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メ ッ セ ー ジ ・ 証 し 集


御霊の支配の結果
   
2003.6. 10(火)
ベック兄メッセージ(メモ)

引用聖句
 エペソ人への手紙 5章3節
   あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口に
  することさえいけません。

 同 5章5節
   あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者―これ
  が偶像礼拝者です。――こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができ
  ません。

 同 5章8節から14節
   あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子ども
  らしく歩みなさい。――光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです。――その
  ためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。実を結ばない暗やみのわざに
  仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。なぜなら、彼らがひそかに行なっ
  ていることは、口にするのも恥ずかしいことだからです。けれども、明るみに引き出される
  ものは、みな、光によって明らかにされます。明らかにされたものはみな、光だからです。
  それで、こう言われています。「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。
  そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」

 同 5章18節から21節
   また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。
  詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、
  また賛美しなさい。いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名に
  よって父なる神に感謝しなさい。キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。


 今日は、おもに引用聖句18節の「御霊に満たされなさい」をテーマにして、ご一緒に考えたいと思います。
一昨日は、五旬節だったのです。ドイツのアイドリンゲンでは、いつも四、五千人ぐらい、若者だけが集まるのです。ある時は八千人集まったのです。14歳から30歳までの若者が集まって、どういう結果になったか、ドイツからの報告がまだないのでちょっと分かりませんが、五旬節はあちこちの気候も良いし、非常に大切にされている日であります。まことの教会の誕生日でした。偽物の教会の誕生日、即ち、キリスト教という宗教の誕生日は、316年だったのです。けれど、本物の教会の誕生日は、ずっと前の五旬節でした。
 御霊について考えることは、非常に大切なのではないかと思います。なぜなら、至るところで私たちは、「何か欠けている」という感じを持っている信者たちに出会います。その信者たちは、「勝利の生活を慕い求めているけれど、実際はいつも失敗している」ということを経験しています。けれど、これに対して、神のみことばである聖書は、「勝利の生活」を約束しておられ、そしてまた、「いかなる状況に置かれても、絶えざる喜びを持つことが出来る」とはっきり約束しておられます。私たちは、迫害されたり、誤解されたり、悪口を言われたりすることがあるかもしれません。私たちは、大いに悩んだり、未解決の問題に直面したりすることがあるかもしれません。けれど、聖書は、「どのようなことがあっても、絶えず、まことの平安と心からの喜びを持つことが出来る」と約束しておられます。多くの信者は、「イエス様に出会い、改心を経験した」と告白しますけれど、日常生活は、「喜びがなく、まことの平安を持たず、いかなる勝利をも知らない」と言わざるを得ません。絶えず、上がったり下がったりしているのです。

 イエス様を知るようになった者であっても、罪の奴隷となることも可能です。キリスト者であっても、感情的になり、分別を失うということもあり得ます。また、イエス様を信ずる者であっても、ねたんだり、肉の欲に負けたり、お互いに争い合ったりすることも、可能です。キリスト者は誰でも、「主にある兄弟姉妹を愛すべきである」ということを知っています。そしてまた、「主にある兄弟姉妹のために、自分のいのちを捨てる覚悟をも持つべきである」ということも知っています。よく知られているヨハネ第一の手紙の3章16節に、次のように書かれています。429ページです。深く考えるべきみことばです。
   キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって
  私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべき
  です。

 自分の愛では出来ないことは決まっています。けれども、「主の愛を経験した者として、すべきである」と書かれています。信者たちは誰でも、それだけではなく、「敵をも愛すべきである」ということも、知っています。

 子どもが生まれても成長しないならば、それは周囲の人たちにとって、非常に大きな苦しみであり、重荷です。それと同じように、人間が信仰に導かれても霊的に成長しないで、霊的な赤ちゃんにとどまるならば、それは周囲の者にとっても、大きな悩みであり、重荷です。それは、次のようなことによっても現われてきます。自分が中心にならなければ、すぐに怒ってしまったり、自分の城に閉じこもったりすることがあるのです。集会の中で本当の成長がなければ、集会は知らないうちに律法的になり、まことの成長がなければ、人は傲慢になり、まことの成長がなければ、それは死んだようなものとなり、冷たいものとなります。それは、いったいどうしてなのでしょうか。

 パウロは、今、読んでもらいましたエペソ書5章の中で、病んでいるところを指摘して、明るみに出し、「御霊に満たされなさい」とはっきり言っています。これは、何か提案のようなものではなくて、命令です。「御霊に満たされなさい」。
 私たちは、私たちの主イエス様の十字架を見上げましょう。いばらの冠が主の御頭に置かれました。主の御手と御足は釘で打ち抜かれました。私たちの身代わりとしてイエス様は、私たちの罪のために死んでくださったのです。私たちはみな、生ける聖なる主に対して罪を犯しました。みな、律法を犯しました。そして、「罪の報酬は死である」と、聖書ははっきり言っているのです。私たちの造り主であられる主イエス様は、私たちの代わりに、ご自身の上に罰を引き受ける覚悟をしてくださったのです。父は、私たちのすべての罪の債務を、犠牲のために備えられた神の小羊、即ち、イエス様の上に置いてくださいました。イエス様は、私たちの罪のための贖いであったのであり、イエス様の死は、救いと贖いの代価でもありました。イエス様は、本当に息を引き取られ、死んでくださった後で、葬られたのです。
 けれども、主ご自身のお約束のとおり、主は、3日目によみがえられたのです。よみがえられたお方として、主は、五百何十人の人たちに出会われ、40日目には、弟子たちの目の前で昇天なさった。天に引き上げられるようになったのです。それから、10日経ってから、即ち、主がよみがえられてちょうど50日後に、120人の信者は、イエス様が命令されたように、一箇所に集まりました。ルカ伝の24章を見ると、次のように書かれています。156ページです。49節です。
  「さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。
  あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」

 即ち、「エルサレムから離れてはいけない」ということでした。復活の50日後で、弟子たちは、御約束が成就されたことを経験しました。聖霊は、120人の人たちの中に住まわれるようになったのです。そして、その人たちは、「聖霊の住まい」、「聖霊の宮」となったのです。この五旬節の出来事について、使徒行伝の2章に詳しく書かれています。4節に短く語られています。
   みなが聖霊に満たされ、…

 聖霊の内住と支配を通して、これらの人たちは、根本的に変えられたのです。そして、この五旬節以来、イエス様をご自分の人生に受け入れるすべての人たちは、聖霊をも持つようになるのです。私たちは、聖霊をはっきりと感じることが出来ないでしょう。けれど、私たちは、聖霊の内住を計算に入れて、それを通して、主に喜ばれる生活を営む力を受け取るということが大切なのです。私たちはみな、聖霊が望むような余地を与えなかったでしょう。私たちはみな、私たちの内におられる聖霊を、しばしば悲しませたり、御霊を消してしまったりしたことでしょう。私たちはみな、非常にしばしば御霊に満たされなかったことがあったでしょう。これは、すべての敗北の根拠です。

 いかなる信者も、自分の力で主に喜ばれる生活を営むことは出来ません。ですから、「御霊に満たされなさい」という命令が私たちに当てはまるのです。問題は、「いかにして御霊に満たされることが可能か」ということです。すべての本当のキリスト者の切なる願いは、次のようなものです。「私は、力強さ、愛に満たされたい。私は、私よりも強い力を必要としている。けれど、私は、どうすれば御霊に満たされることが出来るのでしょうか」。
 私たちが御霊について熟慮するならば、「御霊は、いわゆる三位一体の中の一つの人格である」ということを知ることが出来ます。御霊は、父なる神と、御子なるイエス様と同じように、「三位一体」の中の一つの人格です。神は、もちろんただお一人です。けれども、この唯一の神は、三つの人格を通して、ご自身を現わしていてくださるのです。いつも完全なる統一を保って、一緒に働かれるのです。そのことは、とても理解することが出来ないと多くの人は考えます。けれども、私たちが理解出来るか出来ないかは、問題ではありません。聖なる「三位一体」というこの奥義を、理解出来る人間はいないでしょう。永遠の世界に入れば、もちろん、いっぺんに分かるようになります。

 確かに、「三位一体」という言葉は、聖書の中に出てきません。けれども、聖書的です。エホバの証人は、いつも、「千年王国」という言葉を使いますけれども、この言葉は聖書の中に出てきません。けれども、聖書的です。「分かったから信じる」という考え方は、宗教的であり、聖書的ではありません。「聖書が言っているから、ありがたい。信じます。けれども、ピンと来ません。理解出来ません。従って、説明することが出来ません」。
 聖書がはっきり言っていることは、「父は、主イエス様を通して、聖霊の力によって、この大宇宙をお造りになりました。また、父は、主イエス様を通して、御霊の力によって、人間一人一人のために、救いの道を開いてくださいました」。私たちはこの事実を理解出来ないけれども、信じることが出来るから、大いに喜ぶことが出来、また、感謝することが出来るのです。
 パウロは、ローマ書8章の9節に、
   キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。

と書いたのです。即ち、キリストの御霊を持たない人は、救われていないことになります。主なる神の霊は、教会の建物の中に住んでおられるのではありません。教会の建物は、「神の家」と決して言うことが出来ません。主なる神の霊は、人間によって建てられた建物の中に住んでおられるのではありません。使徒行伝の7章を見ると、次のようにはっきり書かれています。221ページです。7章の48節、49節です。
  「しかし、いと高き方は、手で造った家にはお住みになりません。預言者が語っている
  とおりです。『主は言われる。天はわたしの王座、地はわたしの足の足台である。あなた
  がたは、どのような家をわたしのために建てようとするのか。わたしの休む所とは、
  どこか。…

 主なる神の霊は、謙遜な、砕かれた心に住んでおられます。主なる神の霊は、イエス様の血潮がきよめられたところに住んでおられるのです。私たちは、神の霊によって満たされたいと思うなら、信じる者として、イエス様の血潮によるきよめを経験しなければなりません。言い訳をしたり、よく見られようとしたりしてはいけません。悪魔は、いつも、「自分を見なさい。十字架につけられ、罪の問題を解決してくださった、死をも克服してくださったイエス様を見上げないように」とささやきます。けれど、何があっても私たちは、「憐れんでください。赦してください」という態度を取ることが出来ます。
ヨハネ第一の手紙1章9節。426ページです。よく知られているすばらしい個所です。
   もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を
  赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

同じく1章7節の後半。
   御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

 主イエス様の血潮によるきよめの後、私たち自身をすべて主に委ねることが大切であります。ローマ人への手紙の6章16節を見ると、このことが次のように強調されています。273ページです。
   あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として
  服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、
  あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。

 私たちの心、私たちの手、足、目、耳、舌、すべてのものは、主に捧げられねばなりません。主は、本当に支配主、即ち、主となられなければなりません。主は、私たちを自由に用いる力をお持ちにならなければなりません。主は、すべてのことにおいて、優先権をお持ちにならなければなりません。何者も、主イエス様によって支配されるべきです。多くの信者は、「私は主イエス様のために死んでもいいです。主のために殉教の死を遂げてもいいです」と真剣に考え、また、告白しています。けれど、一つのことだけが確かです。即ち、本当に主のために生きることよりも、死ぬことのほうが、はるかに易しいのではないでしょうか。主のために殺されることは、自分の家族や、会社や、その他至るところで、本当に主のために生きることよりも易しいのです。ですから、パウロはローマ書12章の1節に、次のように書いたのです。
   あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。

とあります。私たちは、余すところなく、主にすべてを捧げるべきです。「意識的な献身」が、どうしても必要です。「私は、もはや自分自身のために生きているのではありません。私は、すべてをあなたにお委ねいたします。ただあなたにだけ、私は、お仕えしたいと思います。どうか、導いてください。私の思いではなく、あなたの思いだけが成りますように」。これこそ、私たちの態度でなければなりません。私たちは、この態度を取ったなら、主が私たちを器として受け入れてくださったということを、信仰によって受け取らなければならないのです。私たちは、残すところなく主に明け渡したなら、主が私たちを受け入れてくださったこと、そして、私たちは主の器であることを、幼子のように信じることが出来るはずです。

 ここで、今まで指摘したことをまとめてみることにしましょう。私たちの主は、あらゆる罪から私たちをきよめることがお出来になります。けれど、私たちはきよめられた後、主にすべてを捧げるべきです。それは、主が私たちを満たして、用いることがお出来になるためです。きよめられた後、このように意識的に献身するようにならないなら、悪魔が力を得て、そのキリスト者がきよめられる前よりも、はるかに深い罪の中に沈んでしまうということは、容易に可能です。ですから、主イエス様の血潮によってきよめられた後、どうしても全き献身がなされなければなりません。それは、意識的な意思の行ないです。「もはや私ではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」。もはや、自分自身のために生きるのではなく、イエス様のために生きたいのです。これは、一方において最大の犠牲ですけれど、他方において、最大の解放でもあります。主イエス様に自分を明け渡す者は、主が私を受け入れてくださったこと、そして、主は私の主であるということを、知ることが出来、はっきりとした確信を持つことが出来るのです。

主のご支配の結果は、主の霊の満たしです。主が支配することがお出来になれば、私たちは御霊に満たされます。ですから覚えるべきことは、御霊に満たされることとは、特別な経験を持つことを意味しているのではないということです。感情とは無関係であります。パウロは当時の人たちに、言ったのです。「あなたがたは、信仰によって御霊を受けたのです」。そして、信仰は、感情や理性に基づくものではなく、ただみことばだけに基づくものです。御霊を受けるのは、研究や、認識や、努力によってではなく、単純な信仰によるのです。あなたはどのようにして、イエス様を知るようになったのでしょうか。ただ、主の恵みによるのです。主が、「みもとに来る者を決して拒まない」と約束してくださいましたから、あなたは、イエス様が自分をも受け入れてくださったことを信じたのです。分かったからではなくて、イエス様は嘘つきではないからです。ご自分の約束を守ってくださるお方であるからです。そして、それで十分です。

どうして信じるようになったのか、おそらく、誰も説明することが出来ません。主が恵んでくださったからです。信仰の創始者であるイエス様が、信仰を与えてくださらなければ、人間は正直になり、素直になり得ないのです。私たちが、理解しているかいないかが、決定的に大切なのではなく、主がみことばによって語られることこそが大切です。というのは、主のみことばだけが、真理そのものであるからです。「私たちが罪を告白するとき、主はその罪を赦してくださる」と、みことばが語っているから、そのことを信じることが出来、確信することが出来るのです。ですから、大切なことは、自分の理性や感情ではなく、みことばだけです。確信の土台は、主のみことばだけです。私たちは、それを理解出来るからではなくて、主がそのことをはっきり言っておられるので、信じることが出来るのです。主は、主が語られることを思っておられます。即ち、主は適当に処理することはなさらず、嘘、偽りは全くないお方です。だから、私たちは信じることが出来ます。

イエス様を、まだ個人的に自分の人生の中に受け入れていない方々がいらっしゃるなら、その方々は次のようなことを、知る必要があります。
即ち、あなたは教会の会員になる必要はありません。けれども、あなたはいかなる状況においても、「私の過ち、わがままは赦されている。イエス様は私をも受け入れてくださった」ということを、どうしても知らなければなりません。この確信がなければ、ちょっと大変なのではないでしょうか。債務を持ったそのままの状態で、イエス様のみもとに行き、その債務を告白する人は、「私の罪は赦されている」ということを知るようになります。「主は私を受け入れてくださった」という確信を持つことが出来るようになります。「主は私を赦されている」という確信を、なぜ持つことが出来るのでしょうか。今、何回も言いましたように、イエス様は嘘つきではないからです。主は、必ずご自分の約束を守ってくださるお方であるからです。
「主は私を赦されている」という確信の結果は何かと言いますと、愛と感謝の現われとして、「私の人生は、今から、ただ主お一人のものとなるべきである」ということになるに違いありません。即ち、「意識的な献身」が現われるに違いありません。「主よ。私はあなたに私の持っているものすべてをお捧げいたします。私自身をさえも、お捧げいたします。なぜなら、私はあなたの御手の内にある器にだけなりたいからです」。
このようにして、自分自身を意識的に主に明け渡す人は、主が自分を受け入れてくださったこと、そして、主の御霊で満たしてくださったことを知ることが出来ます。主のみことばは、そのことをはっきりと語っておられます。ですから、私たちは、このことを信じることが出来、感謝することが出来るのです。そして、このことは、私たちの理性や感情とは何の関係もありません。なぜなら、それは信仰の事柄だからです。「私は、主のみことばのゆえにそれを信じます。そして、そのことに対し主に感謝します」。これこそ、私たちの態度とならなければなりません。

最後に、一つの問いについて考えてみましょう。
御霊に満たされた結果とは、いったい何なのでしょうか。実を見ることは大切です。
1、あなたは、あなたの救い主について、あなたの家庭で、会社で、親しい人たちや友だちの中で、証しをする勇気を持つようになります。人間を恐れる恐れから解放されます。あなたの周囲の人は、あなたの証しを本当に待っているのです。あなたの周囲の人は、「キリスト教」というような宗教を求めているのではなく、「心の平安、絶えざる喜び」を求めているのです。また、必要としているのです。あなたの周囲の人は、「まことの幸せ」を必要としているのです。けれどもそれは、宗教によって得られるものではありません。いわゆる「キリスト教」と呼ばれるものは、全く必要ではなく、必要なのは、「イエス様ご自身」です。「十字架につけられたイエス様」です。イエス様が中心となられることこそ、御霊の与えられた使命です。五旬節の当時の聖霊の目的と、今日における御霊の目的とは、全く同じものです。即ち、ヨハネ伝16章14節に書かれています。イエス様のことばです。
  「御霊はわたしの栄光を現わします。」

 イエス様だけが中心になられると、非常に大きな喜びが現われます。この喜びは多くの人たちを引きつけ、ただ一人、本当に満たしてくださることのお出来になるイエス様のみもとに、人々を引っ張ってくれます。

2、あなたは、忠実になるのです。聖霊に満たされる結果として、忠実になることです。人があなたを認めようが認めまいが、あなたは、主があなたを立ててくださった所で主に仕え、主のなさるとおりになりたいと思うでしょう。現代の特徴とは、不忠実なのではないでしょうか。不真実な人間は、自分のことだけを考え、一つの罪から別の罪へと移っていきます。不真実な人間は、祝福を広げるのではなく、悩み、苦しみを広げます。

3、あなたは聖霊に満たされる結果として、主が祝福し、実を結ばせてくださることを経験します。「山上の垂訓」の中で、イエス様は、次のように言われました。マタイ伝7章16節。
  「あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。」

と、私たちの主は語ってくださり、約束してくださいます。兄弟姉妹を愛さない者は、聖霊に導かれていません。愛は、御霊の実です。人間は誰でも、主によって愛されています。そして、主は、私たちが、「信者のために自分のいのちを捨ててもいい」と思うことを期待しておられます。即ち、自分自身のために生きるのではなく、主のために生きるのです。そして、主のために生きる者は、兄弟姉妹のためにも生きたいと切に望むのです。

4、あなたは聖霊に満たされる結果として、イエス様がすべてのことにおいて最優先されるという、切なる願いだけを持つようになるのです。それは、聖霊の偉大なるご目的です。聖霊に満たされているキリスト者は、自分自身のための賜物や経験を欲することをせず、ただ、イエス様が栄光を受けられ、ほめたたえられることを望みます。「私に何が起ころうがかまわない。イエス様だけが栄光をお受けになっていただきたい」という態度を取る人は、聖霊に満たされています。

5、あなたは聖霊に満たされた結果として、イエス様のために苦しむことを、喜んで引き受ける心の備えを持つようになります。人は誰でも、生まれつき苦しみを避け、楽な道を行きたがり、いろいろな困難を避けようとしますけれど、聖霊に満たされているキリスト者は、「主よ。私は何をしたらよいのでしょうか」と、すべてのことにおいて主に尋ね、そして、主にだけ従う覚悟を持っているのです。その結果、家族や、親戚や、友人から誤解されたり、非難されたりすることは避けられません。


 聖霊に満たされているかどうかこそが、考えられないほど大切なのではないでしょうか。満たされていなければ、今日、満たしていただくことが出来ます。

もし、代価を支払う備えを持つなら、あなたは、自分自身を低くしなければならないかもしれません。完全に空っぽにされることが必要になるかもしれません。なぜなら、誇りでいっぱいだからです。自分の目的を持ち、それを実現したいと思うかもしれません。そして、まだあれやこれや正しいと思いますが、それが主のみこころであるかを、決して主に尋ね求めなかったのではないでしょうか。

 私たちは今日、みな、主の光によって、私たちの今までの人生が、主のために恥となる人生であったか、私たちの主の名誉のための人生であったかを、真剣に尋ねるべきではないでしょうか。今までの人生は、敗北の人生だったのでしょうか、それとも勝利の人生だったのでしょうか。

 御霊に満たされている人生は、御霊に支配されている人生です。御霊が主であるなら、イエス様は栄光を受けられ、そして、主が栄光をお受けになるとき、人間は喜びで満たされます。心配や恐れは消えてなくなります。というのは、主ご自身が、全ての者に対して完全な責任を引き受けてくださるからです。

 あなたの債務を、すべての失敗、すべての不真実、愛のない状態、すべての自己中心、苦しみを避けようとする気持ち、あらゆる怠け根性、すべての自由放任を、主に告白しましょう。主に用いていただき、主にだけすべてを委ね、主があなたを受け入れてくださったこと、また、主の霊によって満たしてくださったことを感謝しようではありませんか。


                                    了



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※一部、テープの転換による不明部分あり

神のみことばは神のみことばである(5) 2006. 4. 18
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