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メ ッ セ ー ジ ・ 証 し 集


みことばのすべてはまことです
   
2003.6. 3(火)
ベック兄メッセージ(メモ)

引用聖句
 詩篇119篇144節
   あなたのさとしは、とこしえに義です。
  私に悟りを与えて、私を生かしてください。

  
 同 119篇152節
   私は昔から、あなたのあかしで知っています。
  あなたはとこしえからこれを定めておられることを。

 ヨハネ伝17章17節
  「真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。」

 第Tテモテ3章16節
   確かに偉大なのはこの敬虔の奥義です。「キリストは肉において現われ、霊において義
  と宣言され、御使いたちに見られ、諸国民の間に宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光
  のうちに上げられた。」


先週のいつでしたか、ある奥さんから電話があって、色々なことを尋ねられたのです。その奥さんは、教会でいわゆる洗礼準備会に出て、長く勉強した結果として、2週間後に洗礼を受けるようになったことを、決められたのです。けれど、ある横浜の姉妹から青柳兄弟の書かれた本をもらって、感銘を受け、色々な質問が出てきたそうです。電話で話をしている間に、一つのことが明らかになったのです。聖書の知識はあったけれど、彼女は喜びをご存知なかった。なぜなら、はっきりとした確信がないからです。この前の日曜日、彼女はここまで来られたらしい。そして今週の金曜日に、初めて会うようになりますので、祈りの中で覚えていてください。

 確信を持つこと、救われることとは、いったいどうしたらいいのでしょうか。たしかに、ある人にとっては、確信を持つこと、救われることは難しいだけではなく、不可能なことです。何の悩みも苦しみもなければ、自分は大丈夫OKだと思えば、全くその望みがないと、イエス様は言われました。
 良く知られているたとえ話の中で、イエス様は次のように話されました。皆さん、暗記している箇所ですが、ルカ伝18章9節から
   自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのような
  たとえを話された。「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もう
  ひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私は
  ほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようで
  はないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の
  一をささげております。』ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、
  自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』あなたがた
  に言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜな
  ら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

「自分は義人だと自任し」とは、自分はOKだと自任することです。
聖書の言わんとしていることは、最後の文章です。自分を高くする者が低くされ、自分を低くする者が高くされるのです。立派な聖書学者は、毎週、主を喜ばせるために二回断食しましたし、聖書を徹底的に研究しましたし、疑わずに信じましたし、十分の一を献金しましたし、道徳的に高い生活を送ったけれど、救われていなかった。全部、無駄でした。取税人は、ひとこと祈って救われました。「こんな罪人の私をあわれんでください」と。救われることは簡単です。
 青柳兄の本はこういうふうに用いられましたし、イエス様を紹介したいので集会の本をもっともっと沢山使ってもらいたい。数えられないほど多くの人が、集会の本を通して導かれたのは、信じられないけれど、本当なのです。
 この間の日曜日、高知で葬儀があったのですけれど、集まった人たちはみな、『私たちの国籍は天にあります』という、重田兄の本をもらって帰ったのです。この本を通しても、主が導くことがおできになりますように祈って下さい。集会の雑誌である、新しい『主は生きておられる』も、今日か明日かには出るようになりますから使ってください。伝道の為に作っているものです。伝道の為にもっともっと使ってもらいたいので、値段を下げました。150円だったけれど100円です。その金額では印刷できないけれど、まあそれでもいいのではないですか。一人一人の魂はもっともっと大切ではないかと、思います。

 結局、みことばこそが元気のもとです。「聖書を勉強しなくてはいけない。頭の知識を持つべきである」という考え方は、宗教的な考え方で、主の思いは違います。助けを求めれば、へりくだれば、主は大いに恵んでくださいます。3千年前にダビデはわかったのです。
詩篇119篇の160節。
   みことばのすべてはまことです。あなたの義のさばきはことごとく、とこしえに至ります。

みことばは真理そのものです。主のみことばが絶対的真理であると、ダビデは確信したから、彼はみこころにかなう人になったのです。
主のみことばは、主ご自身と全く同じように大切であり、絶対的真理です。それですから、私たちはみことばに信頼できるのです。主のみことばは、それが語られたとき真理でした。そして、その主のみことばは、歴史の流れにおいて、真理であると判明しました。私たちが主のものとなった時、私たちはみことばを真理として受け取ったのです。そして、永遠にわたって、みことばは真理として経験されるに違いありません。
同じく、詩篇119篇144節で、ダビデは次のように言っています。
   あなたのさとしは、とこしえに義です。私に悟りを与えて、私を生かしてください。

152節。
   私は昔から、あなたのあかしで知っています。あなたはとこしえからこれを定めて
  おられることを。

主イエス様によって救われた者はだれでも、次のように告白できます。「みことばのすべ
てはまことです。あなたの義のさばきは、ことごとくとこしえに至ります」と。
このみことばは、聖書全体にあてはまるものです。というのは、聖書は主のことばであり、主のことばは真理であるからです。創世記から黙示録に至るまで、すべては主ご自身の啓示によって与えられたものです。ですから、間違いがなく、改正される必要がなく、とこしえに働く真理です。不確実のこの世界において、聖書は、絶対的な権威をもって、私たちがどうしても知らなければならない事がらについて語っています。

・私は、聖書を、永遠に働く真理として受け入れなかったならば、決して救いの確信を持つことができなかったでしょう。
・私は、聖書を、永遠に働く真理として受け取らなかったら、決して日本に来ることはなかったでしょう。
・私は、聖書を、永遠に働く真理として受け入れなかったならば、神のみことばについて喜んで語ることが決してできません。

聖書は主の啓示そのものです。聖書は、主が如何なるお方であるか、何をなさったか、何をなさりたいと願っておられるかを、私たちに告げているものです。
・主の啓示がなければ、私たちは信仰の土台を持つことができなかったでしょうし、私たちの生活の基準や、死後の世界についての確信も持つことができなかったでしょう。
・主の啓示がなかったならば、私たちは試練や攻撃にあって混乱し駄目になってしまったことでしょう。
・主の啓示がなければ、私たちは何の希望もなく、悩みと孤独の中にいたことでしょう。
・主の啓示がなければ、私たちは多くの問題に対して助けもなく、希望を失ってしまったことでしょう。そして、又私たちは、死に対して如何に準備すべきか、わからなかったでしょう。

けれど、主の啓示としての聖書は、私たちが確実な歩みをすることができるように、明確さと光とを私たちに与えてくれました。
前に読みましたテモテ第Uの手紙3章16節に、次のように書いてあります。
   聖書はすべて、神の霊感によるもので、…
 
「すべて」です。
私たちは、聖書が神のみことばとして、永遠に働く真理として信じられ、受け入れられるとき、私たちの世界が如何に違ったものに見えるかを、考えたことがあるでしょうか。
すべての政治家が、聖書のことばを神のことばとして信じ、それに従って行動したならば、多くの問題はすぐに解決したことでしょう。彼らが、神のみことばを守り、あらゆる知恵の神に信頼し、全能者が彼らの助けとなられれば、私たちの世界は別のものとなったでしょう。誰もが、神のみことばを絶対的真理であると確信するなら、考えてみてください。その結果は、主の戒めを成就し、唯一の主の御名をあがめるという願いが存在することになるでしょう。その結果犯罪は減少し、確固として規範が再び存在するようになり、人間は何が真理で正しいかを知るようになるでしょう。したがって、神のみことばによって、ご自身を啓示なさった主と主のみことばを、人間が退け否定するとは何という悲劇でしょうか。

あらゆる人から、評価され、尊敬され、立派な生活を送っていた老夫婦が、イエス様を知る人によって集会に招待されました。彼は初めて聖書の福音をはっきりと聞き、非常に驚きましたので、家に帰ると妻に言いました。「私たちが今まで一度も聖書に取り組まなかったことは、間違いだったと思う。今から私たちは毎晩聖書を読みましょう」。老夫婦は、規則正しく聖書を読みました。2、3日してから、夫は妻に言いました。「私は、聖書が真理であるとすれば、私たちは罪人であると思うようになった」。妻もうなづいて、「私も、そう思います」と言いました。彼らは聖書を読み続け、2、3日後に、夫は言いました。「私は、聖書が真理を言っているならば、私たちはただ単に罪人であるだけではなく、失われている者であると思う」。妻は答えました。「私も、私たちは失われた者だと思います。というのは、聖書がそう言っているからです」。彼らは心に動揺をおぼえ、惨めな思いで寝ました。しかし、彼らが聖書を読み続けた2日後に、夫は大声で言いました。「聖書が真理であるならば、私たちが主イエス様を、私たちの救い主として受け入れるならば、私たちは救われる可能性がある」。妻は喜んで言いました。「あなたがそう言ってくれるのは、何という感謝でしょう。というのは、私もまた、救っていただけると信じているからです」。そして、二人はひざまずき、イエス様に自分たちの不信仰を告白し、「主が心の中に入ってくださり、罪を赦してくださるように」と、主に頼みました。翌日、彼らが再び聖書を読んだ後、夫は顔を輝かせながら言いました。「聖書が真理であるなら、私たちは救われています」。妻は喜んで夫に同意し、次のように言いました。「その通りです。聖書が真理であるならば、私たちは救われているのです」。
この夫婦の経験は、「誰でも、何処でも、救いの確信に至ることができる」ことを、私たちに示しています。

ここで、この四つの発見をもう少し詳しく見てみたいと思います。
1、「聖書が真理であるなら、人間は罪人である」ということです。
夫婦のこの最初の発見は大変なものでした。それ以前、彼らは立派な生活をしようとしました。しかし今や彼らは、「私たちは罪人である」という発見をしたのです。多くの人は、もともと真面目で、何一つ悪口を言われずに生活しています。彼らは、主が本来の自分たちに満足していらっしゃるだろうと確信して、生活しています。けれど、主のみことばの鏡によって、人間は誰でも、主の聖なる目から見れば罪人であり、救い主を必要としていることがわかります。聖書が真理であるならば、人間は誰でも罪人です。
ローマ人への手紙3章10節を見ると、次のように書かれています。269ページです。
  「義人はいない。ひとりもいない。」

 同じく3章12節。
  「すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。」

 23節。
   すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、…

「ひとりもいない」。「すべて」、「みな」、「すべて」そういう言葉がでてきます。
 問題になっているのが大統領であろうが、乞食であろうが、金持ちであろうが、貧乏人であろうが、若者であろうが、年寄りであろうが、教養のある人であろうが、教養のない人であろうが、かまいません。
 主のみことばは次のように言っています。旧約聖書の1018ページになりますけれど、伝道者の書7章20節。同じ真理が3千年前に書かれたのであります。
   この地上には、善を行ない、罪を犯さない正しい人はひとりもいないから。

 聖書は、私たちが、「罪の中に生まれた」と言っています。良く知られているローマ書の5章12節です。
   そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、
  こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したから
  です。

ダビデ王は、詩篇51篇5節に書いています。
   ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。

人間は、罪を犯すから罪人になるのではない。逆です。罪人として生まれるから、罪を犯
すのです。
 エレミヤ記17章9節に、
   人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。

 だから、立派にならなければならない。努力してクリスチャンらしい生活を送るように
と要求するのは、間違いです。人間にはできません。だから、助け手を、自分より勝って
大いなる方に頼らなければお終いです。
 私たちは、自分の心を知っているのでしょうか。それは主の目から見れば、陰険で直ら
ないものです。私たちはみな、ペテロとともに次のように叫ばざるを得ないのではないで
しょうか。
 ルカ伝5章8節。
  「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」

私たちもまた、次のように告白すべき放蕩息子なのです。
 ルカ伝15章21節。
  「私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私はあなたの子と
  呼ばれる資格はありません。」

 聖書が真理であるならば、私たちは罪人であります。このことを私たちは見てきました。

2、「聖書が真理であるならば、私たちは失われている」ということです。
私たちは罪人であるだけではなく、助けも望みもなく失われている者です。というのは、罪は私たちを生ける神から隔ててしまうからです。この隔ての壁について、イザヤは次のように書いたのです。イザヤ書59章2節。1121ページです。
   あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪
  が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。

 生ける唯一のまことの神は、聖なるお方です。
同じくイザヤ書53章6節を見ても、次のように書かれています。ここにもまた、「おのお
の」という言葉が出てきます。
   私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。

「罪とは何でしょうか」と尋ねるなら、ここでは次のように、はっきり表現されています。
・自分の道を行くこと。
・自分の意思を持ちたいと思うこと。
・主の道と主のみこころを尋ね求めたくないと思うこと。

これこそ罪です。これは聖なる神に対する反逆です。
主の判断は、「すべての人間が自分の道を行き…」。したがってすべての人間は罪人である。しかも、失われた罪人なのです。というのは、「罪」と「主」とは、お互いに並存できないからです。これこそ、ローマ書6章23節におけるみことばの意味です。
   罪から来る報酬は死です。

死とは、神からの分離を意味します。罪は、人間を神から分離します。神から離れてし
まった人間は失われているのです。「生ける神との交わりを持たない人、聖なる神と一つになって生活していない人、喜んで、主のご臨在の中に入っていくことができない人は、失われている」と、聖書は言っているのです。

 あるとき、小さな坊やが、デパートの中で迷子になってしまいました。一人の警官が、
その子を交番に連れて行きました。その子はあまり疲れていたので、すぐに眠り込んでし
まいました。他の警官が、その眠っている子を見て聞きました。「この子はここで何をして
いるの?」すると、もう一人の警官が「静かに! 起こしたらいけない。この子は迷子に
なってしまったけれど、それをまだ知らない」と答えたそうです。人間の状態とは、だい
たい、そのようなのではないでしょうか。
ですからイザヤ書53章6節に、
   私たちはみな、羊のようにさまよい、…

とあります。迷子になってしまったのです。

 あなたは自分がさまよっており、失われていることをご存知なのでしょうか。イエス様
をまだご自分の救い主として受け入れておられないならば、間違った道を歩んでいるので
あり、失われているのです。真理である神のみことばは、このことをはっきりと言ってい
ます。「失われている」ということは、「さまよっている」ということであり、天国に入る
可能性を持たないこと。生ける神にとって無価値であること。また、人間の社会のために
も役に立たないことを意味しているのです。失われている人は、救われておらず、きわめ
て危険な状態におかれています。もしこの状態に留まるならば、失われていることになり
ます。

主のみことばである聖書がはっきり言っていることは、人間は誰でも、罪人であるだけではなく、霊的に見ると失われている状態におかれているということです。主のみことばによって、「私は失われている」ということを認識する人は、したがって幸いです。というのは、このことを認識し、告白する人だけが、救われ得るからです。

3、「聖書が真理であるならば、私は救われる」ということです。
これは主の恵みの喜ばしいおとずれです。主の愛の福音そのものです。失われた者は、救われ得るのです。聖書全体は、「失われた罪人は救われ得る」という約束を、何度もしております。救われたいと思う者は、救われ得るのです。
聖書の中で、何度も同じことが書かれています。
イザヤ書45章22節。
   地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。
  ほかにはいない。

マタイ9章13節。
  「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

ルカ19章10節。
  「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」

ヨハネ3章16節。
   神は、実にそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者
  が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

ヨハネ5章24節。
  「わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、
  さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」

ヨハネ10章9節。 
  「わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに
  出入りし、牧草を見つけます。」

ローマ書1章16節。
   私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべて
  の人にとって、救いを得させる神の力です。
  

ペテロ第二の手紙3章9節。
   主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるので
  はありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも
  滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

ヨハネの黙示録22章17節。
   御霊も花嫁も言う。「来てください。」これを聞く者は、「来てください。」と言いなさい。
  渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。

                          
これらの聖書の箇所が言っていることは、「だれでも、どこでも、いつでも、どんな状態でも、救われ得る」ということです。「自分が失われた者である」ということを、認識している者は誰でも、イエス様に信頼をおく瞬間に、救われ得るのです。

これこそ、何故私たちが日本に来たかの理由です。というのは、「誰でもが、生けるまことの神によって愛されている」ということを宣べ伝えることほど、偉大なことはないからです。慰めようのない絶望的な状態からも、一つの逃れ道があります。誰でも救われ得るのです。もはや孤独に人生を歩むのではなく、日々、全能なる主のご臨在を経験する可能性は存在するのです。誰でも、イエス様と永遠に時を過ごすことができるようになります。私たちは、もはや、「失われた罪人」ではなく、「救われた罪人」であるということを知るために、誰でも今日、イエス様に信頼をおくことができるとは、何という素晴らしい福音でしょうか。もしこの確信を持っていらっしゃらないならば、今日、それにあずかることができるのです。

最後に一つのことを申し上げたいと思います。
主イエス様を自分の個人的な救い主として受け入れはしたものの、主イエス様が本当に自分を受け入れてくださったという確信を持っていない人々がいます。このような状態は主の栄光に貢献しません。だから、最後に4番目の発見について考えたいと思います。 
4、「聖書が真理であるなら、私たちは救われている」ということです。
あなたは、前に読まれた聖書の箇所をもう一度思い起こすならば、明確な確信が、常に、その導きとなっていることを認識するでしょう。生けるまことの神は、失われた罪人を、主のみもとに導き、主のみことばを信じるように招いておられます。
生ける主は、次のように約束しておられます。「あなたが、わたしに信頼をおくならば、救われ、清められ、赦され、いつも安全にわたしのものとなる」。したがって、失われた罪人として、イエス様のみもとに来て、イエス様を個人的な救い主として受け入れる者は、次のことを知ることが許されています。すなわち、「聖書が真理であるならば、私たちは救われている」。
そして、聖書は真理そのものです。私たちはそのことをつかまえることも、捕らえることもできませんし、決して、それに値しない者です。けれど、聖書が真理であるならば、私たちは救われており、私たちの罪は赦されており、私たちは天国への道を歩んでいるのです。そこに至るまで、主は、私たちに日々、主のために生き、働く力を与えてくださるのです。

私たちが、救われていて、赦されているということは、決して不遜なことではありません。私たちは、単純にみことばによって、生けるまことの主を受け入れるのです。
私たちは、主が私たちに約束されたことを信じます。
私たちは、主が約束されたことを守ってくださるということを知って、喜ぶことができるのです。主が約束してくださったことを疑うことは不遜なことです。

聖書は絶対の真理です。というのは、聖書は主の偽りなきみことばであるからです。

ダビデは、詩篇119篇の160節で、次のように喜んでいたのです。
   みことばのすべてはまことです。
 
私たちはそのために、心から主に感謝しようではありませんか。                                  





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神のみことばは神のみことばである(5) 2006. 4. 18
神のみことばは神のみことばである(4) 2006. 4. 11
神のみことばは神のみことばである(3) 2006. 4. 4
神のみことばは神のみことばである(2) 2006. 3. 21
家族の救い 2006. 3. 19
神のみことばは神のみことばである(1) 2006. 3. 14
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主イエスは神の子キリストである(3) 2006. 2. 28
主イエスは神の子キリストである(2) 2006. 2. 14
主イエスは神の子キリストである(1) 2006. 2. 7
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イエス・キリストのからだ 2006. 1. 17
主の永遠からの予定 2006. 1. 10
元旦メッセージ 2006. 1. 1


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