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メ ッ セ ー ジ ・ 証 し 集


主イエスは神の子キリストである(3)
   
2006.2.28(火)
ベック兄メッセージ(メモ)

 
テトスへの手紙 2章13節
 祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現われを待ち望むようにと教えさとしたからです。

ヨハネの手紙・第一 5章20節

 しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。


今、司会の兄弟は、「ちょっと迷っています」と言われたのですが、死ぬまでそうなのではないでしょうか。人間はそのような者です。時々証しを聞きます。「私は迷える羊だっ
た」と。いつも途中で聞きたいです。「今はどうですか」と。(笑)「…だった」だけではなく、相変わらずそうではないでしょうか。けれども、主はダメな人間を捨てようとなさらないこいとが、すばらしいことではないでしょうか。

昨夜、N兄弟の教え子であるS兄から電話があったのです。「もう、嬉しくて嬉しくてしょうがない」と、二、三回そう言ったのです。どうしてかと言いますと、今までイエス様のことを見向きもしなかった八十六歳の彼の母親が、「イエス様を信じます」と言われたのだそうです。ですから、彼はその喜びをどのように表現したらいいかわからなかったので、あちらこちらに電話したわけでしょう。(笑)つまり、「イエス様は本当にすばらしいお方である」とはっきり言えると思います。

二週間前まで、向こうの席にいつも同じ方が座っていました。T・I兄弟なのです。物理
学者でした。単なる学者ではなく、大学者だったらしいです。偉くなればなるほど、普通の人はちょっと傲慢になるのです。ですから、家族もやはり悩まれたのではないかと思いますが、彼はイエス様を知ることの結果として、「私は傲慢だった」と何回も言われたそうです。召される前日、S姉妹に電話で話されたらしいのですが、「私は何でもイエス様に話します」と。すばらしい証しなのではないでしょうか。そして召される前、「本当は三年前から洗礼を受けたかったのだけれど、もう間に合いません。今度天国に行ってイエス様に洗礼を授けてもらいたい」と言われたそうです。
娘のリンデも、そういう可愛いことを言ったのです。「私は天国に行ったらすぐイエス
様に頼みます。『イエス様。お寿司をお願いします!』って」。(笑)何週間も何にも食べられなかったので、そういう気持ちになるのももちろんわかります。人間がお願いするならイエス様はそういうことをなさると思います。人間が解放され、大いに喜ぶことができればイエス様は何でもなさいます。天国へ行ってイエス様は給仕すると記されているのです。私たちは恥ずかしくて、恥ずかしくてしかたがないことになるでしょう。天国でもイエス様は、自分のことを考えようとなさいません。ですから、私たちはいくら考えてもイエス様の「謙遜」をすべて理解することはできません。イエス様にお会いするようになれば、もう、圧倒されてしまうことでしょう。

この間、可愛い手紙をもらいました。いただく手紙の中で、大部分の方は幸いにも自分のことよりやはり聖書のみことばを必ず引用されます。その姉妹も、五、六箇所引用されたのです。
ヨハネの手紙・第一 4章7節

 私たちは、互いに愛し合いましょう。 

コリント人への手紙・第二 13章13節

 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。
 

詩篇 116篇1節

 私は主を愛する。主は私の声、私の願いを聞いてくださるから。

  
ルカの福音書 10章27節
『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』 

エレミヤ書 31章3節

「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。」 

内容は次のようなものでした。
…前に電話したときは、病院からでした。(病院とは精神病院です。)私は心の病をもう
十七年間患っています。でも聖書のみことばは大切にしています。私はイエス様が愛していてくださるという安心感を最初にいただきました。洗礼は受けていませんが、母は、「あなたが安心するなら、私も信じていいよ」と言ってくれています。でもまだみんなはギクシャクしています。しかしイエス様の言われているのは、家族すべてが救われるということ。天国でイエス様と顔を合わせお話できること。また詳しくは分からないけれど、すばらしいことが起きること。今は苦しいけれど、天に召されるまでイエス様に頼っていきたいと思っています。…

可愛い手紙ではないでしょうか。この姉妹にとっても、結局、聖書はすべてになってしまったのです。聖書がなければもうおしまいです。
もちろん、「聖書」とは、書かれているみことばのことです。
イエス様とは、肉体の形を取って地上に住まわれた「神のみことば」そのものです。

私たちの最近のテーマは、『主イエスは神の子キリストである』です。
この間、アメリカのオクラホマに行って、飛行場からある店に行き、このステッカーを買いました。遠くから見る人にはもちろん見えないでしょうが、『JESUS』、そして、下に『 is the answer.』(あらゆる問題に対する主なる神の答えとは、イエス様である。)
聖書全体の語ろうとしていることは、それなのです。人間は、いろいろな悩みや、いろいろな苦しみをもっています。けれどそれに対する主の備えはいつも、「主イエス様」です。イエス様しかありません。

エホバの証人という宗教団体は、キリストは確かに神の子であると言います。けれど、神ではないと言います。そうすると、エホバの証人たちの聖書とは神のことばではないことになります。昔彼らは文語体の聖書を使っていたのです。文語体は今の新改訳聖書よりも良かったと思います。けれど若者は読みとれませんから仕方がなくて、新しい訳が出たのですが、長い間エホバの証人は文語体だけ使っていたのです。ですが、途中で変わってしまったのです。自分たちの聖書を通して自分たちの教えは間違っていると認めざるを得なかったからです。ですから、自分勝手な聖書を作ったのです。彼らにとって大切なのは、自分たちの教えであり、そして自分たちの教えに合わせた聖書を作ったので、やはり問題です。虫の子は虫です。蛇の子は蛇です。人間の子は人間です。神の子は神です。

今、司会の兄弟のお読みになった二箇所を見ても、はっきり書かれています。「イエス・キリストは神であり、また救い主である」と。ヨハネ第一の手紙5章20節に、「神の御子イエス・キリスト」と書いてあります。「この方こそまことの神、永遠のいのちです」と書かれています。エホバの証人たちはこの個所を適当に書いたのです。気の毒です。イエス・キリストが神であられなければ、救いがありません。イエス・キリストは本当に神だったのですけれど、まことの神であるイエス様は、人間になることによって初めて「神の子」と呼ばれるようになられたのです。
聖書は語っています。
マタイの福音書 3章16、17節

 こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」

人間になることによって、イエス様は「神の子」となられたのです。神の子とは、約束された救い主であり、救いの神であるという意味です。

今まで、私たちは、この復活なさったイエス様に出会った人たちについて考えました。
イエス様のよみがえりこそが、ご自分は約束された救いの神であるという事実の証明そのものです。一番大きな奇蹟は、間違いなくイエス様のよみがえりの奇蹟でした。イエス様のよみがえりは、世界歴史の中で一番大切な出来事です。
イエス様のよみがえりは、イエス様だけが救いに至る道そのものであるという一番大きな証拠です。マホメッドは、人類を救おうと思いましたが死んだのです。死んだままです。
孔子も、同じく人類を救おうと願ったかもしれませんが、死にました。死んだままです。
ブッダ、仏も、救いを成しとげようと思い、人類を救おうと思ったのかも知れませんが、
やはり死にました。死んだままです。

オクラホマの方で、祈っていただきたい姉妹がいます。S・Tさんです。歳は三十六歳。ご主人はアメリカ人で、現在イラクにいます。兵隊たちの牧師としてです。彼女もご主人も、大いに悩んでいます。なぜなら、アメリカの最高裁判官は命令したのです。「イエス・キリストの名によって祈ってはいけない」と。本当のことです。考えられないことです。イエス・キリストの名によって祈ると、イスラム教徒たちは喜ばないでしょう。結局人間を喜ばせるために、人間がそのような態度を取るようになった時代です。
イエス様は「わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできない」と。
この兵隊の牧師たちはどうしてイラクまで遣わされているかと言いますと、ノイローゼになった兵隊がたくさんいるからだそうです。主なる神の前に、してはいけないことをしなくてはならないからなのです。その彼らを励ますために、力づけるために、派遣されています。けれど、イエス様の御名によって祈ってはいけないという話はいったいどういうものでしょうか。自分がノイローゼになります。人間的に考えれば、最後にダメになる国はアメリカかもしれません。比較的多くの人々がイエス様に出会い、イエス様をまだ畏れているのです。けれどアメリカもだんだんおかしくなっています。

イエス様の御名によって祈ることができるのは、すごい特権です。イエス様の御名によって祈ると、何でもできるお方はご自身を明らかにしてくださり、奇蹟を成してくださる
のです。
イエス様は救いの神、まことの救い主であられることの証拠とは、どういうことなのでしょうか。それは信じる者の中に住んでおられる「イエス様ご自身」ではないでしょうか。よみがえられたイエス様に出会った人々こそが、またイエス様の御姿に変えられている人々こそが、イエス様の神性の証拠です。

パウロはいったいどうして、イエス様は救いの神であり、神の子であり、まことの救い
主であることを信じるようになったのでしょう。理屈に責められ、納得させられたからではありません。また脅かされて強制されたからでもありません。パウロはよみがえりの主を愛した結果として、このナザレのイエスは確かに約束された神の子であり、救いの神であるという確信を持つことができるようになったのです。パウロは、よみがえりの主にお会いしたことによって根本的に変えられました。彼のように、「最後によみがえりの主は私に現われてくださった」と言える人は幸せな人だと言えるのではないでしょうか。よみがえりの主にお会いしたら、生活は根底から変えられます。

イエス様の肉体上の弟のひとりはヤコブでした。このヤコブは、やはりよみがえりの主にお会いするようになったのです。よみがえりの書であるコリント第一の手紙15章7節を見ると書かれています。ひと文章だけです。
コリント人への手紙・第一 15章7節前半

 その後、キリストはヤコブに現われた。

このヤコブとは、肉体上のイエス様の弟であり、のちに「義人ヤコブ」と呼ばれるよう
になったのです。彼は初代教会の中心的な人物にもなりましたし、五章だけの短い手紙も
書いたのです。それがヤコブ書です。このヤコブ書を読むと、彼の中心テーマ「まことの正しさ、まことの義とはどういうものであるか」ということが書かれています。
このヤコブという男が長い間心に持っていた悩みは、本当の義を自分は持っておらず、
自分の持っている義は、掟の義、自分の義だけだということでした。結局、聖書の掟を守
ればOK。けれど自分にとっては守れるものではなく、どうしたらいいか彼は全くわからなかったのです。確かに、彼は生れ落ちるなり、神の御子であられるイエス様を兄として一緒に暮らしていながら、イエス様を批判し、最後にはイエス様を拒んだのです。たぶん、イエス様は、罪人と一緒に食事をなさって、人間によって作られた掟を守られず、(例えば、安息日を守らないでおられたところから、)当時の聖書学者たちと同じように、イエス様を拒んでしまったのです。もちろん、この兄は変わっています。喧嘩相手になりません。(笑)どういう人間でも、喧嘩しようと思えばできるのにもかかわらず、イエス様は喧嘩相手になられませんでした。不思議で不思議でたまらなかったでしょう。ひと文章があります。
ヨハネの福音書 7章5節

 兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。

ヤコブはイエス様の生きておられる間、イエス様を信じようとしなかったのです。このイエス様を受け入れなかったヤコブも、ついにイエス様を受け入れる時がやって来ます。
イエス様は、十字架の上で考えられないほど苦しんでおられたのです。苦しみの中から、
イエス様は、ある意味でご自分のことを忘れ、ヨハネという弟子に向かって、「ヨハネよ、見よ。これはあなたの母である」と言われて、ご自分の肉体上の母マリヤを弟子のヨハネに、(ヤコブではなくヨハネに)託されました。続いて母のマリヤに向かい、「女よ。これは汝の子です」と言われて、ヨハネに生涯の面倒を見てもらうように話されたのです。イエス様は、なぜご自分の母を実の弟であるヤコブに託さないで、なぜ関係のないヨハネに託されたのでしょうか。たぶんそれは、ヤコブがイエス様のことを信じていた母のマリヤと初めから仲が合わず、離れていたからではないでしょうか。自分を生んでくれた母を、ヤコブ自身に任せてもらえず、他人の手にゆだねなければならないということは、ヤコブにとって、辛く、悲しいことだったのではないでしょうか。
しかしこれは、己を正しいとする罪の結果です。自分を義とする結果はいつも悲劇です。自分を義としたヤコブは、母を見捨てることになったのです。彼はこのように己を正しいとする人間でした。ヤコブは、自分を正しいとすることは何の役にも立たない、むしろ妨げになることを悟り、イエス様の前に砕かれ全く新しい義をいただいたのです。
よみがえりの主イエス様だけが、自分を義とする思いからこのヤコブを解放することがおできになったのです。このようにいっぺんに変えられた人々こそが、イエス様は救いの神であり、約束された救い主であられることの証拠なのではないでしょうか。

弟子たちの中のひとり、トマスについてちょっと読みましょう。このトマスという男は、
もともと疑問に満ちた、疑い深い性質の持ち主でした。
ヨハネの福音書 20章24節、25節

 十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た。」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言った。

ほかの弟子たちは、主のよみがえりを知って喜び、これを仲間のトマスに伝えましたが、彼は頑として信じようとしませんでした。個人的な疑いはイエス様に親しくお目にかかるまで解けないのです。
聖書を読んでいきますと、よみがえりの主は疑い深いトマスのためにわざわざもう一度現われてくださったことがわかります。何という恵み深い主でしょうか。自分のこの指をイエス様の手と足とわき腹の傷に接してみないうちはイエス様のよみがえりを信じることができないと言っていたトマスは、目の前に現われてくださったイエス様の御姿を拝したとき、指を傷に当てるどころか、ただその場にひれ伏して主を拝した、と聖書は言っています。「我が神」と彼は言ったのです。イエスのことなんて、神ではない、神の子にすぎないなどと言わなかったのです。神だったからです。疑い深いトマスがこんなに変えられたのは驚くべきことです。彼はまことの礼拝者になったのです。彼は疑惑に満ちた者でしたが、新しい光が与えられた時からこの疑惑が解けると、絶えず光を求めていたのです。

しかし、イエス様はなぜもっと早くトマスに現われてくださらなかったのでしょうか。もちろん、これはイエス様の責任ではなかったのです。トマスが悪かったのです。ほかの
兄弟、弟子たちといっしょにいなかったからです。もし、トマスが兄弟たちのところに帰って来ないで、そのまま自分の道を歩んでいたなら、イエス様に会うことができなかったばかりか、悲しい結果になったかもしれません。イエス様は救われた者のひとりひとりのかしらであられるばかりではなく、信じる者の群れ、すなわちご自分のからだなる教会のかしらです。ですから、イエス様は兄弟姉妹がともに集まり、御名を賛美しているところに、ご自分を現わされる場合があるのです。確かにある人は、「もういいです。集会に出なくても。もう面倒くさい。変な人ばかりいるではないですか」、(笑)「一人で聖書を読めば、一人で祈れば、いいでしょう」と言います。確かに、そうすると喧嘩相手はいません。けれども危ないことです。そこには成長がありません。聖書を正しく読むことが非常に難しくなります。いろいろな変わった兄弟姉妹を通して(笑)、主の許に帰るようになれば良いのではないでしょうか。(笑)あまり会いたくない人のために祈れば、主は奇蹟をなしてくださるのです。みんなそれぞれ違います。みんな同じようにならなくてはならないのではありません。けれども、イエス様のご再臨のことを考えれば、やはり何があっても正しい態度を取るべきです。正しい態度とは、「私の気持ち、感情はどうでもいいです。イエス様。裁き主はあなたです。お任せいたします。恵んで導いてください」。

トマスは、疑い深い男でした。けれど疑うこととはそんなに悪いことではありません。
トマスは確かに疑いました。けれどずるい人ではなかったのです。正直な男でした。彼は
イエス様のよみがえりを信じることができなかったので、自分を偽らずにはっきり「信じ
られない」と言ったのです。多くの人は信じられないのに、あたかも信じたかのように、
自分を偽って歩みます。トマスはこれらの人たちよりもよほどマシではないでしょうか。
信じられなくても結構。持っていない信仰のために祈れば必ず与えられます。

人間はみなそれぞれ問題を持っています。またこれからも持つでしょう。その中には、よみがえりの主が現われてくださらなければ、どうしても解決できない問題にぶつかることがあります。そのようなときは、トマスのように心から新しい光を求めましょう。そうすれば、必ずよみがえりの主が問題に解決を与えてくださいます。トマスは新しい光を求めてそれを受け入れる備えをしていました。彼は主を信じる仲間に入って、いっしょに先へ進むことを拒まなかったのです。伝説によると、このトマスは中国まで行ってイエス様のことを紹介し、その後、最後に殉教の死を遂げるようになったということです。彼は完全に変えられた男になったのです。彼は疑いながらも交わりに加わっていました。そしてイエス様がトマスに現われてくださったとき、彼はイエス様の御前にひざまずきました。

私たちの過去を振り返ってみると、本当に主に対して不信仰な者であり、イエス様を悲
しませた者であることがわかります。私たちが今日、一番必要としているもののひとつは
「よみがえりの主」に新しくお会いして、新しい信仰をいただくことではないでしょうか。次のように書かれています。
マルコの福音書 16章9節

 さて、週の初めの日の朝早くによみがえったイエスは、まずマグダラのマリヤにご自分を現わされた。 イエスは、以前に、この女から七つの悪霊を追い出されたのであった。

よみがえりの主に出会った彼女は、やはり変えられたのです。何を新しく持つようになったかと言いますと、もちろん今まで知らなかった愛ではないでしょうか。確かに、彼女は、墓から復活なさったイエス様に最初にお目にかかった者です。弟子たちではなくて、彼女が先でした。なぜこの特権にあずかったかと言いますと、イエス様を一番愛し、イエス様に最もすべてをささげ尽くしていたのではないでしょうか。
なぜ一番初めにマリヤに主は現われなさったか、もうひとつ考えられることがあります。一刻も早く必要だったからです。イエス様が殺されたとき、彼女は考えられないほどがっかりして、絶望して沈んでしまったからです。この節によると、彼女はかつてイエス様に七つの悪霊を追い出していただいたことが書かれています。彼女は、悪霊につかれて恐ろしい生活をしていたに違いありません。ですから、イエス様に霊を追い出していただいたとき、彼女が体験した解放は考えられないほど大きなものでした。彼女は結局「イエス様に従いたい」と。イエス様の母でもあるマリヤとひとつになって、いつも従うようになったのです。

イエス様に、マリヤが持っている愛のすべてをささげ尽くしたのは無理もないことです。
イエス様はマリヤにとって本当にすべてでした。主イエス様が十字架で死なれた時の彼女の悲しみは想像できません。「もうおしまい」。もしイエス様がよみがえられなかったなら、
このマリヤのイエス様に対する愛は、なおさらマリヤを絶望に追いやり、悲しみに陥れた
に違いありません。彼女の愛の対象はもちろん決して間違っていませんでした。神の御子イエス様を愛していたのです。けれど、この愛がよみがえりの力に基づかず、人間的な愛なら絶望に終わってしまいます。ご自身を現わされたイエス様を見たとき、彼女は喜びのあまりイエス様に抱きつこうとしました。聖書を読むと、そのときイエス様はマリヤに、「わたしにさわってはいけない」と御声を掛けられたことが書かれています。イエス様はなぜそのように言われたのでしょうか。彼女のご自分に対するきよくはあるが肉による愛が、霊による愛に変えられなければならないことを、教えられたかったからです。のちにイエス様は昇天され、マリヤに霊によってイエス様を愛するようになる備えをなされたのです。

もし私たちのイエス様に対する愛や献身が、よみがえりの土台の上に立っていないなら、
やがてそれらは崩れて絶望に終わるでしょう。よみがえりは、主イエス様に対する新しい愛を与えてくださいます。よみがえりの前の土台に立っている者は、イエス様とともに十字架につけられ、主とともに葬られていない人です。マリヤがそうでした。彼女の愛は、本当にきれいな、きよい愛でした。けれど人間の愛でした。

マリヤのこの愛を、少し考えてみましょう。
・まず、マリヤの愛は、イエス様が自分になしてくださった恵みのみわざに応える愛だっ
たのです。感謝の気持ちの表われでした。七つの悪霊を追い出していただいたので、感謝
の思いから彼女は主イエス様を愛しました。

・次に、彼女が愛したイエス様は、肉体をとっておられたので、目に見えるお方としての
イエス様を愛していただけです。マリヤは目に見えるイエス様を愛したのです。

・最後に、このマリヤの愛は人間的だったので、絶望に終わってしまったのです。これに対し、よみがえりの主にあずかり、よみがえりの土台としてその上に立っている人は、苦しみを通し、悩みを通し、主とともに十字架につけられて死に、ともによみがえらされ、天上の座にあずからせていただいた人であり、まことの主なる神の愛をいただいた人です。

よみがえりの主にあずかり、主の愛を持つ者は、
・まずイエス様が成してくださったわざのために主を愛するのではなく、イエス様ご自身
を愛します。それらの人々はイエス様を知っています。イエス様との親しい交わりを持つことにより、主イエス様だけを喜びにしています。

・二番目。よみがえりに基づいた人々は、目に見えないイエス様を愛しています。即ち、
信仰によって歩んでいます。
コリント第二の手紙、よく知られている箇所ですが、4章の16節から少し読みます。
コリント人への手紙・第二 4章16節から18節

 ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

・最後に、この主なる神の愛は、たとえ理解しがたいことが起こったとしても、理解に苦しむようなところに置かされたとしても、愛して愛し抜く愛です。これらの人々はパウロと同じように、次のように言うことができる人々です。よく知られているローマ書8章の最後に、次のように書かれています。初代教会の迫害された兄弟姉妹の証しです。
ローマ人への手紙 8章35節から39節

 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、 死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

喜びと確信に満ちている証しです。主の愛はすべてのものに勝ち得て余りある愛です。
この主の愛は、パウロがコリント第一の手紙13章で言っている愛です。よく読まれる愛です。ここでまことの愛についていろいろなことを書いていますが、まことの愛とはこの世に来られた主イエス様です。ですから、「愛」の代わりに「主イエス様」と読んだほうがいいのではないでしょうか。そうすると、ああなるほどとわかります。自分の愛ではありません。
コリント人への手紙・第一 13章4節から7節

 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。

このみことばについても、自分はできると思う人はいないでしょう。できると思うなら頑張ってもらいたいと思いますけれど、(笑)これはイエス様しかできません。
私たちの主のために、あれこれと奉仕しますが、イエス様と親しい交わりを持っている人がどれだけいるでしょうか。祈りはそのまま主イエス様との交わりであるということはできません。イエス様も私たちに語りかけることができなければ、交わりになり得ません。

以前、スイスの神学校の出版した雑誌がありました。非常にいい題名です。『聖書と祈り』。そして、その雑誌を印刷した会社の名前は「大いなる喜び」です。(笑)もちろん、神学校の中の印刷会社なのです。結局聖書と祈りをともにすれば、大いなる喜びが湧いてきます。聖書だけでは十分ではありません。聖書を通して、主は私たちに語ってくださいます。そして答えとして私たちは祈ります。一方通行はダメです。イエス様の時代の聖書学者たちは、聖書を徹底的に勉強したのです。疑わずに信じたのです。けれど心から祈らなかったのです。一方通行によっては何にもなりません。

救われた兄弟姉妹の多くは、罪の赦しを確信し主との平和をいただいています。そして、人間的な愛でイエス様を愛しています。生まれながらの賜物と力をもって、イエス様に仕えようとしています。けれど、信仰生活がとめどもなく上がったり下がったりするのです。イエス様との交わりがなく、イエス様とひとつになることも出来ない、という状況です。それはよみがえり以前の土台に立っているからです。よみがえりの土台に立つ者は、自らの力で主に仕えようとしません。自分の力に頼ることをやめ、人間の誉れを望まず、よみがえりの主に任せ、おゆだねするということが、本当の自由ではないでしょうか。自分を愛する愛は、別に大したものではありません。傷つきやすいものです。けれど、主の愛は違います。主の愛はしるしを求めません。主の愛は信仰によって目に見えないものを望み見るのです。

初代教会の人々はどうして大いに喜ぶことができたかと言いますと、結局信仰によって
歩んだからです。目に見える現実はどうであっても関係ない。私たちが差し迫って必要としている愛は、この新しい主イエス様に対する愛なのではないでしょうか。もしイエス様がよみがえられなかったら、果たしてマリヤは七つの悪霊に立ち向かうことができたのでしょうか。よみがえりの土台に立っていないコリントの兄弟姉妹たちはどうだったでしょう。みじめさ、ねたみと、傲慢と、汚れの霊に打ち負かされ、全然証しが立っていなかったのです。彼らはパウロを通して福音を聞いて導かれたのです。けれども、彼らはパウロの悩みの種になってしまいました。ですから、彼はこのまことの愛についての書、また、よみがえりの書を書いたのです。

主イエス様の御姿に変えられている兄弟姉妹こそ、イエス様の神性の証拠そのものです。
・人殺しであるモーセは、世界で一番柔和な人に変えられたと聖書は言っています。
・裏切り者であるペテロは、もっとも大胆な証し人となりました。
・教会の迫害者パウロは、もっともすぐれた教会の建築士に変えられたのです。

このような奇跡は、主イエス様だけがおできになることなのです。



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メッセージ・証し集インデックスページ

◆メッセージ(ベック兄)

※一部、テープの転換による不明部分あり

神のみことばは神のみことばである(5) 2006. 4. 18
神のみことばは神のみことばである(4) 2006. 4. 11
神のみことばは神のみことばである(3) 2006. 4. 4
神のみことばは神のみことばである(2) 2006. 3. 21
家族の救い 2006. 3. 19
神のみことばは神のみことばである(1) 2006. 3. 14
主イエスは神の子キリストである(4) 2006. 3. 7
主イエスは神の子キリストである(3) 2006. 2. 28
主イエスは神の子キリストである(2) 2006. 2. 14
主イエスは神の子キリストである(1) 2006. 2. 7
勝利の生活の秘訣 2006. 1. 24
イエス・キリストのからだ 2006. 1. 17
主の永遠からの予定 2006. 1. 10
元旦メッセージ 2006. 1. 1


2005年度のメッセージ集
2004年度のメッセージ集
2003年度のメッセージ集