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メ ッ セ ー ジ ・ 証 し 集


主は生きておられる 2
   
2003.5.13(火)
ベック兄メッセージ(メモ)

 
引用聖句
 コリント第一の手紙15章3節から8節
   私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次
  のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、 ま
  た、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに
  現われ、それから十二弟子に現われたことです。その後、キリストは五百人以上の兄
  弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、す
  でに眠った者もいくらかいます。その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒
  たち全部に現われました。そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、
  現われてくださいました。


 この間の土曜日、宇部に行きました。170名の兄弟姉妹が来られました。宇部から光までちょっと遠かったのですけれども、3時間くらい車に乗って。そして、帰って来て、車から降りた瞬間に、背中に痛みが走って、それから痛くて痛くて仕方がないのですが…、本当に、主は生きておられます(笑)。これこそが、私たちの証しであるべきなのではないでしょうか。「主が生きておられること」を、どういうふうに知ることができるでしょうか。それは、「人が心を開くとき」なのではないかと思います。

 金曜日のある家庭集会で、絵描きさんの伊牟田兄弟が、司会をしながら何を言われたかといいますと、「私は今日、砕かれるために来ました」と。凄いのではないですか。今日、みなさん、どういう気持ちでここにいらっしゃったのでしょうか。砕かれるために来られたのならば、凄いのではないかと思います。もし、知識を得るために来られたのならば、ちょっと良くないと思います。知識は大切ではないからです。砕かれることこそが、すべてなのではないでしょうか。今日ここに、小さくなるため、頭を下げるために来られたのでしょうか。

 また先週、ある病人と会いまして、非常に嬉しかったのです。彼は、倒れて歩けなくなってしまったのです。やはり、彼にとって悩みの種です。更に、彼には他の悩みもあるのです。おもに子どものことです。彼の子どもは何千万の借金を作って…云々と。けれども、彼の奥さんは、最近イエス様に出会って、元気になったのです。ご主人はそれを見て、正しい結論を出しました。「やはり、本物のはずだ」と。奥さんは、悩みながらも喜ぶようになったから、やはり不思議で不思議で仕方がない。ですからこの間、私が見舞いに行った時の、彼の挨拶の言葉は何であったかと言いますと、「私の救いは近いと思う」というものでした。彼は、78歳のおじいちゃんです。その彼が、「私の救いは近いと思う」と言ったのです。こういうふうに、悩むことや苦しむことによって備えられたたましいに出会うと、もう嬉しくなります。もちろん、彼はその場で悔い改めて、「イエス様、信じます。今から全部、イエス様にゆだねます」と言ったのです。これは、「主が生きておられる証拠」です。

 いま読みました箇所の中で、パウロは2回同じ言葉を使いました。彼にとって、すべてのことであったからです。すなわち、「聖書の示すとおりに」、それから、「聖書に従って」という言葉を使っているのです。つまりパウロにとっては、みことばこそがすべてのすべてでした。
 今朝、ある若い奥さんとちょっと話したのですけど、彼女は、非常に悩むようになったのです。夫婦喧嘩をしたから。そうするとやはり、あまり面白くない。もちろん誰のせいかと別に知る必要はない。だいたい決まっているから。「相手のせい」です。(笑)けれども、あの奥さんは、前に紹介したことがあるのですが、なかなか良いことを言ったことがあるのです。「みことばは、元気のもと」と言ったのです。けれど、急にそのことを忘れてしまったたらしい(笑)。「あなた、自分で言ったでしょう?みことばは、元気のもとだから、今日、詩篇の34篇を読みなさいよ。元気のもとだよ」と。今後どういうふうになるのか、楽しみなのです。本当にみことばは、人間に与えられている最高の宝物です。
 パウロにとって、肉体の姿をとってこられたイエス様、それから書かれたみことばである聖書こそが、彼にとってすべてでした。だから、彼は、「聖書の示すとおり」「聖書に従って」という表現を使ったのです。

 聖書の最も大切な事実とは、どういうものなのでしょうか。
・ 第一番目。ここでも書かれているように、「主イエス様は、私たちの罪のために死なれた」という事実です。私のわがままを通して、イエス様は犠牲にならなければならなかったのです。「イエス様は、私のために死なれた」と確信を持って言える人は、本当に幸せです。
・ 第二番目。「イエス様は、私を義と認められるために復活なさった」という事実です。イエス様が復活なさったから、イエス様の代わりの死は、全人類を救うために十分である、ということです。イエス様は生きておられます。
・ もう一つ。「このイエス様は、近い」という事実です。もうちょっとでイエス様は来られます。私たちを迎えるために、イエス様は、いらっしゃりたくて、いらっしゃりたくて仕方がないのです。あらゆる人間が期待しているよりもイエス様は、いらっしゃりたい気持ちでいっぱいです。けれど、信じる者の不信仰のゆえに、なかなか来られません。

 信じる者に与えられている一つの大切な約束は、「あなたの家族も救われる」というものです。本気になってこの言葉を信じるべきなのではないでしょうか。いくら不可能に見えても、「イエス様、あなたは約束されたから、あなたの名誉がかかっているから、あなたはご自分の約束くらい守ることがおできになるでしょう?期待をもって待っています」と、この態度をとると、主は働かれます。人々は、次々と導かれ救われるのです。主の決められた人数が満たされる瞬間、イエス様は来られます。それは、今日かもしれません。
 「期待をもって主を待ち望むこと」こそが、初代教会の特徴でした。だから、毎日人々は導かれ、信じる者の群れに加えられるようになったのです。けれども後で、そんなにスムーズにいかなかったのです。

 いま読んでもらいました箇所は、コリントにいる兄弟姉妹に書き送られた箇所です。この15章とは、「よみがえりの章」と呼ばれているものです。どうしてパウロはこの大切なことをコリントにいる兄弟姉妹に書き送ったのでしょうか。必要であったからです。もちろん彼らだけではなく、私たちも、この章を必要とするのではないでしょうか。
 コリントにいる兄弟姉妹は、イエス様が復活なさったことを、疑わずに信じ、確信したのです。けれど、彼らは実際生活に「よみがえりの主の力」を持っていなかったのです。彼らはイエス様を信じ、「イエス様に仕えたい、イエス様のために生きたい」と望んでいたのですけれど、全部失敗に終わってしまったのです。うまくいかなかったのです。そしてパウロはこのコリントにいる主にある兄弟姉妹の失敗の、原因の根本について何と言ったかといいますと、「あなたがたは、よみがえりを体験する前の状態にある。よみがえりの土台の上に生活していない」と指摘したのです。もし私たちが、生まれながらの性質に支配され、イエス様の「よみがえりの力」に合わせることができないのならば、私たちの信仰生活は上がったり下がったりするでしょう。「よみがえりの主」にあって、人々は自分の肉(生まれながらの性質)の力から解放され、御霊に動かされた生活に引き入れられます。これこそが、パウロの切なる願い、また祈りでした。パウロは、コリントにいる兄弟姉妹も、「よみがえりの体験」に入ることを願って、この手紙を書いたのです。

 この「よみがえりの主」に初めに出会ったのは、先週一緒に学びましたように、マグダラのマリヤという女性でした。どうして彼女について先に学んだかと言いますと、彼女は復活なさったイエス様に先に出会った人だからです。イエス様の弟子たちよりも、イエス様の母であるマリヤよりも、このマグダラのマリヤは、一番初めに復活なさったイエス様に出会ったのです。素晴らしい特権なのではないでしょうか。どうしてこの特権にあずかるようになったかと言いますと、彼女は、誰よりもがっかりしてしまって、真っ暗やみの中にいたからです。彼女は、他の人々よりも、「イエス様なしには、もう無理です。生活したくない。もう何もできません」と思ってしまっていたのです。ですから、彼女がよみがえりの主に先に出会ったのは、一番必要だったからでしょう。マルコの福音書の中で次のように書かれています。16章9節ですけれども、94ページになります。
   さて、週の初めの日の朝早くによみがえったイエスは、まずマグダラのマリヤにご
  自分を現わされた。イエスは、以前に、この女から七つの悪霊を追い出されたのであ
  った。

短い文章ですけれども、想像できない生活だったのではないでしょうか。一人の人間が、一つの悪霊に縛られ、支配され、動かされただけでも、大変なことなのではないでしょうか。このマグダラのマリヤは七つの悪霊につかれていたのです。どうしてこういうふうになったのかは誰も分かりません。生まれつき、悪霊に取り憑かれた人はいないはずです。悪魔に誘惑され、負けてしまって、結局どうしようもない生活になってしまっていたのです。けれども、イエス様との出会いによって彼女は、解放され、自由になり、今まで知らなかった喜びと心の平安を持つようになったのです。言うまでもなく、彼女は悪霊に解放されただけではなく、「自分の罪、自分の過ちが、全部赦されている」と確信するようになったのです。このイエス様に、彼女が自分の愛を捧げ尽くしたのは、無理もないこと、当たり前のことなのではないでしょうか。イエス様のおかげで、彼女は前向きに生活することができ、喜びを持つようになったからです。ですからもし、イエス様がよみがえられなかったならば、マリヤのイエス様に対する愛そのものは、なおさら、マリヤを絶望に追いやってしまったのではないでしょうか。彼女は、悲しみに陥ったに違いないのです。言うまでもなく、このマリヤの愛の対象は間違っていませんでした。すなわち、「イエス様」だったのです。けれど、その愛が、「よみがえりの力」に基づかない人間的な愛であるならば、絶望に終わってしまいます。これこそが、このマグダラのマリヤのつらい経験でした。彼女自身が、「新しい愛」を持つようにならなければ、人生は確かに、虚しい人生、的外れな人生になってしまうのです。彼女の愛は、イエス様が自分に成してくださった恵みのみわざに応える愛でした。彼女には感謝の気持がいっぱいだったのです。「解放された!赦された!受け入れられた!イエス様だったら、自分の気持ちを理解してくださる!」と彼女は経験したのです。だから、イエス様を愛するのは当然ではないでしょうか。七つの悪霊を追い出していただいたのだから、彼女は感謝の思いいっぱいで、イエス様を愛したのです。

 けれども、彼女は「新しい愛」を持つべきでした。「イエス様が成してくださったわざのゆえに、イエス様を愛する」というのではなくて、彼女は、「イエス様ご自身を愛する」ようになりました。イエス様を違う意味で知るようになったのです。イエス様と、全く違う交わりを持つようになったのです。マリヤの初めての愛とは、肉体の姿をとられたイエス様に対するものでした。「目に見えるお方としてのイエス様」を、彼女は愛したのです。けれども、それはもう不可能になったのです。イエス様は、その後ですぐ昇天なさったからです。
 よみがえりに基づいた人々は、「目に見えない主」を愛するのです。そして信仰によって歩むようになるのです。コリント第二の手紙、先週もちょっと開いたところですけれども、毎日読んでもいい箇所だと思います。319ページです。4章の16節から18節をお読みいたします。
   ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内な
  る人は日々新たにされています。今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り
  知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、
  見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつ
  までも続くからです。

この言葉を毎日自分のものにすれば分かります。みことばは、元気のもとです。

 マグダラのマリヤは、イエス様を愛したのですけれど、彼女の愛は人間的だったからこそ絶望に終わってしまったのです。けれども彼女は、「新しい愛」を持つようになったのです。この「新しい愛」は、たとえ、訳が分からないことがあっても、理解に苦しむようなところに置かれても、愛して愛し抜く愛であります。
 確かに多くの兄弟姉妹は、罪の赦しを確信し、主との平和をいただいています。そして、人間的な愛でイエス様を愛しています。生まれながらの賜物、生まれながらの力を持って主に仕えようとしています。けれど、信仰生活はとめどもなく上がったり下がったりするのです。イエス様との親しい交わりがないのです。義務的に聖書を読んだり、義務的に祈ったりすることだけです。結局それでは、イエス様と一つになることができません。それは、よみがえりの前の土台に立っている、ということです。よみがえりの土台に立つ者は、自らの力で主に仕えようとしません。「やっても無駄だ。虚しいものである」と分かるからです。自分の力に頼ることをやめ、自分の誉れを望まず、「よみがえりの主」に任せ、おゆだねするということは、本当の意味での自由であります。

 マリヤは、復活のイエス様との出会いによって、「新しい愛」を持つようになりました。私たちが、いま差し迫って必要としている愛は、この「新しい主の愛」なのではないでしょうか。もしイエス様がよみがえられなかったら、果たしてマリヤは七つの悪霊に立ち向かうことができたでしょうか。決してできませんでした。
 コリントにいる兄弟姉妹は、よみがえりの土台に立っていなかったから、その教会は、滅茶苦茶な教会でした。コリントの教会の特徴は、憎しみと、妬みと、傲慢と、汚れの霊に打ち負かされていたことでした。全く、主イエス様を現わす証しとならなかったのです。「あなたがたは新たなる愛を、主に対するまことの愛を持つようにならなければ、用いられ得ない。祝福になり得ない」と、パウロはコリントにいる人々に指摘したのであります。

 「よみがえりの主」に出会った、もう一人の人について考えてみたいと思います。すなわち、よく知られているペテロです。このペテロは、魚をとる漁師でした。彼は自分の兄、アンデレによってイエス様のところに導かれたのです。ペテロはアンデレから聞きました。「私たちはイエス様に出会った」と。すなわち、「預言されたメシヤに出会った」と聞いた時、ペテロは主と会うようになりました。マルコの福音書1章16節から18節に、
   ガリラヤ湖のほとりを通られると、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っ
  ているのをご覧になった。彼らは漁師であった。イエスは彼らに言われた。「わたしに
  ついて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」すると、すぐに、彼らは網を捨て
  置いて従った。

ペテロは、イエス様の声に耳を貸して、「そうですか。ちょっと考えさせてください」と言わなかったのです。「明日まで考えさせてください」と言わなかったのです。直ちに主イエス様に従ったのです。そして、イエス様の弟子となったのです。もちろんイエス様の弟子として、彼は3年半、イエス様の愛を受け、多くのことを学びました。

 ヨハネの福音書6章の中で、ある出来事について次のように書かれています。イエス様は、もちろん弟子たちとも、他の人々とも、ずっと親しい交わりを持っておられたのです。たとえばある箇所(マルコ4:10)に、
   さて、イエスだけになったとき、いつもつき従っている人たちが、十二弟子ととも
  に、これらのたとえのことを尋ねた。

とあります。けれども、あるとき、多くの人々は、「もう十分です。いやです!」という態度をとって、イエス様から離れてしまったのです。ヨハネの福音書6章66節。
   こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとと
  もに歩かなかった。

「多くの者」とは、大部分の者だったのでしょう。67節。
   そこで、イエスは十二弟子に言われた。「まさか、あなたがたも離れたいと思うので
  はないでしょう。」すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ。私たちがだれのところ
  に行きましょう。」

「行くところがないです。あなたから離れたらおしまいです」ということです。
  「あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。私たちは、あなたが神の聖
  者であることを信じ、また知っています。」

   
つまり、「確信します」ということです。イエス様は、ヨハネ6章63節で、
  「わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」
  
と言われたのです。これこそが、ペテロの確信したところでもありました。
 けれどもこのペテロは、ご存知のようにとんでもない方向へ行ってしまいました。マタイの福音書16章を見ても、いま読んだ箇所と似ている個所があります。29ページです。マタイの福音書の16章15節から17節。
   イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」シモン・
  ペテロが答えて言った。

面白いですね。イエス様は、いつも弟子たちに向かって話されたのです。ペテロ一人にではなく、「あなたがた」に。けれど、他の人が答える前に、彼はいつも先に答えました。(笑)
   ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」

素晴らしい証しでしょう?
   するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。こ
  のことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。」

「父が導いてくださらなければ、誰もわたしのところに来ることはない」と、イエス様は言われたのです。そして父に導かれた人々を、もちろんイエス様は喜んで受け入れてくださるのです。父のお働きの結果として、ペテロは、上からの啓示によって、上からの光に照らされて、本物が分かったのです。「あなたは、生ける神の御子キリストです」と。この意味は、「あなたは、約束された救い主です。罪ほろぼしのために犠牲になられるお方です」と聖書は言っていますけれど、彼はそこまでいかなかったのです。ただ、「あなたこそが、救いをもたらすために遣わされたお方です」と言ったのです。もちろん、そのときの弟子たちは、「救いとは、罪の赦しではない。ローマ帝国からの解放である」と、弟子たちみんなが思ったのです。「約束された救い主は、イスラエル民族を世界の中心にするお方である」と、弟子たちは期待していたのです。けれども、イエス様は、「わたしの国はこの世のものではない。いつかわたしは、確かにイスラエルの国民を世界の中心にします。エルサレムは、世界の首都になる。けれども、今回わたしはあなたがたをローマ帝国の奴隷から解放するつもりではない。わたしは死ぬために来たのです」。けれども、弟子たちはそれをいくら考えても分からなかったのです。だからやはり、ペテロとイエス様は衝突してしまったのです。マタイの福音書16章21・22節。
   その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、
  律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければ
  ならないことを弟子たちに示し始められた。

結局、イエス様はそのために来られたのです。
   するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。

本当は、「引き寄せて、抱きしめた」となっています。愛の表現として。
  「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありま
  せん。」

ペテロは、「あなたが殺されることなんて考えられない。あなたから離れたら、もう終わりです。行くところがありません」と。イエス様は、「ペテロ、ありがたい。そんなにわたしのことを心配してくれて、うれしい」と言われなかったのです。23節。
   しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわた
  しの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

自分のことを正しいと思えば、もうおしまい。イエス様を信じることとは、自分を信じないことです。ペテロはそれが、なかなか分からなかったのです。
 最後の晩餐の時、イエス様は、はっきり言われました。「あなたがたの中の一人は、わたしを裏切るようになる」と。そして、ペテロにはっきり言われたのです。「ペテロ、あなたは今晩、三回、わたしのことを知らないと言うようになります」と。ペテロは長い間、「主よ、語ってください。私は、単なる弟子に過ぎないから、聞いております。教えてください。導いてください」と言っていたのですけれども、この最後の夜、彼はイエス様に反発したのです。ちょっと考えられません。マタイの福音書26章33節。
   すると、ペテロがイエスに答えて言った。「たとい全部の者があなたのゆえにつまず
  いても、私は決してつまずきません。」

つまり、「イエス様、今まで私は、あなたのことをそのままで受け入れたのです。認めたのです。けれど、今回イエス様、あなたは間違っています。私はOKです。大丈夫です。心配していただく必要はありません!」と。34・35節。
   イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。今夜、鶏が鳴く前に、あな
  たは三度、わたしを知らないと言います。」ペテロは言った。「たとい、ごいっしょに
  死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」
  弟子たちはみなそう言った。

ペテロは、嘘をつくつもりではなかった。
 36節から。
   それからイエスは弟子たちといっしょにゲツセマネという所に来て、彼らに言われ
  た。「わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。」それから、
  ペテロとゼベダイの子ふたりとをいっしょに連れて行かれたが、イエスは悲しみもだ
  え始められた。そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほ
  どです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」

「わたしといっしょに祈りなさい」と。
   それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。

少しだけ離れられたのでしょう。なぜなら、弟子たちはそれを聞いたはずです。そうでなければ、ここで書いていないからです。イエス様は何を祈られたのか、叫ばれたのかと言いますと、
  「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの
  願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」

イエス様は、もちろん初めから、「自分は死ぬために遣わされた」とお分かりになりました。お分かりになりながらも、その時が近づくとイエス様は確信されたのです。「十字架の上で呪われること」とは、すなわち、「父に捨てられること」を意味しています。わたしが祈っても、父は知らん顔をする、聞こうともしない。「十字架につけられた者」として、わたしは、「永遠なる神」というよりも「愛されている御子」というよりも、わたしは「罪のかたまりとされた者」として、父から退けられる。決して考えられない孤独を経験しなければならない。地獄の地獄を経験しなければならない。「十字架につけられた主イエス様」は、「すべての人間のすべての過ちを一人きりで犯した者」として取り扱われるようになるのです。イエス様はこれを考えられた時、恐ろしくなられた。「人間を救うためにわたしは来た。だから喜んで犠牲になるけれど、父から離れることなんて…」。父から離れることは、イエス様にとって考えられなかったのです。だから、「もし、他に救う道があれば、ありがたいけれど、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのようになさってください」と祈られました。
 私たちも毎日このように祈れば、楽になります。「わたしは大切ではない。わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのようになさってください」。40・41節。
   それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、
  ペテロに言われた。「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目を
  さましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っ
  ていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」

全部、イエス様の言われた通りになりました。70節から75節。   
   しかし、ペテロはみなの前でそれを打ち消して、「何を言っているのか、私にはわか
  らない。」と言った。

イエス様のことを、「わからない」。ペテロは、3年半、イエス様と一緒にいたのに。
   そして、ペテロが入口まで出て行くと、ほかの女中が、

「女中」、一人の女性ですよ。
   彼を見て、そこにいる人々に言った。「この人はナザレ人イエスといっしょでした。」
  それで、ペテロは、またもそれを打ち消し、誓って、「そんな人は知らない。」と言っ
  た。

「私は、イエス様と関係のない者です」と。
   しばらくすると、そのあたりに立っている人々がペテロに近寄って来て、「確かに、
  あなたもあの仲間だ。ことばのなまりではっきりわかる。」と言った。すると彼は、「そ
  んな人は知らない。」と言って、のろいをかけて誓い始めた。するとすぐに、鶏が鳴い
  た。そこでペテロは、「鶏が鳴く前に三度、あなたは、わたしを知らないと言います。」
  とイエスの言われたあのことばを思い出した。そうして、彼は出て行って、激しく泣
  いた。

「もう、おしまい。もう、希望がない」。ペテロの気持ちは、もちろんはっきりつかめ得ません。彼は、激しく泣いただけではなくて、姿を消したのです。どこかで他の弟子たちと会ったでしょう。そして弟子たちも、みんな隠れてしまったのです。もう終わり。

 けれども、前に読みました箇所の中に、コリント第一の手紙でしたか、一文章だけ短く書いてあります。15章5節ですね。
   キリスト(イエス)は、…ケパに現われ…た。

すなわち、ペテロは復活なさったイエス様に、他の弟子たちよりも先に出会ったのであります。それによって、ペテロは新しくされました。
 
 マグダラのマリヤは、「新しい愛」を持つようになった。ペテロは、何を得たかと言いますと、「新しい信頼」です。イエス様のよみがえりは、ペテロのすべてとなったのです。「主は、生きておられる!」と彼は喜んで、命がけで宣べ伝えるようになったのです。もし、イエス様がよみがえられなかったら、ペテロはどうなっていたでしょう。ペテロはイエス様を公然と否認しました。「私は、イエス様を知らない!何のことか分からない」と愛するイエス様を裏切ってしまったのです。ペテロは、とくに主のそば近くを歩み、3年半イエス様に愛されるという特権にあずかり、いろいろな忠告をイエス様の御口から聞くことができたにも関わらず、駄目になったのです。「私は、決してイエス様を捨てない!」と彼は誓ったのです。けれども、それにも関わらず、ペテロはイエス様を否んでしまったのです。そして、ペテロが否んだイエス様は、十字架の上で亡くなられたのです。地上でペテロを助けることのできる者は、もう一人もいない。「よみがえりの主」だけが、ペテロを助けることができたのです。

 マルコの福音書に戻りまして、16章6・7節です。
   青年は言った。「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人
  イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられませ
  ん。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。ですから行って、お弟子たちと
  ペテロに、…」

「お弟子たち」だけではない。「お弟子たちとペテロ」にです。
  「…『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、
  そこでお会いできます。』とそう言いなさい。」

よみがえられた主は遣いを送り、ご自分のよみがえりを弟子たちに告げられましたが、特にペテロの名前をあげて、「イエスはよみがえった。今から弟子たちと、ペテロのところへ行って、こう伝えなさい」と言われています。ペテロは主を否んだまま、主に死なれたので、全く打ちのめされていました。もし、「お弟子たちとペテロに…」と、ペテロの名前を特別に名指しで呼ばれなければ、ペテロは立ち上がれなかったでしょう。他の弟子たちは、おそらく「ペテロは、主を裏切ったから、もう私たちの群れには、縁のない者だ」と、ペテロを軽蔑していたかもしれない。ペテロがイエス様を否んでから、他の弟子たちはペテロを指導者として仰ぐことをやめていたかもしれない。ペテロは、信頼を失ってしまったのです。このペテロに対する疑いを解くために、「お弟子たちとペテロに…」と、特にペテロの名前をイエス様は、付け加えられたのです。

 私たちは、ペテロと同じではないでしょうか。ペテロは、私たちの間で例外ではなく、当たり前のことのようになってはいないでしょうか。もし私たちがよみがえりの前の土台に立っているなら、何か大きな試みがやってくると、簡単にイエス様を否んでしまわなければならなくなるでしょう。私たちは、偽りやすい自らを信頼することは、絶対にできません。真面目に決心し誓っても、自分の決心はいつしか崩れ、裏切るという結果になってしまいます。
 ペテロは、「指導者となるべきです」と、イエス様から召しを受けました。けれど今、ペテロはイエス様を否み、イエス様の弟子であるかどうかさえ疑われています。イエス様のよみがえりは、ペテロをどん底から救い出しました。ペテロは、もとのペテロ(岩)となりました。イエス様から与えられた他の名前を持つようになったのです。結局彼は、本当の意味での「岩」、「動かないもの」に変えられたのです。「シモン」から「ペテロ」になったのです。結局、復活なさったイエス様は、ペテロをどん底から救い出して、ペテロは、もとのペテロになった。他の仲間の目にも、ペテロは見事に立ち直りを見せたのです。他の弟子たちは、イエス様のよみがえりを知って喜び、これを仲間の人だけでなく、他の人々にも伝えるようになったのです。
 ペテロは、主を否むという悲しむべき出来事を通して、自分自身を知るようになったのです。自らの真相を知ることができたのです。主を否んでから、主がよみがえられるまでの3日間は何という怖い日々だったでしょう。マグダラのマリヤにとっても、あの3日間は、考えられないほどのどん底でした。ペテロも同じような暗やみを経験したのです。ペテロにとっては、この3日間は本当に夜でした。もう光がない。何の望みもなかったのです。けれど、この真っ暗やみを通される必要があったのです。もしペテロに、「よみがえりの主」が現われてくださらなかったならば、ペテロは間違いなくアウトだったのです。絶望のために、立ち上がることができなかったでしょう。

 私たちも、主に用いられるために、ペテロと同じ体験をしなければならないのではないでしょうか。私たちが自我に満ちた生活をやめ、主に生きる、よみがえりの土台に立たせられることができたら、本当に幸いと思います。
 「よみがえりの主」は、ペテロに現われてくださったのです。二人で何か話し合ったはずですけどそのとき、主はペテロに何をお語りになったか、聖書に書いてないから分かりません。けれども、ルカの福音書24章34節に、弟子たちが集まって、
  「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現わされた。」

と書いてあります。イエス様が、シモン・ペテロと親しくお話になられたことだけは、よく分かります。主とペテロは何を話したか別に知る必要はないし、知るよしもありません。けれど私たちは、ペテロと同じように、主に対して不真実であり、不信頼に満ちた心の持ち主であることを教えていただかなければならないのではないでしょうか。それを教えられて初めて、後で見事に立ち直ったペテロのようになることができるのです。ぺテロは、火を通された後、実に、ゆるぎない、その名前の通り、「岩」のような兄弟になったのです。ペテロは、多くの人々の信頼を受けるに至る信者になったのです。彼の書いた手紙を見ても、分かります。「よみがえりの主」は、ペテロを新しくし、ペテロは主に対する「新しい信頼」を持ち、また多くの人々に信頼される人と、造り変えられたのです。

 いま私たちが差し迫って必要としているものの一つは、ペテロがいただいた、主に対する「新しいより頼み」なのではないでしょうか。
                                                                             
                                     了



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◆メッセージ(ベック兄)

※一部、テープの転換による不明部分あり

神のみことばは神のみことばである(5) 2006. 4. 18
神のみことばは神のみことばである(4) 2006. 4. 11
神のみことばは神のみことばである(3) 2006. 4. 4
神のみことばは神のみことばである(2) 2006. 3. 21
家族の救い 2006. 3. 19
神のみことばは神のみことばである(1) 2006. 3. 14
主イエスは神の子キリストである(4) 2006. 3. 7
主イエスは神の子キリストである(3) 2006. 2. 28
主イエスは神の子キリストである(2) 2006. 2. 14
主イエスは神の子キリストである(1) 2006. 2. 7
勝利の生活の秘訣 2006. 1. 24
イエス・キリストのからだ 2006. 1. 17
主の永遠からの予定 2006. 1. 10
元旦メッセージ 2006. 1. 1


2005年度のメッセージ集
2004年度のメッセージ集
2003年度のメッセージ集