主は生きておられる 1
2003.5.6(火)
ベック兄メッセージ(メモ)
引用聖句
第一コリント人への手紙 15章3節から8節
私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次の
ことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、
葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、
それから十二弟子に現われたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに
同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った
者もいくらかいます。その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われ
ました。そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、
現われてくださいました。
今、読んでくださった引用箇所の中で、「最もたいせつなこと」という表現が出てきたのです。「最もたいせつなこと」とは、いったい何なのでしょうか。人間の信ずべきことではありませんし、人間のやるべきことでもありません。「主イエス様が犠牲になられたこと」です。即ち、「イエス様の死」こそが、最もたいせつであります。
先日、御代田で、三人の子どもが、「洗礼を受けたい」と、待っていたのです。母親から聞きました。三人の子どもは、「どうしても受けたい」。けれども、二人は11歳、一人は9歳だったのです。昔は、子どもも洗礼を受けたことがあるのです。けれども、私は、日本のある兄弟やドイツの兄弟たちから、非常に攻撃されてしまいました。「何をするのか。けしからん…」と。確かに、若い時に洗礼を受けて、それから後で、家出してしまって、未信者と結婚したりして…そういう実例があるから、4、5年前に決めたのです。「14歳まで待ちましょう」と。けれど、どういうふうにそれを子どもに話したらいいでしょうか。「つまずきを与えたくない」という気持ちがあったのです。結局三人は、何だかわからないけれど、非常にうれしくなってしまったのです。一人の子どもの母親が今朝もそう言われました。私が強調したのは、「洗礼を受けることよりも、イエス様に心配され、イエス様に愛されていることが分かることのほうががたいせつではないか」。そして、三人の子どもも、そう思ったのです「私はイエス様に愛されている。洗礼を受けたから喜ぶのではなく、イエス様に愛されているからうれしい」。人間にとって最もたいせつなのは、それなのではないでしょうか。
結局、愛されている確信を持つ人たちは、悩みながら生きることが出来、希望を持って死ぬことが出来るのです。
この間、御代田で三人の兄弟姉妹の納骨式があったのです。S兄弟、K兄弟とM姉妹の納骨式だったのです。それから、最近、葬儀もありました。T姉妹の葬儀がありましたし、T兄弟の葬儀もありましたし、今日の午後には、町田のA兄弟の葬儀もあります。御代田で二つの結婚式もあったのですけれども、やはり葬儀のほうがいいです。(笑)心から喜ぶことが出来ます。ゴールインした。もう心配する必要はないのです。この間、T姉妹の娘さんであるMさんが言われたそうです。「お母さん、一人で行かないで。私をおいて行かないで」。けれども、お母さんはもう何年も前から、「早く天国へ行きたい!」と望んでおられました。結局、娘さんは諦めて、「母は、イエス様に抱かれて天国へ行ってしまいました。私のために、この病気の母が与えられたのです」と、証しすることが出来たのです。
まことの喜びの根拠なるものとは、いったい何でしょうか。「主は生きておられる」という事実です。パウロは、「最もたいせつなことは、聖書に書かれていることです。自分の思っていることではありません。聖書に示されているとおりに、主イエス様が、私たちの罪のために死なれ、また、葬られたことです。そして、三日目に復活なさったことこそが、最もたいせつです」と書いたのです。復活なさったイエス様に出会った人たちとは、「五百人以上の兄弟たち」となっているのです。その中に姉妹たちが入っているか、あるいは別だったかはっきり分かりませんが、そんなに大勢の証人がいれば、もう反対する術がありません。彼らはイエス様を見ただけではなくて、親しく交わったし、一緒に食べたのです。霊は、食べることができません。イエス様は、肉体を持って復活なさったのです。「主は生きておられる」。これこそが、私たちがなすべき証しなのではないでしょうか。
もう百年も前だったでしょう。ロシアでは、生ける信仰を持つ人が非常に多かったのです。ロシアで復活祭がどのようにお祝いされたかといいますと、主のよみがえりをたたえる教会の鐘は、1週間の間町々に響き渡り、人々は喜びに胸を弾ませて主を賛美し、街で会うと、「こんにちは」の代わりに、「主はよみがえられた!」と言葉をかけます。その返事として、「まことに主は生きておられるのです!」と。実に喜びに溢れた、活気に満ちた町々でした。しかも、40日後の昇天記念日まで、いつもは床にひざまずいて祈る習慣のあるロシアのクリスチャンたちは、よみがえりの喜びのあまり、その40日の間、立ったまま祈ったということです。また、このよみがえりから昇天までの40日間に、だれかが死ぬと、墓のまわりで、悲しい賛美歌は歌いません。死に打ち勝たれたイエス様をたたえるよみがえりの歌を歌ったということです。それから、もう一つの非常におもしろい習慣があったそうです。復活の礼拝には、礼拝の真中で一同大笑いし、大きな声で皆笑って、復活の喜びをたたえたということです。皆、うれしくてうれしくて笑ったのです。「イエス様は復活なさった!」。イエス様が生きておられるからです。「イエス様は、私たちのわがまま、過ち、罪を負われ、死と悪魔に打ち勝たれたお方です。悪魔は、もう何の権威もありません」と、悪魔を嘲笑う笑い声を、礼拝の最中に声高くあげたそうです。
私たちも上を仰ぎ見て、望みを抱き、悪魔に打ち勝たれ復活なさったイエス様とともに、天に指し示された喜びを新たにし、悪魔を大声で嘲笑うことが許されています。イエス様は勝利者です。イエス様は支配しておられます。イエス様の許しなしに、何も起こり得ないのです。
私たちに、今一番たいせつなのは何でしょうか。このよみがえりの主にまみえ、新たにされることではないでしょうか。パウロは、「イエス様は最後に、私に現われてくださいました」と言って、よみがえりの主にお会いした喜びを書いていますが、私たちも、やはり、新しく主にお会いしたいのではないでしょうか。
パウロは、なぜ、イエス様を信ずるようになったのでしょうか。監禁されてしまったからです。彼が、イエス様を受け入れたというよりも、イエス様に捕まえられてしまったのです。だから、「私はイエス様の奴隷です。イエス様のしもべです」と、喜んで言うようになったのです。即ち、彼は、理屈で責められ、納得させられたのではありません。脅かされて、強制させられたからイエス様を信ずるようになったのでもありません。パウロは、「復活なさったイエス様に出会った」から変えられました。
また、パウロは、どうして、イエス様を証しするようになったのでしょうか。どうして、いのちがけでイエス様を紹介するようになったのでしょうか。よく勉強したからでしょうか。決して、そうではありません。「復活なさったイエス様に出会った」からです。
このコリント第一の手紙の15章は、いわゆる「よみがえりの章」と呼ばれているものです。どうして、パウロはこれを書いたかと言いますと、コリントにいる兄弟姉妹に必要だったからです。使徒たちの書いた手紙は、当時の問題に対する解決になるべきものだったのです。パウロは自分で考えて、「どうしようか」と思ったり、あるいは、他の人と相談したりしたのではありません。主の前に静かになって、「イエス様、あなたは、あのコリントの状態のことを知っておられるでしょう。あのコリントにいる兄弟姉妹は、私の悩みの種です。もう苦しくて苦しくて仕方がありません。何を書くべきなのでしょうか」。それから、示されたとおりに書いたのです。
コリントの信者たちが何を必要としていたかといいますと、「新たに復活なさったイエス様に出会うこと」だったのです。もちろん、コリントにいる人たちだけではなく、私たちにも、この15章が必要なのではないでしょうか。
コリントの信者たちは、復活なさったイエス様に出会いました。イエス様の提供された罪の赦しを自分のものにしたのです。けれど、彼らは実際生活で、復活なさった主イエス様の力をまだ知らなかったのです。「自分でかんばらなくてはいけない。自分で努力しなくてはいけない。自分でクリスチャンらしい生活を送らなくてはいけない」と、彼らは思い込んでしまったのです。けれど、努力すれば努力するほど、自分の惨めさが分かるようになります。コリントの信者たちは、等しく主に仕え、主のために奉仕をしようと心がけたことでしょう。けれども、全部、失敗に終わってしまったのです。
パウロは、このコリントの信者たちの失敗の原因の根本について、何と言いたかったかといいますと、「あなたたちは、よみがえりを体験する前の状態にあります。よみがえりの土台の上に生活していません」と、指摘していたのです。もし、私たちが、生まれつきの性質から解放され、イエス様のよみがえりの力に合わせられないなら、信仰生活は上がったり下がったりするでしょう。
ペテロも、ヤコブも、パウロも、その他多くの、よみがえりの主にお会いした人たちは、自分の生まれつきの力から解放され、御霊に動かされる生活に引き入れられました。これは、彼ら全てが告白しているところですが、これこそ彼らにとって、まことの復活祭だったのです。今、パウロは、コリントの信者たちも、同じよみがえりの体験に入ることを願って手紙を書いています。よみがえりの力を体験的に自分のものとする必要があります。
この復活なさったイエス様に出会った一人の人について、少し考えたいと思います。その一人の人とは、マグダラのマリヤという女性です。このマグダラのマリヤは、よみがえりの主にお会いして何を知ったかといいますと、「新しい愛」を知るようになったのです。
彼女は、墓よりよみがえられたイエス様に、最初にお目にかかった人でした。弟子たちではなく、彼女でした。どうしてでしょうか。なぜ、マグダラのマリヤはこのすばらしい特権に与かることができたのでしょうか。おそらく、彼女はイエス様を一番愛し、イエス様に一番全てを捧げ尽くしていたので、この光栄に与かったのではないでしょうか。なぜ、一番初めに、マリヤにイエス様はご自分を現わされたか、もう一つ考えられることがあるでしょう。即ちそれは、彼女には一刻も早く、復活なさったイエス様を見る必要があったからです。彼女は、イエス様が亡くなられたとき、本当にがっかりし、絶望し、沈んでしまったからです。マルコ伝の16章を少し見てみましょう。94ページです。マルコによる福音書の最後の章です。16章の9節。次のように書かれています。
さて、週の初めの日の朝早くによみがえったイエスは、まずマグダラのマリヤにご自分を
現わされた。イエスは、以前に、この女から七つの悪霊を追い出されたのであった。
この節を見ると、彼女が、かつて、イエス様に七つの悪霊を追い出していただいたことが、書かれています。彼女は悪霊につかれて、恐ろしい生活をしていたに違いありません。一つの悪霊にとりつかれることも大変でしょうけれど、彼女は七つの悪霊にとりつかれ、完全に悪魔の支配の下で苦しんだ人でした。彼女の苦しみを想像することは出来ません。けれども、彼女はイエス様に悪霊を追い出していただいたのです。彼女が体験した解放は、ちょっと想像できないくらいすばらしいものだったに違いありません。
このイエス様に、マリヤが、持てる愛の全てを捧げ尽くしたのは無理もないでしょう。イエス様は、彼女の全てになってしまったのです。このイエス様が、十字架で亡くなられたときの彼女の悲しみはどんなだったでしょう。もし、イエス様がよみがえられなかったなら、彼女のイエス様に対する愛は、なおさら彼女を絶望に追いやり、悲しみに落とし込んだに違いありません。このマグダラのマリヤの愛の対象は、間違っていなかったのです。イエス様だったからです。彼女は、神の御子であられるイエス様を心から愛しぬいていたのです。けれども、その愛がよみがえりの力に基づかない人間的な愛なら、絶望に終わってしまいます。これこそが、彼女の経験しなければならなかったことでした。
現われてくださったイエス様を見たとき、彼女は喜びのあまりイエス様に抱きつこうとしました。聖書を読むと、その時、イエス様はマリヤに、「わたしにすがりついていてはいけません」と、御声をかけられたとあります。イエス様は、どうしてそのように言われたのでしょうか。マリヤのご自分に対する清くはあるが、「肉による愛」「自分の愛」を、「霊による愛」に変えなければならないことをお教えになりたかったのです。同時に、イエス様は昇天された後、マリヤが、「霊」によってイエス様を愛するようになる備えを、なさしめられたのであります。
もし、私たちの主に対する愛や献身が、「よみがえりの土台」の上に立っていないなら、やがてそれらは崩れてしまい、絶望に終わるでしょう。よみがえりは、主に対する新しい愛を与えてくれます。「よみがえりの前の土台」に立っている者は、まことに、主とともに十字架につけられ、主とともに葬られていない人です。マリヤがそうでした。マリヤの愛は、本当にきれいな清い愛だったのですけれども、「人間の愛」でした。
マリヤのこの愛を、少し考えてみると分かります。
まず、マリヤの愛は、「イエス様が自分に成してくださった恵みのみわざに応える愛」なのです。マリヤは、七つの悪霊を追い出していただいたから、感謝の気持ちでいっぱいだったのです。感謝の思いから、彼女はイエス様を愛したのです。
2番目、マリヤの愛したイエス様は、肉体をとっておられたので、「目に見えるお方としてのイエス様を愛していた」わけです。
3番目、このマリヤの愛は、「人間的であったがゆえに絶望に終わってしまった」のです。
これに対して、よみがえりの主に与かり、よみがえりを土台としてその上に立っている人は、「苦しみを通し、悩みを通し、主とともに十字架につけられて死に、ともによみがえられ、天上の座につかしめられた人であり、まことの神の愛をいただいた」人です。
まず、よみがえりの主に与かり、神の愛を持つ人は、イエス様が成してくださったみわざのために、イエス様を愛するのではありません。イエス様ご自身を愛します。それらの人たちは、本当の意味でイエス様を知っているのです。多くのことを理解することは出来ません。けれども、イエス様を知ることによって、大いに喜ぶことが出来るのです。そして、そういう人たちにとって、全ての全ては、「イエス様との交わり」です。何でもイエス様に話すことです。また、「イエス様の祈り」こそが、自分にとって全ての全てであります。「私の思いではなく、みこころだけがなるように」と。
2番目に、よみがえりに基づいた人たちは、目に見えない主を愛しています。他の言葉で言いますと、信仰によって歩んでいます。コリント第二の手紙の4章を見ると、次のように書かれています。319ページになります。16節から。
ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人
は日々新たにされています。今の時の軽い患難は、…
多くの人は反対するかもしれません。「軽くないです。耐えられないほど重いです」。けれども、主の目からご覧になると、決して、そうではありません。パウロは、私たちよりも悩んでいた人だったのです。けれども、彼は「軽い」と判断したのです。
17節、18節。
今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光を
もたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。
見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。
毎日、読むべき箇所なのではないでしょうか。
3番目に、この神の愛は、たとえ訳が分からないことがあっても、理解に苦しむようなところに置かれても、愛して愛しぬく愛です。これらの人たちは、パウロと同じように、次のように言うことが出来る人たちです。ローマ人への手紙のよく知られている箇所なのですけれども、すばらしい信仰の告白です。8章の35節から。
私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害
ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
他の言葉を入れてもいいでしょう。「不幸ですか、病気ですか、誤解ですか…」と。
36節から39節。
「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊と
みなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方に
よって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信
しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力
ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある
神の愛から、私たちを引き離すことはできません。
神の愛の現われとは、主イエス様です。神の愛は、全てのものに勝ち得て余りある愛です。この神の愛は、パウロが、初めの引用聖句の前の前の章、コリント第一の手紙13章で言っている愛です。13章の4節から読みましょう。
愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になり
ません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、
不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、
すべてを耐え忍びます。
ここでの、この「愛」とは、「人間の愛」ではありません。「主の愛」です。イエス様です。ですから、「愛」の代わりに「主イエス様」と読んだほうが分かりやすいのではないでしょうか。生まれつきの人間は、こういう愛を全く知りませんし、持っていないのです。
私たちの場合は、いったいどうでしょうか。私たちは、主のために、あれをやりこれをやり、働きますけれど、主との交わりを持っている人は、どれだけいるでしょうか。祈りはそのままイエス様との交わりであるということにはなりません。イエス様も、私たちに語りかけることがお出来にならなければ、交わりとはなりません。一方通行ではありません。「主よ。お語りください。しもべは聞いております」。祈りながらみことばを読むこと、みことばを読みながら祈ることこそが、まことの交わりです。
マグダラのマリヤは、「よみがえりの前の土台」に立っていたのです。彼女は、イエス様を神の子として信じ、しかも自分を悪の霊から解き放ってくださったお方として信じ、愛していたのです。しかし、彼女は絶望に陥ってしまったのです。もう、何の喜びも、平安も、希望もなかったのです。
多くの兄弟姉妹は、罪の赦しを確信し、主との平和をいただいています。そして、人間的な愛でイエス様を愛しています。生まれながらの賜物と力を持って、主に仕えようとしているのです。けれど、信仰生活は止めどもなく上がったり下がったりします。主イエス様との交わりがない。イエス様と一つになることが出来ない。それは、「よみがえりの前の土台」に立っているからです。
「よみがえりの土台」に立つ者は、自らの力で主に仕えようとはしません。恐ろしいからです。自分の力に頼ることを止め、人の誉れを望まず、よみがえりの主にお任せし、お委ねするということは何という自由なのでしょうか。自分を愛する愛は憐れっぽい愛です。自分を愛する愛は傷つきやすい愛です。これに対して、主の愛は傷つきにくいものです。主の愛はしるしを求めません。主は、愛されても愛されなくても、愛していてくださるお方です。条件付きではないからです。主の愛は、信仰によって、目に見えないものを望み見て歩ませます。
私たちが、今、差し迫って必要としている愛は、この「新しい主の愛」なのではないでしょうか。もし、イエス様がよみがえられなかったなら、果たしてマリヤは七つの悪霊に立ち向かうことが出来たのでしょうか。「よみがえりの土台」に立っていない、コリントの兄弟姉妹たちはどうだったでしょう。憎しみと、ねたみと、傲慢と、汚れの霊に打ち負かされ、全く証しが立っていませんでした。
イエス様が、私たちにも、マグダラのマリヤのように、「新しい主の愛」を授けてくださり、私たちが心からパウロのように、「よみがえりの主は、最後に、この私にも、現われてくださった」と喜ぶことが出来たら、本当に幸いなのではないでしょうか。
了
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