働き手を送ってくださるよう祈りなさい
2003.1.21(火)
ベック兄メッセージ(メモ)
引用聖句
ヨハネ 15:1、5〜6
「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。…
わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもそ
の人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れて
は、あなたがたは何もすることができないからです。だれでも、もしわたしにとどま
っていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火
に投げ込むので、それは燃えてしまいます。」
第一コリント 9:24〜27
競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということ
を知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。
また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるた
めにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。ですから、
私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘も
してはいません。私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人
に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。
「聖書」に代わる言葉とは、「良い知らせ」「良き訪れ」です。いろいろな新しい訳が出ても、めったに、『聖書』と書いてないのです。ただ、『良き知らせ』と書かれています。
私たちの毎日で、新聞・ラジオ・テレビを通して、読んだり聞いたり見たりするニュースは、決して良いニュースでないのではないでしょうか。悪いニュースばかりです。ニュースを読んだり聞いたり見たりして、「嬉しい。主よ、感謝します!」と、そういう気持ちにはなかなかなれません。もちろん、この世界が悪くなれば、滅茶苦茶になればなるほど、嬉しくなります。なぜならば、「主は近い」からです。その意味で、「良いニュース」なのではないでしょうか。
私たちは、聖書を読む時、いつも考えるべきではないかと思います。「これは、良いニュースなのか。良くないニュースなのか」と。もちろん、人によって違うかもしれません。この間のメッセージで話したように、今年は「戦いの年」です。それだけではない。「刈り入れの年」でもありますし、もしかすると、この羊の年は、「子羊なるイエス様の婚礼の年」になるかもしれません。イエス様は、ここで、ヨハネの福音書15章1節で、こう言われました。
わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。
イエス様は、いつも中心になりたくなかったのです。「父が中心になられれば、わたしは嬉しい」。そして、イエス様はここで何を言われたかったかと言いますと、「農夫が大切です。農夫がいらっしゃらなければ、何にもならない」。そして5節。
わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもそ
の人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。
そのために救われているのです。虚しい人生を送るためではありません。的外れな人生を送るためではなく、「実を結ぶために救われたのである」と聖書は、はっきり言っているのです。
それから、「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない」。これは、悪いニュースでしょうか? 良いニュースでしょうか? もし、私たちが本気になってこの言葉を信じれば、主を畏れるようになります。なぜならば、自分の考え方は正しいかどうか全く分かりません。主が教えてくださらなければ全く分かりません。
「戦うこと」とは、何なのでしょうか。イエス様にとどまることです。イエス様にだけ頼ることです。そうしないと、損をします。
「もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれ
を寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。」
そうすれば、残るのは灰だけです。灰は役に立ちません。パウロは、それが分かったから、当時の信じる者を励ましたのです。「私たちは朽ちない冠を受けるために…走ります」。
「走ること」とは、パウロにとって、コリント第一の手紙9章27節によると、自分のからだを打ちたたくことであります。
私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。
「走る」とは、そういうものです。自分のからだを打ちたたいて従わせることとは、自分自身を否定して、「大切なのは、私ではなく主です。私の思いではなく、みこころだけがなるように」という態度を取ることなのではないでしょうか。コリント第二の手紙の、5章7節を見ると、全く同じ信仰生活のことについて書かれています。320ページです。
確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。私た
ちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよ
いと思っています。そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、
私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。
「肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよい」。
昨日、なかじまかずこ姉妹の見舞いに行きました。再度、手術を受けたのですが、彼女は、ずっと祈っていたのです。「主よ、私を召してください。私を召してください」と。
そうすると、手術がうまくいけば、彼女はがっかりするのではないですか。(笑) 召して欲しい人が、召されない。死にたくない人が、死にます。(笑)おかしい話です。
この間、みずうちひろと兄弟に会いました。本当に輝いた顔です。今まで、彼はそんなに輝いたことがない。大手術の前の日だったのです。脳腫瘍で二年間くらい患っています。腫瘍はちょうど目の後ろに出来ていて、上から手術できないから、鼻からなのです。彼は、一人部屋になる前に四人部屋にいたから、はっきりは分からないけれども、同室の人が、やはり手術を受けていて、大変だと分かりました。おそらく車椅子の生活になるのではないか。もしかすると、植物人間になるのではないか。その可能性は十分ですけれど、彼は輝いていました。「主に任せたから結構です」と言ったのです。主が生きておられる証拠なのではないでしょうか。手術後の、今の状態ははっきり分からない。全部取ることが出来なかった。今からどういうふうになるか分かりません。けれども、信仰によって歩むこととは、そういうものではないでしょうか。手術がうまくいっても、うまくいかなくても、関係ありません。決めるのは主です。主は最善を成すお方です。けれども、戦いです。「平気です」と言えたとしても、決してそうではない。やはり、現実は現実です。信じる者は、一つの、とんでもない戦いに投げ込まれている者です。
そして、私たち信じる者に与えられている一番大切な使命とは、「イエス様を紹介すること」です。生きておられるイエス様、勝利者なるイエス様、すべてを支配したもうイエス様を紹介することです。このイエス様は、マタイの福音書9章36節で、次のように言われました。イエス様は、当時の人々を見た時、知らん顔をすることができなかったのです。15ページです。
また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに
思われた。
私たちには理解できないけれど、羊飼いのない羊はおしまいです。もう生きるチャンスは、まずありません。どういうふうになるか分からない。イエス様は、「人間とはそういうものである」と言われました。37節。
そのとき、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。」
この意味は、「備えられている人は多い。しかし、彼らに救い主を紹介する兄弟姉妹は少ない」。全然足りないというだけではなくて、多くの兄弟姉妹は、かえってつまずきを与える者です。主とともに働かないで、自分勝手に行動します。38節。
「だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」
どうしたらいいか分かりません。だから、何でも出来るお方に祈りなさい。主は奇跡を成すお方です。どういう人々が祈るのかと言いますと、「自分で何も出来ない。救われていない人に救われてほしいけれども、自分で何も出来ないから、無理だ」と、本当に思う人々だけが、心から祈るのではないでしょうか。
今年は、「戦いの年」というだけではなく、「刈り入れの年」です。イエス様によって備えられた人々は、導かれなければなりません。人々がどういうふうに備えられるかと言いますと、多くの悩みと苦しみを通してです。
イエス様の弟子たちは、召された時、全部捨てました。イエス様に従ったのです。パウロは、「自分にとって得であったものをみな、イエス様を知る素晴らしさのゆえに、損と思うようになりました。すべてを捨てました」と言うようになったのです。だからこそ、彼は用いられるようになったのです。主は生きておられ、主は、「救いたい」と望んでおられるのです。しかし、用いられる器がなければ、主は何もすることができません。従って、主の同労者となることこそが大切です。かしらなるイエス様は、からだである兄弟姉妹を通して働きたいと望んでおられ、ご自身を明らかになさりたいと思っておられるのです。
パウロたちは、この使命を知るようになっただけではなく、主に頼りながら用いられました。コリント第二の手紙の2章15・16節を見ると、次のように、彼らは証ししたのであります。317ページです。
私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリ
ストのかおりなのです。ある人たちにとっては、死から出て死に至らせるかおりであ
り、ある人たちにとっては、いのちから出ていのちに至らせるかおりです。
コリント第二の手紙3章5節。
何事かを自分のしたことと考える資格が私たち自身にあるというのではありません。
私たちの資格は神からのものです。
4章7節。
私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない
力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。
パウロは、救われた人々に大切なことを聞いたのです。コリント第一の手紙6章19節。
あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなた
がたは、代価を払って買い取られたのです。
すべてをささげ尽くすことこそ、用いられるために要求されています。それは、私たちの場合には、自分の自己本位の生活に死ぬことを意味しているのです。「あなたがたは、もはや自分自身のものではない」。言葉を変えて言えば、用いられるための資格は、バプテスマのヨハネのように、「イエス様は栄え、私は衰えるべきである」。
ローマ人への手紙の6章13節、273ページに次のように書かれています。この間も引用した大切な箇所であります。
また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死
者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささ
げなさい。
12章に同じような言葉が書かれています。ささげるべきものは、やはり自分自身です。
12章の1・2節。
そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお
願いします。
…強制的ではない。主でさえも強制なさいません。
あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげな
さい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけませ
ん。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れ
られ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。
私たちのからだ、私たちの手足、すべては主の器となるべきです。すべてをささげると、主は用いてくださるのです。
主は働きたいのです。けれども、主の働き方とはどのようなものなのでしょうか。
三つに分けて考えたいと思います。
1 主は選び分かつ。
2 主にとっては、数より質の方がはるかに大切である。
3 強制することを好まず、自発的に主にお従いしたいという兄弟姉妹を求めておられる。
1.主は、付け加えることよりも、むしろ選び分かつことをなさいます。
一つの実例は、士師記を見ると分かりますが、旧約聖書の390ページになります。
7章の2節からお読みいたします。
そのとき、主はギデオンに仰せられた。「あなたといっしょにいる民は多すぎるから、
わたしはミデヤン人を彼らの手に渡さない。イスラエルが『自分の手で自分を救った。』
と言って、わたしに向かって誇るといけないから。 今、民に聞こえるように告げ、『恐
れ、おののく者はみな帰りなさい。ギルアデ山から離れなさい。』と言え。」すると、民の
うちから二万二千人が帰って行き、一万人が残った。すると、主はギデオンに
仰せられた。「民はまだ多すぎる。彼らを連れて水のところに下って行け。わたしは
そこで、あなたのために彼らをためそう。わたしがあなたに、『この者はあなたといっしょに
行かなければならない。』と言うなら、その者は、あなたといっしょに行かなければ
ならない。またわたしがあなたに、『この者はあなたといっしょに行ってはならない。』と言う
者はだれも、行ってはならない。」そこでギデオンは民を連れて、水のところに下って
行った。すると、主はギデオンに仰せられた。「犬がなめるように、舌で水をなめなめる者
は残らず別にしておき、また、ひざをついて飲む者も残らずそうせよ。」そのとき、口に手を
当てて水をなめた者の数は三百人であった。残りの民はみな、ひざをついて水を飲んだ。
そこで主はギデオンに仰せられた。「手で水をなめた三百人で、わわたしはあなたがたを
救い、ミデヤン人をあなたの手に渡す。残りの民はみな、それぞれ自分の家に帰らせよ。」
今の箇所を見ると、主は32,000人の中から、わずか300人だけを選び分かちました。残りの民は、すべて家へ帰りました。どうしてであるかと言いますと、主は、彼らをお用いになることができなかったからです。
2.今のことから分かるように、主にとっては、数よりも質の方がはるかに大切であるということです。
たとえば、200〜300人の兄弟姉妹が、妥協の生活をする場合には、主はお用いになることが全くできませんが、2〜3人であっても、主に忠実であれば、その価値は妥協した200〜300人よりも、比較にならないほど、はるかに大きな価値と内容を持っていることになります。「主は栄え、私は衰える」という思いを持つ人々を、主は必死になって捜し求めておられます。
3.主は強制することを好まず、自発的に主にお従いしたいという兄弟姉妹を求めておられます。
主は、主の軍勢の勇者となることを誰にも強制なさいませんが、ただ単に救われるだけではなく、主の器とされることは大きな特権です。テモテ第二の手紙2章3・4節を見ると、次のようにパウロは愛弟子であるテモテに書いたのです。ある意味での別れの言葉と言ってもいいでしょう。殉教の死を遂げる前の手紙ですから。
キリスト・イエスのりっぱな兵士として、私と苦しみをともにしてください。兵役
についていながら、日常生活のことに掛かり合っている者はだれもありません。
もう一箇所。コリント第二の手紙。前に読みました箇所5章9節。
肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に
喜ばれることです。
「主を愛すること」と言ってもいいでしょう。「あなたを喜ばせたいけれど、どうしたらいいの?」という態度を取ることです。
「日常生活のことに掛かり合っている者は、だれもいません」と前の箇所に書かれています。「掛かり合う」という言葉の意味は、がんじがらめになってしまって、自分自身どうすることもできないような状態に陥ることを意味するのです。救われた姉妹たちの多くのご主人たちも、いわばそのような状態に陥っていると言っても言い過ぎではないでしょう。つまり、そのようなご主人たちにとっては、会社や仕事が一番大切なものであり、自己の本当の自由を持つことができないのです。けれども、主のみこころは、罪贖われ、救われて、真理を知るに至ることです。そこに至るまでには、どうしても戦いを通らなければならない。なぜならば、ご主人たちは、暗闇の圧制から救い出されて、御子・主イエス様のご支配の中に移されることこそ、重要なことであるからです。みことばの中で次のような箇所があります。
「あなたの民は、あなたの戦いの日に、聖なる飾り物を着けて、夜明け前から喜んで
仕える。」
と、あります。ここで大切なことは、強制されて犠牲を払うことではなくて、自発的に、「喜んで主のために生きたい。主に仕えたい」ということです。
昨夜、鹿嶋家庭集会で、ある姉妹に初めて会いました。彼女は子どもを4人持つ母親で、イエス様を信じていますし、ある教会に行っています。けれども、奉仕のことで疲れ果ててしまった。もう何の喜びもない。教会には何人が集まっているのか全然分からないし、聞かなかったけれども、「奉仕、奉仕、奉仕、…もう疲れた」。もちろん、ご主人もそれを感じているから、見向きもしません。教会に行って、元気になるなら分かります。けれど、逆になれば、いったいどういうものでしょうか。主は、決して強制なさいません。自発的に喜んで奉仕することが出来なければ、止めなさいと、主は言われるに違いない。
私たちは用いられるために、祈りの中で戦うために救われました。しかもそれは、敗北に至る戦いではなくて、勝利に至ることが決まった戦いです。地獄そのものは、私に逆らい、人間は一緒になって私たちに逆らうかもしれないけれど、主は、必ずご自分の勝利を明らかにしてくださるのです。
疑いもなく、今年は「戦いの年」というだけでなく、「刈り入れの年」であります。けれども、実がなるために、戦いの連続でありましょう。けれども私たちが、滅び行くこの世の失われたたましいのために、主に全てをささげることが出来るならば、そのような者を主は豊かに用いてくださるのです。イエス様は、人間一人一人を非常に価値のあるものとして、お考えになったので、天の栄光を捨てて、この地上の貧しさ、悩み、恥、また死の苦しみを受けられたのです。人間がそれほど高価なものであるならば、その人間の永遠の救いのために、どれほどの距離も遠すぎることはなく、どれほどの重荷も煩わしくなく、いかなる配慮も大きすぎず、いかなる仕事も難しすぎることはないのです。
今年、私たちの必要としていることは、知り合いになった人々のための、「燃える心」です。イエス様が、私たちをあらゆる眠気や無関心さから引き出してくださいますように。イエス様によって備えられた人々は、みもとに導かれなければなりません。私たちは、次のように祈るべきなのではないでしょうか。「主イエス様。私のいろいろな障害物や能力のなさにも関わらず、私を、人をすなどる者としてくださいますように」。
イエス様が、弟子たちを、「人をすなどる者」として用いるために、呼ばれたのです。お用いにために、「従いなさい」と言われたのです。そして、彼らは網を捨てて従いました。自分のものを捨てて従いました。妨げとなるもの、引き留めようとするもの、第二・第三のものも、すべてを捨てたのです。
個人個人の使命、また集会全体の使命は、暗闇を照らすことです。まことの光は、もちろんイエス様です。けれどもイエス様は、ご自分の光をご自分のからだなる教会を通して、すなわち、主を信じるようになった兄弟姉妹一人一人を通して、この世に与えようとしておられるのです。救われた一人一人を、ご自分の道具として用いようと、主は望んでおられるのです。
確かに、イエス様から離れたらおしまいです。光であるイエス様から離れた瞬間、暗闇になります。もちろん、私たちの内からは、暗闇しか出てきません。けれど、イエス様の内からは、光しか出てこないのです。イエス様が、私たちをお用いになることが出来る程度に従って、主の光が私たちの内から出てくるのです。イエス様が私たちを救われたのは、私たちをお用いになるためです。私たちの内からご自身の光を与えられるためです。これこそが、私たちの使命であり、課題なのではないでしょうか。
けれど、イエス様に対する愛、イエス様に対する個人的な愛がなければ、いかなる熱心も、いかなる奉仕も、全く役に立たないものです。ですから、イエス様は、もちろん当時のペテロだけではなく、私たちにも聞いておられます。
「あなたはわたしを愛しますか。」
ペテロは、本当に心から言えたのです。
「主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」
イエス様に対する初めの愛を持たない兄弟姉妹は、火の消えた、ともしびのようなものです。このような兄弟姉妹は、用いられ得ません。戦いのために役に立ちません。
最も大切なこととは従って、「主の御前に静まること」です。イエス様のもとで、静かな時間を持つことです。私たちに新たな愛が回復され、主イエス様との交わりが、私たちの新しい喜びとなります。みことばの呼びかけとは、結局そういうものです。すなわち、
・イエス様との交わりの時を持つようにしてください。
・イエス様に語ってもらう時を持ってください。
・イエス様に、あなたの恥を見るようにしてもらってください。
そうすることによって、過ち、わがまま、罪が赦され、主の恵みを驚くほどに得る者となり、イエス様を心から愛し、礼拝するようになのです。
パウロの心からの証しとは、前に引用しましたが、次のようなものでした。「自分にとって得であったもの、自分にとって全ての全てであったものを、私は捨てた。イエス様を知る素晴らしさのゆえです」。結局、イエス様とはパウロにとって全ての全てでした。だから用いられるようになりました。彼の証しとは、
私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝え
ておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。
有り得ることです。「私の人生は、実を結ばない人生になる可能性がある」とパウロは分かりました。イエス様の告白とは、ヨハネの福音書12章24節。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななけ
れば、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」
「もし死ねば、豊かな実を結ぶ」。
もう一箇所読んで終わりましょうか。ヨハネの福音書15章16節。
「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あな
あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたが
たの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは
何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」
「実を結ぶために救われた」。
実が残るために、主との親しい交わりはどうしても必要であります。
了
|