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メ ッ セ ー ジ ・ 証 し 集


神のみことばは神のみことばである(3)
   
2006.4.4(火)
ベック兄メッセージ(メモ)

 
詩篇 119篇9節から16節
 どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです。私は心を尽くしてあなたを尋ね求めています。どうか私が、あなたの仰せから迷い出ないようにしてください。あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました。主よ。あなたは、ほむべき方。あなたのおきてを私に教えてください。私は、このくちびるで、あなたの御口の決めたことをことごとく語り告げます。私は、あなたのさとしの道を、どんな宝よりも、楽しんでいます。私は、あなたの戒めに思いを潜め、あなたの道に私の目を留めます。私は、あなたのおきてを喜びとし、あなたのことばを忘れません。

24節

 まことに、あなたのさとしは私の喜び、私の相談相手です。

67節

 苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、あなたのことばを守ります。

72節

 あなたの御口のおしえは、私にとって幾千の金銀にまさるものです。

92節 

 もしあなたのみおしえが私の喜びでなかったら、私は自分の悩みの中で滅んでいたでしょう。

105節 

 あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。

111節

 私は、あなたのさとしを永遠のゆずりとして受け継ぎました。これこそ、私の心の喜びです。

130節

 みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。

151節

 しかし、主よ。あなたは私に近くおられます。あなたの仰せはことごとくまことです。

162節

 私は、大きな獲物を見つけた者のように、あなたのみことばを喜びます。

165節

 あなたのみおしえを愛する者には豊かな平和があり、つまずきがありません。


今読んでくださった個所は、全部ダビデ王の告白です。すばらしい証しです。みことばはダビデにとって、すべてのすべてだったとはっきりわかります。このみことばを大切にしたダビデは、「主よ。私はあなたを慕います。あなたを愛します」と言うことができたのです。

先週、私はバンクーバーに行きました。吉祥寺に集まる兄弟姉妹のことをもちろん考えて祈りましたし、あなたがたの中の多くの方々も、バンクーバーに集まった人々のために祈ったに違いありません。
バンクーバーの集いは、何年間も若者の集いとして続いてきたよろこびの集いでした。今回、日本から六十人行きました。三十四人は若者でした。第二世代、いわゆるセカンドジェネレーションでした。親はもっと自分の子どもの救いのために祈るべきでないか、と思います。メッセンジャーがちょっと少なかったので、ちょうどよかったと思いました。ですから、若者たちに証ししてもらおうと思いました。十人の若い兄弟姉妹は、だいたいクリスチャンファミリーで生まれ、今までにバンクーバーに集ったことのある人々だったのです。ですから彼らに証ししてもらいました。

ある夜、個人的な交わりをすませ、集会所に入って一番後ろの列に座りました。隣りの姉妹は泣いていましたし、前に座っていた姉妹も泣きながら若者の証しを聞いていたので、いったいどういうことなのかと思い尋ねたのです。「どうして泣くの?」「何があったの?」。「いいえ。喜びの涙です」「若い兄弟姉妹があまり正直なので嬉しい」という答えでした。
証しした内容は、自分のみじめさ、罪の恐ろしさとみことばのすばらしさ、イエス様の
偉大さでした。結果として、まだ主に出会っていない十二人の若い男性、また十二人の若い女性たちもイエス様に祈るようになり、イエス様こそ生きておられる本物の神様だ、という確信が与えられるようになったのです。
彼らがバンクーバーではっきり新たにわかるようになったということは、聖書は信じたいと思う人にははっきりと語ってくださる、ということなのです。言うまでもなく、信じたくない人には聖書は語ってくれません。聖書に対して心を開いている人は聞くことができ、確信することができます。けれど、心を開いていない人には意味の無いものに終わってしまいます。

以前に何度も言いましたように、私たちが聖書を判断するのではなく、聖書が私たちを
判断すべきです。聖書の絶対無比の性質は、「霊感」ということばで表現されます。では、
霊感とはいったい何なのでしょうか。
先に読みました個所ですが、もう一度読みます。
テモテへの手紙・第二 3章16節前半

 聖書はすべて、神の霊感によるものです。

「聖書はすべて」です。部分的なものではありません。ここで、神の霊感と言われるものは、「神が吹き込んだ」という意味です。

もう一箇所。ペテロは聖書学者ではありませんでした。魚をとる漁師でした。けれど、彼は何を書いたのでしょうか。
ペテロの手紙・第二 1章21節

 預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。

聖書は、事実だけを宣べ伝えている書物です。「主なる神が語られた」と聖書が記していることは、事実として妥当なことなのです。それを私たち人間が認めようが認めまいが、事実は事実なのです。主なる神が語られたことは、もちろん主なる神の啓示そのものです。

この間、「神のみことばの絶対性」について考えました。主なる神ご自身が聖書の著者ですから、聖書は完全に統一を持った、絶対的な福音そのものです。千六百年かかって、いろいろな人々によって書かれた聖書の六十六巻は、モザイクの一つ一つの石のようにしっかりと結び付いて全体を構成しており、全体として統一された主なる神の啓示そのものです。

旧約聖書は、目に見えるイエス様の啓示の準備でした。新約聖書は、イエス様について以前に語られた全ての事がらを表わして、成就されたものとなっています。
聖書の中心は、一言で言いますと、ほふられた小羊である主イエス様です。ですから、
創世記から黙示録まで何回も、「小羊」という表現が出てきます。
よく知られている二箇所を読みます。
イザヤ書 53章4節から6節

 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。

「彼は罰せられ」、(もちろん、私たちの罪のために罰せられたのです。)父なる神は、私たちのすべての咎を、十字架につけられた主イエス様に負わせなさいました。
もう一箇所、
黙示録 5章12節

「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」

みことばの結果とは何でしょうか。つまり、主なる神のみことばは人間の罪の状態を明らかにします。みことばは真理ですから、剣のように人間の心を刺し通します。私たちは、みことばを通して燃えるような主の目に出会い、主が語られると私たちは沈黙しなければなりません。また、サマリヤの女のように次のように言わざるを得ないでしょう。「あの方は、私がしたこと全部を私に言った」(ヨハネ4:39)と。

ヨハネ伝12章の48節を読むと、イエス様は次のように言われました。
ヨハネの福音書 12章48節

「わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。」

それは、みことばに対する態度がいかに大切であるかを示すものではないでしょうか。即ち、みことばを受け入れ、イエス様のうちに救いがあると信じる者は、このみことばによって新しく生まれ変わり、永遠のいのちをもつようになります。

ですから、ペテロは当時の兄弟姉妹に書いたのです。
ペテロの手紙・第一 1章23節

 あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。

 
使徒たちにとって、みことばは本当にすべてでした。

今まで私たちは、主なる神ご自身がみことばの発起人、すなわち著者であることを見てきました。
そこで、これから第二番目になりますが、神のみことばが人間に与えられ、示されたということについて、考えたいと思います。主なる神が差出人であり、人間が受取人であるわけです。
今までは「主が語られたみことば」について考えて来ましたが、これからは「人間によって受け取られたみことば」について考えたいと思います。
主なる神は、ご自分と交わりを持つことができるようにと私たち人間を造ってくださいました。けれども交わろうとすれば、ことば無しには不可能です。ことばの中にこそ本質が現われるからです。ですから主なる神は、人間に語ってくださるのです。

主なる神はいろいろな方法で語ってくださいます。主は預言者の頑なさを砕くために、ろばを通して語られたこともありました。動物が話すようになったのでした。民数記22章を読むと次のように書かれています。
民数記 22章28節

 すると、主はろばの口を開かれたので、ろばがバラムに言った。「私があなたに何をしたというのですか。私を三度も打つとは。」

もちろん、この旧約時代に起こったことを、使徒たちはみなそのまま信じました。ですからペテロは、その第二の手紙2章16節に同じことについて次のように書いたのです。
ペテロの手紙・第二 2章16節

 しかし、バラムは自分の罪をとがめられました。ものを言うことのないろばが、人間の声でものを言い、この預言者の気違いざたをはばんだのです。

また主は、壁にみことばをお書きになられたこともあったのです。よく知られている、
ダニエル書5章。当時のベルシャツァルという王様の経験でしたが、
ダニエル書 5章5節、6節

 すると突然、人間の手の指が現われ、王の宮殿の塗り壁の、燭台の向こう側の所に物を書いた。王が物を書くその手の先を見たとき、王の顔色は変わり、それにおびえて、腰の関節がゆるみ、ひざはがたがた震えた。

24節

 それで、神の前から手の先が送られて、この文字が書かれたのです。

云々とあります。

今から、次の三つのことを考えてみたいと思います。
1.みことばを宣べ伝える者としての、預言者たち。
2.みことばを宣べ伝えるお方としての、イエス様。
3.みことばを宣べ伝える者としての、使徒たち。

今日はおそらく預言者たちとイエス様についてだけしか考えられないかもしれませんが、先ほど例として挙げましたように、主なる神は人間以外の動物を通して私たちに語っ
てくださることもありますが、普通は人間を通して語られます。
主なる神は用いようとする人々をお選びになります。主によって選ばれた人たち、すなわち預言者たちに対して、主は直接語ってくださり、したがって預言者たちは主のみ声を聞き、みことばを受け取るのです。

つまり預言者たちは、主のみことばを宣べ伝える者となるのです。このようにして特別に神によって召し出された人たちのことを、聖書は、「預言者」すなわち「宣べ伝える者」と呼んでいます。したがって預言者とは、いわば「神の通りよき管」のようなものです。
預言者はみことばを直接主から受け取り、それを更に人間に伝えるのです。ですから、預言者の特別な使命は、主なる神から受け取ったみことばを私たちに伝えることにほかなりません。

このように、聞いたことをそのままの形で伝えることを、聖書は「霊感」と呼んでいま
す。一つの実例を挙げますと、それにやや近い形を旧約聖書の中に見ることができます。
例えば、モーセがアロンの口を通して語ったとき、アロンはモーセのことばの預言者、
すなわち、宣べ伝える者になったのです。宣べ伝えられたものはモーセのことばですが、
それをアロンが伝えたのです。
出エジプト記の4章を読むと、次のように書かれています。
出エジプト記 4章16節

 彼があなたに代わって民に語るなら、彼はあなたの口の代わりとなり、あなたは彼に対して神の代わりとなる。

7章1節、2節

 主はモーセに仰せられた。「見よ。わたしはあなたをパロに対して神とし、あなたの兄アロンはあなたの預言者となる。あなたはわたしの命じることを、みな、告げなければならない。あなたの兄アロンはパロに、イスラエル人をその国から出て行かせるようにと告げなければならない。」

云々とあります。それと同じように、主なる神はお語りになりたいと思う人々を選び出し、直接その人たちに語られます。このようにして、主はモーセと顔と顔を合わせて、人が友と語るように語られたとあります。
同じく出エジプト記33章11節を読むと、次のように書かれています。
33章11節

 主は、人が自分の友と語るように、顔と顔を合わせて、モーセに語られた。モーセが宿営に帰ると、彼の従者でヌンの子ヨシュアという若者が幕屋を離れないでいた。

この若者であるヨシュアは、主のご臨在の中にいたかったのです。しばしば主は、みことばをただ単に聞かせるだけではなく、目に見せてくださることもなさいます。主は人間のことばで表現することのできない事がらを、預言者たちの目に見せてくださるのです。したがって預言者たちは、主の啓示を聞く者であり、また見る者でもあります。

例えば、サムエル第一の9章9節を読むと、次のように書かれています。
サムエル記・第一 9章9節後半

 今の預言者は、昔は予見者と呼ばれていたからである。

とあります。
預言者のひとりは、神のみことばを受け取った時の様子を、私たちに正確に書き記して
います。民数記 24章3節、4節をお読みしたいと思います。
民数記 24章3節、4節

 彼は彼のことわざを唱えて言った。「ベオルの子バラムの告げたことば。目のひらけた者の告げたことば。神の御告げを聞く者、全能者の幻を見る者、ひれ伏して、目のおおいを除かれた者の告げたことば。

云々とあります。預言者は神の啓示を直接見たり聞いたりします。主なる神は行動する
お方であり、みことばを与えてくださるお方です。これに対して預言者は、単に受け身的
に参加し、見たり聞いたりするのです。主のことばが預言者たちを覆ったのです。決して預言者たちが自分勝手に作り上げたものではありません。このことによって本当の預言者と偽りの預言者とが区別されます。
本当の預言者は、主のことばを受け取るときに全く受け身的にあずかります。けれど、偽りの預言者は、神の啓示を自分の意思で作り変えてしまおうとします。偽りの預言者は心に偽りのことばを抱きます。

イザヤ書を読むと次のように書かれています。
イザヤ書 59章13節

 私たちは、そむいて、主を否み、私たちの神に従うことをやめ、しいたげと反逆を語り、心に偽りのことばを抱いて、つぶやいている。

とあります。主なる神の最も嫌われることは、主から直接に受け取ったみことばをでは
なく、自分勝手なことばを神のことばとして言いふらす偽りの預言者のことばです。
エレミヤ書の14章に、この偽預言者について書かれています。
エレミヤ書 14章14節

 主は私に仰せられた。「あの預言者たちは、わたしの名によって偽りを預言している。わたしは彼らを遣わしたこともなく、彼らに命じたこともなく、 語ったこともない。彼らは、偽りの幻と、むなしい占いと、 自分の心の偽りごとを、あなたがたに預言しているのだ。

主なる神は偽りの預言者のことばを、わらに過ぎないとおっしゃり、まことの預言者の
ことばを、麦と呼んでいます。この、「麦」と「わら」ということばが出てきます。
エレミヤ書 23章28節

 夢を見る預言者は夢を述べるがよい。しかし、わたしのことばを聞く者は、わたしのことばを忠実に語らなければならない。麦はわらと何のかかわりがあろうか。― 主の御告げ。―

とあります。

私たちが主のみことばを判断するとき、本当の預言者と偽預言者との間の明確な区別を
するよう注意すべきです。主のことばは人間のことばとして説明するならば、それは大変
な債務となります。
主のことばの霊感がただ単に人間の意思とは無関係であるのみならず、人間の理解力とも関係がありません。霊感と啓蒙とは全く異なったものであり、聖霊の働きの結果という点でも、両者は全く異なったものです。

主がお語りになるときに用いられた人間たちは、主のことばをごく一部分だけしか理解できないことがしばしばありました。みことばは多くの場合、人間の理解力をはるかに超えていたのです。したがって、みことばを極めて狭い範囲でしか理解できなかったのです。
啓蒙と霊感は本質的に違ったものです。全ての信者は、ある程度まで啓蒙されています。
しかし、極めて少数の信者だけが霊感を受けて、主のみことばを宣べ伝えるように召し出されます。

啓蒙は段階的であり、霊感は常に全体的です。ことばはそれが主のことばであるかないかのどちらかです。その中間はありません。啓蒙は持続的で、霊感はあるときだけ与えられるものだ、と聖書ははっきり言っているのです。
「主のことばが私に臨んだ」と預言者たちは言いました。そして、彼らの語ったことばを直接天から聞いたことばと言いました。すべての預言者たちは、自分がまことの預言者であるということに大きな価値をおいています。そのために多くの預言者たちは自分の召された歴史を詳しく私たちに語り、またほかの預言者たちは彼らが宣べ伝えていることばを直接主から受け取ったことだとはっきり私たちに証ししています。

一つの証しをちょっと読みましょう。イザヤは、自分の召しについていろいろなことを書き記したのです。
イザヤ書 6章1節から8節

 ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座にざしておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。そこで、私は言った。「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」

「私は主を見た」。「私はわざわいなるかなと言った」。「私は主の声を聞いた」。すなわち、イザヤは主を見、そしてみ声を聞きました。イザヤは大いなる任命に直面し、いかに無価値な者かと思い、主の前に汚れた者として立ちました。けれども彼のくちびるは火の炭で触られ、聖められました。このことを通して、彼は主に用いられる器となりました。

エレミヤもまた同じことを経験しました。主のみことばが彼に臨んだのです。全く直接
臨んだのです。彼は、「私は若いからだめ、若者である私はだめなのではないか」と。けれども、主はこの言いわけを受け取ろうとなさらなかったのです。
エレミヤ書1章9節を読むと、次のように主は答えてくださったのです。
エレミヤ書 1章9節

 そのとき、主は御手を伸ばして、私の口に触れ、主は私に仰せられた。「今、わたしのことばをあなたの口に授けた。」

私たちは普通、イザヤからマラキまでの預言者たちを、文字通り預言者と呼びますが、
聖書は、主なる神が直接お語りになられた全ての人々を、預言者と呼びます。彼らはただ
単に、将来起こるべきことだけではなく、現在のこと、あるいは過去のことをも宣べ伝え
ます。彼らは、神から受け取ったことばを宣べ伝えます。

ですから、モーセも自分のことを預言者と呼んだのです。申命記18章を読むと、次のように書かれています。
申命記 18章15節

 あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない。

そこで、いわゆる預言者と呼ばれている者は、モーセだけではなく、ダビデも預言者と呼ばれました。そして大部分をダビデによって書かれた詩篇は、主の直接のことばと呼ばれます。

使徒行伝から一箇所読んでみましょう。
使徒の働き 2章30節、31節

「彼は預言者でしたから、神が彼の子孫のひとりを彼の王位に着かせると誓って言われたことを知っていたのです。それで後のことを予見して、キリストの復活について、『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない。』と語ったのです。」

聖書が旧約聖書全体をまとめようとすると、モーセと預言者たちということが一般に言
われているわけですが、また歴史的な書物も預言者によって書かれたものであるゆえに、神のみことばとなるわけです。
使徒の働き 1章16節

「兄弟たち。イエスを捕えた者どもの手引きをしたユダについて、 聖霊がダビデの口を通して預言された聖書のことばは、成就しなければならなかったのです。」

「聖霊がダビデの口を通して預言された」とあります。
3章18節

「しかし、神は、すべての預言者たちの口を通して、キリストの受難をあらかじめ語っておられたことを、このように実現されました。」

「神は、預言者たちの口を通して…語っておられた」。
4章25節

「あなたは、聖霊によって、あなたのしもべであり私たちの先祖であるダビデの口を通して、こう言われました。『なぜ異邦人たちは騒ぎ立ち、もろもろの民はむなしいことを計るのか。』」

云々とあります。
この証言は本当に力強いものではないでしょうか。旧約聖書の統一された証言は、神のことばです。これは、まことに主が預言者たちに語られたみことばです。預言者たちのこ
とば、即ち旧約聖書が神のみことばであるということが歴然とした事実であるとすると、そのみことばを聞く者は、真剣に聞く耳を持つべきであり、主のみことばとしてそれを絶対に肯定することが要求されます。したがって、旧約聖書全体の徹底的な要求は、「聞け」「従え」というものです。
申命記 18章19節

 わたしの名によって彼が告げるわたしのことばに聞き従わない者があれば、わたしが彼に責任を問う。

詩篇 95篇7節、8節

 主は、私たちの神。私たちは、その牧場の民、その御手の羊である。きょう、もし御声を聞くなら、メリバでのときのように、荒野のマサでの日のように、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。

「聞け」。「従え」です。
もう一箇所。
エレミヤ書 7章23節、24節

 そのとき、主は御手を伸ばして、私の口に触れ、主は私に仰せられた。「今、わたしのことばをあなたの口に授けた。」

「ただ、次のことを彼らに命じて言った。『わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしは、あなたがたの神となり、あなたがたは、わたしの民となる。あなたがたをしあわせにするために、わたしが命じるすべての道を歩め。』しかし、彼らは聞かず、耳を傾けず、悪いかたくなな心のはかりごとのままに歩み、前進するどころか後退した。」

とあります。預言者たちを通して宣べ伝えられた神のみことばに対し、従順であるということは旧約聖書のすべての土台です。

今まで私たちは、神のみことばを宣べ伝える者としての預言者たちについて読んできましたが、最後にもう一つの点、神のみことばを宣べ伝えるお方としてのイエス様について、
考えてみたいと思います。
私たちは、旧約聖書においてのみ、預言者を見ることができるのでしょうか。私たちは
新約聖書の時代に移って、神が新約聖書の預言者を通してお語りになったかどうか、尋ねてみたいと思います。

新約聖書の比類なき預言者は、言うまでもなくイエス様ご自身です。イエス様は完全な
神の預言者でした。イエス様がこの地上に来られたとき、父なる神は自らイエス様を公にお認めになりました。いかなる人間も、イエス様が偉大な預言者であることを認めることができなかったので、父なる神は天を開き、聞き取ることのできる声でおっしゃいました。「これは、わたしの愛する子。汝らは聞くべし」と。
マタイ伝17章5節を読むと、次のように書き記されています。
マタイの福音書 17章5節

 彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」という声がした。

主イエス様は、ただ単に、時間に制約されて神のことばを聞いたり、啓示を見たりなさ
っただけではなく、上から来られ、すべてをご存知であり、完全な預言者であられました。
イエス様の口から出たことばは、いずれも直接父のみことばでした。イエス様は預言者
として比類ない地位を占めておられ、したがって、ほかの預言者と同一に呼ぶことはできません。
イエス様について次のように語られています。
ヨハネの福音書 1章18節

 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

ここでイエス様は、「ひとり子の神」と呼ばれています。
3章31節から34節

 上から来る方は、すべてのものの上におられ、地から出る者は地に属し、地のことばを話す。天から来る方は、すべてのものの上におられる。この方は見たこと、また聞いたことをあかしされるが、だれもそのあかしを受け入れない。そのあかしを受け入れた者は、神は真実であるということに確認の印を押したのである。神がお遣わしになった方は、神のことばを話される。神が御霊を無限に与えられるからである。

とあります。

イエス様はご自身について、上から来られ、完全な啓示即ち父なる神のみことばを伝えなければならない、と証しなさいました。ご自身についての主の証しは、何と力強いことでしょう。
ヨハネの福音書 8章23節

 それでイエスは彼らに言われた。「あなたがたが来たのは下からであり、わたしが来たのは上からです。あなたがたはこの世の者であり、わたしはこの世の者ではありません。」

28節

 イエスは言われた。「あなたがたが人の子を上げてしまうと、その時、あなたがたは、わたしが何であるか、また、わたしがわたし自身からは何事もせず、ただ父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していることを、知るようになります。」

12章49節、50節

 わたしは、自分から話したのではありません。わたしを遣わした父ご自身が、わたしが何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。それゆえ、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのままに話しているのです。」

17章8節

「それは、あなたがわたしに下さったみことばを、わたしが彼らに与えたからです。
  彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたから出て来たことを確かに知り、また、あなたがわたしを遣わされたことを信じました。」

このようなみことばを読むと、イエス様が比類なき預言者であられることがわかります。父は、御子主イエス様を通して語られましたが、それは動かすことのできない事実です。

最後にもう一箇所読んで終わります。
ヘブル人への手紙 1章2節

 この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。

 私たちはイエス様を通して、言い表わすことのできないすばらしい神の啓示を見ることができるのです。



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メッセージ・証し集インデックスページ

◆メッセージ(ベック兄)

※一部、テープの転換による不明部分あり

神のみことばは神のみことばである(5) 2006. 4. 18
神のみことばは神のみことばである(4) 2006. 4. 11
神のみことばは神のみことばである(3) 2006. 4. 4
神のみことばは神のみことばである(2) 2006. 3. 21
家族の救い 2006. 3. 19
神のみことばは神のみことばである(1) 2006. 3. 14
主イエスは神の子キリストである(4) 2006. 3. 7
主イエスは神の子キリストである(3) 2006. 2. 28
主イエスは神の子キリストである(2) 2006. 2. 14
主イエスは神の子キリストである(1) 2006. 2. 7
勝利の生活の秘訣 2006. 1. 24
イエス・キリストのからだ 2006. 1. 17
主の永遠からの予定 2006. 1. 10
元旦メッセージ 2006. 1. 1


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