主の戦いを戦いましょう (1)
2003.1.7(火)
ベック兄メッセージ(メモ)
引用聖句
テモテT 2章4節
神は、全ての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。
ヘブル 12章1節
こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いて
いるのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に
置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。
ペテロT 2章11節
愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、
たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。
ある人たちは、集会に対し批判的になって、「この集会はめちゃくちゃの集いで、ベック教になってしまった」と言っています。「大切なのは、ベックの言っていることだ。みな、ベックに従わないとだめだ」と言う人もいるけれど、このベックの言っていることは聖書を見てよく判断してください。非聖書的なことを言ったなら、すぐ反発してもらいたい。なぜなら、大切なのは人間の言っていることではないでしょう。「聖書は何と言っているか」。それだけです。この土台から離れれば、もうおしまいです。
主によって祝福された人々とは、みな、聖書を第一にした人々なのではないでしょうか。確かに、私たちは聖書を読んでも、ピンとこない箇所がいっぱいあります。けれども、それは、別にどうでもいいことなのです。聖書は知識を得るために読むべきものではなく、前向きに生活することができるため、精神的に疲れないために、読むべきなのではないでしょうか。そうすると、みな経験します。「ちょっとピンとこない。どういうことか、はっきり分からないけれど、うれしい。イエス様はすごい。イエス様は完璧なお方である」と、知ることができるのです。
何年か前に飛行機の中で、ある新聞記事を読みました。英語の新聞だったのですけれど、ある日本人の書いたものだったのです。築地癌センターの外科医である、笹子三津留先生の書いた本についての記事だったのです。本の題名は、『家族がガンにかかったとき』です。彼は次のように書いたのです。「死にそうな患者さんに、真理を語るべきです。大部分の人は暗闇の中にいる。暗闇から脱出するために真理を語るべきです。人間は誰でも、自分の死について考えるべきです…」と。彼と会うようになったのですけれど、彼は別に宗教を持っていないし、全く無宗教です。けれど心の奥底では、やっぱり創造主の支配を感じているし、偶然はないと思っているのです。「真理を知ることこそが大切である」と、彼は書いたのです。
けれども、「真理」とは何でしょうか。ある事実ではない。ある教えでもない。イエス様なのです。ですからイエス様は、「わたしは真理そのものです」と言われたのです。
イエス様を知ること、そして知るようになったイエス様を紹介することが、私たちに与えられている使命です。福音を述べ伝えることこそ、私たちに与えられている義務です。
初代教会の特徴は、何だったのでしょうか。「主よ。イエス様よ。早くおいでください」という、切なる願いだったのです。また、「イエス様を知らない多くの人々は、イエス様を知って欲しい」という、切なる祈りでした。
時々、聞かれるのです。「ちょっと、悩んでいます」「どうして?」「一致がないから」と。
どういうふうに、一つになるのでしょうか。初代教会のような考えを持つことによってです。「イエス様、早く来てください」。意識して、「今日、来られるかもしれない」という希望を持って生活すると、やっぱり違う。そして、まだ救われていない人々の救いについて考えても、やっぱり自分の祈りは十分ではない、兄弟姉妹の祈りも必要であると、必ず分かるようになります。そうすると、一つになります。救われていない家族の人たちは、導かれ、救われなくてはいけない。別居した夫婦は、また一つにならなくてはいけない。家出した子どもは、救われて帰らなくてはいけない。本当に大変なのではないでしょうか。戦いそのものです。ですから、今年は、「戦いの一年」になるのではないでしょうか。
神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。
「真理」とは、イエス様です。イエス様を知るようになれば、もう問題は解決されます。
主のみこころは、「人間の救い」であり、悪魔の願いとは、「人間の滅び」です。悪魔は、「人殺し」と呼ばれています。ですから、救われていない人たちのために、「何があっても悪魔に殺されたくない」という決心が、大切なのではないでしょうか。
ある娘さんは、1回だけある男と一緒になって、妊娠したのです。相手のちゃんとした名前も分からないし、住所も分からない。うまく隠すことができたから、堕すと言えなくなってしまった。堕したら、もう娘さんの命も危ないから、産んだのです。非常に、すばらしいと思います。その時から、あの娘さんと母親は一つになって、みことばに頼って、一緒に祈るようになったのです。やっぱり戦いそのものです。「堕したらいいのではないか。誰も分からないだろうに」と、多くの人は考えますけれども、娘さんには、死ぬまで忘れられません。
主のみこころと悪魔の狙いは、対立しているものです。だから、主に用いてもらいたいキリスト者は、戦いの中に投げ込まれている者です。
前にも読んだことがある箇所なのですけれども、申命記のみことばは、今、話した大切な戦いが、どのようなものであるかを指し示していると思います。旧約聖書309ページです。申命記20章の1節から、お読みいたします。
あなたが敵と戦うために出て行くとき、馬や戦車や、あなたよりも多い軍勢を見ても、
彼らを恐れてはならない。あなたをエジプトの地から導き上られたあなたの神、主が、
あなたとともにおられる。あなたがたが戦いに臨む場合は、祭司は進み出て民に告げ、
彼らに言いなさい。「聞け。イスラエルよ。あなたがたは、きょう、敵と戦おうとしている。
弱気になってはならない。恐れてはならない。うろたえてはならない。彼らのことで
おじけてはならない。共に行って、あなたがたのために、あなたがたの敵と戦い、勝利を
得させてくださるのは、あなたがたの神、主である。」つかさたちは、民に告げて
言いなさい。「新しい家を建てて、まだそれを奉献しなかった者はいないか。その者は家へ
帰らなければならない。彼が戦死して、ほかの者がそれを奉献するといけないから。
ぶどう畑を作って、そこからまだ収穫していない者はいないか。その者は家へ帰らなけれ
ばならない。彼が戦死して、ほかの者が収穫するといけないから。女と婚約して、まだ
その女と結婚していない者はいないか。その者は家へ帰らなければならない。彼が戦死
して、ほかの者が彼女と結婚するといけないから。」つかさたちは、さらに民に告げて言わ
なければならない。「恐れて弱気になっている者はいないか。その者は家に帰れ。戦友
たちの心が、彼の心のようにくじけるといけないから。」
ここで、戦いのためにどのような者がふさわしくないか、ということが示されています。
ダビデの勇士たちのことについては、いろいろと記されていますが、彼らは本当に戦いにふさわしい人たちでした。歴代誌Tの12章を見ると、彼らについて、次のように書かれています。歴代誌Tの12章の1節の後半から、お読みいたします。
彼らは勇士たちの中で、戦いの加勢をした人々であり、弓を持った者、石投げ、弓矢に、
右手も左手も使う者で、…
とあります。そして8節。
また、ガド人から離れて、荒野の要害をさしてダビデのもとに来た人々は、勇士であって
戦いのために従軍している人であり、大盾と槍の備えのある者であった。彼らの顔は獅子
の顔で、早く走ることは、山のかもしかのようであった。
14節。
これらはガド族から出た軍のかしらたちで、その最も小さい者もひとりが百人に匹敵し、
最も大いなる者は千人に匹敵した。
3つのことについて、一緒に考えたいと思います。
第1番目、「5つの大切な事実」について考えたいと思います。
第2番目、「戦いに行くことのできる資格のいろいろな要素」並びに、「戦いに参加することのできないいろいろな理由」。
第3番目、「主の働き方」とは、「主の方法」とは、いったいどういうものか。
まず第1に、「5つの事実」のうち最初の事実は、「信じる者の生活、主に従いたい者の生活は、決して遊びごとではない」ということです。つまり、キリスト者の生活は、まず、ふさわしく歩むことでなければならない。
一昨日、エノクのように歩まなければならないと話したのです。エノクとは、主とともに歩んだ者でした。主と同じ考えを持つようになった者でした。主の嫌いになったものを、彼は嫌いになり、主の大切にしたものを彼も大切にしたのです。主とともに歩むことこそが、ふさわしく歩むことなのではないでしょうか。
エペソ書の4章。パウロは、当時の信じる者を、次のように励ましたのであります。
344ページになります。エペソ書4章の1節から。次のように書かれています。
「さて、主の囚人である私は…」 彼は、主によって捕らえられてしまった。イエス様を、主として紹介したから、刑務所に入れられるようになったのです。けれども、主の囚人であることとは、彼にとって、最高の喜びでした。
主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しに
ふさわしく歩みなさい。謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに
忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。
「つくりなさい」と、書いてはないのです。つくるものではないからです。主のものになった人々とは、一つなのです。同じ聖霊の宮になったからです。けれども、「御霊の一致を熱心に保ちなさい」。ふさわしく歩むこととは、結局、主をよりよく知りたいと切に望むことです。そうすると、やっぱり信ずる者の生活とは、前に、へブル書12章1節に書かれているように、一つの「競争」であります。
このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、
いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐を
もって走り続けようではありませんか。
走りましょうよ。たとえば、オリンピックの時、100mを走る人たちの様子を見ると分かるでしょう。まっすぐ前を見るのです。後ろについてくるかどうか、脇でだれが見ているのか関係ないのです。ですから、何があっても走りましょう。「イエス様は近い。滅ぶべき人間には、イエス様が必要です」と。「走りましょう」。
これはへブル書の著者だけでなく、ほかの使徒たちの切なる呼びかけでもありました。結局、自分のことばかりを考えたり、周りの人ばかりを見たりしないで、イエス様を目指して走る者だけが、この競争に勝つことができるのです。
そして、誰でも経験します。主を第一にすると、必ず誤解されます。憎まれる可能性もある。たとえば、葬儀になるとよく問題になります。けれどもそのときやっぱり、私たちはこの世のものではない、寄留者にすぎないと、おぼえるべきなのではないでしょうか。
イエス様によって用いられる者の生活とは、「旅人の歩み」のようなものです。ペテロは、前に読んでもらいました箇所、第一ペテロ2章11節で言っています。
愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。
我々のふるさととは天国です。この世ではない。単なる寄留者、旅人にすぎない。ですから、主に従う兄弟姉妹は、異分子としてこの世で歩まなければならないと、聖書は言っているのです。これを一言で表現するなら、「キリスト者の生活は、戦いそのもの」です。
この戦いとは、もちろん目に見える世界、人間に対する戦いではない。悪魔は、イエス様によると、「この世の君」であります。もちろん、悪魔だって主に赦されないと、何にもすることができません。主は、確かに多くのことを赦されます。最後の最後のことを分かっておられるからです。私たちは何も分からないから、疑問符を付けるばかりです。
「どうして?」「なぜ?」「主は、どうしてそういうことを赦されるのか?」と。
今の世は、悪魔に支配されているのです。「この悪魔、悪霊に対する戦いこそが、私たちの格闘である」。エペソ書6章の12節に、パウロは、はっきりそう書いたのです。どうしてそれを強調したかといいますと、おそらく当時のある兄弟姉妹は、「私たちの戦いとは、人間です。もしかすると、兄弟姉妹です。違う意見を持っているから」と。だから、パウロは「違う。違う。目に見えないこの世界の支配者たちこそが、我々の敵です」。
私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者
たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
けれども、「よし、戦いましょう」と思っても、うまくいきません。人間は、本当にもうちっぽけなものです。今年は「羊」の年でしょう。「私も羊のようなものである」と、いつもおぼえていればありがたい。羊は、本当に全くだめな動物です。身の危険を感じられない。何を教えても忘れます。方向感覚なし(笑)。大変でしょう。ちょっと、考えられない。
けれども、それをおぼえていれば、良い牧者であるイエス様が近くにおられるから心配ないと、分かります。
宗教は何と言っているかといいますと、「頑張らないと、努力しないと、立派にならないとだめ」。すなわち、「羊は努力すれば、必ず犬くらいになります(笑)。うまくいけば虎になります(笑)。そうすれば自分自身を守る力があるし、身の危険を感じますし、方向感覚もありますし、問題ない」。 けれども羊は、生まれてから死ぬまで羊です。否定しても。わがままな人間は、死ぬまでわがままです。
イエス様は、「わたしは迷える羊のために犠牲になる。いのちを捨てる」と言われただけではなく、「わたしは迷える羊のために生きている。彼らを導くために、守るために心配する」。これこそが、救いなのではないでしょうか。
そういった「戦い」とは、何なのでしょうか。結局、知らないうちに私たちは、自分の知恵、力に頼ります。そうすれば、悪魔の勝利になる。「私は相変わらず何にも知らない、何にもできない。憐れんでください」。この態度を取ることが、勝利の秘訣です。
主の望まれている歩みをするために、人間は、自分自身の力に頼ることではできない。イエス様の力により頼む以外に方法はない。ただ主にお従いして歩む兄弟姉妹は、誰でも、この戦いの中に投げ込まれた者です。従って、悪魔の憎しみを感じることのない人は、ちょっと問題なのではないでしょうか。
第2番目の大切な事実は、「兄弟姉妹の生活が、絶大なる力を持つ敵に対する戦いである」ということです。前に読みました申命記の20章1節でしたね。
あなたが敵と戦うために出て行くとき、馬や戦車や、あなたよりも多い軍勢を見ても、彼らを恐れてはならない。あなたをエジプトの地から導き上られたあなたの神、主が、あなたとともにおられる。
敵はどうであれ、誰であれ、関係ない。主は勝利者です。「主が、あなたとともにおられる。」 毎日、自分のものにすべきみことば、約束なのではないでしょうか。
敵は、私たちよりもはるかに強いものです。悪魔は目に見えない世界のことを全部よく知っている。この悪魔と戦うべきであると、エペソ書に書かれています。
私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者
たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
と、あります。聖書を見ると、いろいろな敵があります。私たちの敵対しているのは、前に話したように、この目に見える世界です。イエス様は、
「わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。
わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。」
ヨハネ伝の17章の14節です。イエス様は祈りの中で、こういうふうに言われました。「わたしは憎まれたし、彼らも憎まれるようになる」。そしてこの間も読みましたヤコブ書の4章4節。非常に大変な言葉です。普通の使徒たちの書いた言葉とは、だいたい、「愛する兄弟たち」、「私の愛する兄弟たち」、「私の愛する子どもたち」。そういう言葉がよく使われているのですけれども、ここでヤコブは、「貞操のない人たち」と、言っているのです。
貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。
世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。
この世との内面的な分離がなければ、エノクのように主とともに歩むことができない。主との親しい交わりを持つことができない。主とともに歩む者だけが、聞く耳を持っているのではないでしょうか。主を心から愛しているのではないでしょうか。
また、私たちの恐ろしい敵とは、自分の生まれつきの性質なのではないでしょうか。
人間の性質とは、罪の性質です。罪の性質のできることは、罪を犯すことしかできません。恐ろしい事実です。ですから、「信仰から出ていないものは、全部罪です」と書かれているのです。主とつながっていなければ、主は祝福することが出来ません。
ガラテヤ書の5章の中で、いわゆる「御霊の実」についてだけではなくて、「肉の実」についても、色々なことが書いてあります。「肉」とは、人間の生まれつきの性質であります。
5章の17節。339ページになります。
なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。
この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことを
することができないのです。
ここで「肉」とは、人間のわがままの意思のことを意味します。自分のことばかりを考える者は、悪魔の奴隷、悪魔の虜になってしまうのです。
ペテロは、「我々の敵とは悪魔です」と、何回も書いたのです。一番よく知られている箇所は、5章の8節でしょう。421ページです。悪魔は、この世を、また、我々の生まれつきの性質を利用しようと思っているのです。
第一ペテロの5章の8節。
身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししの
ように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。
悪魔は日夜、我々を攻撃しようと、隙を狙っております。
第3の事実は、「私たちが勝利者の側に立つことを赦されている」ということです。
決して、一人ぼっちではない。「わたしは決してあなたから離れず、あなたを捨てない。」と、勝利を得られたイエス様は、約束しておられます。前に読みました申命記の20章の3節ですか、
彼らに言いなさい。「聞け。イスラエルよ。あなたがたは、きょう、敵と戦おうとし
ている。弱気になってはならない。恐れてはならない。うろたえてはならない。彼らのことで おじけてはならない。共に行って、あなたがたのために、あなたがたの敵と戦い、勝利を得 させてくださるのは、あなたがたの神、主である。」
主なる神は、本当に何回も何回も、ちっぽけな人間に向かって、呼びかけておられます。「恐れることはない。わたしはあなたがたとともにおり、あなたがたの代わりに戦っているのです」と。敵は、決して想像上の偶像物ではない。このような恐るべき敵の力のためにおじけをなすことは、当然なのではないでしょうか。3節。
彼らに言いなさい。「聞け。イスラエルよ。あなたがたは、きょう、敵と戦おうとしている。
弱気になってはならない。恐れてはならない。うろたえてはならない。彼らのことで
おじけてはならない。」
私たちは、「主とともに圧倒的な勝利者となる」と許されています。ローマ書8章の37節ですね。いろいろな人間の悩みについて、苦しみについて書かれているのですけれども、パウロは喜んで言えたのです。
私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、
圧倒的な勝利者となるのです。
自分は立派になった、強くなった。だから何とかなるのではない。全部イエス様のおかげなのです。私たちを愛してくださる方によってだけ、勝利を得られます。
第4の大切な事実は、「戦いの結果が、私たちとイエス様にかかっている」ということです。勝利者なるイエス様は、器を求めておられ、その器を通して、ご自分の勝利を明らかにすることがおできになるのです。
そしてイエス様は、私たちを、器として、管として、同労者として用いようと望んでおられます。イエス様は、「すべての力、権力は、わたしにゆだねられている」と、言うことがおできになったのです。イエス様は、ご自分がお用いになることのできる兄弟姉妹、すなわち、全てを主にゆだねた兄弟姉妹を求めておられるのです。最も大切なのは、「主に仕えたい。主よ。ここに、おります。私を遣わしてください。あるいは、「語ってください。しもべは聞いております」。この態度をとる者こそが、用いられるようになります。
パウロは、「私たちは神の同労者である」と、言うことができたのです。主とともに歩む者です。エノクのように、主とともに歩む者だけが、主の同労者なのではないでしょうか。
私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けない
ようにしてください。
と、コリント第二の手紙に書かれています。私たちは、神とともに働く者です。主とともに歩む者であるからです。かしらなるイエス様は、からだなる教会を、すなわち、主に属する兄弟姉妹を通して、働こうと望んでおられるのです。
最後に、第5番目の大切な事実は、「多くの兄弟姉妹が、実際は戦いに役にたたない、あるいは、戦う能力がない」ということです。前に読みました申命記の20章の中で、この事実について書かれています。4節。
共に行って、あなたがたのために、あなたがたの敵と戦い、勝利を得させてくださる
のは、あなたがたの神、主である。」つかさたちは、民に告げて言いなさい。「新しい家を
建てて、まだそれを奉献しなかった者はいないか。その者は家へ帰らなければならない。
彼が戦死して、ほかの者がそれを奉献するといけないから。ぶどう畑を作って、そこから
まだ収穫していない者はいないか。その者は家へ帰らなければならない。彼が戦死して、
ほかの者が収穫するといけないから。女と婚約して、まだその女と結婚していない者は
いないか。その者は家へ帰らなければならない。彼が戦死して、ほかの者が彼女と結婚
するといけないから。」つかさたちは、さらに民に告げて言わなければならない。「恐れて
弱気になっている者はいないか。その者は家に帰れ。戦友たちの心が、彼の心のように
くじけるといけないから。」
今、読みました申命記20章4節から8節には、戦いに参加すべきでない4種類の兄弟姉妹について、述べられております。すなわち、彼らは失格者とされたのです。
それらの兄弟姉妹は、家へ帰らなければなりませんでした。そのような兄弟姉妹もまた、主なる神の選ばれた民に属し、主はご自身を彼らの神であると言われ、またご自身を勝利者として現わされたのです。主はご自分の民を、兄弟姉妹お一人お一人を用いたく思っておられ、ご自身の勝利が明らかにされることを望んでおられるのです。けれども、そのような失格者たちをお用いになることはできません。
パウロも、コリント第一の手紙の中で、いろいろなことを書いたのです。「私は自分のからだを打ちたたいている。失格者にならないためです」と。パウロは奇蹟的に救われ、主の囚人、主の虜になったのですけれども、これで安全と言うことではない。「私が、自分の思いによって動かされれば、自分の力に頼れば、私も知らないうちに失格者になる」と、パウロは告白したのであります。
「主よ。語ってください。導いてください」と絶えず祈る者は、必ず用いられるようになります。
了
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