神のみことばは神のみことばである(4)
2006.4.11(火)
ベック兄メッセージ(メモ)
マタイの福音書 4章4節
|
イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」
|
ヨハネの福音書 17章17節
|
「真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。」
|
ヨハネの黙示録 19章11節から16節
|
また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実。」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。その着物にも、ももにも、「王の王、主の主。」という名が書かれていた。 |
私たちの最近のテーマは、『神のみことばは、神のことばです』。本当は、「聖書は神のことばです」と言いたいのです。
主は語ってくださいました。この、主の語ってくださったみことばを、預言者たち使徒たちが聞いて、そして言われた通りに書いたのです。ですから、聖書は神のみことばなのです。
先日話しましたように、最近ドイツで新しい聖書が出て来たのです。これは、悲劇的なことです。例えば聖書の中では、「主は語られた」「彼は語った」と。新しい聖書の中では、「彼は語った」と書いてないのです。「彼女は語った」。(笑)
もちろん神は男でもないし、女でもありません。ヨーロッパはもう全然ダメ。希望がまったくありません。近いうちに反キリストが出てくるに違いありません。そして今はそのための準備期間だけなのです。
聖書は、本当に考えられないほど大切です。
何年前だったかちょっと忘れましたが、盛岡のF兄弟は証ししたことがあります。次のようなことだったのです。
「私は六十二歳までまったく聖書と関係のない男でした。性格の弱い人たちだけが聖書を
読む。稼いで、うんと遊ぼう。これが私の考え方でした。今、聖書は私にとって一番面白
い本になったのです。普通の本はだいたい一回だけ読むもので、あとでべつに読む必要は
ありません。それは内容がわかっているからです。一般的な本は、二回読んだとしても、途中でやめるかもしれません。それは次のことがわかるからです。しかし、聖書はいくら読んでも、すばらしい本です」。
聖書とは「THE BOOK」、すなわち、「本の中の本」そのものです。比べられないほどすばらしい宝物です。聖書のすばらしさは、おそらく救われてから初めて、本当の意味で知るようになるのではないでしょうか。
今読みました個所の中で、イエス様は祈りながらお語りくださったのです。「あなたのみことばは真理です」。これこそがイエス様の証し、また告白でした。イエス様のように、
みことばを大切になさった方はいません。イエス様にとってみことばは、すべてのすべてでした。イエス様はみことば無しに生きることがおできにならなかったのです。ですから、イエス様は言われました。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」と。
最後に読んでいただきました個所の中で、イエス様の一つの名称は、「神のことば」と書かれています。イエス様が空中再臨のあとで公に来られるとき、(もちろん裁き主として、ユダヤ人の王として来られるのですが、)イエス様の名称は「神のことば」です。
はっきり言えることは、聖書は信じたくない人々にとって全く役に立たないものです。
語ってくれないものです。信じたいと思えば、聖書は生き物になります。聖書に対して心
を開いている人は聞くことができ、理解することができ、確信を持つことができるのです。
心を開いていない人にとっては、聖書は全く意味の無いものになってしまいます。
聖書を読むとき、いつもひとつの大切な原則があります。すなわち私たちが聖書を判断するのではなく、聖書が私たちを判断すべきです。人間の考えていることや思っていることはどうでもいいのです。大切ではありません。私たちは何があったとしても、イエス様のお取りになった態度を取るべきでないでしょうか。「あなたのみことばは、真理です」。私がわかってもわからなくても、理解できてもできなくても関係ありません。聖書の絶対無比の性質は、「霊感」ということばで表現されています。
ペテロは次のように書いたことがあります。
ペテロの手紙・第二 1章21節
|
預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。
|
「預言は」、つまり神のみことばは、です。
聖書は事実だけを宣べ伝えている書物です。主なる神が語られた、と聖書が何回も、何
回も記しています。そのまま事実として納得しますと、私たちが認めても認めなくても、
事実は事実なのです。主なる神が語られたことは、主なる神の啓示そのものです。
多くの人々は、主がいろいろなことを語られた理由は知識を与えるためである、と。けれど決してそうではありません。主はどうして語られたかと言いますと、ご自身を明らかになさるためです。
主のみことばは、人間の罪の状態を明らかにします。みことばは真理ですから、剣のように人間の心を刺し通します。私たちはみことばを通して燃えるような主の目に出会い、
主が語られると私たちは沈黙しなければなりません。
イエス様は次のように言われました。
ヨハネの福音書 12章48節
|
わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。
|
ことばが裁き主になります。イエス様を受け入れ、イエス様のうちに救いがあると信じ
る者は、このみことばによって新しく生まれ変わり、永遠のいのちをもつようになります。
今まで私たちは、
まず、主ご自身がみことばの発起人、すなわち著者であることを見てきました。また、主のみことばが人間に与えられたことについても考えてきました。
主は、ご自身と交わりを持つことができるようにと人間を創造されたのです。交わろうとすれば、ことば無しには不可能ではないでしょうか。というのは、ことばの中にこそ本質が表われるからです。ですから、主は人間に語ってくださったのです。主は、私たちのような者と交わろうと心から望んでおられます。
主は用いようとする人間をお選びになります。主によって選ばれた人々は、聖書の中で、「預言者たち」と呼ばれています。したがって、主は預言者たちに対して直接語ってくださり、預言者たちは主のみ声を聞き、みことばを受け取ったのです。預言者たちは、主のみことばを宣べ伝える者となりました。このようにして、特別に主によって召し出された人々のことを、聖書はいつも、「預言者」、「宣べ伝える者」と呼んでいます。
つまり、預言者とは主の通りよき管のようなものに過ぎず、主のみことばを直接主から受け取り、それをさらに人間に伝えるわけなのです。ですから、預言者の特別な使命は、主から受け取ったみことばをそのまま伝えることにほかなりませんでした。このように、聞いたことをそのままの形で伝えることを、聖書は「霊感」と呼んでいます。主が語られ、預言者たちは語られたおことばを聞いただけでなく、聞いたみことばを宣べ伝えるようになったのです。結局、預言者たちは、主の啓示を直接見たり、聞いたりします。主は行動なさるお方であり、みことばを与えてくださるお方です。これに対して預言者たちは、単に受け身的に参加し、見たり聞いたりするのです。主のことばは預言者たちを覆ったのです。決して預言者たちが自分勝手に作り上げたものではありません。
そのことによって、本当の預言者と偽りの預言者とが区別されます。本当の預言者は、主のみことばを受け取るときに全く受け身的です。偽りの預言者は、神の啓示を自分の意思で作り変えてしまおうとします。ですから聖書を書いた人々とは、結局聞いたことだけを書いたのです。わかったことではありません。おそらく、大部分は自分には書いている内容がピンと来なかったでしょう。理解できなかったでしょう。なぜなら、将来のこと、未知のことについて書かなければならなかったからです。けれども、自分にわかっても、わからなくても関係はなく、主がお語りになられたから仕方がなくて書こうと。
主のことばを、人間のことばとして説明しようとするならば、それは大変な責務となります。主のみことばの霊感は、単に人間の意思とは無関係であるだけではなく、人間の理解力とも関係がないからです。
どうして、大部分の聖書学者たちは悪魔の道具になったのでしょうか。二千年間の教会歴史を見るとがっかりします。まことの神の最大の敵は、いつも聖書学者でした。読んでわかったと思えばおしまいです。わかるものではありません。けれど、信じれば力の源になるのです。生きる希望になります。
預言者たちは、「主のことばが私に臨んだ」と何回も言いました。そして彼らの語ったことばは直接上から来たことばだ、と言いました。すべての預言者たちは、自分がまことの預言者であるということに大きな価値を置いています。そのために多くの預言者たちは自分たちの召されたプロセスを、経験したことを、詳しく語りました。また、ある預言者たちも、彼らが宣べ伝えていることばについて「直接主から受け取った」ことだとはっきり証ししたのです。
例えばイザヤは、「私は主を見た。私はわざわいなるかな」と言ったのです。「私は主の
声を聞いた」。すなわちイザヤは主を見、そしてみ声を聞きました。彼は大いなる任命に直面し、いかに無価値な者かと思い、主の前に汚れた者として立ったのです。
エレミヤも、同じことを経験しました。主のみことばが彼に臨んだのです。しかも全く直接臨んだのです。
聖書は、主なる神が直接お語りになられたすべての人々を預言者と言います。もちろん、いわゆるカリスマ的な教会の多くは、やはり昔の預言者たちは十分ではない。私は直接主の声を聞いた。ああだ、こうだと言います。それは100%間違っています。聖書が与えられているのですから、今の時代で預言者は必要がなく、書かれているみことばだけ宣べ伝えれば十分なのです。
聖書に記されている預言者たちは、ただ単に将来起こるべきことだけではなく、現在の
こと、あるいは過去のことも宣べ伝えたのです。彼らは主から受け取ったことばを宣べ伝
えただけです。ですから、モーセも預言者と呼ばれています。ダビデも預言者と呼ばれています。ルカ伝の16章に次のように書かれています。
ルカの福音書 16章29節
|
「しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』」
|
ここで、「モーセと預言者」とあります。彼らは結局、みことばを宣べ伝えたのです。
使徒行伝1章16節を読むと次のように書かれています。ダビデはやはり預言者であったことを示すものです。
使徒の働き 1章16節
|
「兄弟たち。イエスを捕えた者どもの手引きをしたユダについて、
聖霊がダビデの口を通して預言された聖書のことばは、 成就しなければならなかったのです。」 |
「聖霊がダビデの口を通して預言された」と。
3章18節
|
しかし、神は、すべての預言者たちの口を通して、キリストの受難をあらかじめ語っておられたことを、このように実現されました。
|
4章25節
|
あなたは、聖霊によって、あなたのしもべであり私たちの先祖であるダビデの口を通して、こう言われました。『なぜ異邦人たちは騒ぎ立ち、もろもろの民はむなしいことを計るのか。…』
|
この証言は力強いものです。
旧約聖書の統一された証言は、神のみことばです。これは、まことに主が預言者たちに語られたみことばです。預言者たちのことば、すなわち旧約聖書が主のみことばであると
いうことが歴然とした事実であるとするなら、そのみことばを聞く者は真剣に聞く耳を持つべきであり、主のみことばとしてそれを絶対に肯定することが要求されます。
もちろん、最高の預言者とは、私たちの主イエス様ではないでしょうか。主イエス様がこの地上に来られたとき、父なる神は自らイエス様を公にお認めになられました。しかし、イエス様が偉大な預言者であられることを人間が認めることができなかったので、主は天を開き、聞き取ることのできる声で語られたのです。
マタイの福音書 17章5節
|
彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」という声がした。 |
イエス様のみ口から出たことばは、いずれも直接父のみことばでした。イエス様は預言者として比類なき地位をお占めになり、したがって、ほかの預言者たちと同一に置くことはできません。
イエス様について次のように記されています。
ヨハネの福音書 1章18節
|
いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。
|
ここでイエス様は「ひとり子の神」と呼ばれています。
12章49節、50節
|
「わたしは、自分から話したのではありません。わたしを遣わした父ご自身が、わたしが何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。それゆえ、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのままに話しているのです。」
|
今まで、旧約聖書の中で召し出された預言者たちについて、また、イエス様について考えてきたのですが、もう少し、新約聖書に出てくる使徒たちについて考えたいと思います。
主は、新約聖書の中における使徒たちを通しても語ってくださいました。私たちは新約聖書においても主のみことばを受け、使徒たちのことばが旧約聖書の預言者たちのことばと同じように権威あることばであることを、使徒たちの語っていることばの中に見いだすことができます。
イエス様は十二弟子をお選びになりました。そしてイエス様は、彼らを「使徒」とお呼
びになったのです。預言者と同じ意味です。
ルカ伝の6章13節を読むと、次のように書かれています。
ルカの福音書 6章13節
|
夜明けになって、弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び、彼らに使徒という名をつけられた。
|
使徒、すなわち遣わされた者たちはイエス様ご自身によって召され、特別に呼び出され、
装備を与えられ、イエス様が彼らの口にご自身のみことばを与え、大いなる権威をもお与えになりました。
例えば、マタイ伝の18章を読むと次のように書かれています。
マタイの福音書 18章18節
|
「まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。」
|
と書き記されています。
マタイの福音書 10章19節
|
「人々があなたがたを引き渡したとき、どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです。」
|
主は語ってくださるお方ではなく、主は語るお方です。
ルカ伝の10章16節。すべての福音書の中で似ていることばが沢山出てきますが、
ルカの福音書 10章16節
|
「あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾ける者であり、あなたがたを拒む者は、わたしを拒む者です。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒む者です。」
|
ヨハネの福音書 20章21節
|
イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。
父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」 |
使徒たちは主のみことばを委託された宣教者です。このことについて、イエス様は祈り
の中で次のようにおっしゃいました。
ヨハネの福音書 17章14節
|
「わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。」 |
18節
|
「あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。」
|
と、イエス様は祈りの中で告げてくださったのです。イエス様が使徒たちのもとから離れ、天に昇られる時、使徒たちの口を通して、今から語られるのは聖霊であると約束してくださいました。したがって、私たちは使徒たちの書いたものにおいて、彼らを通して聖霊がお語りになられるみことばを聞くことができます。
主なる神は、新約聖書の中で、ご自身を啓示なさるために十二人の使徒たちだけという限定をされませんでした。主は、パウロのような使徒をもまったく同じようにお召しになったのです。
パウロは次のように書いたのです。
ガラテヤ人への手紙 1章17節
|
先輩の使徒たちに会うために、エルサレムにも上らず、アラビヤに出て行き、またダマスコに戻りました。 |
とあります。
パウロは、諸教会の前で上からの召しを通して使徒であることを認められ、彼の宣べ伝えた福音が第三者からではなく、直接主ご自身からのものであることを強調し、そのことに最大の価値を置いています。パウロはイザヤとかエレミヤとまったく同じように、直接主なる神から召された者でした。
ガラテヤ書の1章を読むと、彼は次のように書いたのです。
ガラテヤ人への手紙 1章11節、12節
|
兄弟たちよ。私はあなたがたに知らせましょう。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。
|
勉強した結果ではありません。
15節、16節
|
けれども、生まれたときから私を選び分け、恵みをもって召してくださった方が、異邦人の間に御子を宣べ伝えさせるために、御子を私のうちに啓示することをよしとされたとき、私はすぐに、人には相談せず、 |
云々とあります。
2章8節
|
ペテロにみわざをなして、割礼を受けた者への使徒となさった方が、私にもみわざをなして、異邦人への使徒としてくださったのです。
|
パウロは預言者として召されました。というのは、アナニヤがイエス様の命を受けて、
彼に次のように伝えているからです。
使徒の働き 22章14節、15節
|
「彼はこう言いました。『私たちの先祖の神は、あなたにみこころを知らせ、義なる方を見させ、その方の口から御声を聞かせようとお定めになったのです。あなたはその方のために、すべての人に対して、あなたの見たこと、聞いたことの証人とされるのですから。』」
|
この主なる神の召しに基づいてパウロは常に、「イエス・キリストの使徒」と自らを呼ん
でいます。手紙全部を見てもわかります。
ローマ人への手紙 1章1節
|
神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ、
|
コリント人への手紙・第一 1章1節
|
神のみこころによってキリスト・イエスの使徒として召されたパウロ
|
コリント人への手紙・第二 1章1節
|
神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロ、
|
ガラテヤ人への手紙 1章1節
|
使徒となったパウロ―私が使徒となったのは、人間から出たことでなく、また人間の手を通したことでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によったのです。―
|
もちろんほかの手紙もそうです。
エペソ人への手紙 1章1節
|
神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロ |
コロサイ人への手紙 1章1節
|
神のみこころによる、キリスト・イエスの使徒パウロ、
|
テモテへの手紙・第一 1章1節
|
私たちの救い主なる神と私たちの望みなるキリスト・イエスとの命令による、キリスト・イエスの使徒パウロから、 |
テモテへの手紙・第二 1章1節
|
神のみこころにより、キリスト・イエスにあるいのちの約束によって、キリスト・イエスの使徒となったパウロから、 |
とあります。
テトスへの手紙の1章1節も同じように書いています。
テトスへの手紙 1章1節
|
神のしもべ、また、イエス・キリストの使徒パウロ―私は、神に選ばれた人々の信仰と、敬虔にふさわしい真理の知識とのために使徒とされたのです。
|
ですからパウロは、彼が多くの手紙の中で書いているみことばが、啓示を通して彼が受けた主の直接のみことばであると証言しています。パウロは、非常に情熱的にイエス様の
使徒として自分が召されたことを弁明しています。どうしてでしょうか。自分の名誉のた
めでしょうか。もしそうだったなら、彼は別のものを選んでいたことでしょう。
彼は次のように説明しています。
コリント人への手紙・第一 4章9節、10節
|
私は、こう思います。神は私たち使徒を、死罪に決まった者のように、行列のしんがりとして引き出されました。こうして私たちは、御使いにも人々にも、この世の見せ物になったのです。私たちはキリストのために愚かな者ですが、あなたがたはキリストにあって賢い者です。私たちは弱いが、あなたがたは強いのです。あなたがたは栄誉を持っているが、私たちは卑しめられています。
|
パウロは自分自身の名誉を求めたのではなく、使徒の権威をもって、自分の語ることば
は主からのことばであることを強調したのです。なぜなら、彼の語ることばをだれひとり軽い気持ちで、人間のことばと見なすことがないようにするためでした。主なる神の名誉のために、パウロは、イエス様の使徒として認められることを要求しています。
ここで、パウロはこのように書き記したのです。
コリント人への手紙・第二 11章5節
|
私は自分をあの大使徒たちに少しでも劣っているとは思いません。
|
確かに、ほかの使徒たちは、三年半イエス様といっしょに過ごしました。すばらしい時を経験することができました。パウロと違います。けれどもそれにしても、使徒たちの中
で一番になったのは、間違いなくパウロなのです。
コリント人への手紙・第一 15章8節から10節
|
そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。
|
またパウロは、彼がほかの使徒たちによっても認められたことを強調し、まったく彼ら
と同列に置かれることをためらいませんでした。
ガラテヤ書の中で、彼はまた次のように書き記したのです。
ガラテヤ人への手紙 2章6節から9節
|
そして、おもだった者と見られていた人たちからは、―彼らがどれほどの人たちであるにしても、私には問題ではありません。神は人を分け隔てなさいません。―そのおもだった人たちは、私に対して、何もつけ加えることをしませんでした。それどころか、ペテロが割礼を受けた者への福音をゆだねられているように、私が割礼を受けない者への福音をゆだねられていることを理解してくれました。ペテロにみわざをなして、割礼を受けた者への使徒となさった方が、私にもみわざをなして、異邦人への使徒としてくださったのです。そして、私に与えられたこの恵みを認め、柱として重んじられているヤコブとケパとヨハネが、私とバルナバに、交わりのしるしとして右手を差し伸べました。それは、私たちが異邦人のところへ行き、彼らが割礼を受けた人々のところへ行くためです。
|
結局パウロの特別な使命とは、ユダヤ人でない人々、いわゆる異邦人たちに、イエス様
を紹介することでした。パウロは、主が語ってくださる預言者であることをよく知ってい
ましたので、彼が書き記す事がらに対して完全な権威を要求しています。したがって、私たちはパウロを神の預言者として認め彼の要求を信じるか、さもなければ、気違いとして彼を退け、彼のことばを一言も信じないかのいずれかです。
パウロの書いたことばに新たに耳を傾けましょう。
コリント人への手紙・第一 14章37節
|
自分を預言者、あるいは、御霊の人と思う者は、私があなたがたに書くことが主の命令であることを認めなさい。 |
「主の命令であることを認めなさい」と。
ガラテヤ人への手紙 1章8節
|
しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。
|
強いことばです。
また、
テサロニケ人への手紙・第一 2章13節
|
こういうわけで、私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。
|
もう一箇所、
コリント人への手紙・第二 13章3節
|
こう言うのは、あなたがたはキリストが私によって語っておられるという証拠を求めているからです。キリストはあなたがたに対して弱くはなく、あなたがたの間にあって強い方です。 |
主なる神が、ちょうど預言者たちの口を通して語られたように、使徒たちの口を通して
お語りになるなら、当然のことながら人間には主なる神のみことばについて議論したり、
その信憑性を調べたり、人間の理解力や意思に合うかどうかを考えたりすることは許され
ません。新約聖書の福音は無条件の服従を要求します。「聞きなさい」「従いなさい」これは、新約聖書が読者に対して無条件に立てている要求でもあります。主なる神のことばに対する完全な肯定、すなわち人間の理解力、気持ち、意志などをみことばに服従させることは、キリスト者のあらゆる倫理道徳の土台です。
このようにして必然的な一つの結論にたどり着きました。私たちは旧約聖書においても
新約聖書においても、全く同じ証しを見いだすことができます。主なる神は、特にそのために召された人々の口を通してお語りになられました。主なる神のみことばを宣べ伝えた人たちは、旧約聖書においては「預言者」と呼ばれ、新約聖書においては「使徒」と呼ばれます。使徒たちの与えられた啓示は、預言者たちによって受け取られた啓示よりもはるかに広く、且つ、深いものです。ですから、新約聖書の中で両者を挙げるときには、まず使徒たち、それから預言者たちというように、使徒たちが優先されており、次のようにして教会は建てられたことが私たちに証しされています。
エペソ人への手紙 2章20節
|
あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。
|
まず使徒と呼ばれ、あとで預言者となっています。したがって、旧約聖書と新約聖書の喜びの訪れは統一されています。聖書は教会の唯一の土台です。聖書が不動の土台であり、
信者たちの教えと生活に対する唯一の権威です。
主なる神のお語りになったみことばは、使徒と預言者が受け取ったことばとして変わる
ことがありません。すなわち、送り手のことばと、受け手のことばは等しいということが
ここでも立証されます。
今まで大きく分けて、
第一番目に、主なる神が聖書の発起人、寄贈者、すなわち著者そのものであること。
第二番目に、主のみことばが人間、すなわち使徒と預言者に与えられ、吹き込まれたことを見て来ました。
次回は、第三番目になりますが、使徒と預言者たちに与えられたみことばを、さらに宣べ伝え書き伝えた使徒たちの歴史を、聖書の中から読み深めてみたいと思います。
つまり、主のお語りになったことばは、「聖書そのもの」であるということです。
イエス様を第一にする人は、みことばも第一にします。
|