主は生きておられる 3
2003.5.20(火)
ベック兄メッセージ(メモ)
引用箇所
使徒の働き3章14節、15節
そのうえ、このきよい、正しい方を拒んで、人殺しの男を赦免するように要求し、いのちの
君を殺しました。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちは
そのことの証人です。
ヘブル人への手紙2章14節、15節
そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものを
お持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、
一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。
ヨハネ第一の手紙3章8節
罪のうちを歩む者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。
神の子が現われたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。
今読んでくださった箇所を見るとはっきり分かります。すなわち、イエス様の十字架は、生と死の、言い表わすことの出来ないほどすごい争いを現わしています。
イエス様は確かに殺されてしまいました。多くの群集を、同情を込めてご覧になっていたイエス様のその御目は、今や閉じてしまったのです。イエス様が墓に横たえられたとき、かつてめくら、おし、つんぼ、足なえ、またらい病人を癒したその御手は、力なく、萎えていました。波を静め、死人をよみがえらせ、またいのちと希望を語られた御声、悪霊を追い出されたあのイエス様の御声は、もはや聞けなくなってしまったのです。少し前に、「わたしはよみがえりであり、いのちである」と言われたイエス様は、亡くなられたのです。
イエス様は墓の中に横たえられ、墓の入り口には大きな石が転がされていたのです。もし、当時のピラトが墓の表に看板をかけたとしたら、きっと、「ユダヤ人の王イエス」と書いたでしょう。もし、悪魔が墓の表に看板をかけたとしたら、「私に負けたナザレのイエス」と書いたでしょう。もし、主なる神が墓の表に看板をかけられたとしたならば、「この中に罪にまみれた人類あり」と書かれたでしょう。なぜならば、イエス様は私たちの罪のために死なれただけでなく、罪人とともに亡くなられたのであるからです。
ロマ書6章6節に、書かれています。
私たちの古い人がキリストとともに、十字架につけられた…
ご主人と別居して長い間悩んでいたある姉妹は、最近、ご主人とご主人の両親のところへ行って、謝ったのだそうです。姉妹の親御さんは、「今から一体どういうことになるのだろうか?」と心配されたのです。けれど、姉妹は、「私は自分に死にましたから、そのことを覚えてください。私は死んだからもういいのです」と。この態度をとると、祝福があります。主は必ず働かれるのです。私たちは、「自分は正しい」と思うでしょう。けれども、「私はもう死んじゃった!」と考えると、楽になります。
イエス様は、「第二のアダム」と聖書の中で呼ばれています。罪のない「最後のアダム」としてのイエス様は、全人類とともに十字架につけられたのです。ですから、イエス様はあなたの罪のために死なれただけではなく、あなたとともに死なれたのです。あなたの罪が覆われるために、イエス様の血が流されたのであり、あなたの古き人が取り去られるために、イエス様は十字架におかかりになったのです。イエス様は死なれました。あなたの古き人も、ともに死んだのです。けれども、イエス様は墓の中にそのままおられることはなく、復活なさったのです。
使徒の働き2章32節で、
神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。
と、初代教会の人々は喜んであかししました。
聖書を読むと、沢山の奇跡について報告されています。その中で一番大きな奇跡は、間違いなく、イエス様のよみがえりの奇跡です。イエス様のよみがえりは、世界歴史の中で一番大きな出来事です。イエス様のよみがえりは、「イエス様だけが救いに至る道である」という一番大きな証拠です。イエス様のよみがえりは、主なる神の力の、一番大きな現われです。また、これは福音の最も偉大なる真理でもあります。もし、私たちの十字架に着けられた救い主が、墓の中に入ったままなら、私たちに何の役に立ちましょうか。もし、イエス様が墓の中に入られたままだったら、それはご自分の罪のために死なれたのであり、私たちの救い主とはなられなかったのです。聖書に「罪の支払う報酬は死である」「すべての人が罪を犯したので、死が全人類に入り込んだのである」とあります。人間はみな、「罪人」と呼ばれています。すなわち、主なる神から離れている者です。主なる神から離れている者は、他の離れている者を救い、また解放することはできません。めくらは、他の、目の不自由な人に道を教えることはできません。ですから、主なる神のおひとり子であるイエス様が、私たちを救うために、この地上に来られなければならなかったのです。ですから、人間が自分や他の人を救いに導こうとする努力は、まったく無駄です。
マホメットは人類を救おうと思ったかもしれない。孔子もそうでしょう。釈迦も人類を救い解放しようと願ったかもしれない。けれども、これらの人々は人間であり、すなわち神から離れた者たちだったのです。「すべての人が」、聖書は「すべて」と言っているのです。すべての人が、すなわち男と女の間に生まれた者はみな、例外なく罪を犯したので、死が全人類に入り込んだのです。マホメット、孔子、釈迦、この人たちはあやまちを犯したから死んだのです。すなわち、彼らは自分の罪のために死んだのです。自分の罪のために死んだ者が、他の人々を救いに導くことができるはずがありません。
マホメットはよみがえりませんでした。孔子もよみがえらなかったのです。釈迦も死んだままです。しかし、イエス様は復活なさいました。
ルカ伝24章34節、
「ほんとうに主はよみがえって、…」
使徒の働き2章34節、
神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。
と書いてあります。イエス様は実際に復活なさいました。どうしてであるかと言いますと、神の御子だったからです。イエス様のよみがえりの証拠とはいったい何なのでしょうか。よみがえられたイエス様に出会った人々です。
この間、私たちはマルコ伝16章9節を引用しました。エルサレムでマグダラのマリヤにお姿を現わされた、イエス様について書かれています。
さて、週の初めの日の朝早くによみがえったイエスは、まずマグダラのマリヤにご自分を
現わされた。イエスは、以前に、この女から七つの悪霊を追い出されたのであった。
もし、イエス様がよみがえられなかったなら、彼女の人生はめちゃくちゃになったに違いありません。
それから、コリント第一の手紙15章5節に、短い箇所ですけれど、
また、ケパに現われ…
とあります。「ケパ」とは、シモン・ペテロの名であります。イエス様はマグダラのマリヤだけでなく、ペテロにも現われてくださったのです。この主との出会いによって、マグダラのマリヤは、まったく新しい愛を持つようになりました。復活なさったイエス様との出会いによって、ペテロは、新たなる信頼を得るようになったのです。そして主イエス様は、もちろん弟子たちにも現われてくださったのですけれども、その中でも一番信じたくない、信じられない男であるトマスにも、現われてくださったのです。
ヨハネの福音書20章26節。 205ページになります。
八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられて
いたが、イエスが来て、彼らの中に立って、「平安があなたがたにあるように。」と
言われた。それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を
見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、
信じる者になりなさい。」トマスは答えてイエスに言った。「私の主、私の神。」イエスは
彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。
見ずに信じる者は幸いです。」
このトマスは、復活なさったイエス様との出会いによって、何を得たのでしょうか。
彼は、主にお会いしてまったく変えられたのです。新しい信仰を持つようになったのです。
このトマスという男は、もともと疑問に満ちた、疑い深い性質の持ち主でした。他の弟子たちは、先にイエス様に出会ったのです。そして、喜んで、トマスに、「私たちは主を見た」と言ったのです。けれども彼は、「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また、私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」という態度をとったのです。ほかの弟子たちは、主のよみがえりを知って本当に喜ぶようになりました。これを仲間のトマスに喜んで伝えたけれども、彼は頑として信じようとしなかったのです。
個人的な疑いは、イエス様に親しくお目にかかるまで解けないでしょう。聖書を読んでいきますと、復活の主は、疑い深いトマスのためにわざわざもう一度現われてくださったことが分かります。何という恵み深い主でありましょうか。「自分のこの指をイエス様の手と足とわき腹の傷に差し入れてみないうちは、イエス様のよみがえりを信ずることができない」と言っていたトマスは、目の前に現われてくださったイエス様のみ姿を拝したとき、指を傷に当てるどころか、その場にひれ伏して主イエス様を拝したと聖書は言っています。
疑い深いトマスがこんなに変えられたのは、驚くべきことです。彼はまことの礼拝者になりました。トマスは疑惑に満ちた者でしたけれど、「新しい光が与えられたらこの疑惑が解ける」と、絶えず光を求めていました。けれども、イエス様は、なぜもっと早くトマスに現われてくださらなかったのでしょうか。もちろん、これはトマスのせいだったのです。トマスが悪かったのです。他の弟子たちと一緒にいなかったからです。もし、彼が仲間の弟子たちのところに帰って来ないで、そのまま自分の道を歩んだなら、イエス様にお会いすることができなかったでしょう。悲しい結果になってしまったに違いありません。
イエス様は、信じる者一人一人のかしらであるばかりでなく、信じる者の群れ、すなわち、ご自分の体なる教会のかしらであると、聖書は強調しています。ですからイエス様は、信じる者がともに集まり、ともに御名を賛美しているところに、ご自分をお現わしになる場合が多いのではないでしょうか。
確かに、一人で聖書を読んだり、一人で祈ったりするのなら、まず喧嘩になりません。独りぼっちだからです。二人、三人、大勢になると、面白くない問題が次々と出てきます。みんな不完全そのものだからです。けれど、それを通して成長すべきです。そして、それを通して、イエス様をよりよく知るべきであります。
もちろん疑うことは、そんなにひどい、悪いことではない。トマスは正直な男でした。彼はイエス様のよみがえりを信じることができなかったから、自分を偽らずに、はっきり「私は信じられない」と言ったのです。多くの人は信じられないのに、あたかも信じたかのように、自分を偽って進みます。トマスはこれらの人々より、よほどましだったのではないでしょうか。
私たちはそれぞれ問題を持っています。またこれから持つでしょう。その中には、よみがえりの主が現われてくださらなければ、どうしても解決できない問題が必ずあります。そのような時は、トマスのように心から新しい光を求めましょう。そうすれば、必ずよみがえりの主が問題に解決を与えてくださるに違いありません。
トマスは、新しい光を求めてそれを受け入れる備えをしていました。彼は、主を信じる仲間に入って、疑いながらも交わりに加わっていました。そして、イエス様がトマスに現われてくださったとき、トマスは直ぐ御前にひざまずきました。主を礼拝したのです。「わが主、わが神」と。
私たちの過去を振り返ってみると、私たちは、本当に主に対して、不信仰な者であり、主を悲しませた者であることが分かります。私たちが今一番新しく必要としていることは、よみがえりの主に新しくお会いすること、新たなる信仰、新しい信仰をいただくことではないでしょうか。
そのときトマスは、目に見えるイエス様を信じたのです。けれど、これからそれは不可能になりましたから、新たなる信仰を持つことが必要です。初代教会の人々は「私たちは目に見えるものによらないで、信仰によって歩んでいるのです」と言いました。復活なさったイエス様との出会いによって、トマスは新しい信仰を持つようになったのです。
コリント第一の手紙15章7節に、次のように書かれています。短い文章であります。
その後、キリストはヤコブに現われ…
とあります。このヤコブは、ヤコブ書を書いた人で、肉体的にイエス様の弟でした。後にこのヤコブは、「義人ヤコブ」と言われるようになり、エルサレムの初代教会の監督になった人です。彼の書いた手紙であるヤコブ書を見ると、ヤコブは、正しさ、義を強く主張していた男でした。このヤコブが長年心に持っていた悩みは、本当の義を自分は持っていないで、自分の持っている義は、おきての義、自分の義だけだということでした。彼は生れ落ちるなり、神の子主イエス様を兄として一緒に暮らしていながら、イエス様を批判し、最後にイエス様を拒んだのです。多分彼は、イエス様が罪人といっしょに食事をし、いわゆるおきてを守らず、例えば安息日を守らないでいたところから、当時の聖書学者たちと同じようにイエス様を拒んだに違いありません。
ヨハネ伝7章5節を見ると、次のように書かれています。
兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。
「兄弟たちも」、すなわちイエス様の兄弟たち、肉体の弟、妹さんたちもです。ヤコブは、
イエス様の生きておられる間、イエス様を信じようとしなかったのです。イエス様を受け入れなかったこのヤコブも、ついにイエス様を受け入れるときが来たのです。イエス様は今、十字架の上で考えられないほど苦しんでおられたのです。釘づけられたから、痛みがひどかったからではない。十字架につけられたイエス様は、罪の塊とされました。どういう意味か、だれも分からない。けれども私たちは、間違いなく永遠にわたってそのためにイエス様を拝まざるを得なくなります。十字架につけられたイエス様は、すべての人間のすべての罪を一人ぼっちで犯したものとして取り扱われた。罪の塊とされたのです。苦しみの中から、イエス様は、弟子ヨハネに向かって次のように言われました。「ヨハネよ。見て。これはあなたの母である」と言って、ご自分の肉体の母であるマリヤを、弟子のヨハネに託されました。続いて、母親であるマリヤに向かい、「女よ、これは汝の子です」と言って、ヨハネに将来の面倒を見てもらうようにと話されたのです。
イエス様は、なぜご自分の母を、実の弟であるヤコブに託さないで、ヨハネに託されたのでしょうか。多分ヤコブは、初めからイエス様を信じていたお母さんのマリヤと仲が良くなくて、離れていたからでしょう。ヤコブにとって、自分を生んでくれた実の母を、自分に任されず、他人の手にゆだねなければならないとは、何という悲しいことでしょう。これは、おのれを正しいとする罪の結果です。自分を義とする結果は、いつも悲劇です。一般の人々でさえ、信仰のゆえに自分の母を見捨てるなどということはしないでしょう。しかし、自分を義としたヤコブは、母を見捨てました。ヤコブはこのように、おのれを正しいとする人間でした。
パウロは、コリント第一の手紙15章に、よみがえりの主がだれとだれに現われてくださったか、順を追って書いていますが、ヤコブの名前は後の方に書かれています。イエス様は、おのれを正しいとするヤコブより先に、悪霊に憑かれたマグダラのマリヤに、また取税人たちに現われてくださったのです。けれども、ヤコブの身にもついに奇跡が起こりました。ヤコブは、自分を正しいとすることが何の役にも立たず、むしろ妨げになることを悟り、イエス様の前に砕かれて新しい義をいただいたのです。
多くの人はおのれを義とした結果、めくらになり、かつてのヤコブのように悲惨な状態に陥っています。ヤコブを解放することができたのは、よみがえりの主です。よみがえりの主だけが、自分を義とするところから彼を解放することがおできになったのです。私たちも、よみがえりの主に新しくお会いすることによってのみ、ヤコブと同じように、「義人」と呼ばれることができるのです。
パウロは、イエス様が最後に、自分にも現われてくださったことを記したのです。
コリント第一の手紙15章8節。
そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。
パウロはよみがえりの主にお会いして、新しい愛、新しい信頼、新しい信仰、新しい義を受けたのです。私たちもパウロのように、「そして最後によみがえりの主は、私にも現われてくださったのです」と、喜びをもって言えるようになったら本当に幸いです。よみがえりの主を愛することで、私たちの生活は根底から変えられていきます。
主イエス様は、私たちによみがえりのいのち、また、よみがえりの力を与えるために、死よりよみがえられたのです。イエス様が与えてくださるよみがえりのいのちを受けるとき、そこから、新しい愛と信頼と信仰と義が湧き出てくるのです。私たちは、コリントの人々がそうであったように、理論ではなく、実際に主の御前にひざまずき、砕かれ、主が与えたいと望んでおられる、よみがえりの力を受け取りたいものではないでしょうか。
イエス様がもし実際によみがえられたのなら、キリストのよみがえりのいのち、またよみがえりの力は、主のうちに私たちのために備えられ、隠されているはずです。
このよみがえりのいのちは、私たちの生まれながらのいのちとまったく性質を異にするものです。このいのちは、マリヤのうちに、またペテロ、トマス、ヤコブ、パウロのうちに宿ったいのちであるばかりでなく、私たちのうちにも宿りたもうイエス様のよみがえりのいのちです。
ガラテヤ書2章20節は、信じる者にとって最も大切な箇所でしょう。
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、
キリストが私のうちに生きておられるのです。
イエス様が私たちに、マリヤのように新しい愛を、ペテロのように新しい信頼、トマスのように新しい信仰、またヤコブのように新しい義を授けられ、私たちが心からパウロのように、「よみがえりの主は最後にこの私にも現われてくださった」と喜ぶことができたら、本当に幸せです
了
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