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メ ッ セ ー ジ ・ 証 し 集


平和と安全 1
   
2003.2.4(火)
ベック兄メッセージ(メモ)

 
引用箇所
 ヨハネの福音書 14章27節。 
   わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を
  与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは
  心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。

 第一テサロニケ人への手紙 5章3節。
   人々が、「平和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに
  襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは
  決してできません。

 エペソ人への手紙 2章14節。
   キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし…

 同、17節。
   それからキリストは来られて、遠くにいたあなたがたに平和を宣べ、近くにいた人たち
  にも平和を宣べられました。


 人間にとって一番必要なものは、いったい何なのでしょうか。
今読みましたテサロニケ第一の手紙5章3節に、二つの言葉が出てきました。「平和」と「安全」です。「人々が平和だ、安全だと言っているそのようなときに、突然滅びが彼らに襲いかかります」。平和と安全こそが、人間にとって最も大切なのではないでしょうか。

イエス様は、はっきり、「世が与える平和とは、意味のないもので、見せかけのもので、偽物です」と言っておられます。イエス様だけが本当の平安を与えることがお出来になる方です。「わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます」。イエス様の平安とはどういうものであったのか、ピンと来ません。けれどもイエス様は何でも知っておられた方です。「祈れば不可能なことはない。」とイエス様は確信されたのです。この確信があれば、確かに不安から、心配から解放されるのではないでしょうか。
「私の平安をあなたに与えます」。これは聖書の素晴らしいニュースなのではないでしょうか。イエス様の平安を持つようになる者は、確かに心配する必要はない。恐れる必要はありません。人間は確かに平和について話しますけれど、全部、全く意味のないことです。
パウロは、「キリストこそ私たちの平和です。」と言っています。平和とは、人間の作るものではない。いくら努力してもうまくいきません。「キリストこそ私たちの平和です」。もう一箇所読みましょうか。
コロサイ人への手紙1章の20節から22節。358ページです。ここで、まことの平和の土台について、次のように書き記されています。
   その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させて
  くださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させて
  くださったのです。あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行ない
  の中にあったのですが、今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、
  あなたがたをご自分と和解させてくださいました。

十字架の血によって平和がつくられたのであると、ここに書かれています。
現代人は、確かにまことの平和を知らないし、安全についても何も知りません。なぜならば、私たちは将来のことがわからないからです。そうすると、詩篇の作者のような態度をとるべきなのではないでしょうか。良く知られている詩篇なのですけれども、「どうしましょうか?」という思いがあれば、この作者と同じ態度をとるべきなのではないかと思います。
詩篇121篇の1節から読みます。
   私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、
  天地を造られた主から来る。主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむ
  こともない。見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。主は、
  あなたを守る方。主は、あなたの右の手をおおう陰。昼も、日が、あなたを打つことがなく、
  夜も、月が、あなたを打つことはない。主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、
  あなたのいのちを守られる。主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも
  守られる。

この詩篇の作者は、確かに平和と安全を経験したのであります。9回、同じ言葉が出てきます。「あなた」です。「あなたがた」ではなくて、「あなた」という言葉が出てきます。複数形ではなくて単数形です。すなわち、大切なのは、個人個人と主との関係です。
人間一人一人は主の関心の的であり、永遠の愛の対象であり、本当に考えられないほど主に心配され、愛されているのです。

 今朝も、ある兄弟から電話がありました。兄弟の会社に勤めている方が、今朝また手首を切ってしまったのです。自分は全く役に立たない者だと言っておられるそうです。どういう方なのか分からないけれど、劣等感のかたまりで、孤独病にかかっている。きっと、それだけなのでしょう。けれど、大変です。人は、「私は、少なくとも主の愛の対象です。主に大切にされている」とわかると、見方が変わります。また元気になります。
人間にとってどうしても大切なのは、平和と安全です。平和と安全は、イエス様の血によってのみ、もたらされるのです。どういう人間であれ、平和と安全を求めます。必要だからです。
平和と安全は、どこにあるのでしょうか。いかにしてもたらされるのでしょうか。この詩篇の作者は、「私は鏡を見る」と言っていない。「私は目を上げる」と言っています。
この世には、目を伏せ、打ちのめされ、心を硬く閉ざした、孤独な人がいっぱいおります。これらの人々は、いろいろな問題と艱難だけしか見ることが出来ません。けれども、詩篇の作者は、そのようなものから、如何にして助け出されるかの秘訣を知っていました。自分自身や他人を見るのではなく、「上を見上げること」こそ、その秘訣です。
 作者は、ここで、「私は山に向かって目を上げる」と言ったのであります。「目を上げること」こそが、勝利の秘訣です。確かに私たちは、日本アルプスやスイスの山々を見ると、その雄大さ、素晴らしさに圧倒されます。けれども、このような自然の山からではなくて、天と地を創造されたお方から、私たちの助けは来るのです。
私たちは、自分自身や他人や自然界からではなく、確かな約束を与えられ、それを必ず成就なさる主からのみ、本当の救いが来るのです。美しい山や周囲のものからではなく、天と地を造られた主からのみ、本物が来るのです。すべての創造は、全知全能の主なる神の力と、英知のわざそのものです。創造のみならず、救いこそはるかに大いなる主の英知と力によるものなのではないでしょうか。

主なる神は、エデンの園において、現在私たちが知り得るよりもはるかに素晴らしい、偉大なる栄光を現わしてくださいました。けれども悪魔の誘惑と策略によって、アダムとエバは惑わされ、罪を犯し、悪魔と罪と時間の奴隷になり、そのことによって、全人類に罪が入りこんでしまったのです。
初めの人間の犯した罪とは、祈らない罪でした。主に、「どうしましょうか?」と聞いたなら、問題にならなかったのです。けれども、主は、堕落した人間を愛し続けられました。その愛の証拠として、ひとり子なるイエス様をお与えになられたのです。イエス様は救い主としてこの世に遣わされたのです。だから、「主を見上げよ」という、みことばになるわけです。
ヨハネ伝の6章40節で、イエス様は次のように言われました。
  「わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。」

「子を見て」とは、わたしを見て、という意味です。
信じることとは、心のまなこで見ることです。すなわち十字架につけられたイエス様は、私の代わりに罰せられたお方です。何かを学んで、理解したと思い込んで信じることは、本物ではない。まことの信仰は、上を仰ぎ見ることによって、十字架につけられたイエス様を見ることによって、与えられるものです。ですから、聖書の中でよく出て来る言葉は、たとえば、イザヤ書の45章の22節ですが、
  「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。」

「集会に行って救われよ」ではない。「聖書を勉強して救われよ」ではない。
「わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。」

主なる神は、その応えとして、私たちから信仰を望んでおられます。主イエス様は、私たちの過ち・わがままを贖うために、十字架でご自分のいのちを犠牲にしてくださいました。主は、イエス様のよみがえりによって、その犠牲を受け取ってくださったのです。
主は、次のように言われます。「わがひとり子、主イエスのよみがえりにより、全人類の罪の贖いが成され、この犠牲はわたしにとって十分である。わたしの義は全うされた」。
主は、その応えとして、私たちの主に対する全き信頼を待っておられます。イエス様の流された血潮によって、私たちの罪が赦されているのです。そしてこの救いの事実を十分に認識して受け取る者にこそ、本当の平和と安全が約束されています。
ローマ人への手紙4章25節を見ると、パウロは、このみ救いについて次のように書き記したのです。271ページです。
   主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、
  よみがえられたからです。

同じく5章1節。
   ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、
  神との平和を持っています。

初代教会の人々は、「私たちは、神との平和を持っている」。「欲しい」のではない。「望んでいる」のでもない。「持っている」。だれもが求めている平和と安全は、ただイエス様の血による贖いを通してのみ、与えられるのです。私たちが、主を見上げ、徹頭徹尾主に信頼するときに、主は私たちを救ってくださるだけでなく、常にみことばをもって導いてくださいます。守ってくださいます。

前に読みました詩篇に戻りまして、121篇の5節から。
   主は、あなたを守る方。主は、あなたの右の手をおおう陰。昼も、日が、あなたを打つこと
  がなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。主は、すべてのわざわいから、あなたを
  守り、あなたのいのちを守られる。主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも
  守られる。

主に信頼し、みことばに信頼すると、主はあなたの足の動かされるのを赦されない。
3節。
   主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。

これこそ、平和と安全を意味しているのではないでしょうか。主に信頼すると、主のみ手が私たちを守り、導き、悪魔の誘惑に陥ることから守ってくださいます。主は一瞬たりとも、その子から目を離すことがなく、注意を怠ることをなさいません。
4節ですね、
   見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。

このみことばは、私たちの生活から、わかりやすく表現されています。すなわち、不完全な私たち人間は眠らなければ生きていけませんが、全知全能なる神は、まどろむこともなく私たちを守ってくださるゆえ、私たちはまったき平和と安全を与えられているのです。主は、ご自分を信頼し、イエス様の血によって救われている者を守ってくださるのです。
主はそのように約束してくださいましたが、そのみ約束は、人間の誓いよりもはるかに確実なものです。このみことばを自分のものとして受け入れ、みことばにより頼み、みことばの上にしっかりと立つ者は、幸いです。
5節。
   主は、あなたを守る方、主は、あなたの右の手をおおう陰。

主はあなたのすぐ近くにおられ、あなたと共におられるのです。主は、昼も夜もあなたを守り、あらゆる危険から救い出してくださるのです。ここに、「昼は、太陽。夜は、月があなたを打つことはない」と書かれていますが、昼の危険、夜の誘惑から、主は守っていてくださることを意味します。夜の危険は、目に見えず隠されているけれども、それをも主は守っていてくださる。だから安全です。
この詩篇の中に、主が、ご自分を信頼し、より頼む者を常に導き守られるということをあらわす意味のことばが、6回も出てきます。いかなる状況でも、いかなる状態に置かれても、主は守ってくださるのです。
8節。
   主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。

と書かれています。
「今より」とは、イエス様を信じ、救い主として受け入れたときから、とこしえに至るまでという意味です。ですから、私たちは本当に主に受け入れられたかどうかということが、問題になるのです。すでに受け入れられているなら、とこしえに至るまで平和と安全を約束されています。主こそ、私たちに平和と安全を約束してくださる、ただ一人のお方です。
平和と安全の基礎をなしているものとは、いったい何なのでしょうか。聖書の言っていることははっきりしています。すなわち、「罪の赦しこそ、とこしえに至るまで平和と安全の基礎をなすものです」。「赦された」という確信がなければ、平和もないし、安全もあり得ないのです。
エペソ人への手紙1章7節。341ページを見ると、次のように書かれています。
   私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けて
  いるのです。これは神の豊かな恵みによることです。

「私は、罪の赦しを受けている」と言える人は、幸せであります。
福音の本質は、この1節に集約されています。イエス様の人格の中に罪と赦しと贖いがあります。イエス様こそ、福音の中心をなすお方です。福音とは、何かある力とか、教えとか、物ごとではなく、生きておられる神の、ひとり子なる主イエス様ご自身に他ならない。主の中に、「全て」があり、主がともにいまさずば、「無」です。
いろいろな宗教は、イエス様のことばを引用したり、適当に使ったりしていますけれど、イエス様は、聖書の中でのみ正しく伝えられており、聖書によるイエス様だけが、本当の完全な救いをもたらしてくださったことを、はっきりさせておかなければならないのではないでしょうか。あらゆる宗教は、イエス様のことばを大切にしたとしても、イエス様の死について一言も語りません。あるいは批判的に言っているのです。
文鮮明は、「イエスは本当は死にたくなかった。かわいそうな男でした。犯罪人のように殺されてしまった。イエスは敗北者になってしまったから、おれは1960年、悪魔に打ち勝った」と言っているのです。統一教会の作ったものです。とんでもない話です。
イエス様の十字架こそ、イエス様の身代わりの死こそ、聖書のすべてです。もちろん、イエス様は死なれただけではなく、復活なさいました。

パウロは福音の大切さについて、おもにコリント第一の手紙にいろいろなことを書いたのです。15章3節、4節。いわゆる、「よみがえりの章」と呼ばれているものです。
   私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次の
  ことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また
  葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと…。

 
パウロは、「私はこう思う、ああ思う」と言っていない。「自分の考えていることはどう
でもいい。大切ではない。聖書は何と言っているか。それだけです」。
聖書は、初めから終わりまで、体系的な統一をもって、十字架につけられた救い主と、よみがえられたイエス様を、宣べ伝えています。そしてよみがえられた主は、今も生きておられ、将来もとこしえにご臨在なさるのです。本当の福音はただ一つ、すなわち十字架による贖いの福音に他なりません。人間が罪を犯した後、直ちに、主は十字架による福音を宣べ伝えられたのです。
創世記3章15節を見ると、次のように書かれています。
  「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。
  彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」

主なる神は、「人間を罪から解放するために、救い主をこの世に送り、悪魔の頭を砕く」と言われました。すなわち、悪魔に対して完全な勝利をおさめると、預言しておられたのです。けれども、ここでは勝利者のみならず、苦しみの人としても預言されているのです。すなわち、「蛇は救い主のかかとを砕く」とあります。主は救いを与えるために、苦しみ、いのちを捨ててくださったのです。
旧約聖書において、1500年の間、特に預言者たちによって、来たるべき救い主が、時と共に、次第に明らかにされてきました。イザヤ書はよく知られている箇所であります。1114ページ、イザヤ書53章2節からお読みいたします。
   彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、
  私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼は
  さげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむける
  ほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの
  痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられた
  のだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために
  砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちは
  いやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって
  行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。

「私たちは思った。…」。とんでもない思い込みでした。
この箇所を見ると、来たるべき救い主は、悩みの人にして罪をになう人であると記されています。そして2000年前に、救い主は主イエス様のお名前で、実際にこの世に来られました。イエス様はご自分で言われたのです。「わたしこそ、約束された救い主、メサイヤである」と。
ルカ伝の19章10節で、イエス様は次のように言われました。
  「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」

ローマ帝国を打ち壊すために来たのではない。「わたしは失われた人を捜して救うために来た」と。
マルコ伝10章45節を見ると、次のように書かれています。81ページです。マルコ
伝の中で一番大切な節でありましょう。
  「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの
  人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」

イエス様はご自分のいのちを与えるために来られた。生きるためではなく、死ぬことが
できるために、お生まれになったのです。
マタイ伝26章28節。同じように、このみ救いについて、次のように言われました。
51ページです。イエス様が殺される前の晩に言われたことばです。
  「これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。」

事実、イエス様が十字架で血を流され、息を引き取られるとき、「すべてが終わった。バンザイ!」と叫ばれたのです。すなわち、全人類の救いがもたらされたのです。含まれていない人間はいません。どうして、ある人間は、いつか滅びるようになるのでしょうか。
とんでもない犯罪を犯したためではない。提供された救いを、罪の赦しを、意識して拒んだからです。「わたしは、わたしにさせるためにお授けになったわざを、成し遂げました」と、イエス様はおっしゃることが出来たのです。救いのみわざは、救い主の死によって、完成されました。父は、イエス様がよみがえられ、昇天なさり、高く引き上げられることによって、まことの救い主、罪をになった者、勝利者であることを、明らかに宣言されたのであります。

エペソ書の1章20節から。パウロは当時の信じる者を励ますために、力づけるために次のように書いたのです。342ページです。
   神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中から
  よみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、
  主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名
  の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、
  いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。

いわゆる助け手として、救い主としてだけではなく、かしらとして、支配者として与えられています。父は、イエス様による罪の贖いが十分であり完全であると、宣言されました。そしてその瞬間から、イエス様の十字架とよみがえりの福音が、世界中に宣べ伝えられるようになったのです。
この十字架の福音こそ、人類の罪を贖うためのただ一つの道です。この、主イエス様の血による罪の贖いという福音は、全世界、いかなる時代にも、多くの人々をみことばによって、救いに導いたのです。

3000年前のダビデは、罪の苦しみの中に主を呼び求め、赦しの確信を得た後で主が新しい喜びと望みを与えてくださったとき、告白したのです。
詩篇40篇1節から。「赦された、受け入れられた」と、確信を持つようになったダビデの賛美であり、礼拝の現われでもありました。
   私は切なる思いで主を待ち望んだ。主は、私のほうに身を傾け、私の叫びをお聞きに
  なり、私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。そして私の足を巌の上に
  置き、私の歩みを確かにされた。主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を
  授けられた。多くの者は見、そして恐れ、主に信頼しよう。幸いなことよ。主に信頼し、
  高ぶる者や、偽りに陥る者たちのほうに向かなかった、その人は。わが神、主よ。
  あなたがなさった奇しいわざと、私たちへの御計りは、数も知れず、あなたに並ぶ者は
  ありません。私が告げても、また語っても、それは多くて述べ尽くせません。

その新しい賛美の歌は、救われた人すべての心の中にとこしえに宿り続けます。将来の天国の様子について、黙示録の5章12節を見ると次のように書かれています。
   彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、
  栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」

なぜこのようにして、救われた喜びの新しい賛美が歌い続けられるのでしょうか。なぜならば、主が私たちを愛し、その血によって私たちを罪から解放してくださったからです。
同じく黙示録1章5節。
   また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者で
  あるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。イエス・キリストは
  私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、・・・

とあります。すべてイエス様を信じ受け入れた者は、このようにほふられた小羊に賛美をささげるのです。
私たちは、今もなお罪の下に悩み、苦しみ、嘆き、うめいている人々に対して、「主イエス様の血による罪の赦しと贖いがすでに成就されている」ことを、宣べ伝える義務を持っています。「だれもが、主イエス様の血による贖いによって本当の救いが与えられている」というこの事実を知らなければなりません。知りたいと思うなら、必ず知ることが出来るものです。福音は決して隠された教えではありません。福音は、決して頭の良い少数の人だけがわかる難しい教えでもない。すべての人のための、「神のことば」です。
初代教会の人々は、本当に喜んでいたのです。前に読みましたエペソ書1章の7節。
   私たちは、この御子のうちにあって御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けている
  のです。

「主は赦してくださった。主は受け入れてくださった」と確信できる人は、本当に幸せなのではないでしょうか。
                                      

                                      了



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