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メ ッ セ ー ジ ・ 証 し 集


神のみことばは神のみことばである(1)
   
2006.3.14(火)
ベック兄メッセージ(メモ)

 
テモテへの手紙・第二 3章16節
 聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。

ペテロへの手紙・第二 1章21節

 なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。


祈っていただきたいことがあります。市原集会のN兄弟は今日手術するようになりますので、是非覚えていてください。一週間前に見舞いに行きました時は、非常に元気だったのです。そのあとで姉妹のところにも行き大いに喜んだのですが、これからどういうふうになるのかわかりません。是非覚えていてください。もう八十五、六歳だと思います…。

今、今日の題名は何かと司会の兄弟に質問されました。『神のみことばは、神のみことばです』という題名です。どうしてこの題名について話すかと言いますと、二つの理由があるからです。
去年のちょうどクリスマスの時、12月24日。一人の、(彼は自分で無神論者と言ったのですが、)O姉妹の同級生が家まで来まして、四十六歳の彼は神がいないと言いながら、「キリストだって神に遣わされた者にすぎないし、釈迦と全く同じです」と。神はいないと言いながら、神に遣わされた者がいると言うのです。彼はO兄姉のCDをもらったのです。そして、「あいつはパーキンソン病です。かわいそう…」と。彼は釈迦の教えを信じるならあらゆる病気は必ずなおる、と。結局、彼は、イエス様はもちろん永遠なる方でもないし、聖書だって権威あるものでもない。でも旧約聖書を読みたいから聖書はないかと。そこでO兄弟はCDを送りました。O兄がパーキンソンになっても悩みながら喜んでいるのは、これはやはり普通ではないと心の中に感じたのではないでしょうか。
そのような時、もし聖書がなければお手上げになります。その友人は、12月24日のあの出会いを通して、聖書の尊さを新しく知るようになったのです。

最近聞いた話なのですが、ちょっとがっかりしました。ある集会の兄弟は、メッセンジャーと言われている一人なのですが、(結局みことばを運ぶ者です。)この人は次のようなことを言ったそうです。「自分の子どもが未信者と結婚しても問題はない。なぜなら家族になるのだから。そして家族の救いは約束されているからOK.。(プラスアルファ、)聖書は厳しすぎる」と。大変困ったことです。
ですから、「神のみことばは、神のみことばです」の題名にしたのです。

今の問題について、神のみことばである聖書は次のように述べています。
コリント人への手紙・第二 6章14節から18節

 不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、何の交わりがあるでしょう。キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。

このような個所を読むと、やはり自分の考えや人間への同情を交えたりすると、悪魔の勝利になるのではないでしょうか。

初めに司会者が読みました個所、第二テモテ3章16節の内容とは、「聖書はすべて神の霊感によるものです」。
まず、聖書の霊感についていっしょに考えてみたいと思います。聖書は、今日最も普及した書物であり、また最も近代的な書物です。疑いもなく、聖書に心が惹かれる動きは、どこの国でも進行しています。現代の悩みと混乱の中にあって、多くの人々はしっかりとした支えを求め、聖書を読もうという飢え渇きを持っています。
・なぜ聖書が求められるのでしょうか。
・この書物の比類なき内容はいったい何なのでしょうか。
・聖書はどのよう点で、ほかの書物とは比較にならないほどすぐれているのでしょうか。
・聖書にはどのような特別な知恵が与えられているのでしょうか。

私たちはこのような問いに注目したいと思います。即ちその問いとは、まったく簡単に
表現すれば次のように言えるでしょう。「聖書とは何か」ということです。いったいだれが
私たちにこの問いに対する答えを与えることができるのでしょうか。
聖書よりも高い権威あるものだけが、この問いに対して有効な解明を私たちに与えるこ
とができるのです。けれども、それはいったいどこに見出されるのでしょうか。私たちは
すべての国を巡り歩き、すべての時代を探索しても、聖書よりも高い権威をこの地上で見出すことはできません。
聖書よりも高い権威あるものとは、いったい何でしょうか。私たちのちっぽけな人間の理解力がそれなのでしょうか。いえ決して決してそんなことはありません。人間の理解力というちっぽけなものをそんなに大きなものと考えるならば、それは全宇宙を顕微鏡の下に置こうとするのと同じほど愚かなことでしょう。私たちに残されているただ一つの道は、聖書とは何かを知ろうとするならば、聖書そのものに問わなければならないということです。
したがって、「聖書とは何か」という問いを次のように言い換えることができるはずです。即ち、
・聖書そのものは何と言っているのか。
・聖書は私たちに何を求めているのか。
このことを通して、私たちは聖書に語らせたいと思います。けれども聖書は誰にでも語
るのでしょうか。確実に言えることは「聖書を信じたいと思っている人にははっきりと語ってくれるものであり、信じたくない人々には語ってくれないものだ」ということです。聖書に対して心を開いている人は聞くことができ、知ることができ、確信することができますが、心を開いていない人には意味のないものにすぎません。

マタイによる福音書の中で、イエス様は次のように言われたことがあります。
マタイの福音書 13章11節から13節

 イエスは答えて言われた。「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。」

とあります。
イエス様でさえ聞く備えのある弟子たちに話す場合と、聞く備えのない当時の聖書学者たちに話す場合とでは、話し方を変えておられました。即ちイエス様は弟子たちにお話しになるときには大切なことを直接お話しになりましたが、聖書学者たちにお話しになるときは、たとえ話でお話しになりました。新しく生まれ変わっていない人に、聖書の奥義について語ることは、全くむなしい努力に終わります。聖書の奥義は、聖霊を通してのみ、知ることができます。ですから、聖霊を持っていない人は聖書を理解することができません。そのことを、パウロは次のように証ししたのです。
コリント人への手紙・第一 2章14節

 生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。

したがって、聖書の真理を知りたいと思うならば、次のことが前提条件として是非とも必要です。イエス様はヨハネ伝3章で言われました。
ヨハネの福音書 3章3節前半

「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」

いくら聖書を勉強しても無駄です。何にもなりません。それではいったい新しく生まれ変わるとはどのようにすれば可能なのでしょうか。聖書全体が語ろうとしていることは、ヨハネ伝3章の16節にまとめられているのではないでしょうか。
ヨハネの福音書 3章16節

 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

とあります。そのことを切に望む者が、新しく生まれ変わりたいと思うなら、だれでもこの瞬間にイエス様を自分の救い主として受け入れることができるようにされます。というのは、イエス様のうちにこそ、イエス様の流された血潮による罪の赦しがあるからです。

初代教会の人々の喜びのもととは何だったのでしょうか。エペソ人への手紙1章を読むと、次のように書かれています。
エペソ人への手紙 1章7節

 私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。

現在、「赦された」と確信できるということは、これは神の豊かな恵みによることです。自分の聖書の勉強の結果でもないし、報いでもありません。
主イエス様は、切に望む人にはだれに対しても永遠のいのちを与えてくださいます。主のみことばを真剣に受け取る者は、主のみことばに基づいて新しく生まれ変わっていることを主に感謝することが赦されています。信じる者は、即ち悔い改めた人は罪の赦しを持ち、イエス様を受け入れた人は永遠のいのちを持つことができるのです。イエス様を信じる兄弟姉妹は、みことばを通して語ってくださる聖霊により、聖書とは何か、そして聖書はあなたに何を求めているのかということを伝える責任を持っています。
どうしても必要なことは、聖書を通して主のみことばを聞くことです。主イエス様を信じる者として、人間の理性の力で聖書を理解し把握しようとすることは、本当は間違いであり、罪であると言っても言い過ぎではありません。

どんな名外科医でも、生きている人の体を切り刻んで解剖することはできません。その外科医はまず、患者さんが死んで初めて解剖することができるのであって、死体にはいのちがないと言ってもそれは当然のことです。ちょうど外科医が、人間が死んだ後で死体を解剖するのと同じように、人間の理解力で聖書を理解しようとする者は聖書をまずいのちのない書物にしてしまい、それから小さく切り刻んだ一部分を顕微鏡で調べるのと変わりないのです。そこにいのちがないというのは当然のことです。
私たちは聖書を死んだものにしたいとは思いません。聖書はいのちであり、生きること
ばとして私たちに語りかけてくれるはずです。そうすると聖書が主体で、私たちが客体、
即ち聖書が中心で、私たちが対象物になるわけです。私たちが聖書を判断するのではなく、
聖書が私たちを判断するのです。聖書の絶対無比な性質は、「霊感」ということばで表現さ
れます。

それではいったい霊感とは何でしょうか。霊感とは、「神が吹き込む」という意味です。
先に読みました個所を、もう一度読みます。
テモテへの手紙・第二 3章16節前半

 聖書はすべて、神の霊感によるものです。

とパウロはテモテに書いたのです。「聖書はすべて、神の霊感によるものです」。ここで
「神の霊感」と言われるものは、主なる神が吹き込んだという意味です。

それから前に読んでいただきました個所、
ペテロの手紙・第二 1章21節

 なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。

これら二つのみことばは、次のような三つの事実を含んでいるのではないでしょうか。
1.主なる神は、聖書の発起人、即ち著者そのものです。
2.神のみことばは、人間に与えられ、吹き込まれたものです。
3.いわゆる預言者たちは、与えられ、受け取ったものをさらに伝えていきました。即ち、
宣べ伝え、書き伝えました。

霊感としての聖書は、これら三つの事実を特徴として持っています。
これら三つの面は、実際は一つの統一的なものを形成しています。
即ち、
1.遣わすこと。
2.受け取ること。 
3.さらに伝えること。

或いは、同じことを次のように言うこともできるでしょう。
1.語られたみことば。
2.受け取られたみことば。
3.書かれたみことば。

私たちはこのことを次のように図解することもできるでしょう。A、B、Cとしましょう。
A.即ち差出人
B.即ち受取人。
C.宣べ伝え、書き伝えられたこと。即ち聖書。

聖書は、旧約聖書と新約聖書の中で次のように要求しています。即ち、A=C、つまり、語られたみことばは書かれたみことばに等しい、ということです。

私たちはこのような聖書の求めを、「聖書の完全な霊感」と呼びます。部分的ではなく、聖書の全体こそが主なる神のみことばなのです。神によって書かれたみことばは、少しも変わることなく、人間によって書かれたみことばに等しいものとなっています。
ヘブル人への手紙1章を読むと、次のように書かれています。

聖書は事実だけを宣べ伝えている書物です。「主なる神が語られた」と聖書が言っている
ことはそのまま事実として妥当なことです。それは私たち人間が認めようが認めまいが、事実は事実です。主なる神が語られたことは、主ご自身の啓示です。それは上から与えられたものです。人間のことばは下から来たものであり、主のみことばは上から来たものです。ひとつのことばが同時に上からと下からと両方から来ることはあり得ません。主なるヘブル人への手紙 1章1節

 神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、

このみことばの中に、霊感の三つのことが要約されています。
1.神が語られたということ。
2.預言者たちを通して語られたということ。
3.先祖たちに語られたということです。

はっきりしていることは、預言者たちを通して主は語られました。即ちすべての預言者
たちを通して語られ、しかもすべての預言を全体によって語られたということです。即ち、
聖書は、間違いのない主なる神のみことばそのものです。

それではこれから、霊感のこれら三つのことについて、聖書に語っていただきましょう。
1.主なる神は、みことばの発起人、即ち著者です。
このことについて私たちは三つに分けて考えて見たいと思います。
@ 父なる神が語られたこと。
A 主イエス様が語られたこと。
B 聖霊が語られたこと。

なぜなら、主なる神は唯一の神ですが、三つの異なった人格、即ち、父なる神、御子主
イエス様、また聖霊を持っているお方であるからです。
「神のみことばは、神のみことばである」という命題は、何と当たり前のことでしょう。けれども、今まで長い歴史の中でどれだけ多くの人たちが、この当たり前のこと、即ち、「神のみことばは、神のみことばである」という命題を否定するために頑張ってきたことでしょう。しかし結局、主なる神のみことばを徹底的に否定し証明することはできませんでした。
例えばドイツで始まった聖書批判は、A=Cではない。即ち、神の語られたみことばと、
聖書に書かれたみことばは等しくない、ということを証明しようとしたものです。
しかし、主なる神はみことばの発起人、即ち著者です。「神が語られた」。これこそ聖書
が全く当然のこととして行なう要求であります。「神が語られた」と聖書が伝えているとき、
語っているものが本当に神であるかどうかを証明する必要は全くありません。聖書は、神が語られたことをそのまま私たちに伝えています。ですから、神のみことばは本当に神のみことばであるということを証明して欲しいということは、何という侮辱でしょうか。
神のことばと人間のことばとは、その本質上、全く違った性質のものです。
「主なる神が語られた」と聖書が語るとき、それは、聖書が私たちに伝えているみことば
が、その本質上、人間のことばとは全く違っていることを私たちに証しします。

「主なる神が語られた」と聖書は語っていますが、その実例をいくつか聖書の中から見て
みましょう。
・創世記から。数えられないほど、「主が語られた」、「仰せられた」ということばが、何回も、何回も、出てきます。
創世記 1章3節

 そのとき、神が、「光よ。あれ。」と仰せられた。

6節

 ついで神は「大空よ。水の間にあれ。水と水との間に区別があるように。」と仰せられた。

9節

 神は「天の下の水は一所に集まれ。かわいた所が現れよ。」と仰せられた。

11節

 神が、「地は植物、種を生じる草、種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ果樹を地の上に芽生えさせよ。」と仰せられると、そのようになった。

14節、15節

 ついで神は、「光る物は天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のために、役立て。天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」と仰せられた。

24節

 ついで神は、「地は、その種類にしたがって、生き物、家畜や、はうもの、その種類にしたがって野の獣を生ぜよ。」と仰せられた。

26節

 そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。

29節

 ついで神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる。」

とあります。何回も「主は仰せられた」とあります。

2章16節

 神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」

18節

 その後、神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」

3章14節

 神である主は蛇に仰せられた。「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。」

22節

 神である主は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」

4章6節

 そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。」

9節

 主はカインに、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」と問われた。

6章13節

 そこで、神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。」

7章1節

 主はノアに仰せられた。「あなたとあなたの全家族とは、箱舟にはいりなさい。」

8章15節、16節

 そこで、神はノアに告げて仰せられた。「あなたは、あなたの妻と、あなたの息子たちと、息子たちの妻といっしょに箱舟から出なさい。」

21節

 主は、そのなだめのかおりをかがれ、主は心の中でこう仰せられた。「わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。」

9章1節

 それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。」

8節

 神はノアと、彼といっしょにいる息子たちに告げて仰せられた。

11章6節

 主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、 今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。」

12章7節

 そのころ、主がアブラハムに現われ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」と仰せられた。

結局、何回も「主は仰せられた」「主は語った」とあります。

・出エジプト記の中には何度も繰り返し、繰り返し、「主はモーセに語られた」「主はモー
セに仰せられた」ということばが出てきます。例えば3章の4節、7節、12節、14節。4章2節、11節。6章10節。7章1節。8章1節。9章1節。

・レビ記の場合も同じように、「主はモーセに語られた」ということばで、新しい章が始め
られています。

旧約聖書の中で、「主は語られた」という表現にアンダーラインを引いてみると、その数
がいかに多いか驚くほどです。今日は読む時間がありませんが、
・申命記 1章6節、34節。4章12節。5章5節。
・イザヤ書 1章2節、10節、11節、18節、24節。6章8節。8章11節。13
章1節。4章11節。
・エレミヤ書 五百回以上、「主は語った」と書いてあります。一番おもだった個所は7章
1節。9章12節。11章1節。13章15節。21章11節。26章1節。27章1
節。30章1節と4節。50章1節です。
・サムエル第二 23章2節。
・列王記第一 12章22節。
・歴代誌第一 17章3節。
・ダニエル書 2章23節。8章28節。
・エゼキエル書 1章3節。3章22節。8章1節。2章1節。4章7節。3章14節、
16節、23節。45章9節と18節。
・ヨナ書 1章1節。3章1節。
・アモス書 3章1節。
・ゼパニヤ書 1章1節。
・ハガイ書 1章1節。
・ゼカリヤ書 4章1節。5章5節。8章1節。
・マラキ書 1章1節。
次々と、何回も、何回も数えられないほど「主は仰せられた」「主は語った」とあります。
このように、旧約聖書における預言者の書を見ると、私たちは本当に主が語られたことを
認めざるを得ません。そして預言者たちが書き記したことばは確かに神のみことばである
と言わざるを得ません。

例えばエレミヤ書の中でも、「主は語られた」とか、「主からエレミヤにあったみことば
はこうである」という個所にアンダーラインを引くならば、その数もまた驚くほど多いこ
とがわかります
旧約聖書の中では、「神が語られた」という表現が象徴的に使われているのに対して、
新約聖書では、「イエス様が語られた」ということばで表現されているのが特徴的です。
至るところで、「イエス様が語られた」という個所を見出すことができます。

ヘブル人への手紙 1章1節、もう一度読みます。

 神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られました。

主イエス様のことばは神のことばです。それはちょうど預言者たちのことばが神のみこ
とばであるのと同じように確かなことです。イエス様が語られたことばは上から、即ち、
父なる神から与えられたみことばです。ですからそれらのみことばは霊といのちなのです。イエス様は言われました。
ヨハネの福音書 6章63節

 わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちなのです。

主のみことばによって生かされた者は永遠のいのちを持っています。そしてそのような
永遠のいのちを持っている者にとっては、イエス様のことばは単なる教えではなく、力で
あり、喜びです。ヨハネの福音書の7章46節を読むとわかります。
ヨハネの福音書 7章46節

 役人たちは答えた。「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません。」

当時の人々、そして役人たちでさえも、主イエス様のみことばに接したとき、「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません」と言わざるを得なかったのです。
そして今日までイエス様のみことばを超えるものは何もありません。即ち主イエス様は
父なる神の完全な認識を持っておられ、常に愛に満ちて語られます。主のみことばは少しの疑いもない、明確な真理なのです。今日に至るまで主のみことばは時代遅れで古くさいものとはならず、何一つ変えるべきものもなく、削除するべきところも、撤回するところもありません。
主のみことばの一つ一つが、いのちそのものであり、いのちをつくるものであり、心を開いて主のみことばを聞く者はだれでも、測り知れない神の力を経験します。イエス様が地上で語られたことは、父なる神ご自身が御子を通して語られたことばでした。イエス様の声は父なる神の声にほかなりませんでした。

今まで私たちは、
@「神が語られた」ということ。
A「イエス様が語られた」ということについて、聖書から見てきました。

B 最後に、「聖霊が語られた」ということについて、ちょっとだけ見てみたいと思います。
イエス様はこの地上を去る少し前に、もうひとりのなぐさめ主、即ち「聖霊」がイエス様の代わりに語られるようになるとおっしゃいました。
ヨハネの福音書 16章13節、14節

 しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。

聖霊は、五旬節のときからイエス様の代わりに語ってくださるものとなられました。
15章26節、27節

 わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。あなたがたもあかしするのです。初めからわたしといっしょにいたからです。

聖霊は教えてくださるお方であり、思い起こさせてくださるお方でもあります。
14章26節

 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

とあります。イエス様は昇天され、高く引き上げられて天に戻られてから、これからは
聖霊が語り手であるということを重ねてお話になられました。

黙示録2章と3章を見ると、何度も同じことばが出てきます。
黙示録 2章7節前半

 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。

御霊の語ることは大切だということです。新約聖書の多くの作者たちは、聖霊が自分た
ちを通して語っておられるということを常に意識していました。彼らは、自分たちが考え
出したことではなく、上から与えられた神の啓示を宣べ伝えなければなりませんでした。
そして、彼らは旧約聖書に書かれている事がらだけではなく、自分たちを通して聖霊が語られたみことばも同じ権威を持っていると要求しました。

ペテロは、イエス様の霊が預言者たちを通して語られたこと、そしてまた同じ霊が自分
たちを通しても語っておられると私たちに証ししています。
ペテロ第一の手紙の1章から、二、三節を読んでみます。
ペテロの手紙・第一 1章10節から13節

 この救いについては、あなたがたに対する恵みについて預言した預言者たちも、熱心に尋ね、細かく調べました。彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もってあかしされたとき、だれを、また、どのような時をさして言われたのかを調べたのです。彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのための奉仕であるとの啓示を受けました。そして今や、それらのことは、天から送られた聖霊によってあなたがたに福音を語った人々を通して、あなたがたに告げ知らされたのです。それは御使いたちもはっきり見たいと願っていることなのです。ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。

パウロもまた、同じようなことを強調したのです。その福音の発生についてそれが自分の考えではなく、主によって上から与えられたものであることをパウロは強調したのです。
コリント人への手紙・第一 2章4節から7節

 そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした。それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。しかし私たちは、成人の間で、知恵を語ります。この知恵は、この世の知恵でもなく、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。

12節

 ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜ったものを、私たちが知るためです。

パウロはここで、書いたこと、語ったことは神のみことばにほかならないと断言しています。もし、自分の考えに過ぎないのであれば、パウロの言っていることはとんでもないことになってしまいますが、本当に神のみことばが語られているのであれば、それを明らかにしないことが大変大きな債務になってしまうのです。
イエス様の語られたことばが神のみことばであるのと同じように、聖霊が語られること
ばもまた、神のみことばです。新約聖書の多くの手紙の中に明らかにされている神の啓示は、聖霊の証しにほかならなりません。即ちそれは、天から与えられた神のみことばです。

聖書の最後の書である黙示録についても、ひとことだけ申し上げたいと思います。
ヨハネの黙示録もまた、天からの啓示、つまり、神のみことばであるということを知っているのでしょうか。
黙示録 1章1節

 これは、…神がキリストにお与えになったものである。

と黙示録の最初に書かれていることから明らかなように、過去に書かれていることもま
た、すべて神のみことばです。このようにして聖書は最後のところでも、また再びそれら
のみことばが神のみことばにほかならないことを強調しています。

もう一箇所読んで終わりましょう。
黙示録 22章6節

 御使いはまた私に、「これらのことばは、信ずべきものであり、真実なのです。」と言った。預言者たちのたましいの神である主は、その御使いを遣わし、すぐに起こるべき事を、そのしもべたちに示そうとされたのである。

16節

「わたし、イエスは御使いを遣わして、諸教会について、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」

聖書は統一を持った神のみことばです。聖書は神が語られたことをそのまま私たちに、
伝えています。父なる神は語られました。父の御子であられる主イエス様が来られ、そして語られました。聖霊が遣わされ、証しをし、そして宣べ伝えました。主なる神ご自身が聖書に記されている黙示を書いたお方です。

非常に悩んでいるある一人の姉妹がいます。ご主人は家から出てしまいました…云々と大変です。けれどもその姉妹は何を書いたかと言いますと、「私はみことばを食べています。私はイエス様が大好きです」と。
別の姉妹は、「みことばはいのちそのものです。主は本当にすばらしい方です。偉大な方です」と。

聖書は勉強するために書かれているものではありません。元気のもとです。みことばに頼ると、だれでも必ず元気になります。
人間に与えられている最高の宝物は、間違いなく聖書です。この聖書が与えられていることをおぼえて、毎日感謝すべきではないでしょうか。



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メッセージ・証し集インデックスページ

◆メッセージ(ベック兄)

※一部、テープの転換による不明部分あり

神のみことばは神のみことばである(5) 2006. 4. 18
神のみことばは神のみことばである(4) 2006. 4. 11
神のみことばは神のみことばである(3) 2006. 4. 4
神のみことばは神のみことばである(2) 2006. 3. 21
家族の救い 2006. 3. 19
神のみことばは神のみことばである(1) 2006. 3. 14
主イエスは神の子キリストである(4) 2006. 3. 7
主イエスは神の子キリストである(3) 2006. 2. 28
主イエスは神の子キリストである(2) 2006. 2. 14
主イエスは神の子キリストである(1) 2006. 2. 7
勝利の生活の秘訣 2006. 1. 24
イエス・キリストのからだ 2006. 1. 17
主の永遠からの予定 2006. 1. 10
元旦メッセージ 2006. 1. 1


2005年度のメッセージ集
2004年度のメッセージ集
2003年度のメッセージ集