主の大いなる解放
2003.5.27(火)
ベック兄メッセージ(メモ)
引用聖句
ルカの福音書 13章10節から17節
イエスは安息日に、ある会堂で教えておられた。すると、そこに十八年も病の霊に
つかれ、腰が曲がって、全然伸ばすことのできない女がいた。イエスは、その女を見て、
呼び寄せ、「あなたの病気はいやされました。」と言って、手を置かれると、女はたちどころ
に腰が伸びて、神をあがめた。すると、それを見た会堂管理者は、イエスが安息日にいや
されたのを憤って、群衆に言った。「働いてよい日は六日です。その間に来て直してもらう
がよい。安息日には、いけないのです。」しかし、主は彼に答えて言われた。
「偽善者たち。あなたがたは、安息日に、牛やろばを小屋からほどき、水を飲ませに
連れて行くではありませんか。この女はアブラハムの娘なのです。それを十八年もの間
サタンが縛っていたのです。安息日だからといってこの束縛を解いてやってはいけないの
ですか。」こう話されると、反対していた者たちはみな、恥じ入り、群衆はみな、イエスの
なさったすべての輝かしいみわざを喜んだ。
今の箇所を見ると、イエス様は確かに、強いおことばを言われました。「偽善者たち。…」
当時の会堂管理者はとんでもないことを言ったのです。そして、その答えとしてイエス様は、「偽善者たち…」と言われたのです。いうまでもなく、この管理者は、メンバーであり、立派な人格者であり、宗教家そのものでした。宗教によって、彼は目くらにされ、騙されたのです。イエス様の質問とは、16節に書かれています。
「この女はアブラハムの娘なのです。それを十八年もの間サタンが縛っていたのです。
安息日だからといってこの束縛を解いてやってはいけないのですか。」
このルカ伝を書いた人は、医者でした。彼は、その当時まだ一般には大切にされていなかった女性たちの世界に注意をはらいました。健康な女性でさえ、当時、男性の半分以下ぐらいしか数えられなかったことを考えれば、不治の病にかかっている女性の状態が、どのようにみじめなものであったか想像がつくことでしょう。もう18年間も、その女性は、病の霊につかれ、腰が曲がって全然伸ばすことができませんでした。疑いもなく、彼女は長い間、薬の助けを求めたはずです。医者から医者へと渡り歩いたでしょう。けれどますますひどくなる一方でした。その状態は、「いやし」と「大いなる解放」の日が来るまで続きました。
けれども彼女は、イエス様を通して、一瞬にしていやされ解放されたのです。イエス様は彼女に向かって、「あなたが長年の束縛から解放されることは、最高にすばらしい時ではありませんか」と言われたのです。彼女は18年の間、病気でした。18年の間、みじめで救いのない状態でした。18年の間、人殺しのサタンによって束縛されていたのです。彼女は、外面的にも、内面的にも健康になるべきであり、「自由」の身となるべきでした。悪魔はもはや、これ以上長く、勝利を治めることは許されないはずです。
この問い、すなわち、「束縛されて悪魔の支配下におかれている状態から、解放されることは、あなたにとって最高の時ではないでしょうか」という質問は、私たちにも、当てはまるのではないでしょうか。
私たちは、さらに、束縛された者として、留まりたいのでしょうか。
私たちの信仰生活は、霊的に見た場合、依然として失敗であるべきなのでしょうか。
救われる時、すなわち罪の債務の赦しを、イエス様の御手から受ける時は、今です。しかも、今日です。すべての信じる者にとっても、イエス様によって「解放」していただく、「自由」になる時も、今です。しかも、今日です。
大いなる解放者であるイエス様は、あらゆる束縛から私たちを解き放ち、あらゆるみじめさから、解放して下さるのです。イエス様は、あふれるばかりの喜びを与えて下さるのです。生ける主なる神、奇跡を行なわれる主が、称賛され、栄光をお受けになるために、私たちが真実をもって貢献するために、あふれるばかりの祝福が用意されています。イエス様に出会って、イエス様の恵みによって受け入れられた人々は、自分の名前が、「小羊の書」に記されていること、そして、イエス様の贖いのみわざにもとづいて、自分たちが、義とされ、良しとされて、永久的に受け入れられていることを知っています。
けれど、至るところに、精神的な病人、病の霊につかれている信者がいます。その人たちの状態は、勝利と敗北の繰り返しです。確かに彼らは、罪が赦されていることを証しますけれど、日常生活においては、何一つ、勝利について知りません。彼らは、「罪の債務」から解放されていることを知っているけれど、「罪の力」から解放されることについては、何一つ、知りません。このような状態が、多くの人にもう何年も続いているということは、悲劇なのではないでしょうか。
「主は本当に解放することがおできになるのでしょうか」
このことについて、何の疑いもありませんけれど、私たちは、何としばしば、罪、自我、悪魔によって、束縛されていることでしょうか。多くの信者が、不親切で、ねたみ深く、訓練されておらず、自己中心で、不誠実であり、疑いと、恐れと、不安によって束縛され、主のために奉仕する自由がないという状態の、原因は何でしょうか。
悪魔によって、束縛されているのです。けれども、主は本当に自由にすることがおできになるのでしょうか。あらゆる束縛から解き放つ主の力は充分なのでしょうか。慢性的な束縛が存在します。そして多くの人が、本当に自由になることができるという希望を放棄しました。私たちは、主に栄光を帰することをしないという習慣を持っているかもしれません。主は、あらゆる壁を打ち壊し、束縛されている状態から解放することがおできになるのでしょうか。ここに出てくる、婦人の「いやし」は、私たちの「主は、おできになる!」ということの、証明です。また私たちはここで、主イエス様が、どのようにして、「いやし」と「解放」をお与えになったかをも、経験することができます。
ルカは、イエス様がどのようにして安息日に会堂で福音を宣べ伝え、この病の女から目を離されなかったかを述べています。けれど主は、ただ単にこの女のみじめさと、希望のない状態だけをご覧になったのではありません。イエス様はこの女を、みもとに呼び寄せられたのです。これは常になさる主の方法なのではないでしょうか。イエス様はいかなる倫理学をも与えず、また、人間がいかにして自分の力でゆっくりと自分を解放すべきであるかという処方箋も、何一つお与えになりませんでした。イエス様は、みもとに呼び寄せられるのであります。マタイ伝11章28節に、
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。」
とあります。「キリスト教に入れ」ではないし、「教会に行け」ではない。ただ、「わたしのところに来なさい。わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」。イエス様は間違いなく、永久的に受け入れて下さいます。
イエス様は、私たちをもご覧になります。イエス様は、私たちに何が欠けているかを、もちろんご存知です。イエス様は、隠された罪すべてを、ご存知です。どんなちっぽけな不真実、不純、愛のない状態をもご存知ですけれども、イエス様は、私たちの悩みと、本当の姿をご覧になるだけではありません。イエス様は、私たちにも呼びかけて、呼んでおられます。一人一人を待っておられるのです。イエス様は、私たちが逃げることをやめるまで、待っておられます。私たちが、もはや隠したり、言い繕ったりしたいと思わないようになるまで、待っておられます。私たちが、そのままの状態で、イエス様のみもとに来るのを、待っておられるのです。そして、イエス様のみもとに来る人は、必ず元気になり、救われ、解放されます。私たちはみな、この、「主の大いなる解放」を経験すべきです。
それでは、これから2つのことについて考えましょう。
1. この婦人がおかれていた、絶望的な状態について
2. この婦人が解放を経験した、「道」について
1.この婦人がおかれていた、絶望的な状態について
この婦人の絶望的な状態を、私たちはほとんど想像することができません。確かに、彼女は、この会堂の中で最もかわいそうな人でした。こんにちも、礼拝や、学び会に来る時、内面的に打ちのめされている信者がいます。なぜなら、その人たちの日常生活は失敗であり、主のご栄光を現わすのに役に立たないからです。この婦人もそういう気持ちを持っていたのではないでしょうか。彼女はただ単に、外面的に腰が曲がっていて伸ばすことができなかっただけではなく、内面的にも治る希望が全然なかったのです。ですからみじめな気持ちになり、喜びも、力もなかったのです。けれども、イエス様は彼女をご覧になりました。ルカ伝13章11節です。
すると、そこに十八年も病の霊につかれ、腰が曲がって、全然伸ばすことのできない
女がいた。
16節。
「この女はアブラハムの娘なのです。それを十八年もの間サタンが縛っていたのです。」
ここで、この婦人について、5つのことが述べられています。
@ 彼女は、「アブラハムの娘」でした。
A 彼女は、病の霊、弱さの霊を持っていたのです。
B 彼女は、この状態で、もうすでに18年も経っていました。
C 彼女は、自分で自分を治すことが全然できなかったのです。
D 彼女は、解放されることを切に望んでいたのです。
@ 彼女は、「アブラハムの娘」でした。
「アブラハムの娘」ということは、彼女が神の民に属していることです。従って、主を信じる者でした。彼女は、自分の運命によって心をかたくなにせず、信じる者の交わりを求めていたのです。いくら家にこもっても、自分で考えても何にもならないと、彼女ははっきり分かったのです。彼女は、神のみことばだけが、慰めを与え、希望を与えるものであることが分かったのです。もちろん、自分で聖書を持っていなかったし、読む力も持っていなかったでしょう。けれども、会堂に行くと、みことばが読まれるから、みことばを聞くことが出来るから、「みことばは元気のもとである」と彼女は分かったから、出かけたのです。ただただ、「みことばだけが、励ましを、慰めを、希望を与えるものである」と、彼女は確信したのです。そして、出かけたのです。
こんにちも、忠実に集会に来ている信者がいます。けれどもその人たちは、来た時と同じ状態、すなわち何一つ変わらず、悲しんだまま、内面的に病気の状態で帰っていきます。信じる者でありながら、束縛されているのです。そしてそういうことはあり得ることです。私たちの生活の中で、私たちを動かし、支配しているものは、いったい何なのでしょうか。そのことを静かに考えようではありませんか。
A この婦人は、病の霊、弱さの霊を持っていました。
彼女は腰が曲がっていました。そして聖書は、それが普通の身体の病気ではなく、サタン、悪魔の仕業であったと言っています。悪魔が彼女を束縛していたのです。彼女は悪魔によって支配され、動かされていたのです。もちろん、美しさとか、優雅さとかは、すべてなくなっていました。確かに、彼女は腰が曲がっていましたので、人は、彼女の顔を見ることができませんでしたし、たとえ見ることができたとしても、あまりにも深い悲しみの表情に驚いたに違いありません。彼女は腰が曲がっていたので、実際には地面だけしか見ることができなかったのです。
あらゆる、自己中心、自己追求の信者の一つの姿が、そこにありました。自分自身のことだけしか考えない人は、霊的な「かたわ」になります。私たちの最大の敵は、「自分」なのではないでしょうか。尊敬されたいと思う「自我」なのではないでしょうか。
この婦人は18年の間、自分の身体の状態のことばかりを考えて思い煩い、自由で健康になる道はあるのだろうかと、自問していたでしょう。多くの信じる者は、自分の霊的な状態について問います。「どうしたら、自由になり、霊的に健康になれるのか」と。
B 彼女は、この状態で、すでに18年も経っていました。
18年前に彼女は悪魔の攻撃の的になったのです。彼女は悪魔に負けて、それ以来、悪魔の力と、悪魔の独裁のもとにおかれていたのです。しかも18年間です。私たちは、自分の状態のことで、もうどうにもならないと、見離してしまっているかもしれません。それだけではなく、他の人についても、どうすることも出来ないと思っているかもしれません。しかし、私たちは、自分の状態について、よく考えるべきなのではないでしょうか。
・18年間、私たちは、怒りやすかった。そして、こんにち、大して良くなっていない。
・18年間、私たちは、信頼できなかった。そして、こんにち、大して変わっていない。
・18年間、私たちは、不信感を持って、批判的でした。そして、こんにち、状態は大し
て良くなっていません。
・18年間、私たちと、一緒に生活することは、難しいことでした。そして、こんにち、
状態は大して良くなっていません。
・18年間、私たちは、密かな罪を犯していました。そして、こんにちも、状態は大して
良くなっていません。
勝利の人生には、決して到達しませんでした。私たちの自我が、主の働きに逆らいました。
自己否定が少なければ、イエス様のいのちも、ほんの少ししか現われません。十字架の道からはずれてしまうと、よみがえりの力を経験することはほとんどありません。
C 彼女は、腰をまっすぐにしたり、自分自身を解放したりすることが、全然できませんでした。
腰をまっすぐにすることは、疑いもなく彼女の切なる願いでした。しかしあらゆる試みは失敗しました。あらゆる試みの際に、自分の無力さが表われました。実際どうすることもできなかったのです。
確かに、私たちもまた、みこころにかなう生活をしたいと試み、何度も失敗をしたのではないでしょうか。また私たちは、主にいろいろな約束をしましたけれども、何度も同じ罪に陥ってしまったのです。人は罪を犯し、赦してもらいます。そしてまた、人は罪を犯し、もう一度赦してもらいます。たえず、上がったり、下がったりしていくのです。
D 彼女は、解放されることを切に願いました。
それが、彼女の願いであったということを、私たちはどうして知っているのでしょうか。なぜならば、彼女は、イエス様が彼女をお呼びになった時、瞬間的に反応し、答えたからです。「自由になる」そのことは、彼女の心からの叫びでした。私たちも、誰もが、「本当に自由でありたい」という切なる願いを持っています。悪魔に縛られている者は、決して、決して幸せではありません。けれど、どうすれば、解放されるのでしょうか。どうすれば、私たちは、「主の大いなる解放」を経験できるのでしょうか。
この婦人の「いやし」は、この問いに対する答えを与えてくれます。ここでは、いろいろなことが、ルカによって、正確に書き記されています。
2、この婦人が解放を経験した、「道」について
私たちは、主がどのような力でこの束縛された婦人を解放されたか、また、完全な解放という奇跡を、どのように行なわれたのかを知ることができます。
ここでもまた、私たちは、5つのことから考えてみることができると思います。
@ 彼女は、イエス様のみもとに来ました。確かに彼女は主の御足もとにひれ伏しました。
A 彼女は、主の声、すなわち、全く大いなる力のことばを聞きました。
B 彼女は、主の御手を感じ、それによってイエス様が何かをなそうとしておられることを知りました。
C 彼女は、創造的な行ないとして、主の行ないを経験したのです。
D 彼女は、主を拝みました。
@ 彼女は、イエス様のみもとに来ました。
主イエス様は、彼女をご覧になったとき、彼女を呼び寄せられました。イエス様のみ声を聞いたとき、彼女は惹かれるように、イエス様のところに行きました。イエス様は、彼女に対して、無関心ではおられなかったのです。イエス様がお呼びになる時にはいつも、はっきりとした目標があります。イエス様は、人間が心を開いて、主のところに来ることを望んでおられます。そしてこの婦人は、このことを行ないました。婦人は、主のところへ行き、御足もとにひれ伏しました。期待に満ちて、希望に満ちて、信仰に満ちて、来たのです。疑いもなく、この瞬間に、全くの静けさがあたりを支配しました。すべての目は、イエス様に向けられました。イエス様は、何をされるのでしょうか。イエス様は、どのようにしてご栄光を現わされるのでしょうか。イエス様は、どのようにしてこの婦人の信仰に報いられるのでしょうか。
人間は、腰が曲がっていて、悪魔に束縛されていながらも、イエス様のみ声を聞いて、イエス様の「わたしのところに来なさい」という招きに従う時、大いなることが起こります。おそらくあなたもまた、罪によって、債務によって、不安によって、疑いによって、内面的に重い気持ちになっているかもしれない。けれど、イエス様が呼んでおられるということを、知ってもらいたいのです。
イエス様が、この婦人をお呼びになった時、すべての目は、彼女の上に向けられたでしょう。彼女は何をするのでしょうか。彼女は依然として群衆の中に隠れていようとは思いませんでした。彼女は、イエス様のところに行くために、前へ出ていく決心をしました。彼女は、ただ単に、主のところに行く決心をしただけではなく、実際に行き、主の御足もとにひれ伏しました。主の御足もとにひれ伏すことは、最も大切なのではないでしょうか。主の御前にひれ伏す者は、間違いなく元気になります。主を知るようになります。そして、主を知ることこそが、最も大切です。
悩みがたとえどのようなものであろうとも、イエス様のところに行きましょう。たとえ何が自分を束縛し捕らえていようとも、イエス様のところに行きましょう。イエス様のところには助けがあり、救いがあり、解放があります。
主の御足もとにひれ伏す者は、もはや、自分を大切にせず、目立ちたがらず、役割を演じたいとも思いません。主の御足もとにひれ伏す者は、徹底的に打ち砕かれ、すべてを、光の中に出す備えができています。主の御足もとにひれ伏す者は、主の約束の真理を経験します。すなわち、へりくだった者は、受け入れられます。へりくだった者に恵みが与えられるのです。
A 彼女は、主のみ声を聞きました。全く偉大な力のみことばでした。
ルカ伝13章12節
「あなたの病気はいやされました。」
「あなたの病気はいやされました」と、イエス様はその女に言われたのです。この婦人は、主イエス様のこのみことばを聞いた時、主が彼女を解放したいと望んでおられ、それがおできになるということを、知りました。けれども主は、ただ単にこの婦人を解放したいと思われただけではなく、主の働きの妨げとなっているあらゆる束縛から、私たちをも自由にしたいと望んでおられます。いったいどうして、私たちはそのことを知ることができるのでしょうか。なぜなら、私たちは主のみことばの中に、そのためのはっきりとした言い表わしを知ることができるのです。そしてまた、主の恵みがすべての罪の力よりも偉大で、あらゆる罪から洗い清める主の血潮が流されたからです。ちょっと、3つのみことばを引用したいと思います。
マタイ伝1章21節。 天のみ使いが言われたみことばです。
「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」
主イエス様とは、一時的な問題を解決することよりも、あらゆる問題を根本的に解決して下さるお方です。イエス様とは、罪から人間を救うお方です。イエス様だけしか、人間の罪を赦すことがおできにならない。なぜならば、私たちの代わりに、罪ほろぼしのために犠牲になられたからです。ローマ人への手紙8章37節です。277ページ。非常に短い文章ですけれども、パウロはローマにいる兄弟姉妹に次のように書いたのです。
ローマ書8章37節。
私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、
圧倒的な勝利者となるのです。
「圧倒的な勝利者」となることこそが、主のお約束です。主は、私たちのために死んで下さり、私たちのためによみがえられ、私たちのために全能なる主の右の座に高く上げられました。それは、私たちが、私たちを愛してくださるイエス様によって、圧倒的な勝利者となるためです。
もう一箇所、ヘブル人への手紙の7章25節です。396ページです。
ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも
生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。
これら3つのみことばは、「勝利の生活のために、贖われ、解放されることが可能である」
ということを、私たちに約束してくれます。そしてまさにそのことを、この婦人が経験し
ました。彼女が、イエス様の御足もとにひれ伏した時、彼女は、「あなたの病気はいやされ
た」という、主のみことばを聞きました。それは、主が、「罪はもはやあなたを支配しない」
とおっしゃったのと同じ意味を含んでいます。
また、御子主イエス様が自由にされる者は、完全に自由です。「わたしはあなたを完全に
自由にする」という意味をも含んでいます。御子が自由にされる者は、完全に自由である。本当に自由であるということは、完全に自由であるということ、そして、罪の支配から
解放されているということを意味します。主はこの婦人に、まことの解放を約束して下さ
ったのです。
私たちは、今までに次のことをみてきました。
@ 婦人がイエス様のところに来て、イエス様の御足もとにひれ伏し、
A 彼女は、「あなたの病気はいやされました。」という、全く偉大な力のみことばである主のみ声を聞きました。
そして、
B 彼女は、主の御手を感じました。
ルカ伝13章13節に、
手を置かれると、女はたちどころに腰が伸びて、神をあがめた。
と、書いてあります。主が彼女にさわられた時、彼女は主のいのち、主の力の何かを感じました。彼女はそのことによって自由になりました。主が私たちのうちに、私たちの上に御手をおかれると、私たちは自由になり、もはや前とは同じ人間でなくなります。
イエス様の御手がらい病人にさわった時、そのらい病人はらい病から解放されました。
イエス様の御手がつんぼにさわった時、彼は聞くことが出来るようになりました。
イエス様の御手が盲人にさわった時、その盲人は見えるようになりました。
イエス様と接触する者は、イエス様があらゆる束縛と、情欲から完全に解放して下さることを経験します。私たちはしばしば集会の中で、イエス様がいかに人の心を造りかえて、新しくして下さるかを経験します。何の逃れ道をも見出すことのできなかった人たちが、こんにち、生き生きとした希望で満たされています。以前はただ自分のことしか考えなかった人々が、こんにち、「イエス様のために生きたい!」という、ただ一つの切なる願いを持っています。乱れた姦淫の中で生活していた人々が、こんにち、主の恵みの偉大さを示す者となっています。イエス様によって、「さわられる」ということは、なんという大いなることでしょうか。イエス様は、全く新しい者が創造されるため、生活の中で全く新しい変化が生じるようにと、私たちにも接触したいと願っておられます。
C 彼女は、創造的な行ないとして、主の行ないを経験しました。
「主が手を置かれると、女はたちどころに腰が伸びた」とあります。私たちの主が行なわれることは、創造的な行ないです。主が命令されると、すぐその通りになります。
詩篇の作者は、33篇の9節で次のように言ったのです。
まことに、主が仰せられると、そのようになり、主が命じられると、それは堅く立つ。
天地を創造された主、私たちの身体をもお造りになった主、その主が、彼女の上に御
手を置かれると、大いなることが起こったのです。
詩篇の作者は、146篇8節に次のように書いたのです。
主はかがんでいる者を起こされる。
「主はかがんでいる者を起こされる」。悪魔によって束縛され、腰が曲がり、まっすぐに
なることが出来なかった婦人が、まっすぐになったと記されています。
こんにち、最も必要とされ、第一に求められている人は、まっすぐな人、純粋で、誠実で、正直な人です。そして、光の中を歩み、すき通っていて、その動機が純粋な人たちが求められています。腰の曲がった人がまっすぐになりました。彼女は、自分ではまっすぐになれませんでした。全く不可能だったのです。私たちもまた、自分の力ではイエス様に似た生活をすることが絶対に出来ないのとちょうど同じように、全く不可能だったのです。それは、主がなさること、主のいのちの働き以外の何ものでもありませんでした。
D 主の行ないを経験する者は、礼拝せざるを得ません。
「女は、まっすぐになり、神をほめたたえた」とあります。悪魔に束縛され、自分の情欲に縛られている人は、決して神をあがめることはできません。暗闇の中の人生は、決して主のご栄光のために、役に立ちません。自己中心の生活は主の御名を汚します。「主が手を置かれると、女はたちどころに腰が伸びて、神をあがめた」。
私たちもまた、このすばらしい解放、すなわち、この婦人が経験することを許された解放を経験しようではないでしょうか。主の大いなる解放を経験することは、もちろん可能です。というのは、主は、昨日も今日もいつまでも、変わらないお方であるからです。
この婦人は、主によってまっすぐになりました。そして、解放されたのです。私たちの主は、私たちのすべての生活の中で、悪魔に束縛されていた婦人に主がなさった奇跡を、今も行なうことができると、待っておられるのです。
・私たちは、主のみ声に耳をかたむける備えが出来ているのでしょうか。
・私たちは、主の御手にさわっていただく、備えが出来ているのでしょうか。
・私たちは、あらゆる悩みをもって、主のみもとに行く備えが出来ているのでしょうか。
その時、主は必ず答えて下さいます。私たちは、主の創造的な行ないを経験し、自由になり、本当に解放されます。
私たちは、もはや罪に仕える必要はありません。
私たちは、もはや自分の自我の奴隷となっている必要はありません。
私たちは、もはや悪魔の奴隷になっている必要はありません。
私たちはありのままの状態で、主イエス様のところへ行き、主の御足もとにひれ伏し、主に心を打ち明けることが出来れば、奇跡を経験します。また、ダビデのように祈りたいものです。最後に、よく知られている箇所ですけれど、詩篇139篇23節・24節をお読みします。
神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。
私たちは、私たちに語られた主のみことばに拠り頼み、私たちのために、刺し通された
主の御手を感じ、これ以上、悪魔の奴隷でありたくないと、切に望むことが出来れば、主は必ず恵んでくださるのです。
私たちは、いのちを与えてくださる主のみことばの力を、経験したいものです。それは、霊とまことによって、真心から主を礼拝出来るためです。
しかも、私たちの主は奇跡を行なわれます。主は、「解放されたい!」という、私たちの心からの言い表わしを待っておられるのです。
了
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