主の戦いを戦いましょう (2)
2003.1.14(火)
ベック兄メッセージ(メモ)
引用聖句
申命記 20章1節から8節。
あなたが敵と戦うために出て行くとき、馬や戦車や、あなたよりも多い軍勢を見て
も、彼らを恐れてはならない。あなたをエジプトの地から導き上られたあなたの神、
主が、あなたとともにおられる。あなたがたが戦いに臨む場合は、祭司は進み出て民
に告げ、彼らに言いなさい。「聞け。イスラエルよ。あなたがたは、きょう、敵と戦お
うとしている。弱気になってはならない。恐れてはならない。うろたえてはならない。
彼らのことでおじけてはならない。共に行って、あなたがたのために、あなたがたの
敵と戦い、勝利を得させてくださるのは、あなたがたの神、主である。」つかさたちは、
民に告げて言いなさい。「新しい家を建てて、まだそれを奉献しなかった者はいないか。
その者は家へ帰らなければならない。彼が戦死して、ほかの者がそれを奉献するとい
けないから。ぶどう畑を作って、そこからまだ収穫していない者はいないか。その者
は家へ帰らなければならない。彼が戦死して、ほかの者が収穫するといけないから。
女と婚約して、まだその女と結婚していない者はいないか。その者は家へ帰らなけれ
ばならない。彼が戦死して、ほかの者が彼女と結婚するといけないから。」つかさたち
は、さらに民に告げて言わなければならない。「恐れて弱気になっている者はいないか。
その者は家に帰れ。戦友たちの心が、彼の心のようにくじけるといけないから。」
この間お話したように、新しい年になる前でしたが、来年…つまり、今年について考えた時に、どうしてかなぜか分からないけれども、2003年こそが、「戦いの年」になると思ったのです。そして、どこに行っても同じことを感じます。今年が、「戦いの年」であれば、もちろん、毎日が戦いの連続なのではないでしょうか。どうして戦いであるかと言いますと、主の考えと悪魔の考えとは違うからです。言うまでもなく、主の考えと信じる者の考えも、違うからなのではないでしょうか。「わたしの思いは、あなたがた信じる者の思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なる…。」と主は、言われます。「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」 主は、生きて働いておられます。
この間、金曜日から3日間、石垣島と宮古島まで行きました。石垣島から宮古島まで、大きな飛行機だったのですが、乗っている人は、東京から行った6人と、別の人2人。合わせて8人!(笑) 9年前、あるおばあちゃんの所に行って一緒に祈りました。おばあちゃんは、非常に喜んで、イエス様を受け入れたのです。もう、ずっと前に亡くなったと思っていたのですけど、今回また会ったのです!(笑) 109歳! 信仰の歌や聖歌を歌った時、本当にもう嬉しくなりました。けれども、「戦い」です。
この、「戦い」について、イエス様は次のように言われました。
ルカの福音書、9章23節。
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、
そしてわたしについて来なさい。」
「自分を捨てなければ、わたしに従うことは出来ない」。これは、何を意味しているのか
と言いますと、とんでもない戦いということではないでしょうか。
自分自身を知ることこそが大切です。聖書は、人間の生まれつきの状態について、次の
ように言っています。よく知られている箇所です。ローマ人への手紙3章10節から、少し読みましょう。全部、詩篇から引用された箇所ばかりです。聖書を読むと、「ああ、パウロはそう書いたのか」と思う人もいるのですけれど、本当は、だいたいが詩篇、旧約聖書から引用されている箇所です。この箇所もそうなのです。
ローマ人への手紙、3章10節から18節。269ページです。
「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべて
の人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりも
いない。」「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」「彼らのくちびるの
下には、まむしの毒があり、」「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」「彼らの足は血
を流すのに速く、彼らの道には破壊と悲惨がある。また、彼らは平和の道を知らない。」
「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」
最後の文章は、一つのまとめなのではないでしょうか。「彼らの目の前には、神に対する恐れがない」。 神に対する恐れがなければ、祝福がありません。
多くの人は、このような小さな島に行くと分かります。田舎に行けば行くほど分かります。すなわち、人間は自由ではない。義理、人情、迷信、習慣、宗教によって、めくらにされ、がんじがらめになっているのです。結局、主を恐れなければ、主は、働くことがお出来になりません。これこそが、とんでもない戦いを意味しているのではないでしょうか。
この間から、私たちは、少しだけ、五つの大切な事実について考えてまいりました。
1. 信じる者の生活は、ふさわしく歩むことでなければならないということ。
ヘブル人への手紙12章1節。
私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争
を忍耐をもって走り続けようではありませんか。
ふさわしく歩むこととは、一つの、「競争」を意味しているのです。自分のことばかりを考えたり、周りの人々ばかりを見たりしないで、イエス様を目指して走る者だけが、この競争に勝つことが出来るのです。また、信じる者の生活は旅人の歩みでなければならないのです。
ペテロの手紙第一 2章11節。
愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、
たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。
ペテロも、「戦い」について書いたのです。「たましいの戦い」とは、いったい何なのでしょうか? 人間の持っている、たましいの能力とは、考えること・感じること・欲することです。人間の意志、思い、感情とは、たましいなのです。「たましいの戦い」について考えると、つまり自分が考え、思い、感じていることは、大切ではないという態度を取る事です。とんでもない戦いなのではないでしょうか。「私の思いではなく、みこころだけがなるように」。主に従う者は、寄留者、異分子として、この世で歩まなければならないと、聖書はハッキリ言っているのです。結局、散歩ではなく、戦いそのものであります。
2.絶大な力を持つ敵に対する戦いであるということ。
今読んでもらいました、申命記20章1節。
あなたが敵と戦うために出て行くとき、馬や戦車や、あなたよりも多い軍勢を見ても、
彼らを恐れてはならない。あなたをエジプトの地から導き上られたあなたの神、主が、
あなたとともにおられる。
敵は、私たちよりもはるかに強い者です。もちろん、私たちの戦いは、いわゆる、血肉、
人間、目に見える世界に対する戦いではない。主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対する戦いです。
3.私たちは勝利者の側に立つことがゆるされているということ。
「今から勝利を得よう」というよりも、もう既に、イエス様は勝利者です。
申命記20章3節。
彼らに言いなさい。「聞け。イスラエルよ。あなたがたは、きょう、敵と戦おうとしている。
弱気になってはならない。恐れてはならない。うろたえてはならない。彼らのことで
おじけてはならない。共に行って、あなたがたのために、あなたがたの敵と戦い、勝利を
得させてくださるのは、あなたがたの神、主である。」
主は、よく、心配し、おののいている人間に呼びかけておられます。「恐れることはない。
わたしはあなたがたと共におり、あなたがたの代わりに戦っているのです」。
主と共だったら、私たちは、「圧倒的な勝利者」になります。パウロは、喜んでローマにいる兄弟姉妹に書いたのです。
ローマ書8章37節。
私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、
圧倒的な勝利者となるのです。
4.戦いの結果が、私たちと主にかかっているということです。
勝利者なるイエス様は、ご自分の勝利を明らかになさりたい。そのために、器を要求し
ておられます。イエス様は、私たちを、同労者として用いたいと望んでおられるのです。
かしらなるイエス様は、からだである兄弟姉妹を通して、お働きになり、ご自身を明らか
にしたいと望んでおられます。
5.多くの兄弟姉妹が、実際には戦いに役に立たない。あるいは、戦う能力が無いということです。
この申命記20章4節から8節には、戦いに参加すべきでない、4種類の人々について述べられています。すなわち、彼らは失格者とされました。それらの兄弟姉妹は、戦わないで家に帰らなければならなかったのです。それらの者も、また、主なる神の選ばれた民に属し、主ご自身が彼らの神でもあると言われ、また、ご自身を勝利者として現わされたのです。けれども彼らは用いられなかったのです。家に帰らなければならなかったのです。
戦いに参加する合格の要素、資格の理由について、ちょっと考えたいと思います。
合格のための色々な要素がいかなるものであり、失格に導くものがいかなるものであるか
を考えたいと思います。
四つの点について考えることが出来ると思います。
@ すべてを主にささげない者は、失格者です。
5節。
つかさたちは、民に告げて言いなさい。「新しい家を建てて、まだそれを奉献しなか
った者はいないか。その者は家へ帰らなければならない。彼が戦死して、ほかの者が
それを奉献するといけないから。」
聖書によると、その当時、新しい家は、主に聖められるという習慣があったことが分かります。すなわち、新しい家は主のものであり、主は自由にお用いになることがお出来になったのです。この家、すなわち、全家族とともに、すべてを主の御手にささげなければ、戦いに参加する資格が与えられなかったのです。
このことは、いったい、私たちに何を語っているのでしょうか? それは、私たちキリスト者が、「神の家」「主の住まい」「聖霊の宮」であるということを意味しています。
コリント人への手紙第一、6章を見ると、次のように書かれています。新約聖書297ページになります。6章19、20節。
あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、
あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の
栄光を現わしなさい。
全部を主にささげ尽くさない場合には、その者は家へ帰らなければならなかったのです。
まず最初に、その人の家、また家族が、主に聖められて、初めて戦いに参加する資格を与えられるのです。本当に、この19、20節は大切です。
あなたがたは、もはや自分自身のものでないことを、知らないのですか。あなたが
たは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光
を現わしなさい。
全部ささげ尽くすことこそ、戦いのための資格として、要求されていたのです。それは、私たちの場合には、自分の自己本位の生活に死ぬことを意味しています。
前にも話しましたように、大切なのは、自分の思っていること考えていることではなく、主は何を望んでおられるのかです。「あなたがたは、もはや自分自身のものではない」。
言葉を換えて言えば、この戦いに参加する資格を与えられる者は、バプテスマのヨハネが言ったように、「主イエス様は栄え、私は衰えるべきである」ということです。
ローマ人への手紙6章13節にも、同じ事実について、次のように書かれています。
273ページです。もちろん、こういう箇所は全部、もう既に救われ、主のものになった人々のために書かれたことばです。「用いられる器」となるためです。
あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から
生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。
主に「用いられる器」となるために、「すべてをささげなさい」。ローマ書12章の中に
も同じことばが書かれています。本当の礼拝、すなわち、霊的な礼拝とは、すべてを主にささげることであるとあります。ローマ人への手紙12章1・2節。
そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願い
します。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物として
ささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせては
いけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、
神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を
変えなさい。
私たちのからだ、私たちの手足、すべては、主の器となるべきです。家全体のすべての
部屋は、主のものであり、主にささげられるべきです。私たちのすべての肢体、すなわち、私たちの心、意思、考え、耳、目、手足、唇、これらのものすべてが、主にささげられることによって、主の器となるべきです。その時、初めて、私たちは戦いに役に立つ者となり、戦う能力を持つ者となるのです。主が、私たちの心の奥底を探り知ることがお出来になりますように。
A 何の実も結ばない者は、失格者となります。
実を結ばない信仰生活はありえないとあります。申命記20章6節。
ぶどう畑を作って、そこからまだ収穫していない者はいないか。その者は家へ
帰らなければならない。彼が戦死して、ほかの者が収穫するといけないから。
ガラテヤ人への手紙の中にも、同じ内容の、あることばが書き記されています。
ガラテヤ人への手紙、6章7節から9節。
思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、
その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、
御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。善を行なうのに飽いて
はいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。
その前の、5章22節。
しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。
とあります。この聖句を学びながら、私たちは、自分の日常生活がいったいどうである
か、反省する必要があるのではないでしょうか。
この22節には、御霊の実として九つのものが挙げられています。
* 愛
よく知られている、ローマ人への手紙5章5節。
私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれている…。
と書かれています。この愛は、この神の愛は、私たちの日常生活の中でも、活き活きと
働くことが出来ているのでしょうか。
* 喜び
イエス様は、言われました。ヨハネの福音書15章11節。
「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちに
あり、あなたがたの喜びが満たされるためです。」
イエス様は、多くのことを教えられたのです。頭の知識を与えるためではない。「わたし
の喜びがあなたがたのものとなるためです」。これは、私たちの体験でありましょうか。
* 平安
旧約聖書の中にも、この平和について書かれています。イザヤ書26章3節です。すばらしい言葉です。1067ページです。
志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼して
いるからです。
これは、困難と問題に満ちている日常生活の中で、私たちの絶えざる経験となっている
でしょうか。
* 寛容
パウロは、よくこの大切さについて書きました。例えば、エペソ人への手紙4章32節。
お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦して
くださったように、互いに赦し合いなさい。
こういうものは、がんばった結果ではなくて、「聖霊の実」です。
* 親切
コリント人への手紙第二、10章1節に、パウロは書いたのです。
さて、私パウロは、キリストの柔和と寛容をもって、あなたがたにお勧めします。
この点において、私たちも、イエス様に似た者とされているのでしょうか。
* 善意
使徒の働き、11章24節に、次のように書かれています。
彼はりっぱな人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。こうして、大ぜいの人が、
主に導かれた。
と書かれています。「聖霊の実」として、このようなものがあったから、多くの人が導か
れたのです。彼とは、バルナバという男でした。彼は立派な人物だったのですが、原語を見ると、「善意」ということばが用いられていることが分かります。バルナバは、主によって豊かに用いられた器で、彼を通して、「大ぜいの人が、主に導かれた」とあります。私たちも、バルナバと似た者とされ、私たちについても、バルナバと同じことが言えるのでしょうか。「彼は、…聖霊と信仰に満ちている人であった」と。
* 信仰
ルカの福音書17章5節。
使徒たちは主に言った。「私たちの信仰を増してください。」
私たちの場合はどうでしょうか。私たちの日常生活も、主に対する幼子のような信頼、
そして、主の呼びかけに対して、はっきりとした意識を持って行動する生活として、特徴
づけられているでしょうか。
* 柔和
コロサイ人への手紙3章12節に、パウロは当時の信じる者に書いたのです。
それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、
慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。
私たちも、このような謙遜な態度をもって、人に接しているでしょうか。
* 自制
コリントの手紙第一、9章25節。
闘技をする者は、あらゆることについて自制します。
と、あります。この点について、私たちの場合はいったいどうなのでしょうか。
今まで、失格者について話したことをまとめてみると、
@主に全部をささげきっていない兄弟姉妹は、戦いに参加することの出来ない失格者です。A日常生活の中に、「御霊の実」を見出すことが出来ない者も、失格者であって、戦いには
役立ちません。
そして、
B 定められた義務を軽んずる者は、戦いに役に立たないということです。
ちょっと見てみましょう。申命記20章7節です。
「女と婚約して、まだその女と結婚していない者はいないか。その者は家へ帰らなけ
ればならない。彼が戦死して、ほかの者が彼女と結婚するといけないから。」
聖書を見ると、その当時、婚約した者は、約束を守って結婚しなければならなかったの
です。そして、それから一年間は、兵役の義務から解放されていました。
申命記24章5節。
人が新妻をめとったときは、その者をいくさに出してはならない。これに何の義務をも
負わせてはならない。彼は一年の間、自分の家のために自由の身になって、めとった妻を
喜ばせなければならない。
要するに、自分の約束を守らない者は、主に用いられ得ない。私たちもまた、義務を持
っているのです。それは、主に対する義務と、他人に対する義務です。
主に対する義務は、次の三つに分けて考えることができます。
・主に約束されたことは、果たさなければならない。
申命記の23章21節を見ると、次のように書かれています。
あなたの神、主に誓願をするとき、それを遅れずに果たさなければならない。
あなたの神、主は、必ずあなたにそれを求め、あなたの罪とされるからである。
私たちは、主に何かを約束し、それを守らなかったことがあるでしょうか。おそらく私たちは、主にすべてをゆだね、「主のご自由になさってください」と、約束したのにも関わらず、わがままな気持ちを捨てきれないというような経験を持っているでしょう。けれど、これは、主がそのままにさせておくことの出来ない罪です。
・主こそ、私たちの生活の中で最優先されるべきです。
山上の垂訓の中で、マタイの福音書6章33節に、次のように書いてあります。
神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものは
すべて与えられます。
結局、「主を第一にしなさい」。旧約聖書にも、似ている箇所があります。
歴代誌第一、28章9節。
全き心と喜ばしい心持ちをもって神に仕えなさい。主はすべての心を探り、すべての思い
の向かうところを読み取られるからである。
私たちの日常生活の中では、何が最優先を占めているのでしょうか。
私たちの目指すところは、いったい何なのでしょうか。
・福音を宣べ伝えることです。
マルコの福音書16章15節。
「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」
と、書かれています。これは、すべての信じる者の果たさなければならない義務です。
この主に対する三つの義務を果たすことが出来ない者は、主がお用いになることも出来ず、
また、戦いに参加する資格も無い者です。
けれど、私たちは、主に対してだけではなく、人間に対しても義務を持っています。
ごく簡単に、それについて三つのことを考えたいと思います。
・和解が大切です。
同じく山上の垂訓の中の箇所です。5章の23、24節を見ると、次のように書かれています。
祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。
和解が大切です。わだかまりが解決されない限り、主は、その人をお用いになることが
出来ません。
・全き真実が大切です。
ローマ人への手紙12章17節。
だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを
図りなさい。
主は、いわゆる、偽り、偽善を憎まれます。真実であることは、常に、主によって勧められています。
・他の人の重荷を担うことが大切です。
ガラテヤ人への手紙6章2節。
互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。
イエス様のからだの肢体として、主のものである私たちはすべて、お互いに、いたわり合い、助け合うべきです。
このようにして、主に対して、また他人に対しての定められた義務を軽んじ、またその義務を果たすことをしなかったり、おろそかにする者は、戦いのための失格者です。
今まで、失格者についてお話したことをまとめてみると、
@主に、すべてをささげきっていない者は、戦いに参加するための失格者である。
A日常生活の中に、御霊の実を見出すことが出来ない者も、失格者である。
B定められた義務を軽んずる者は戦いに役に立たない者である。
そして
C 恐れたり、臆病の心を持つ者は、戦いのための失格者です。
申命記20章8節。
つかさたちは、さらに民に告げて言わなければならない。「恐れて弱気になってい
る者はいないか。その者は家へ帰れ。戦友たちの心が、彼の心のようにくじけるとい
けないから。」
戦いに参加出来るための前提は、断固たる決意と勇気です。臆病や心配が支配すると、そのような人だけが駄目になるのではなく、周りの人々もみな、臆病風に吹かれてしまうのです。ですから、つかさたちは、更に、民に告げて言わなければならなかった。
「恐れて弱気になっている者はいないか。その者は家へ帰れ。戦友たちの心が、彼の
心のようにくじけるといけないから。」
と、あります。臆病や勇気の無さは、主に栄誉を帰することが出来ず、私たちの周囲の者を損ないます。
・主は、みことばを通して、日々私たちにこのことを語りかけておられるのでしょうか。
・私たちは、「主の声を聞きたい!」という切なる願いを持っているのでしょうか。
・また、その御声に従う備えが、出来ているのでしょうか。
もしそうであるならば、恐れはすべて消え失せます。
最後にもう一箇所読んで終わりましょう。
イザヤ書41章10節です。1091ページです。古いみことばですけど、時代遅れに
なっていません。
恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。
わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。
私たち一人一人のために書かれている、すばらしい呼びかけです。
了
|