神のみことばは神のみことばである(2)
2006.3.21(火)
ベック兄メッセージ(メモ)
テモテへの手紙・第二 3章16節
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聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。 |
ペテロの手紙・第二 1章21節
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なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。
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ヨハネの福音書 6章63節
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いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。
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聖書とは、人間に与えられている本当に最もすばらしい宝物ではないでしょうか。この、
聖書とは、古いものでもないし、新しいものでもなく永遠なるものです。「わたしのことばは決して滅びない」と、イエス様は言われましたから。
天国で開かれる聖書の学び会は、すばらしいものになると思います。完全ですばらしいものであることは、私たちが召されてから初めて知るのではないでしょうか。
聖書に頼ることは、絶対に後悔しない事実と言えます。聖書のみことばを自分のものにしたいと切に願う人には、はっきりと語ってくれる聖書ですが、信じたくない、心を開こうとしない人には、もちろん語ってくれません。聖書に対して心を開いている人は、聞くことができ元気になりますが、心を開いていない人には、全く意味のないものになってしまいます。
聖書とは、もちろん主なる神のみことばです。私たちはそのことを絶えず覚えるべきではないでしょうか。結論として私たちが聖書を判断するのではなく、聖書が私たちを判断すべきです。
聖書の絶対無比な性質は、「霊感」ということばで表現されています。霊感とは何でしょ
うか。今、司会の兄弟のお読みになりました個所の中で、パウロは、「聖書はすべて、神の霊感によるものです。大部分ではなく、すべて、神の霊感によるものです」と。
そしてペテロは、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、「聖霊に動
かされた人たちが、神からのことばを語った」と。語っただけではなく、「書き記した」と言ってもいいでしょう。すなわち、聖書とは神のみことばです。
旧約聖書と新約聖書の中で、次のように要求をされています。すなわち、語られた主のみことばは、書かれたみことばに等しいということです。私たちはこのような聖書の要求を、「聖書の完全な霊感」と呼びます。部分的ではなく、聖書全体こそが主のみことばです。疑う人はやはり悩むようになり、決して確信を持つことができません。
前回私たちは、
・父なる神が語られたことについての多くの聖書の個所を見てきました。
・次に、イエス様が語られているみことばの真理をも見ることができました。
・三番目、聖霊が語られたことについても、幾つかの聖書の個所をいっしょに読みました。
「父、また、イエス様、聖霊が、語られた」と。なぜなら主なる神は、唯一の神ですが、三つの異なった人格、すなわち父なる神、御子主イエス様、聖霊をもっているお方であるからです。
主はお語りになる方です。呼びかけてくださるお方です。聖書は当然ですけれど、事実だけを宣べ伝えている書物です。「主が語られた」と聖書が言っていることは、そのまま事実として妥当なことです。主が語られたことは、結局主ご自身の啓示そのものです。ひとつの教えというよりも主イエス様からの啓示です。例えばヨハネ伝を全部読んで、「わたしは何々である」「わたしは何である。云々」という個所を見るとはっきりわかります。これは単なる教えではありません。主ご自身の啓示そのものです。したがって聖書を読む目的とは、この主をよりよく知ることではないでしょうか。
聖書は統一をもった神のみことばです。聖書は、神が語られたことをそのまま私たちに
伝えています。
・父なる神は語られた。
・父の御子である主イエス様が来られ、そして語られた。
・聖霊が遣わされ、証しし、そして宣べ伝えられた。
主ご自身が、聖書に記されている黙示をお書きになったお方です。今日はおもに、「神のみことばの絶対性について」考えてみたいと思います。
主なる神ご自身が聖書の著者ですから、聖書は完全に統一をもった、絶対的な福音そのものです。千六百年かけて、いろいろな人たちによって書かれた聖書の六十六巻は、モザイクの一つ一つの石のようにしっかりと結び付いて全体を構成しており、全体として統一された神の啓示そのものです。ちょうどみことばが、ひとつの大きな建物を構成する礎石のように必要であるのと同じように、聖書の一巻一巻は神の完全な啓示を私たちに伝えるために無くてはならないものなのです。
天と地をお造りになった全知全能の主は、何億という星から宇宙をお造りになりました。
果たしてだれがいったい、この星は要らないとか、あの星は必要ないなどと言うことがで
きるのでしょうか。果たしてだれがこの星の形はどうしてこういう形になっていて、ほかの形にならなかったのか、説明することができるでしょうか。もちろんだれもできません。
聖書を一箇所見てみましょう。
ヨブ記 38章31節から33節
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あなたはすばる座の鎖を結びつけることができるか。オリオン座の綱を解くことができるか。あなたは十二宮をその時々にしたがって引き出すことができるか。牡牛座をその子の星とともに導くことができるか。あなたは天の法令を知っているか。地にその法則を立てることができるか。
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そのようなことは私たちにはできませんし、また私たちには全くわからないことです。
なぜ、ちょうど六十六巻が聖書を構成しているのか。それよりも多くもなければ少なくもないということを通して、私たちは説明することは全くできないと言えましょう。
ご自分の思い通りに天と地を造られた最高の主なる神が、私たち人間にも、神の思いを表わす書物として聖書をお与えになってくださったのです。
もし私たちが人間的な思いで六十六巻を一緒にしようとするならば、六十六の違った考え方が出てきて、一巻一巻に対してそれを書いた人の神概念が出て来ることであり、それらを一つにまとめることは到底出来そうにもありません。なぜなら二冊の本でさえも一つの考えで統一することは困難だからです。聖書は一冊の本です。これこそ神の奇蹟です。
聖書のどのページを開いても、その一つ一つは同じ神の啓示が明らかにされています。
神ご自身が聖書全体の著者であるならば、それは当然と言えましょう。主なる神は語って
くださいました。聖書の各巻、また各部分は、御子主イエス様を通してご自身を啓示して
くださった生けるまことの神を正しく知るために、どうしても必要な貢献をしてくれてい
ます。聖書は、最初の一ページから最後の一ページに至るまで、主イエス様を明らかにし
ています。
聖書は御子主イエス様のために書かれたと言ってもいいでしょう。ですからイエス様の
一方の名前は、「神のことば」です。そして、全てのことは主イエス様によって成就され
ました。主イエス様は、神の啓示の内容そのものですから、聖書全体の中心点となってい
ます。イエス様は聖書の最初、すなわち創世記において、すでに「救い主」として預言されており、そのあとに続く多くの預言者を通してはっきりと預言されています。そして、主イエス様が実際に地上に来られたとき初めて、主なる神はご自身を私たちの目にも見えるような形で現わしてくださいました。「私たちは主の栄光を見た」と弟子たちは証しすることができたのです。
ヨハネ伝1章14節は、クリスマスのときに引用される個所です。聖書の中で、「ことば」という表現はよく出てきます。代わりに「イエス様」と言っても間違いありません。
ヨハネの福音書 1章14節
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ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
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けれど弟子たちがまだ耐える力が無かったため、イエス様はこの地上で弟子たちに全て
のことを説き明かすことができませんでした。ですから同じくヨハネ伝の16章12節に
イエス様は次のように言わざるを得なかったのです。
ヨハネの福音書 16章12節
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わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。
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けれども、主がお遣わしくださった聖霊がこのことをしてくださり、弟子たちがまた見
たり聞いたりしたことだけでなく理解していなかったことを、更に一層明らかにしてくださいました。
私たちは、使徒たちの書いた手紙を通して、イエス様の偉大さを知ることができます。旧約聖書は、主イエス様の目に見える啓示の準備でした。新約聖書は、イエス様について以前に語られた全ての事がらを表わして成就されたものとなっています。私たちは旧約聖書に書かれている事がらを通して、イエス様がどのようなお方であられるかを正確に描写することができます。なぜなら、約束された救い主については三百何十回も預言されており、そのことによって明確な姿が描き出されており、それが具体的現実となったものが、地上における主イエス様だったのです。
今まで読んで来た聖書こそ、神のみことばそのものです。そこで少しばかり、主なる神が語ろうしておられることは何か、みことばから見たいと思います。すなわち聖書の内容はいったい何でしょうか。このことについて少し考えたいと思います。
堕落した人間の望みは、蛇の頭を打ち砕く人でした。すでに、聖書の始めの創世記3章
15節に次のように預言されています。アダムとエバに与えられた約束のことばです。
創世記 3章15節
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わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。
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救い主が来る。救い主は結局人間を解放するお方であること。そしてその方は、聖書によるとアブラハムの子孫であり、ユダ族から出る者である、と預言されています。
主がアブラハムに言われたことばです。
創世記 12章3節
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あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。 |
49章10節
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王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない。ついにはシロが来て、国々の民は彼に従う。 |
と預言されています。
日本語の表現では必ずしも的確ではないかもしれませんが、主に与えられている名前は六百以上にものぼります。ところが注意すべきことに、「贖い主」とか、「救い主」という名称が数多く出てくることです。この贖い主は、聖書の第一ページから登場しておられるお方、臨在しておられるお方です。
黙示録1章8節を読むと、次のように書かれています。
黙示録 1章8節
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神である主、常にいまし、昔いまし、後に来られる方、
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とあります。この方は、永遠から永遠に至るまで救い主であられ、贖い主です。世の罪
を取り除く神の小羊として召し出された救い主は、出エジプト記12章に描かれている、
いわゆる「過越の小羊」という形を通して、すばらしくはっきり描き出され、生き生きと描写されています。債務を負うために流された血潮の力は、レビ記を通して極めて明確にされています。
殺された罪無き小羊の血潮を携えて至聖所に入った大祭司は、ご自身の流された血潮に
よって全人類の罪を赦してくださり、まことの大祭司であられる御子イエス様を象徴する役割を果たしています。
ヘブル人への手紙 9章12節
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また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。
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とあります。イエス様の偉大さは、旧約聖書における幕屋、礼拝、ささげるいけにえなどを通して、明らかにされています。
聖書の中心は、「ほふられた小羊である主イエス様」ご自身です。一つの学ぶべき教え、学ぶべき戒めではありません。聖書の中心は、ほふられた小羊であるイエス様です。
旧約聖書の預言の中心になるものは、「イスラエルのまことの王とは、いかなる方か」ということです。その王はダビデの子孫です。
サムエル記・第二 7章12節、13節
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あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。
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とあります。救い主は、ダビデの故郷すなわちベツレヘムでお生まれになる、と何百年も前に預言されました。
ミカ書 5章2節前半
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ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。
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イスラエル人は、約束された救い主は必ずダビデの故郷であるベツレヘムで生まれると
わかったのです。この約束された救い主は、いろいろなお名前をもつようになったのです。例えば、「平和の君」。
イザヤ書の中に、次のように書かれています。
イザヤ書 9章6節
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ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
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とあります。
けれども、その王は、主のみこころに反することを行なったユダの王やイスラエルの王たちとは違った者であると預言されています。イザヤは、その王は処女から生まれ、平和の王として支配するお方であり、すべての諸国民は仕えるようになると預言したのです。
イザヤ書7章を読むと、次のように書き記されています。
イザヤ書 7章14節
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「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」
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「神が私たちとともに」という名前をもつようになると。けれどもイザヤは、またこの王を、神のしもべとしてほふり場に引かれて行く小羊のように世の罪を担うお方であるとも預言したのです。よく引用される箇所です。
イザヤ書 53章4節から6節
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まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。
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「彼は罰せられ」、結局自分の罪のために罰せられたと。十字架につけられたイエス様に
負わせたのです。
預言書や詩篇において、イエス様の姿は、偉大なる王として描かれている反面、ご自分
をむなしくして打たれ欺かれる羊飼い、また迫害された者、死に追いやられた者、罪なき者としてご自身のいのちをささげてくださったお方として描かれ、そして最後に世界史を完成するために、世界の裁き主、またイスラエルの王として現われてくださる、というように書かれています。
来たるべき主イエス様は、旧約聖書の中では、明けの明星のように昇って来るお方として預言されています。それに対して、新約聖書においては、イエス様は真昼に輝く太陽の
ように現われたのです。そしてしばらくの間その輝きを隠し、すなわち昇天されたのです
から、今私たちは主の輝きと主のご栄光を確かに見ることはできません。けれど新約聖書の希望は、天の栄光のうちに再び来られるお方として私たちの目を開けてくださいます。
聖書の最後の書は、「イエス様の啓示」と呼ばれ、ほふられてから父の御座に着かれ、「天と地において、測り知れない権力と力とを持った小羊」として紹介されています。永遠に亘って次のような歌が繰り返し、繰り返し歌われるに違いありません。
黙示録 5章12節
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「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」
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今まで私たちは、
・父なる神が語られたこと。
・次に、イエス様が語られたこと。
・第三に、聖霊が語られたことについて学びました。
・それから、みことばの絶対性、みことばの内容について見て来たのです。
では、みことばの結果について、聖書はいったい何と言っているのでしょうか。
ことばは人格をもっているものを表わすものであり、それによってその方の本質と意思を知ることができます。語り手が偉大であればあるほど、語られたことばの結果も大きなものとなります。
主なる神が語られました。したがって、みことばは神ご自身の本質と意思の表われであ
り、書かれたみことばの重さは大変なものであるに違いありません。父なる神はご自身の
中におけるいのちそのものです、と主は私たちに明かされています。
ヨハネの福音書 5章26節
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それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。
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父なる神がいのちそのものなのであるならば、神のみことばはいのちをもたらすに相違ありません。したがってイエス様のみことばも、霊であり、いのちです。
先に司会の兄弟が読まれました個所を、もう一度読みます。
ヨハネの福音書 6章63節後半
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わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。
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単なる教え、戒めではない。いのちそのものです。
そしてイエス様は、ご自身を信じる者に、生ける神の御霊を与えてくださいました。
聖霊について次のように証ししています。「いのちを与えるのは御霊です」。したがって私たちは、聖書の中に生きて働かれる神のいのちの力と、聖霊が運んでくださるみことばの働きとを見出すことができるのです。
そしてこの書物の比類なさは、ほかのあらゆる人間のことばをもってしては不可能であること、すなわち、聖霊はいのちをもたらすことがおできになるのだということにある、といえます。人間のことばは、いのちを説明することはできるかもしれませんが、主のことばはいのちを与えることがおできになるのです。被造物はすべて主のみことばによって成立しました。
ヘブル人への手紙を読むと、次のように書かれています。
ヘブル人への手紙 11章3節
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信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。 |
つまり、すべての被造物、また神によって造られた人間は、主のみことばのいのちの力を証明するものです。したがって私たちが見ている被造物や私たちのからだは、過ぎゆくものであり、罪の支払う報酬すなわち死を味わわなければなりませんが、主なる神のみことばによって再び新天新地が現われ、そのとき死ぬものが不死を着る、とあります。
第一コリント15章53節、いわゆるよみがえりの章ですが、
コリント人への手紙・第一 15章53節、
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朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。 |
けれども、罪と死に特徴づけられた今の時代に、主のみことばのいのちの力はどのよう
にして現われてくるのでしょうか。
パウロは、
エペソ人への手紙 2章1節
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あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいたものであって、
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すべての人間は、罪と罪過との中に、生きるまことの神に対して、死んでいる者です。しかし神のみことばによって、この死んでいた者が生かされるようになり、新しいいのちを持つようになる、と書いています。
ヘブル人への手紙のよく引用される個所なのですが、4章12節を見ると神のみことばとは本当にすばらしい力をもつものであることがわかります。
ヘブル人への手紙 4章12節、13節
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神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。
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主なる神のみことばは、人間の罪の状態を明らかにします。みことばは真理ですから、
剣のように人間の心を刺し通します。私たちはみことばを通して、燃えるような主の目に
出会い、主が語られると私たちは沈黙しなければなりませんし、またサマリヤの女のように次のように言わざるを得ません。「あの方は、私がしたことを全部私に言った」と。
これこそ、罪と罪人に対するみことばの働きの結果であり、このみことばのゆえに、みことばを受け入れなかったすべての人の上に神のさばきが下されるのです。みことばによって生かされたいと思わない人にとって、みことばは永遠の死へと導くことばとなります。
ヨハネの福音書 12章48節
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わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。 |
とあります。けれど、みことばを受け入れ、イエス様の内に救いがあると信じる者は、このみことばによって新しく生まれ変わり、永遠のいのちをもつようになります。
ですから、ペテロは次のように書いたのです。
ペテロの手紙・第一 1章23節
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あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。
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みことばのいのちの結果は、イエス様によって新たにされることであり、そして、また、
新たなる歩みでもあります。
次のように、パウロはエペソにいる兄弟姉妹に書き送ったのです。
エペソ人への手紙 2章10節
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私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。
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新しく生まれ変わった人間は、みことばの霊感に対する目に見えることの証明です。
最後にもう一箇所読んで終わります。
ヨハネの手紙・第一 5章10節、11節
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神の御子を信じる者は、このあかしを自分の心の中に持っています。神を信じない者は、神を偽り者とするのです。神が御子についてあかしされたことを信じないからです。そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。 |
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