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メ ッ セ ー ジ ・ 証 し 集


七つの偉大なる発見
   
2003.1.28(火)
ベック兄メッセージ(メモ)

 
引用聖句
 ヨハネ 3章1節〜16節
   さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。この
  人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた
  教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこの
  ようなしるしは、だれも行なうことができません。」イエスは答えて言われた。「まことに、
  まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることは
  できません。」ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれること
  ができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」イエスは
  答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれ
  なければ、神の国にはいることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊に
  よって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが
  言ったことを不思議に思ってはなりません。風はその思いのままに吹き、あなたはその音
  を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、
  そのとおりです。」ニコデモは答えて言った。「どうして、そのようなことがありうる
  のでしょう。」イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、
  こういうことがわからないのですか。まことに、まことに、あなたに告げます。
  わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししているのに、あなたがたは、
  わたしたちのあかしを受け入れません。あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、
  信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。だれも天に上った者
  はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。モーセが荒野で蛇を
  上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、
  人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」神は、実に、そのひとり子をお与えに
  なったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠
  のいのちを持つためである。


 昨夜、青梅の家庭集会があったのですけれども、3人の姉妹は、全く同じあいさつの言葉を使ったのです。どういう言葉であったかと言いますと、「私は喜んでいます」「私は喜んでいます」「私も喜んでいます」。非常にすばらしいあいさつなのではないかと思います。イエス様を知るようになった人たちの特徴は、そのようであるべきなのではないでしょうか。私たちは、どうして喜ぶことができるのかといいますと、全ての問題が解決されたからではありません。何の苦しみも、悩みも無いからでもありません。どうして、喜ぶことができるのでしょうか。イエス様は、私のような者をも愛しておられるからです。
 日曜日、ある若い姉妹は泣いてしまったのです。喜びのあまり泣きました。本庄に住んでいるE姉妹のお父様が、洗礼を受けられたのです。決心して、洗礼まで導かれたのです。その時、娘である姉妹は、喜びのあまりどうしようもなくて泣いてしまいました。
 一人の兄弟は癌になり、祈りの中で言いました。「愛する妻を裏切ってしまった。けれどイエス様、愛されていることを感謝します」。後で、彼は司会をしながら言ったのです。「私は傲慢だった。何でもできると思っていたけれど違っていた。今、夫婦揃って祈るようになった。イエス様のおかげで、心の安らぎを得るようになった」と。

 確かに、全ての人は平和を欲しています。けれども、全ての人は、次の戦争が遅かれ早かれやってくることを知っています。時間の問題だけです。主のみことばである聖書は、将来が確かに薔薇色ではないとはっきり言っています。政治家たちは、なすすべを知りません。

 人間は、何を共通に持つべきなのでしょうか。
 1、「平和」。「まことの平和に対する憧れ」なのではないでしょうか。
 2、「自由への意思」
 3、「一致への願望」
であります。

 人間はみな、絶えざる「平和」に憧れています。けれども事実は、いかなる世界、政府も、いかなる宗教も、「まことの平和」を与えることができません。よいニュースを与えられるのは、もちろん聖書だけです。エペソ書2章14節に、パウロは喜んで書いたのです。
   キリストこそ私たちの平和であり、…

 主イエスにあって、主イエスを我が身の内に受け入れた者は、絶えざる「平和」を持っています。

 全ての人は、「自由への意思」を持っています。束縛されたい人は、一人もいないでしょう。けれど、事実はどうかと言いますと、自分のしたいことをする者は、自分の情欲に縛られ、自我の奴隷となります。そして、罪は盲にします。「まことの自由」は、ただ主イエス様に従うときにのみ存在します。

 そして、全ての人間は、「一致への願望」を持っているのではないでしょうか。というのは、不一致はいろいろな問題、煩わしさ、苦悩をもたらすものであるからです。人間的になされた全ての一致は、時間的に制限されており、すぐに壊れてしまいます。
 初代教会の兄弟姉妹について、聖書は次のように言っています。使徒行伝2章の46節です。彼らは、
   毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、
  …

 彼らは、たまに集まっただけではなく、「毎日」。そして、みな、一つになったのです。
 「まことの一致」は、主イエス様を通してだけ存在します。私たちは、あらゆる錯覚から抜け出なければなりません。大切なことは、巌のように動かず、昨日も今日も永遠に変わらない主イエス様と出会うことです。主を知ることです。今度、何と何が起こるのか、別にどうでもいいことです。主を知ることこそが、最も大切なのではないでしょうか。

 今、辻田兄のお読みになりました引用箇所は、確かに、聖書の中で最も知られている箇所なのではないでしょうか。少なくとも16節です。なぜなら、16節の中に「喜びの訪れ」とは何であるか、はっきり書き記されているからです。
   神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。

 「世」とは、人間一人一人のことです。
   それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
 
 今、読みました箇所に出てくる登場人物は、ニコデモという男です。彼は、「七つの偉大な発見」をしたのであります。彼は真理を求めた者と言えます。
マタイ伝7章7節。
   求めなさい。そうすれば与えられます。

 これこそが彼の経験でした。言うまでもなく、彼は、イスラエルの民に属している、広く認められた人格者であり、教師でした。3章の10節によると、「あなたはイスラエルの教師である」と、イエス様は言われたのです。原語を見ると、「イスラエルの中で、ただひとりの特別教師」という表現が使われています。多くの教師の中のひとりではない。ナンバーワンだったのです。3章1節によると、彼がユダヤ人の指導者のひとりであったことが分かりますが、教師としては別格な人でした。ニコデモは、最高の教育を修めた者でした。広く一般に認められた人格者でした。彼は、道徳的に高尚な、模範的な生活を送っていた者でした。けれども、彼は、心の奥底では孤独で満たされない状態だったので、高齢に至るまで真理の探求者であり続けました。彼は、言うまでもなく、旧約聖書を徹底的に知り尽くしていました。もちろん、来たるべき救い主の約束がよく分かっていたはずです。彼は、イエス様について、イエス様の教えについて、またイエス様の奇蹟についても、いろいろと聞いたはずです。彼は、真理を求め続けていましたので、直接イエス様に尋ねたい、イエス様をよりよく知りたいと思って決心したのです。
 イエス様は、私たちよりももちろんはるかに忙しく、大変な毎日を過ごしておられたのです。あらゆる地方から病人がイエス様のみもとに連れて来られ、それら全ての人をイエス様はいやしてくださいました。イエス様は、忙しさに忙殺され、しばしば何かを食べる時間さえ見出せないほどだったと、聖書は言っているのです。そして、弟子たちが疲れ果てて横たわっていたとき、イエス様は立ち上がって、何時間も山の中で、ただひとりで祈られたのです。そういうことですから、昼間、イエス様と全く個人的に話し合うことは、実際問題として不可能に近いことでした。ですから、ニコデモは、夜何時頃だったか分かりませんが、遅かったでしょう。夜、イエス様のところにやって来たのです。彼は、正直かつ率直に、自分の問題を持ってやって来たのです。そして、「イエス様のもとに来る者は、決して無駄にはならない」これが彼の経験でした。
 イエス様は、全ての質問に答えてくださり、あらゆる問題を解決なさり、真理へと導いてくださいます。イエス様のご臨在のもとで、ニコデモは驚くべき発見をしました。すなわち、模範的で正直な努力にもかかわらず、自分が霊的には盲で、死んだ者であり、失われた者であるということを認めざるを得なかったのです。「神の国」についての最も根本的な真理が、彼には分かっていなかったのです。
 こんにちも、ある人たちは、忠実に礼拝に参加し、洗礼を受けて、熱心にご奉仕し、多くの善いことを行なっているにもかかわらず、主の目には、ニコデモのように霊的に盲であって、死んだ者であり、失われている人が大勢いるのではないでしょうか。
 正しい教えを信じこめばいいということではありません。人間は、ひとつの教えを信じ込むことによって救われ得ないからです。テモテ第二の手紙の3章を見ると、次のように書かれています。381ページになります。5節から。
   見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を
  避けなさい。

7節。
   いつも学んではいるが、いつになっても真理を知ることのできない者たちです。

 悲劇的なのではないでしょうか。「いつも学んでいる」。「一生懸命聖書を読んでいる」。けれども、真理を知るようにならなければ、全く意味のないことです。真理とは、言うまでもなく、ひとつの教えではなくてイエス様ご自身です。
 イエス様との会話を通して、ニコデモは前に話したように「七つの偉大な発見」をしたのです。少しだけ、この「七つの発見」について考えましょう。

 第1の発見は、「イエス様が、求めるたましいには出会ってくださる備えを持っておられる」ということです。すなわち、個人に対する主の配慮を知ることができるのです。ニコデモは、次のような言葉で、イエス様に語ったのです。ヨハネ伝3章2節。
  「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が
  ともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことが
  できません。」

 ここで、ニコデモは3つのことについて語っています。
 第1に、「主イエス様が父なる神のもとから来られた」
 第2に、「主なる神がイエス様とともにおられる」
 第3に、「主はできるお方である。不可能なことはない」
ということです。
 ニコデモの心の奥底にあった問題は、「私はいかにして永遠なる神の国に入ることができるのか。自分の罪の問題をどういうふうに解決することができるのか。あらゆる不安、心配からどういうふうに解放され得るのか」ということでした。ニコデモが、この問いを言葉で質問する前に、イエス様はその答えを彼に与えてくださったのです。真理を求め、救われたいと思う人には、イエス様が答えてくださるということを知ることができます。というのは、主は、昨日も今日もいつまでも変わらないお方であるからです。
 私たちにも、主の招きが当てはまるのではないでしょうか。ヨハネ伝の7章37節から38節を見ると、次のように書かれています。すばらしい呼びかけです。
   さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも
  渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っている
  とおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」

 「ただ、わたしのもとに来なさい」。有名なマタイ伝の11章の28節です。
   すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしが
  あなたがたを休ませてあげます。

 
「わたしのもとに」。「わたしのところに」。イスラエルの経験とは、そういうものでした。詩篇の作者は、次のように書いたのです。詩篇の107篇の9節。
   まことに主は渇いたたましいを満ち足らせ、飢えたたましいを良いもので満たされた。

とあります。真理に飢え渇いている者は、イエス様がこの心の飢え渇きを満たしてくださることがおできになることを、経験するようになります。
 ニコデモは真理の探求者でした。彼の飢え渇いたたましいは、聖書の知識によって満たされなかったのです。というのは、彼は広く認められた立派な聖書学者でした。豊富な聖書知識を持っていたのです。けれども、その聖書知識によって彼は救いを得られなかったのです。聖書の戒めを守ることによっても、まことの救いを得られないのです。ニコデモが必要としたものは、「いのちの水」であり、「心の安らぎ」だったのです。永遠の救いを本当に得たいと思うならば、先入観念を捨て、自分自身に頼ることをやめ、生ける救いの神を求めるべきです。
 イザヤも、同じように呼びかけたのです。非常にすばらしい箇所です。1117ページです。イザヤ書の55章の6節と7節です。
   主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。悪者はおのれの道
  を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主は
  あわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。

 すばらしい呼びかけ、すごい約束なのではないでしょうか。ニコデモは、主のご臨在において、全ての自分の努力、あらゆる宗教性、自分の正義というものが、永遠なる神の前に、全く無価値なものであることを知りました。
 イエス様は、求めるたましいを迎えてくださいます。イエス様は、あらゆる人のために時間を作ってくださいます。イエス様は、苦しみや悩みをご存じであられ、解決することがおできになる。これこそが、ニコデモの経験した最初の発見でした。
第2の大発見は、「イエス様は偉大なる教師以上のお方である」ということでした。
 すでにニコデモがイエス様と出会う前に、彼は、イエス様が教えと行ないにおいて比類のないお方であると確信したのです。それから、ニコデモが到達した結論は、主イエス様が神から来られたお方であるということです。そして、主なる神ご自身がイエス様とともにおられるということでした。
 しかし、ニコデモが主イエス様と出会ったとき、イエス様はそれ以上のお方であることがいっぺんに分かったのです。もちろん、イエス様は、あらゆる時代の最大の教師です。だれも、イエス様のように、そのような言葉を語った者はいませんでした。イエス様は、人間のあらゆる教えをはるかに超えておられます。そのことは、当時一般に求められていたのです。マタイ伝の7章28節、29節を見ると、次のように書き記されています。
   イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。というのは、
  イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。

とあります。けれど、イエス様は教師であるよりも、まず第一に「救い主」です。というのは、私たちは、私たちを教えてくれる誰かを必要としているのではなく、私たちを救ってくださるお方を必要としているのです。最大の聖書知識でさえ、私たちを救ってくれません。救いは、人間の心の中で、主なる神だけが成してくださる行ないなのです。つまり、救いは、罪の問題の解決です。御使いは、主イエス様の御降誕の前に、なぜイエス様が来てくださるのかを知らせました。マタイ伝1章21節。
  「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民を
  その罪から救ってくださる方です。」

 「イエス」という名前の意味は、「罪からの救い主」です。
 
 ニコデモの第3の大発見は、「肉によって生まれた者は、肉である」ということでした。
 「肉」は、いつまでも「肉」にとどまります。すなわち、私たちは、私たちの生まれつきの性質を変えることができません。私たちの生まれつきの性質は、罪を犯すことしかできない「罪の性質」です。よく言われる、「失敗は成功のもと」という諺は、本当ではないと思います。もしそうだったら、戦争がなくなるはずです。人間は歴史から何を学んだかといいますと、何も学んでいません。かえって悪くなる一方です。詩篇の51篇の中で、ダビデは次のように告白したのです。
   ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。

 罪人として生まれた者は、もちろん罪を犯すことしかできません。「信仰から出ないものは全部罪である」と、聖書は言っています。結局、人間が自分勝手に行動すると、主は祝福することができません。
イザヤ書の64章の6節に、一文章ですけれど、
   私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。

 結局、人間は何をやっても罪滅ぼしのために何もできないということです。人間の生まれつきの性質、すなわち「肉」は、非常に礼儀正しく、敬虔で、外から見ると良いように見えるかもしれませんが、主の目には、とても受け入れられないほど、罪に汚れているのです。私たちは、まだ「肉」の中にいるのでしょうか。あるいは、主の霊によって「新生」を経験したのでしょうか。

 ニコデモの第4の大発見は、「まことの救いは、宗教とは何の関係もない」ということで、従って、「単なる頭の知識とも関係ない」ということでした。全ての人間の行ないは、救われることにとって妨げになるだけです。イエス様は、そのことをはっきりと言われました。ヨハネ伝の3章に戻りまして、3節から7節。
   イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく
  生まれなければ、神の国を見ることはできません。」…イエスは答えられた。「まことに、
  まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいる
  ことができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
  あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思っては
  なりません。」

 救われたいと思う人は、「新生」を経験しなければなりません。ここで大切なことは、外側の変化ではなくて、全く新たなる創造です。よく知られている、コリント第二の手紙の5章17節に、次のように書かれています。
   だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。
  古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

 「新生」は、ただ単に決断ではありません。「今から、私は集会に行きます。私は聖書を読みます。私は祈ることもするのです」と。このこと全ては、外側のことです。
主なる神の救いは、「新生」から始まります。人は罪人としてイエス様のみもとに来て、主を自分の救い主として受け入れることによって、全く新しいいのちを持つようになります。イエス様を持つ者は永遠のいのちを持ちます。永遠のいのちを持つことこそ、聖書で言われている、「新生」であります。

 ニコデモの第5の大発見は、「この新生が絶対に必要である」ということでした。
 ヨハネ伝3章3節において、イエス様は、「新しく生まれなければ、何をやっても無駄で、むなしい。役に立たない」という言葉を使っておられます。7節において、イエス様は、はっきりと、「あなたがたは新しく生まれなければならない」という言葉を用いられたのです。「…なければならない」。救われたいと思う人は、新しく生まれなければなりません。天国に行きたいと思う人は、新しく生まれなければなりません。
ですから、私たちが本当に新しく生まれ変わっているかどうかということは、最も大切な問題です。「新生」なしには、人間は永遠の滅びに定められています。「新生」なしに、まことの喜びも平安もありません。「新生」なしに、生き生きとした望みも存在しません。

第6のニコデモの大発見は、「新しく生まれ変わるのに、だれも年を取り過ぎていることはない」ということでした。4節です。
   ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができる
  のですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」

 イエス様は、彼にはっきりとした答えを与えてくださいました。「ニコデモよ。あなたも新しく生まれることができるのです」。もちろん、これは自然の事柄ではなく、超自然の事柄であり、霊的な覚醒を意味しています。今まで霊的に死んでいたあなたも、新しく生まれることができます。あなたは生ける神と結びつくことができ、あなたの債務が帳消しにされ、あなたは、本当の救いの確信を得ることを経験できるのです。主イエス様を信じ、受け入れる者は、救われて、父なる神の子となるのです。
ヨハネ伝1章12節に、
   この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる
  特権をお与えになった。

とあります。

第7の大発見は、「新しく生まれるためには、ただ一つの道だけが存在する」ということでした。なるほど、富士山の頂上に至るための道はたくさんあります。けれども、救われるためには、ただ一つの道しかないのです。ですから、イエス様は3章の14節から次のように言われました。
  「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、
  信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」神は、実に、そのひとり
  子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びる
  ことなく、永遠のいのちを持つためである。

 イエス様は、ニコデモに対してはっきりと言われました。「わたしは荒野における蛇のように上げられなければなりません。わたしは十字架に付けられなければなりません。そのことによって、わたしはもともとあなたに下されなければならない罰を、わたしの身の上に受けなければならないのです。身代わりとなります。わたしの死によって、債務は帳消しにされ、罪は赦されるのです。あなたは、救われて新しく生まれたいと欲するならば、わたしを信じ、世の罪の債務を帳消しにするためにはわたしの贖いの死で十分である、ということを信じなさい。生ける主なる神は、あなたを心から愛しておられます。あなたの代わりにわたしを犠牲にし、わたしをお見捨てになるのです。それは、あなたがわたしを信じることによって、滅びずに、永遠のいのちを持つためなのです」と。
 救われるための道は、極めて簡単です。永遠のいのちを持ちたいと思う人はだれでも、それを持つことができます。だれであっても、年を取り過ぎていることもなければ、若過ぎることもありません。また、悪過ぎることもなければ、愚か過ぎることもありません。
 十字架に付けられたお方は、ご自身の上に罰を受けてくださったのです。甦られたお方は、今日も私たちの近くにおられ、だれに対しても全き罪の赦しを提供しておられます。
 イエス様が約束しておられます。ヨハネ伝の5章の24節です。
   まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした
  方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っている
  のです。

「イエス様とイエス様のみことばを信じる者は、永遠のいのちを持っている」と、イエス
様ははっきり約束してくださったのです。永遠のいのちを持つ者は、もはやさばきに会う
ことがないのです。というのは、身代わりとなってさばかれたお方ご自身が、今、私たち
のためにとりなしてくださり、弁護してくださるからです。
 イエス様を持つ者は、死からいのちへ移されています。イエス様を信じ、イエス様によって救われた人たちはみな、ニコデモが発見したと同じ、「七つの大発見」をした者です。すなわち、彼らは次のように告白することができます。

 1、イエス様は私を迎え入れてくださり、私が求める前に私を探し出してくださった。
イエス様は、ただ単に私の苦悩を理解してくださっただけではなくて、私の罪の問
題を解決し、すべての悩みを解決してくださいました。

 2、イエス様は、偉大なる教師以上のお方であり、私の救い主、私の贖い主です。イエ
ス様は、私の罪と債務を赦してくださった。イエス様は、私にまことの安らぎを与
えてくださいました。

 3、「肉は肉にとどまり、決して良くなることはない」と、イエス様の言明を、共通して
経験したのです。自分の努力はどのようなものであっても、まことの救いの喜びを
得るためには助けになりませんでした。

 4、イエス様は、別の宗教をお与えになりません。「新生を通して、私は永遠のいのちを
いただきました」と、信じる者は証しすることができます。

 5、イエス様は、新生を通して、私に新しいいのちを与えてくださっただけではなく、
まことの喜び、深い平安、生ける望みをも与えてくださいました。新生なしには、
私はおしまいだったでしょう。

 6、私は救われましたので、私でさえ贖われましたので、この可能性はどなたに対して
も有り得るのです。主イエス様の恵みはだれに対しても十分であり、イエス様は、
全ての人を憐れもうと望んでおられるのです。

 7、永遠の救いに至る唯一の道は、主イエス様です。主を知ることは、本当の意味で生きがいのある人生を知る土台です。というのは、イエス様は、完全な満足を与えてくださるからです。

これこそ、救われた兄弟姉妹の証しであります。

この大いなる主が、全ての兄弟姉妹の生活を通して褒め称えられ、崇められますように。

                                     了


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◆メッセージ(ベック兄)

※一部、テープの転換による不明部分あり

神のみことばは神のみことばである(5) 2006. 4. 18
神のみことばは神のみことばである(4) 2006. 4. 11
神のみことばは神のみことばである(3) 2006. 4. 4
神のみことばは神のみことばである(2) 2006. 3. 21
家族の救い 2006. 3. 19
神のみことばは神のみことばである(1) 2006. 3. 14
主イエスは神の子キリストである(4) 2006. 3. 7
主イエスは神の子キリストである(3) 2006. 2. 28
主イエスは神の子キリストである(2) 2006. 2. 14
主イエスは神の子キリストである(1) 2006. 2. 7
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