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メ ッ セ ー ジ ・ 証 し 集


主イエスは神の子キリストである(4)
   
2006.3.7(火)
ベック兄メッセージ(メモ)

 
ローマ人への手紙 1章4節、5節
 聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。このキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためなのです。

ヨハネの手紙・第一 5章20節

 しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。

コリント人への手紙・第二 1章9節、10節

 ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。


今朝、アメリカのオクラホマから電話がありました。今日集まる兄弟姉妹みなさんに、宜しくとのことです。それはF兄姉からでした。先日オクラホマで初めての喜びの集いが開かれるようになり、大変良かったと思いました。けれど私の思いより、参加された方のほうがもっと「良かった!」らしいです。
結局喜びの集いが全部終わってから、いろいろな人が感謝でいっぱいになり、「誘って下さってありがとう。参加したことは良かった。聖書はすごい…」と。現地でその時集会に来ることができなかった人たちも影響を受けて、やはり積極的に求めるようになられたようです。しかしF兄姉は、今月の終わりに日本に戻られますからちょっと……。幸いにI兄弟が、「今から時々行きます」と言われたので大変感謝です。

この間、名古屋で喜びの集いがありました。いつものように福音集会があり、礼拝があ
り、記念会、結婚式、祝福式もあり、(おかげで退屈にならなかったのですけれど(笑)…)六人の兄弟姉妹が洗礼を受けましたし、十九人は初めて主の御名を呼び求めるようになったのです。
喜びの集いのメインは、A兄弟の証しでした。そのために、吉祥寺から何人かの兄姉は日帰りで参加したのです。本当に良かったと思いました。彼は確かに痩せました。膵臓癌なのです。いつまでお元気かわかりません。けれども、「座ったままで証ししてもいいです」と言うことでしたが、証しは非常に良かったのです。十何年か前に、やはり癌で奥さんが召されました。それから彼は、「今からイエス様のために働こう」と。いろいろな人たちが、彼の証しを通して導かれるようになりました。今回がもしかすると彼の最後の証しのチャンスだったかもしれません。彼のことも是非覚えていてください。

今日は、「主イエス様は神の御子であり、まことの神そのものである」という事実について、もう少し考えてみたいと思います。
今、司会の兄弟が初めに読まれた箇所に、「使徒の務め」ということばが出てきます。
ローマ人への手紙 1章4節、5節

 聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。このキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためなのです。

信じることは、もちろん大切です。けれど、それだけでは十分ではないのですね。ですからここで、「信仰の従順」と書かれているのです。従順無しの信仰は本物ではないのです。パウロは、ここで、「使徒の務め」ということばを使ったのですが、「使徒の務め」とは、いったいどういうことなのでしょうか。
使徒行伝を読むとわかりますが、使徒たちは、イエス様を単なる助け手として、単なる救いを与えるお方として宣べ伝えたのではなかったのです。彼らはイエス様を主として、神の御子として、永遠に変わらない神として宣べ伝えたのです。「イエス様は全てのものの主である」。これが使徒たちの証しでした。
もしイエス様が主であるならば、救い主でもあるはずです。同じくローマ書10章9節
を読むと、次のように書かれています。
ローマ人への手紙 10章9節、10節

 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

イエスを、「救い主」ではなく、「主と告白し」とあります。
ローマ人への手紙 14章8節、9節

 もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。

四回も、「主」という表現が出てきます。「救い主」ではありません。「助け手」でもありません。また「贖い主」でもありません。「主」です。
そして、前に読んでいただきました、コリント人への手紙の中でも、何回も何回も同じ表現が出てきます。
コリント人への手紙・第一 8章6節

 私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです。

何回も、「主」、「主」となっているのです。そして、第二の手紙の4章5節です。
コリント人への手紙・第二 4章5節前半

 私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。

使徒たちの務めとは、主を宣べ伝えることでした。

イエス様が犠牲になられ、私たちの罪の身代わりに死なれた目的の一つは、イエス様が私の主となられたのであって、私たちを用いるためなのではないでしょうか。
コリント人への手紙・第二 5章15節

 また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。

イエス様は、私たちの罪滅ぼしのために犠牲になられただけではありません。私たちの
「主」となられるためです。
使徒行伝2章36節を読んでも、同じことが強調されています。五旬節のときのペテロのメッセージの中のものです。
使徒の働き 2章36節

「ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」

イエス様とは、「主」です。

使徒たちは、どうしてイエス様を紹介したのでしょうか。どうしていろいろな手紙を書
いたかと言いますと、結局イエス様が「主」となられるためです。コロサイ書1章18節を読んでもわかります。
コロサイ人への手紙 1章18節

 また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。

イエス様は、第一になられるべきです。礼拝の中心となられるべきです。今読みました聖書を見ると、どうしても「主イエス様はすべてのものの主であられる」ということを認めないわけにはいきません。イエス様のご支配こそが最も大切です。

「イエス様はすべてのものの主であられる」。これは、初代教会の人たちが宣べ伝えた事柄であり、初代教会の中心に、この、「イエス様はすべてのものの主であられる」という精神が、強く貫き通されたのです。
初代教会の信者たちは、上からのいのちに満たされていたのです。集会を開くたびに、
会衆も満たされていました。集会を開くたびに、会衆は溢れ、またそこでなされる信じる者の証しは、泉が溢れいずるが如く豊かで、力に満ちていたものでした。信者一人一人、また、集会全体のうちに、イエス様の満たし、イエス様の豊かないのちを見ることができたのです。

この秘密は、すべてのものの主なるイエス様です。即ち、イエス様の絶対的なご支配で
した。イエス様が私たちの心の内を全くご支配なさると、私たちを支配しようとするほかのものは何一つなくなるはずです。
・私たちは、ありとあらゆる偶像から全く縁を切っているでしょうか。大きな偶像の一つは、自分の意思です。
・私たちの心の王座には、だれが座って支配しているでしょうか。イエス様でしょうか。
私たちの自分の意思でしょうか。自分の性質でしょうか。好き嫌いでしょうか。
・私たちは、本当にしばしば自分の考えを正しいものとし、自分の考え方だけが正しいとしてしまうのではないでしょうか。己が正しいとあまり強く主張するので、イエス様は、
その人の主となることがおできになりません。

使徒たちはみな、このことを体験的に知り、味わわなければならなかったのです。使徒たちのおもだった人物は、疑いもなく、ペテロという男でした。イエス様が、このペテロの支配者となられるまでには大変な戦いがありました。
このペテロは、三年半イエス様と一緒に生活し、イエス様の愛を受け、共に生活し、主のなされた数々の奇蹟を目の当たりに見て、イエス様はまことの神の子であると信じたのです。疑おうと思ってもできなかったのです。
大群衆がイエス様から離れたとき、即ち、イエス様が十字架のことについて話されたとき、大部分の人たちが離れました。そのときイエス様は、「あなたたちはどうするのですか」と、みなに問われましたが、答えたのはやはりペテロだけなのです。「行くところがありません。イエス様。あなたは生けるまことの神の御子であり、あなたはいのちのことばを持っておられます」と彼は証ししたのです。
この立派な証し人であるペテロが、イエス様が捕われ、自分の身に危険が及んだとき、
何と言ったのでしょうか。イエス様を指して、「私はあの人を知らない」と三度も否んでし
まったのです。ペテロの心は、そのとき真暗やみでした。

そののち、イエス様がペテロの心の内に光となられ、支配者となられるまで、多くの戦いがありました。そのうちの一つの戦いが、聖書に書かれています。
ある時ペテロは祈りました。その時異象を見ました。夢のようなものなのです。ペテロが祈っていると、天から大きな布に包まれたいろいろな種類の、きよくない、汚れた動物が天から吊り下ろされるのを見たのです。それだけでなく、「ペテロよ。これを食べなさい」という天からの声でした。ペテロは、「私はきよくないものを食べるわけにはいきません」と、天からの声に逆らいました。これは信仰の従順ではありませんでした。
ペテロに与えられたこの幻は一回だけでなく、二回だけでもなく、三回も起こりました。そして、布に包まれた動物が天に引き上げられたとき、コルネリオというローマ人、いわゆる異邦人の使いたちが、ペテロを訪れ、「お願いです。ペテロ、コルネリオのところに来てください」と頼みました。そこでペテロは、きよくないとされた異邦人のもとに行くことになってしまったのですが、その決心が固まるまでには、並々ならぬ戦いがありました。
ペテロがまず言ったことは、「主よ。嫌です。行きたくありません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません」と。このように、ペテロは、「主」と
いうことばを使ったのです。「主よ」ということばを使いながら、実際は主に従おうとしな
かったのです。
確かに、ペテロは主を理解することができなかったために、信じられないと思ってしま
ったのです。彼は、自分の理性に動かされてしまったために、このような否定的な態度を
取ってしまいました。けれどペテロは戦いに勝ち、主に全く従って、行きたくないところ
に行ったのです。コルネリオのところに行ったとき、主の偉大な想像できない栄光が見えるようになり、彼は考えられないほど祝福されたのです。

そのコルネリオのところでのペテロのメッセージは、人間的に言うと適確ではありませんでした。的外れではなかったでしょうか。ペテロはイエス様の流された血の力について、救いの確信について、いかに天国に入るかについて何も話さないのです。ただ、「イエス・キリストはすべてのものの主である」。これが、ペテロのメッセージでした。そして、この宣べ伝えられたメッセージの結果は素晴らしいものでした。コルネリオの家族だけではなく、そこにいた親族みな救われただけではありません。「聖霊に満たされた」と聖書は語っています。
五旬節のときに聖霊に満たされた人たちは確かに三千人でしたが、ユダヤ人だけでした。異邦人は一人もいませんでした。それだけでしたら、ユダヤ人は前よりも傲慢になったのではないでしょうか。「私たちは経験しましたが、あなたたちはどうですか?」と。けれど、今度コルネリオの家に集まった人は、異邦人だけでした。そして、彼らは同じことを経験したのです。

そこでの素晴らしい出来事はどこから起こってきたかと言いますと、それは、ペテロが
新しく主のご支配をいただいたところからと言えるのです。それまでのペテロは、イエス様をほんの少ししか経験していませんでした。けれどその時、主がどんなに偉大なお方であるかということを、自分のものにすることができたのです。

この使徒行伝の11章に全部詳しく書いてあるのですが、11章17節に、ペテロは、彼を攻撃するほかの弟子たち、ヨハネもそうでしょう、ヤコブもそうでしょう、マタイもそうだったでしょう。みな彼を非難したのです。「あなたは何をしたのですか。異邦人と親しくするとは」と。けれどもペテロは、
使徒の働き 11章17節後半

「…どうして私などが神のなさることを妨げることができましょう。」

と彼は言ったのです。これは、自分の考えは本当に制限されたものであり、イエス様に心の目を開くなら、主はどんなに偉大なお方であり、すべてであられるかがわかるということを、私たちに教えていると思います。
私たちも、ペテロと同じく新しく心の目を開き、「イエス様はすべてのものの主である」ことを知るなら、その結果、主の豊かな満たしにあずかることができると確信するのです。

ペテロだけではなく、パウロも全く同じことを経験するようになりました。このパウロ
という男は、非常に早く内面的、霊的に成長した男です。霊的に満たされていた男でした。
主の用いられる器でした。どうしてでしょうか。彼は当時、秀才が集まったガマリエルの
門下生となり、当時の最高の教育を受けたためでしょうか。決してそうではありません。
パウロは、イエス様を信じる者を迫害するために、ダマスコに向かって急いでいるその
道すがら、主の光に照らされました。そして回心してから数日の間、ダマスコの兄弟姉妹とともに過ごし、そのあと、「イエス・キリストは万民の救い主であり、すべてのものの主である」と宣べ伝え始めました。使徒行伝9章を読んでみましょう。
使徒の働き 9章19節から22節

 食事をして元気づいた。サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちとともにいた。そしてただちに、諸会堂で、イエスは神の子であると宣べ伝え始めた。これを聞いた人々はみな、驚いてこう言った。「この人はエルサレムで、この御名を呼ぶ者たちを滅ぼした者ではありませんか。ここへやって来たのも、彼らを縛って、祭司長たちのところへ引いて行くためではないのですか。」しかしサウロはますます力を増し、イエスがキリストであることを証明して、ダマスコに住むユダヤ人たちをうろたえさせた。

今まで、イエス・キリストは世界一の嘘つき、詐欺師だと思い込んでいた男が、急に、「イエスは神の子である」と宣べ伝え始めました。
なぜ、パウロは霊的に早く成長したのでしょうか。主に用いられたのでしょうか。彼は
回心したときにすぐ、「主」ということばを使ったのです。「主よ。あなたはどなたですか」。
それから、「主よ。私はいったいどうしたらよいのでしょうか」と二度もイエス様を、「主」
と呼んだのです。パウロにとって初めから、イエス様は限りなく「主」でした。これが、満たされた祝福された生活の秘訣です。

使徒行伝を読むと、ほかの使徒たちはイエス様を救い主としてだけ宣べ伝えたのではなかったのです。イエス様を「主」として宣べ伝えました。なぜなら使徒たちは、主の永遠からのご計画は、「イエス様こそがすべてのものの主である」ということを知っていたからです。イエス様は、すべてのものの主となられるために救い主となられたのです。もし、全人類が悪魔の支配のもとにあるならば、イエス様は支配者となることがお出来になりません。ですからイエス様は十字架に架かり、全人類を悪魔の支配から解き放ち、救い出し、そして支配者となられました。「イエス様はすべてのものの主であられる」。これこそが、当時の使徒たちの務めであり、証しであり、また特権でした。
もしイエス様が主であられるなら、救い主でもあられるはずです。イエス様は私たちの生活において救い主であられるばかりでなく、主として崇められていなければなりません。
私たちは、新しく生まれ変わっただけでは不十分です。霊的に育ち、満たしに至らなければなりません。ですから、使徒たちはイエス様を主として宣べ伝えたのであり、それが父なる神のみこころであると宣べ伝えたのです。

イエス様のご支配は、イエス様の豊かな満たしに至る秘訣です。もし、使徒たちが、「イ
エス様は救い主です。贖い主です。罪を赦すお方なのですよ」と宣べ伝えたなら、当時の
世界の中で異分子とはならなかったはずです。ユダヤ教もローマ帝国の中で許されていました。だれも抵抗しませんでした。問題は彼らが頑固に、「イエス様こそが主です。ローマの皇帝ではない」と証ししていたからです。当時の皇帝たちは、だいたい例外なく、「俺は神だ。俺を拝まなければ」と。
しかし使徒たちは、「私たちの主とは、ローマの皇帝ではなく、十字架の上で犠牲になられ、復活なさり、今も生きておられる主イエス様です」と。ですから、彼らは憎まれ、迫害され、考えられないほど多くの人たちが、殉教の死を遂げるようになったのです。

私たち一人一人に対する主のみこころとは、いったい何でしょうか。
主のみこころは、私たちが救われるばかりでなく、救われて後、御子イエス様によって
完全に生活が支配される。これが主のご目的です。主はどんな価を払っても、このご目的を達成しようとしておいでになります。
信者である私たちの生涯には偶然はありません。すべてが、導きです。私たちが、主はすべてのものの支配者であられるということを認めるまで、主はいろいろな理解しがたい事柄を通して導いてくださいます。主は、私たち信者を一人一人個人的に、ご自身がすべてのものの主であられることを知らせる、そのご目的に導いておられます。主はパウロの場合にそうされたように、私たちをも個人的に導いてくださいます。

パウロが回心した時、ともにいた人たちはみな、パウロと全く同じように地に倒れてし
まいました。「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」と、パウロだけヘブル語で聞
いたのです。使徒行伝の26章を読むと、次のように書かれています。
使徒の働き 26章14節

「私たちはみな地に倒れましたが、そのとき声があって、ヘブル語で私にこう言うのが聞こえました。『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。』」

私たちはパウロと同じような経験を持ってはいないでしょう。けれど、主は、信じる者を個人的に導いておいでになります。
私たちの生活において、主が絶対的な支配権をお取りになるかどうかが問題です。イエス様を信じる多くの者は、イエス様を「主」として考えていないようです。イエス様を、奴隷以下のものとして取り扱っているのではないでしょうか。
例えば、悩みに沈んでいる場合、彼らはイエス様の助けを求めます。弱いとき、彼らは
イエス様から力を得たいのです。彼らはもはや自分一人で出来ないとき、イエス様にとび
込んでもらいたい、助けてもらいたいと願い、イエス様が結果的には、彼らに仕えるべきしもべのようなものになるのです。確かにイエス様は、人間一人一人のために何でもなさるお方です。けれども、困ったから、「おい、助けてくれ」という態度をとるなら問題です。主は絶対的な支配者です。

多くの人たちは、確かにイエス様を信じてはいますが、主のご支配は欲しくありません。
聖書はそのような人たちを、「肉のキリスト者」と呼んでいます。なぜなら、肉即ち、自己が、支配権を持っているからです。そこには大きな心の葛藤があるのではないでしょうか。自分のための生活が、本当の信仰生活にとって障害となっていることをしばしば感じます。
もし、イエス様が私たちの生活の主であられなければ、私たちの人生はまことに価値のないもの、的外れのものではないでしょうか。悔い改め、イエス様を信じ、新しく生まれ変わることは、主のご目的の第一歩にすぎません。
実に多くのキリスト者が、主のご目的である「イエス様の豊かな満たし」に達していないのではないでしょうか。イエス様のご支配のままに自然に従う結果は、イエス様の豊かな満たしをいただくのです。

私たちの目的と私たちの願いは、いったい何でしょうか。私たちは、主のみこころにか
なう者になりたいと心から思うのでしょうか。
イエス様が私たちの心の内に、心の王座に主として崇められ、限りなきご支配をなしたもうそのとき初めて、主のみこころを満足させることが可能となるのです。イエス様のご支配によって、私たちは決してあわれな奴隷となることはありません。むしろ非常に富める者となることができます。

エペソ書の1章の最後の節は、はっきり理解できない箇所なのです。教会の奥義が書い
てあるからです。「まことの教会」についてです。教会とは、建物でもないし、ある組織でもなく、団体でもありません。まことの教会とは、有機体です。
エペソ人への手紙 1章23節

 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

この節を見てもわかります。主のご目的は、欠けたところのない完全さに満ちたイエス
様です。けれど天におられるイエス様は、救われた兄弟姉妹のかしらにすぎません。もし、主体である私たち一人一人が満たされなければ、イエス様は完全なお方とはなり得ないはずです。ですから、私たち信じる者がイエス様にとってどんなに大切であるかがよくわかるのです。

パウロは、勝利の秘訣を明らかにして、次のように告白したのです。有名なガラテヤ書
2章20節です。
ガラテヤ人への手紙 2章20節前半

 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。

「もう私はアウトです」。このように心から言える人は、解放され、見方も変わり、楽にな
ります。信仰によって、心からこのみことばを言い表わすことができ、また、喜んでこの
ように言うことができるようにしましょう。
これは全く実際的な事柄です。決して宙に浮いた抽象的なものではありません。日常生
活でいろいろなことが起こって来ます。けれど何かをしようとする場合、自分で事を決めることはできません。イエス様とともに十字架につけられ、自分がもはや生きていないからです。「私には何もできない。ただあなたのみこころをなしてください。自分の思いではなく、みこころだけがなりますように。私のなすべき行動を教えてください」と言えるだけではないでしょうか。これこそが、イエス様のご支配です。

もしそうなったら、私たちは一言も語らずに、イエス様はすべてのものの主であられる
ことを証しすることができます。そうなったなら、私たちは自分の計画を遂行することを
やめ、自分の目的を追い求めることをやめ、すべての兄弟姉妹と一つになることができる
ことが確信できます。
この一致は、また取りも直さず、「イエス様はすべてのものの主である」という証しになるのです。そうして初めて、イエス様の御栄光となり、このエペソ書1章23節のように、満ち満ちた形になることができるようになります。

もし、私たちもパウロのように、「私はキリストとともに十字架につけられた。生きて
いるのはもはや私ではなく、キリストが私のうちに生きておられる」と言うことができる
なら、これこそ「まことの教会」です。イエス様は「すべてのものの主」です。

私たちの生活の支配権を、今日から新しく意識してイエス様の御手に明け渡しましょう。イエス様の意思を無条件に受け入れましょう。自分自身をイエス様に、100パーセント無条件に明け渡しましょう。そうすれば、完全に満たされた生活、イエス様のご支配しておられる生活、実を結ぶ生活が与えられるのです。そうすると、私たちもパウロのように告白するようになるのではないでしょうか。
ピリピ人への手紙 3章8節

 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。

パウロはこのことばのうちに、主を知ることがいかに優れているか、また、いかに価値
あることであるか、それから主を知るためにいかに多くの価を払わなければならないかを
述べています。パウロにとっては、イエス様を知ることが何ものにも勝って尊いものに思
えたのです。
パウロはこれらのものを「あくたの如く思う」と言っていますが、パウロがちりあくたと言ったこれらのものは、決して小さなものではなかったのです。それは、パウロの立場、能力、そのときもうすでにパウロが得ていた地位や名誉や目的を意味していました。
回心する前のあのタルソのサウロは、ユダヤ教の将来を背負って立つ者と目され、期待
されていましたが、いったんイエス様に捕われたサウロにとっては、地位や名誉や学位は問題ではなくなり、イエス様を知ることこそがすべてとなったのです。
「私の主である」。彼がいかに喜んでいたのかがわかります。「私の主。私の主であるキリストを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています」。

他方、主を知るために、パウロは多くの価を払わなければならなかったことも私たちの
よく知るところです。
パウロは、かつては多くの人たちに誉めそやされ、敬われていましたが、いったんイエ
ス様を主として宣べ伝えたことによって、大部分の人たちはパウロから離れたばかりでは
なく、彼を迫害するようになりました。信仰を同じくする多くの人たちでさえ、パウロに100パーセントの信頼を置きませんでした。パウロを理解したのはごく少数の人たちにすぎなかったのです。価を払わなければなりませんでした。

パウロは、自ら身につけたものと「主のご栄光の富」とを、よく比較検討した結果、主を選び取りました。この事実は、私たちに何を物語っているのでしょうか。
これは、救いを得たということが終わりではなく、取るべき地がまだまだ多くあること
を私たちに教えているのではないでしょうか。イエス様を知ることは、ただ単に新しく生
まれ変わることを意味しているのではありません。もうすでにパウロはその時、とうの昔
に救われており、多くの働きをなし、彼は主の御手に握られた道具でした。福音を多くの
国々に宣べ伝えておりました。それにもかかわらず、パウロはもっともっと主を知りたい
と心から願ったのです。

私たちは、ただ一つのことをなさねばならないと思うのです。それはただ一つ、「イエス様をよりよく知りたい」という祈りをもつことです。主を知るところに、すべてのものが加えて与えられてきます。イエス様のためにたくさん働くことや、時間を多く費やすことはどうでもよいことです。大切ではありません。イエス様をよりよく知ることこそが、一番大切なのです。

多くの人たちは、心からイエス様に仕えようと思っています。けれどそれらの兄弟姉妹
は、主に仕えるということが何であるかを知っていないようです。主に仕えることとは、
聖書の真理をほかの人たちに伝えることでもありません。
多くの人は、ご奉仕は、説教し宣べ伝え、聖書の教えをほかの人に教えることだと思っていますが、それはみこころにかなう奉仕ではありません。主をよりよく知ることこそがすべてとならなければなりません。

毎週日曜日になると、数千、数万の教会では福音が宣べ伝えられています。それだけで
はなく、ラジオ、テレビ、そのほかいろいろな書物によってみことばが広められています。
福音を宣べ伝え、イエス様についての真理を宣べ伝えることが奉仕であるとは言えません。
まことの奉仕は、主イエス様を持ち運び、イエス様を分け与え、一人一人がイエス様に触れ、個人的に主イエス様を知るようにする。これがまことの奉仕です。

もし、学びによって聞く一人一人が主イエス様を知ることができなかったなら、それは
決してみこころにかなう奉仕であると言えません。聞く耳が知的に満足したにとどまって
は、何の役にも立ちません。一人一人が、「私は新たに主を見、主を知った」と言えなければなりません。このような奉仕には、多くの価を払わなければなりません。この奉仕は、特定の信者に課せられた仕事ではありません。信じる者すべてが、イエス様に仕えなければなりません。「私は、あの兄弟によって主をよりよく知った。あの姉妹によってイエス様に対して目が開かれた」と、私たち一人一人が言われるまでになりたいものです。



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メッセージ・証し集インデックスページ

◆メッセージ(ベック兄)

※一部、テープの転換による不明部分あり

神のみことばは神のみことばである(5) 2006. 4. 18
神のみことばは神のみことばである(4) 2006. 4. 11
神のみことばは神のみことばである(3) 2006. 4. 4
神のみことばは神のみことばである(2) 2006. 3. 21
家族の救い 2006. 3. 19
神のみことばは神のみことばである(1) 2006. 3. 14
主イエスは神の子キリストである(4) 2006. 3. 7
主イエスは神の子キリストである(3) 2006. 2. 28
主イエスは神の子キリストである(2) 2006. 2. 14
主イエスは神の子キリストである(1) 2006. 2. 7
勝利の生活の秘訣 2006. 1. 24
イエス・キリストのからだ 2006. 1. 17
主の永遠からの予定 2006. 1. 10
元旦メッセージ 2006. 1. 1


2005年度のメッセージ集
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