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メ ッ セ ー ジ ・ 証 し 集


平和と安全 2
   
2003.2.18(火)
ベック兄メッセージ(メモ)

 
引用聖句
 ローマ人への手紙 5章1節
   ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストに
  よって、神との平和を持っています。

 エペソ人への手紙 1章7節
   私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受
  けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。
  

 コロサイ人への手紙 1章20節
   その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させて
  くださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させて
  くださったのです。


先日の土・日曜日、大分県の別府で「喜びの集い」が行なわれました。200人以上の兄弟姉妹が集まり、とても祝福された集いでした。「喜びの集い」と言いながら、悩んでいる方々もたくさん来られました。今回は、3人の兄弟たちの記念会も行なわれましたから、ご親戚の方々やお知り合いの方々も、そのために来られました。
 みつながさんご夫婦も来られました。奥様のときこさん(56歳)は最近、喜んで集会に集うようになっていて、ご主人のともかずさん(59歳)は、今回初めて来られました。ともかずさんは、非常に悲しそうな顔でしたので、「彼には、何の喜びもなく、平安もなく、希望もないのだ」と すぐに感じました。彼の悲しみの理由の一つは、15年前に17歳の娘を癌で亡くされていることです。これは、父親にとって考えられないほどのショックであったと思います。「もう喜びも、平安も、希望もない。全部が虚しい。会社は、少しずつ駄目になってしまった」。結局、すっかり「無力」になってしまったのです。「力」そのものが、抜けてしまったのです。そして、絶対に返せない借金のために、離婚になってしまったのです。仲の良い夫婦だったのですけれども、どうしようもなくて、離婚にまでなってしまったのです。けれども、ともかずさんは、「主は生きておられる」と確信するようになりました。顔の表情も本当に変わりました! 彼は、喜んで帰ることができたのです。
 空港に行く途中で、にのみや たかと兄弟(72歳)にお会いしました。彼は、初めてではなく、小さい声でしか話さないけれども、もう話したくて話したくて仕方がないのです。それも、イエス様の話だけ…。何年か前に、別の方のお見舞いをするために、病院へ5、6人の兄弟姉妹と一緒に行きまして、みんなで賛美しました。そして、この賛美を、彼は遠くから聞いたのです。私のことを呼ばれたから、彼の所へ行くと、彼はみんなの歌っている顔を見て、いっぺんに確信しました。「あなたがたは、心から歌っているから、あなたがたの信仰は正しい。私もその信仰が欲しい」と言いました。それで、彼は導かれたのです。彼は、もう20年間病気を患っています。けれど、彼は大いに喜んでいます。

 『主は生きておられる』、集会の雑誌がこういう題名になったことは、振り返ってみると嬉しいことです。最高の題なのではないでしょうか。主は生きておられる! 本当にそうです。主は生きておられる。だから、希望があるのではないでしょうか。イエス様を通してのみ、神との平和を持つことができ、罪の赦しが得られるのです。
 今、読まれました箇所の中で、「十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださった」とあります。おそらく当時は、現代よりも平和や安全について話し合うことがなかったのではないでしょうか。けれども現代は、当時よりも平和や安全が、むしろ遠くなってしまったのではないでしょうか。一人一人が、いくら平和と安全を望んでみても、無理です。政治家たちが、いくら平和と安全について話し合ってみても、全く一つの芝居に過ぎません。みんな本当の理由を言わないからです。テサロニケ第一の手紙 5章3節に、
   人々が「平和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼ら
  に襲いかかります。

とあります。初代教会の人々は、いわゆる平和や安全について考えてみたとしても、確かに何にもならないと分かったのです。彼らは、いつ殺されるか分からなかったのです。けれども、彼らこそ、「キリストこそ私たちの平和である」(エペソ2章14節)、と確信を持って言うことができたのです。

 私たちの最近のテーマとは、『平和と安全』です。そして、要約すると、平和と安全は、ただイエス様の血によってのみ、もたらされるのです。ですから、聖書の中心とは、「イエス様の流された血」であります。主イエス様は、私たちの罪を赦すために、十字架の上でご自身のいのちを犠牲にしてくださったのです。みなさん、このことは何回も何百回も聞いたことですから、「もう分かっています」と思うかもしれないけれど、これこそが中心です。毎日考えるべきことです。イエス様は、私のわがままの代わりに犠牲となられました。
父なる神は、その犠牲を受け取ってくださったのです。それは、イエス様のよみがえりによって明らかになりました。父なる神は、「わたしのひとり子(イエス様)のよみがえりにより、全人類の罪の贖いがなされた。この犠牲は、わたしにとって十分である。わたしの義は、全うされた」と言われたのです。主は、私たちがそのことに応えること、つまり、私たちの「イエス様に対する信頼」を待っておられます。私たちは、イエス様が流してくださった血潮によって、「罪が赦されている」と信じることができるのです。そして、この救いの事実を十分に認識して、受け取る者にこそ、本当の意味での「平和と安全」が約束されています。始めに読まれましたローマ人への手紙5章1節に、
   信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神
  との平和を持っています。

と書かれています。「もう平和が与えられている。もう心配する必要はない。安全です」と、言うことができるのです。「罪の赦し」こそ、とこしえに至るまで、「平和と安全」の土台そのものなのです。ですから、同じく始めに読まれましたエペソ人への手紙1章7節で、初代教会の人々は、喜んでこのように言えたのです。
   私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを
  受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。

「罪の赦し」が与えられたのは、自分の努力の結果ではなく、聖書研究の報いなのでもありません。主があわれんでくださったから与えられたのです。結局、福音の本質は、このエペソ人への手紙1章7節に集約されています。イエス様の中に「罪の赦し」と「贖い」があります。イエス様こそ、福音の中心なるお方です。福音とは、何かのある力とか、教えとか、物事ではなく、「生きておられる主イエス様ご自身」です。聖書によるイエス様のみが、「生ける神の子」であり、「唯一の救い主」であり、「唯一の贖い主」です。ですから、よみがえりの章として有名な、コリント人への手紙第一の15章の3節と4節の中で、パウロはまとめて次のように言ったのです。310ページになります。
   私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、
  次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこ
  と、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと…です。

聖書は初めから終わりまで、体系的な統一を持って、「十字架につけられた救い主」と「よみがえられたイエス様」を宣べ伝えています。そして、よみがえられた主イエス様は、今も生きておられ、将来も、とこしえまでも、ご臨在されるお方であります。イエス様は、ご自分のことについて、次のように言われました。マルコの福音書10章45節。
  「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、
  多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」

「イエス様の与えられたいのち」、そして「イエス様の流された血潮」、これこそが、聖書の中心です。イエス様は言われました。マタイの福音書26章28節。
  「これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるもの
  です。」

 パウロは、イエス様の偉大さを、本当に心から誉めたたえました。エペソ人への手紙、1章の20節を見ると、彼は次のように書いたのです。342ページ。
   神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみが
  えらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権
  の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての
  名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わ
  せ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。

父なる神は、イエス様を単なる「助け手」や「救い主」としてだけではなく、「かしら」として、私たちに与えられたのです。父なる神は、イエス様による罪の贖いが、十分であり、完全であると宣言しておられるのです。人間の最大の問題とは、「罪と赦し」の問題であります。従って、一番大切な問題は、私たちの過ちが、もうすでに赦されているかどうか、ということです。「赦された」と言える人は、本当に幸せです。聖書を通して、「罪の赦し」が、すでに提供されています。これこそ、人生の好機会なのではないでしょうか。
 主の「救いのご計画」は、非常に大きく、かつ深いものであるため、主だけが、それを解き明かすことができるのです。従って、主の「救いのご計画」を例話などを使って、人間が解き明かそうとしても、ごく一部しか明らかにできません。それほど主の「救いのご計画」は、深いものであります。主は、旧約聖書の中に出てくる「幕屋」を通して、「救いのご計画」を見る材料として書き記してくださったのです。
旧約聖書の中で、イスラエル人にとって一番大切な日は、いわゆる「贖罪の日」と呼ばれた日でした。当時のイスラエルの人々は、この日を通して、最もよく「救いの奥義」を知ることができたのです。この日は、旧約聖書の最高の日を意味し、イスラエル人たちにとって、最も意味の深い、大切な日でした。そして、全てのイスラエル人たちにとってその日は、聖なる日でした。こんにちでも、この日はイスラエルの最高の祝祭日とされています。けれども、新約聖書の光によって、私たちはその日の本当の意味を知ることができます。新約聖書の光によらなければ、本当の意味は分からないのではないでしょうか。「贖罪の日」という、最も大切なこの日こそ、イスラエル人にとって、罪が赦され、贖われた、かけがえのない日でした。この「救いの日」の実際の成就は、言うまでもなく、ゴルゴタの丘でイエス様が成し遂げてくださったことです。
この「贖罪の日」から、二つの出来事だけを取り出して、一緒に考えたいと思います。
1、 債務が支払われたこと。
2、 罪が赦されたこと。

1、 債務が支払われたこと。
 レビ記の16章15節から17節を見てみましょう。183ページ。
   アロンは民のための罪のためのいけにえのやぎをほふり、その血を垂れ幕の内側に
  持ってはいり、あの雄牛の血にしたようにこの血にもして、それを『贖いのふた』の
  上と『贖いのふた』の前に振りかける。彼はイスラエル人の汚れと、そのそむき、す
  なわちそのすべての罪のために、聖所の贖いをする。彼らの汚れの中に彼らとともに
  ある会見の天幕にも、このようにしなければならない。彼が贖いをするために聖所に
  はいって、再び出て来るまで、だれも会見の天幕の中にいてはならない。彼は自分と、
  自分の家族、それにイスラエルの全集会のために贖いをする。

とあります。その当時、イスラエルの民は主の愛を忘れ、罪を犯し続けてしまったのです。この主の前に犯した罪は、「債務」となってしまいました。長い年月の間に、この債務は積もり積もって、莫大なものになりました。いわゆる「贖罪の日」は、「義なる、聖なる主の前を歩む日」でした。けれども、たとえばエゼキエル書18章4節に、
   罪を犯した者は、その者が死ぬ。

とあります。
主なる神は、「罪を犯した者は、死ななければならない。罪を犯したたましいは、死ぬべし」と言われたのです。従って、イスラエルの民の状態は、みな罪を犯したために、「死」の判決を宣告されていたのです。主は、ご自分の「義」を無にすることはできませんでした。主は、「義」のために罪を犯した者は、すべて追放しなければならなかったのです。そのため主は、「死」の判決を下さざるを得なかったのです。けれども、実際には、イスラエルの民ではなく、代表者が裁かれました。すなわち、代表者・代理者として、「羊」を燔祭にささげることが行なわれました。この「羊」は、イスラエルの民の犠牲となったのです。そして、「死」の判決に対するしるしは、羊を殺し、血を流すことによって示されました。民の罪のために、羊をほふり、その血を贖罪所の上と前に、注がなければならなかったのです。この贖罪所は、神の箱のふたであり、箱の中には、「律法」すなわち「モーセの十戒」と「戒め」を書き記した石の板があり、この箱のふたに、ほふられた羊の血が流されました。それは、いったい何を意味しているのでしょうか。石の板の上に、「神のみこころ」が書き記されていました。どういうものかみなさん覚えているでしょう。「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」「殺してはならない」「姦淫してはならない」「盗んではならない」「むさぼってはならない」…。イエス様は、このような律法と戒めとを要約して、次のように言われました。マタイの福音書22章37節から39節。
  「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』…
  『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』」

このみことばは、旧約聖書にあるみことばだったので、ユダヤ人たちは、よく知っていました。けれども、彼らはみな、このおきて・戒めを破ってしまったことを認めざるを得ませんでした。また、「主のおきてを破る者は、死ななければならない」ということをも、彼らはもちろんよく知っていたのです。従って、彼らは罪を犯したために、義なる聖なる神の律法を破ったために、「死ななければならない」ということをよく知っていました。彼らは、もう生きることができなくなってしまったのです。しかし今や、ほふられた羊の血が流されたことによって、その「血」がイスラエルの民の身代わりとして、民の罪を負ったのです。いかにして、その「血」が債務を負うことができるのでしょうか。主ご自身が、「血」の意味が何であったかを答えておられます。レビ記の17章11節。
   なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを
  祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血
  である。

主は、「血の中にいのちがある」とはっきり言っておられます。「血」は、「いのち」です。血が流されると、いのちがささげられます。従って、流された血は、いのちがささげられたことのしるしです。「死」は、債務が支払われたことを意味します。従って、「血の犠牲」は「債務が支払われたこと」の、証明です。借金を返済すると、借用証書が破られ、領収書が与えられるように、血の犠牲によって、債務が支払われたのです。イスラエルの民によって破られた律法、それが入っている神の箱の上に、血が流されたことによって、債務は支払われたのです。主がご覧になると、贖罪所には血が流され、その血は主の律法の上を覆っていたのです。「血」は、罰がもうすでに下され、いのちがささげられ、債務が支払われたことを、意味します。イスラエルの民が「律法」を持っていたのと同じように、私たちは「聖書」を持っています。聖書は、「あなたは死に定められている。けれど、あなたの身代わりとして、他の人がすでに殺された。あなたの債務は支払われた。あなたは、今や恐れることなく、主のみそばに近づくことができる」と、はっきり言っています。何という素晴らしい主の知恵と英知でしょうか。すでに旧約聖書の中で、明らかにされた神の「救いのご計画」は、本当に素晴らしいものです。
3000年前に、旧約時代の最も偉大なるダビデ王は、この救いに至るようになり、次のように告白したのです。詩篇の32篇1節から5節です。よく知られる素晴らしい告白であります。856ページです。
   幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、
  咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。私は黙っていたときには、一日
  中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。それは、御手が昼も夜も私の上に重くの
  しかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。セラ
  私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私
  のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。
  セラ

「赦された」と言えるようになったダビデは、本当の意味で主を礼拝せざるを得なくなったのです。「贖罪の日」は、前に話したように、債務が支払われることを意味していたのです。けれど、それだけではありませんでした。

2、罪が赦されたこと。
 罪も、「赦される」のです。債務が支払われた時、罪も赦されることができます。領収書をもらった者は、借用証書を破いて捨てることができるのです。それは、「贖罪の日」における二番目の大きな事実です。債務が支払われたゆえに、その結果として、罪が赦されたのです。債務が支払われ、消された時に、初めて罪が赦されたのです。
 罪は、確かに恐ろしい現実です。罪は、一つのことを通してのみ解決されるのです。すなわち、流された血の犠牲によってのみ解決されるのです。「血は贖う」、このことゆえに罪は赦されたのです。レビ記の16章に戻ります。16章20節から22節をお読みいたします。
   彼は聖所と会見の天幕と祭壇との贖いをし終え、先の生きているやぎをささげる。
  アロンは生きているやぎの頭に両手を置き、イスラエル人のすべての咎と、すべての
  そむきを、どんな罪であっても、これを全部それの上に告白し、これらをそのやぎの
  頭の上に置き、係りの者の手でこれを荒野に放つ。そのやぎは、彼らのすべての咎を
  その上に負って、不毛の地へ行く。彼はそのやぎを荒野に放つ。

この贖いの二番目の事実は、「荒野に送られたやぎ」を通して明らかにされました。この「やぎ」は、罪の赦しとは、いかなるものであるかを解き明かすためのしるしです。第一のやぎがほふられ、その血が贖罪所の上と前に注がれた時、第二の「生きているやぎ」をひいて来て、人々の前に立たされることになっていました。その時、アロンはその「生きているやぎ」の頭に両手を置き、イスラエルの人々が犯した諸々の罪を告白しました。すなわち、そのことによって、イスラエルの人々が犯した諸々の罪を、「やぎ」の頭に乗せたのです。聖書の中では、ある者が他の者の頭に両手を置く時に、二つのものは一つになることを意味します。従って、アロンが「やぎ」の頭に両手を置くことは、「イスラエルの民の罪」が、「やぎ」の上に置かれ、「やぎ」に移されたことを意味していました。それは、一つの象徴でありましたが、「やぎ」の頭に乗せられた重荷は何という大きなものだったのでしょうか。しかもそれは、「一年間のイスラエルの民全体の罪の重荷」でした。「一人の人間が一年間に犯した罪の重荷」を、少し考えてみてください。その罪の重荷は、なんと重苦しくのしかかっているでしょうか。自分の罪の重荷に本当に悩んだ人は、いったい何人いるのでしょうか。ダビデは、自分の罪について、本当に悩みました。いま読みました、詩篇32篇3・4節。
   私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。それは、
  御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったか
  らです。

「黙っていたとき」とは、「自分の罪を『隠そう』と思ったとき」です。もう何の喜びもなく、平安もなかったのです。詩篇51篇1節から14節と19節を見ると、同じくダビデは告白しています。
   神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私の
  そむきの罪をぬぐい去ってください。どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪
  から、私をきよめてください。まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私
  の罪は、いつも私の目の前にあります。私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あ
  なたの御目に悪であることを行ないました。それゆえ、あなたが宣告されるとき、あ
  なたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。ああ、私は咎ある者と
  して生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。ああ、あなたは心のうちの真
  実を喜ばれます。それゆえ、私の心の奥に知恵を教えてください。ヒソプをもって私
  の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗って
  ください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。私に、楽しみと喜びを、聞
  かせてください。そうすれば、あなたがお砕きになった骨が、喜ぶことでしょう。御
  顔を私の罪から隠し、私の咎をことごとく、ぬぐい去ってください。神よ。私にきよ
  い心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。私をあなたの御前から、
  投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。あなたの救いの喜び
  を、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。私は、そむく者たちに、
  あなたの道を教えましょう。そうすれば、罪人は、あなたのもとに帰りましょう。 神
  よ。私の救いの神よ。血の罪から私を救い出してください。そうすれば、私の舌は、
  あなたの義を、高らかに歌うでしょう。
   そのとき、あなたは、全焼のいけにえと全焼のささげ物との、義のいけにえを喜ば
  れるでしょう。そのとき、彼らは、雄の子牛をあなたの祭壇にささげましょう。

「罪の重荷」が、ただ一人でもそんなに重いものであるならば、増してや「民全体の罪の重荷」は、いかばかりだったでしょうか。しかもそれは、全ての明らかにされた罪だけではなく、知られていない罪をも含んでいるのです。「全ての罪」、考えや行ない、あるいは言葉による罪を、すべて指しているのです。
この「やぎ」は、非常に重い罪の重荷を担っていたのです。イスラエルの民は、全ての罪が「やぎ」の上に置かれ、この「やぎ」が荒野に送り出され、この「やぎ」を連れ戻らずに帰って来る人を見ましたが、この「やぎ」を見た人はだれもいなかったのです。他の動物だったら、帰って来たかもしれません。けれども、羊ややぎは、方向感覚がありませんから、全く帰って来る可能性はありませんでした。このようにして、「イスラエルの民の罪」は、消されました。罪は、「やぎ」によって運ばれたために、もはや見ることも見出すこともできませんでした。そのようにして、主はイスラエルの民に、「罪が赦されたこと」を明らかに示されたのです。
 もちろん、旧約聖書における「贖罪の日」は、一つの象徴に過ぎませんでした。実際の「大いなる贖罪の日」は、イエス様が十字架につかれた時に、始まったのです。ヘブル人への手紙の9章11節から14節と22節を見ると、次のように書かれています。
   しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で
  造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに
  完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、
  ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。もし、やぎ
  と雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉
  体をきよいものにするとすれば、まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの
  御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死
  んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。
   それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいで
  しょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。

「罪の赦し」こそが、人間の必要としているものです。しかし、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。27・28節。
   そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているよう
  に、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二
  度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるの
  です。

いかにして「贖罪の日」に、第一のやぎによって債務が支払われ、第二のやぎによって罪がアロンによって運ばれ、その罪が荒野に運ばれ、赦されたかを見てみましたが、それと同じように、主イエス様の血によって、その二つのことが成就されました。すなわち、全人類の債務が支払われ、罪が赦されたのです。「完了した」と、イエス様は十字架の上で叫ばれたのです。ですから実際には、やぎの血によって全ての債務が支払われたのではないことが明らかです。聖書全体は、「旧約聖書における『犠牲の燔祭』がすべて、『イエス様による罪の贖いと赦し』とを指し示している」と、はっきり言っているのです。
主イエス様は、この地上に来られる前から、尊い聖なる血を流すことによって、全人類の「債務の支払い」と「罪の赦し」の備えをしておられたのです。主イエス様は、私たちの身代わりになられるため、私たちに似た者、すなわち人間のかたちをとって、この地上に来られたのです。ただ「人間」だけが、「人間」の身代わりとなることができるのです。そのためにイエス様は、私たちの身代わりとなるため、「人間」のかたちをとられたのです。イエス様は、本当に謙遜になり、低くなられたのです。ピリピ人への手紙の2章7・8節を見ると、次のように書かれています。
   ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリ
  ストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架
  の死にまでも従われたのです。

 私たちは、今、おそらくいくら感謝しても足りません。私たちは本当に、このイエス様の「代わりの死」のために、永遠にわたって、主を礼拝せざるを得なくなります。
                                      

                                      了



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※一部、テープの転換による不明部分あり

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神のみことばは神のみことばである(3) 2006. 4. 4
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神のみことばは神のみことばである(1) 2006. 3. 14
主イエスは神の子キリストである(4) 2006. 3. 7
主イエスは神の子キリストである(3) 2006. 2. 28
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