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。

もう少し後で十字架につけられるイエス様は、はっきり知っておられたのです。
ヨハネの福音書 13章11節

 イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「みながきよいのではない。」と言われたのである。

ヨハネの福音書 18章4節

 イエスは自分の身に起ころうとするすべてのことを知っておられたので、出て来て、「だれを捜すのか。」と彼らに言われた。

イエス様は、全てのことを知っておられました。
ヨハネの福音書 19章28節

 この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言われた。

もちろんイエス様は、自分の苦しみも預言なさいました。ルカ伝から読んでみましょう。
ルカの福音書 9章22節

 そして言われた。「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらねばならないのです。」

殺されても、三日目に復活すると。
ルカの福音書 12章50節

「しかし、わたしには受けるバプテスマがあります。それが成し遂げられるまでは、どんなに苦しむことでしょう。」

ルカの福音書 22章37節

「あなたがたに言いますが、『彼は罪人たちの中に数えられた。』と書いてあるこのことが、わたしに必ず実現するのです。わたしにかかわることは実現します。」

ヨハネ伝に戻りまして3章、イエス様とニコデモという聖書学者の会話の中で、イエス様は次のように言われたのです。
ヨハネの福音書 3章14節から16節

「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちをもつためです。」神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

また、イエス様は自分が取り去られることをも知っておられ、預言されました。
ヨハネの福音書 7章33節

 そこでイエスは言われた。「まだしばらくの間、わたしはあなたがたといっしょにいて、それから、わたしを遣わした方のもとに行きます。」

ヨハネの福音書 14章28節

「『わたしは去って行き、また、あなたがたのところに来る。』とわたしが言ったのを、あなたがたは聞きました。あなたがたは、もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを喜ぶはずです。父はわたしよりも偉大な方だからです。」

ヨハネの福音書 17章11節

「わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。」

主イエス様は神の御子です。それは事実です。私たちがそれを信じようが信じまいが、
事実は事実です。たとえ私たちが、イエス様は神の御子であるという事実を信じなくても、
この事実は事実として残ります。
ただ、信じなければ、この事実が私たちにとって役に立たないだけです。結局、大切な
ことは、わかること、理解すること、説明することではなく、信じることです。しかし、
信仰は事実を現実としません。事実は現実です。けれども、信仰は私たちの経験によって
事実を現実とします。

主イエス様は、いったいどういうお方なのでしょうか。
イエス様は透き通った人格の持ち主でした。極みまでご真実な方であり、また偽善を知
らなかったからです。また、二心を持たなかったお方です。むこうへ行ってあのように言い、こっちに行って都合の良いことを言うといったお方では決してありませんでした。
イエス様は無心のお方でした。祈りのお方でした。勇気のお方でした。柔和にして心へりくだったお方でした。平和、平安、喜びのお方でした。
イエス様は、天の香りを身に漂わせておられたお方でした。地上に来ておられたときでさえ、イエス様は自ら、「わたしは天にいる」と。「天にあった」ではありません。「わたしは天にいる人の子である。わたしの国は天国である」と言われたのです。
イエス様は、地上のあらゆる悩みや欠乏の上におられたのです。四福音書を読んでみま
すと、イエス様はほかの人たちとは根本的に違っておられたことがわかります。イエス様の母親や弟子たちでさえ、イエス様を理解できないことが度々ありました。イエス様は、
人から少しも誉れを受けられなかったのです。
主イエス様は神の御子であられました。けれどもイエス様は叩かれ、鞭打たれ、つばきせられ、侮られました。もし、イエス様がそうしようと思われたなら、それらの人たちはイエス様の一言でこの地上から抹殺されたはずです。たちどころに滅んでしまったはずですが、イエス様は耐え忍んで全てを負われ、自ら悩むことをよしとされ、両手両足に釘打たれ、十字架の上で、「お前は人を救ったのに自分を救うことができないのか」と罵られたのです。もしそうしようと思われたなら、イエス様のために十二の天の軍団が控えていましたから、イエス様の一言でイエス様を救うためにやって来たことでしょうが、イエス様はそうなさいませんでした。
また、イエス様の勝利の望みについて考えると、イエス様は普通の人間ではなく、神の子であったということを認めざるを得ません。イエス様がこの地上で過ごされた最後の頃のことを思い浮かべてください。イエス様がそのご生涯を通してなされた奉仕は、目に見えた結果が表われたのでしょうか。決してそうではありません。全てが絶望的に見えました。全てが無駄であったかのように見えたのです。
イエス様は、父のみこころを成就されるために遣わされて、この世において否まれ、三十三年のご生涯を終えられました。そのご生涯の終わりのとき、全てがむなしく、本当に絶望的に見えたのです。
イエス様はエルサレムに向かい涙を流されたと聖書は語っています。イエス様は、救う
ために、癒すために、立ち上がらせるためにこの世に来られたのですが、人々はイエス様
を侮り、冷たくあしらいました。ご生涯の最後は十字架でした。十字架に架けられるとき、ご自分を取り巻く、愛していた弟子たちでさえみな逃げ去り、全くの孤独でした。けれど、そのようなイエス様であられましたが、なお且つあふれる望みに満ちておいでになられたのです。

後でヨハネ伝14章から17章を是非お読みになってください。この14章から17章を読むと、イエス様が将来を望み見て、限りなく深い平安と静けさをお持ちになっていたことがよくわかります。このヨハネ伝14章から17章までは、イエス様の別れのことばです。弟子たちはこのことばを聞いたとき、奇妙に思ったに違いありません。
 主イエスは、この別れのことばの中で弟子たちに、「今後わたしの名によって願い求める
ことはすべてかなえられる」と言われましたが、それまで願い求めたことがみな失敗に終
わっている弟子たちにとって、イエス様のことばは不思議に響いたに違いありません。
また、イエス様は後ほど御霊を送られ、あなたがたは多くの実を結ぶようになると弟子たちにお約束になられました。けれど、弟子たちはそのとき自らを顧みて、それは不可能なことであると考えたでしょう。
御霊の力によって望みに満ちあふれている。これこそが、主イエス様のお姿でした。

神の子として、イエス様は一つも罪を犯されなかったお方です。イエス様は罪の問題を解決してくださいました。死を克服してくださったお方である事実について考えると、本当に希望を持つようになり、安心して将来に向かうことができます。
このイエス様を紹介することは、素晴らしい特権ではないでしょうか。



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◆メッセージ(ベック兄)

※一部、テープの転換による不明部分あり

神のみことばは神のみことばである(5) 2006. 4. 18
神のみことばは神のみことばである(4) 2006. 4. 11
神のみことばは神のみことばである(3) 2006. 4. 4
神のみことばは神のみことばである(2) 2006. 3. 21
家族の救い 2006. 3. 19
神のみことばは神のみことばである(1) 2006. 3. 14
主イエスは神の子キリストである(4) 2006. 3. 7
主イエスは神の子キリストである(3) 2006. 2. 28
主イエスは神の子キリストである(2) 2006. 2. 14
主イエスは神の子キリストである(1) 2006. 2. 7
勝利の生活の秘訣 2006. 1. 24
イエス・キリストのからだ 2006. 1. 17
主の永遠からの予定 2006. 1. 10
元旦メッセージ 2006. 1. 1


2005年度のメッセージ集
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