キリスト集会のご案内
TOP日曜礼拝家庭集会よろこびの集い出版物  


メ ッ セ ー ジ ・ 証 し 集


主よ。語ってください

2003. 7.15(火)
ベック兄メッセージ(メモ)


引用聖句
 第一サムエル記 3章9節、10節
   それで、エリはサムエルに言った。「行って、おやすみ。今度呼ばれたら、『主よ。お話し
  ください。しもべは聞いております。』と申し上げなさい。」サムエルは行って、自分の所で
  寝た。そのうちに主が来られ、そばに立って、これまでと同じように、「サムエル。
  サムエル。」と呼ばれた。サムエルは、「お話しください。しもべは聞いております。」と
  申し上げた。

 同、3章21節
   主は再びシロで現われた。主のことばによって、主がご自身をシロでサムエルに現わ
  されたからである。

 同、9章15節
   主は、サウルが来る前の日に、サムエルの耳を開いて仰せられた。

 イザヤ書 50章4節、5節
   神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとに、
  私を呼びさまし、私の耳を開かせて、私が弟子のように聞くようにされる。神である主は、
  私の耳を開かれた。私は逆らわず、うしろに退きもせず、

 同、50章9節、10節
   見よ。神である主が、私を助ける。だれが私を罪に定めるのか。見よ。彼らはみな、衣の
  ように古び、しみが彼らを食い尽くす。あなたがたのうち、だれが主を恐れ、そのしもべの
  声に聞き従うのか。暗やみの中を歩き、光を持たない者は、主の御名に信頼し、自分の神
  に拠り頼め。


 この間、「ヨーロッパ喜びの集い」でドイツのミヘルスベルグまで行ったのは、AグループとBグループを合わせてだいたい200人位だったのです。そして、ミヘルスベルグの特徴とは、集会場の正面に書かれている言葉ではないかと思います。ドイツ語が出来ない人も、すぐ覚える言葉ではないかと思います。「REDE HERR ICH HORE」。意味は、「主よ。お語りください。私は聞いております」。そういう気持ちでみことばを聞くと、大いに祝福されるのではないでしょうか。
 人間にとって一番大切なことは、「聞く耳を持つこと」です。人間は、一様に耳を持っているのです。耳を持っていても聞こえない人もいます。昨日、Y兄弟は耳の手術を受けられました。手術が始まる前は、みな、「たいしたことはない」と思っていたらしいのですが、6時間かかった手術でした。片方の耳が、若いときからずっと聞こえなかったそうです。脳までいったら大変なことになったそうですから、手術されたのは非常によかったのですが、聞こえるようになるかどうかは、まだ分からないそうですから、兄弟のことをぜひ覚えて祈ってください。おそらく、2週間位入院されるようになると思います。
 今度の「ヨーロッパ喜びの集い」は、ミヘルスベルグではなくて、ドイツのフィリンゲンになるのです。この間下見に行きましたが、非常に環境がいい所です。「申し込みなさい」とは言えませんけれど(笑)。なぜなら、費用がまだ分からないからです。飛行機代は分かりますし、向こうでの必要な費用も分かりますけれど、バス会社の代金がまだ分かりません。違う会社を頼まなければならないかもしれませんし、遠足の目的によっても費用が変わります。一日、朝早く6時に出かけて、夜9時頃に帰る予定の大きな遠足もあるのです。スイスの最もすばらしい所まで行きたいと望んでいるのです。シュリンゲンラテ(?)という所なのですが、その費用がまだ分からないので、何も言えません。問題は、100人しか泊まれないということです。今までいつも来ていたドイツの兄弟姉妹方の宿泊も、「別の宿舎を探してください」とお願いしたのです。けれども、ドイツの兄弟姉妹とは、一緒に食事が出来るし、集会場も広いし、問題はないのです。今回は、宿泊も集会場も全部同じ建物の中ですから、非常に楽だと思います。
 今度から申し込んでいただきたいのは、羽石真二兄のところです。今まで、藤本佐和代姉が、10年間苦労して献身的に奉仕してくださり大変だったと思いますから、羽石兄に頼みました。ですから、羽石真二兄のところに申し込んでください。費用は、まだはっきり分かりませんけれど、もう申し込んだ人もいるのです(笑)。よっぽどお金があるか(笑)、あるいは残されたくないか(笑)、ちょっと分からないのですけれど。藤本佐和代姉は、今まで献身的に10年間も奉仕して来られ、本当に大変でした。心より感謝しています。
 けれど、主の再臨はその前かもしれません。私たちは、いろいろなことを考えて、計画を立てたりしますけれど、その裏で、「再臨によって駄目になるように」と祈るべきなのではないかと思います。

サムエルという青年、青年とは言えないかもしれません。子どもと言ってもいいと思います。彼は、その時何歳だったか分かりませんが、やはり、青年というよりも子どもだったと思います。けれども、彼は、「お話しください。しもべは聞いております。私は単なるしもべにすぎません」と言いました。何があっても最も大切なのは、このような態度を取ることです。「しもべ」という言葉の原語を見ると、「奴隷」となっています。「どうしようもない、役に立たない奴隷にすぎません」。サムエルは、このような態度を取ったから、大いに祝福されました。
 私たちは、過去を振り返ってみると、楽しかったことや、悲しかったことがあります。いろいろな思い出が出てきます。一番すばらしかったことは疑いもなく、「主の御声を聞いたとき」です。けれどこの耳で、主の御声を聞かないほうがいいと思います。多くの人は、そう言うのです。「主の御声をこの耳で聞いた」と。けれど、これは、主の御声か、悪魔の声か、誰が分かるのでしょうか。悪魔は、「光の天使」として人間を攻撃します。ですから、この耳で、主の御声を聞かなくてもいいのです。病気を通して、主はお語りになるのかもしれませんし、いろいろな不幸を通して、主はお語りになるのかもしれませんが、おもに、「みことばを通して」です。サムエルは、それを経験しました。今、読みました引用箇所の中で、第一サムエル記の3章21節です。
   主は再びシロで現われた。主のことばによって、主がご自身をシロでサムエルに現わさ
  れたからである。

 主は、「みことばによって」サムエルにお語りになったのです。
「主の声」とは、いったいどういう声なのでしょうか。この質問について、少しだけ一緒に考えたいと思います。

*1、主の声は、「力強い声」であります。黙示録1章を見ると、ヨハネというイエス様の弟子の経験について、次のように書かれています。黙示録1章15節。437ページです。
   その足は、炉で精練されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようで
  あった。

1章17節、18節。
   それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。しかし彼は
  右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、
  生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデス
  とのかぎを持っている。」

「ハデス」とは、「死者の国」を意味する言葉です。ヨハネは、この「大水の音のような声」を聞いたとき、主の足もとに倒れて、ここで死人のようになりました。周りの人たちは、死んだと思ってしまったのです。そういう声でした。ヨハネは、3年半、イエス様と一緒に生活をしましたし、毎日イエス様の声を聞いたのです。けれども、高く引き上げられたイエス様の声とは、全く違うものでした。
  人間の声を聞くことによって何と多くの人たちが、ぺちゃんこになり、希望を失うのではないでしょうか。ある先生は生徒に、「あなたの人生は駄目になる」と言って、生徒を自殺未遂に追いやりました。「一言葉で、人間はいっぺんにぺちゃんこになる可能性がある」ということです。人間の声は、大きな影響力を持っています。けれど実際は、外側の声だけではなくて、心の中の声も、力を持っているのではないでしょうか。聖書は言っています。創世記の8章21節。
   人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。

 また、エレミヤ記17章9節。
   人の心は何よりも陰険で、それは直らない。

 また、テトスは、次のように書いたのです。テトス書1章16節。
   実に忌まわしく、不従順で、どんな良いわざにも不適格です。

  即ち、「良いわざに関しては、失格者である」と記されています。そして、人間の思いは、主の思いとは違った方向に向いているのです。従って、自分自身の心の声を大切にする者は、悪魔の罠に陥ってしまうのです。イエス様がかつて弟子たちに、ご自分がやがて十字架につけられることを公にされた時、ペテロは、それを止めようとしたのです。よく知られている箇所です。マタイ伝の16章15節からちょっと読みましょう。人間の心とはどういうものであるか。それだけではなくて、イエス様を信じる者、イエス様に従いたいと思う者の心はどういうものであるか。この箇所を通して分かります。29ページです。15節から17節。
   イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」シモン・ペテ
  ロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」するとイエスは、彼に
  答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに
  示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。」

  イエス様は、こういうふうにペテロのことを非常に褒められたのです。ペテロが偉かったからではなくて、聞く耳を持っていたからです。「語ってください」、そういう態度があったからです。マタイ伝16章21節から23節。
   その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法
  学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならない
  ことを弟子たちに示し始められた。するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。
  「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」
  しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの
  邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

  ペテロは、自分の心の声に負けてしまったのです。ですからイエス様は、ペテロに向かって、「下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と言われました。
  自分の心の声や他人の声のみならず、悪魔の声も、私たちの働きを妨げようとするのです。悪魔の目的は、私たちがいつも自分のことばかり考え、自己決定や自己支配に陥ることに他なりません。悪魔がこの目的を達成すると、もはやイエス様の御声を聞くことが出来なくなります。従って、自分の心の声を否定し、他人の声にも動かされることなく、また、悪魔の声に対して耳を塞ぐ者だけが、主の御声の偉大さ、また、主の御声のすばらしさを体験することが出来るのです。
  イエス様の声の代わりに人間の声を大切にすることの結果は、決して良いものではありません。イエス様の霊によってではなく、自分の心の声によって動かされる者は、まことに憐れな者になります。みことばの上に立たず、悪魔のささやきに耳を貸し、それに従う者は、道を誤り騙されてしまいます。主の声を他の声よりも大切にする者は、確かに幸いです。その時にのみ、私たちは奇蹟を体験することが出来るのです。
  イエス様の声とは、いったいどういうものなのでしょうか。今話したように、主の声は、「力強い声」であります。
*2、イエス様の声は、「納得させる力を持っている」のです。これこそが、使徒パウロの
経験でした。使徒行伝から一箇所お読みいたします。224ページになります。使徒行
伝の9章。パウロの証しになります。パウロは、主の声を聞くことによって、いっぺん
に納得させられ、全く違う人間に変えられたのです。9章の1節から5節までお読みい
たします。
   さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、大祭司の
  ところに行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼んだ。それは、この道の
  者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。
  ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り
  照らした。彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を
  聞いた。彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、お答えがあった。「わたしは、
  あなたが迫害しているイエスである。」

  このサウロ、後のパウロは、「主なる神に仕えたい」という切なる願いを持っていました。そのため、パリサイ人と同じように、厳しい神の律法を大切にしたのです。彼は、イエス様が大嘘つきであり、詐欺師であると思い込んでしまったのです。そのため、イエス様の弟子であるステパノが、初めての殉教者だったのですけれども、彼が石で打ち殺されたとき、パウロはそばにいてそれを喜んだのであります。結局、彼は、熱心にイエス様を信じる者たちを迫害する者になってしまったのです。これが主から与えられた使命だと、彼は思ったのです。
  けれどこの彼は、イエス様の声によって、一瞬にして納得させられたのです。その時彼は、「主よ。私は何をしたらいいのでしょうか」という問いを持ち続けながら、いつも、主の声を求め続けたのです。彼は、皇帝ネロに捕らえられた時でさえも、決して失望、落胆せず、むしろ反対に、「イエス様のしもべ」、「イエス様の奴隷」とされていることを喜び、そのために絶えず感謝していたのです。主の声を聞くことによってパウロの人生は、本当に180度の転回をし、そのことが絶えず喜び、感謝することの秘訣だったわけです。
  パウロと同じように、「主よ。私はどうしたらいいのでしょうか。教えてください。語ってください。御心を明らかにし、しもべに語ってください」と祈ることの出来る信者は、本当に幸せなのではないでしょうか。
  主の声とは、いったいどういう声なのでしょうか。今話したように、第一は、「力強い声」であり、第二は、「納得させる力を持つもの」であります。
 
*3、イエス様の声は、「いのちを与えるもの」です。ヨハネ伝の11章を読むと、イエス様は、次のように叫ばれたのです。185ページになります。11章の43節。
   イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」

  このラザロとは、ベタニヤという小さな町に住んでいた者で、マルタ、マリヤとラザロの3人兄弟で住んでいました。そして、イエス様は、しばしば彼らの所に立ち寄られ、すばらしい交わりを持たれたのです。彼らにとってイエス様の声を聞くことは、最大の喜びでした。けれど今や、彼らは最大の悲しみに見舞われたのです。即ち、ラザロが死んでしまったのでした。けれども、イエス様は死人に叫び、「出て来なさい」と呼ばわれたのです。死人はイエス様の声を聞くのです。そして、イエス様の御声を聞くことによって、死人は生き返るのです。彼は、健康人として墓から出たのです。その前に3日間、墓の中に入れられていました。
  例えば、義務的に聖書を読んだり、集会に行く者は、正にいのちのない者、死んだ者に他ならないのです。イエス様の声を聞くことは、どうしても必要なことです。なぜなら、主の声は、「いのちを与えるもの」、「いのちを与える力を持っている」からです。今まで、「死」が支配していたところに、イエス様の御声を聞くことによって、「いのち」が生まれたのです。
  イエス様の声とは、いったいどういう声なのでしょうか。確かに、「力強い」、「納得させる力を持っているもの」です。また、「いのちを与えるもの」です。
 
*4、イエス様の声は、「招きの声」です。皆さん、よく知っておられ暗記している箇所は、マタイ伝11章の28節でしょう。
  「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。」

「キリスト教に入れ」ではありません。「教会に行け」ではありません。「ああしなさい、こうしなさい」ではありません。ただ、「ありのままで、おいで。わたしのところに来なさい。休ませてあげます」。苦労している者は解放されるべきであり、重荷を負っている者は休むべきです。
こんにちは、想像することも出来ないほど、重荷となっているものが満ち満ちているのではないでしょうか。多くの信じる者でさえも、もはや本当の喜びを見出すことは難しくなっているのではないでしょうか。多くの信者は、聖霊の導きに対して、心を頑なにしてしまうのではないでしょうか。イエス様に従うこと以外に、楽しみを求めようとしている人もいます。意識して悪魔との関係を断ち切らない限り、私たちは、悪魔の手玉にされてしまいます。現在、主イエス様との関係がどうであれ、私たちの悩みと苦しみがどのようなものであれ、イエス様は招いておられます。「おいで。わたしのところに来なさい。待っています」。
  イエス様の声とは、確かに、「力強い」、「納得させる力を持つもの」であり、また、「いのちを与えるもの」です。また、「招いていてくださるお方」です。「おいで。わたしのところに」と。
 
*5、イエス様の声は、「慰めを与える声」です。もう一度、ヨハネ伝の11章に戻ります。次のように書かれています。11章の23節、25節、26節。
   イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」…イエスは言われた。
  「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
  また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。
  このことを信じますか。」

11章40節、43節から45節。
   イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、と
  わたしは言ったではありませんか。」…そして、イエスはそう言われると、大声で
  叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」すると、死んでいた人が、手と足を長い布で
  巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。
  「ほどいてやって、帰らせなさい。」そこで、マリヤのところに来ていて、イエスがなさった
  ことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた。

 この時、マルタとマリヤは、兄弟ラザロの死を非常に悲しんでいました。そして、その状態は、全く望みのない状態だったのです。その時、最も望みのない状態になってしまったのは、ラザロの死体が4日間も墓の中に置かれたからです。けれども、このような全く絶望的な状態の中に、イエス様の声が入ってきたのです。「わたしは、よみがえりです」。
  人間の目には絶望的に見え、どうすることも出来ないような状態においても、イエス様の御声は、逃れ道を与えてくださるのです。私たちが、いかなる者であるかが大切なのではなく、イエス様がいかなるお方であられるかということ、即ち、「イエス様が、よみがえり、いのちそのものであられる」ことが、一番大切なのではないでしょうか。自分自身が駄目な者であることを知り、落ち込んでしまう人たちも決して少なくないけれど、イエス様のことを考えれば誰でも元気になります。失望、落胆した者、絶望した者にとってただ一つの逃れ道は、イエス様の声を聞くことです。「わたしは、よみがえりであり、わたしは、いのちである」という主の御声は、なんという慰めを与えてくださるのでしょうか。
  主の声とは、確かに「力強い声」であり、「納得させる力を持つもの」であり、「いのちを与えるもの」であり、「招く声」であり、また、「慰めを与えている声」であります。
 
*6、イエス様の声は、「導き伴ない行く声」であります。ヨハネ伝の10章を見ると、次のように書かれています。10章の27節から29節。
  「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼ら
  はわたしについて来ます。わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びる
  ことがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。わたしに
  彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から
  彼らを奪い去ることはできません。」

  イエス様の御声を聞き、それに従う者は、永遠の安全を持っています。イエス様は、「決して、決して…ない」と何回も言われたのです。イエス様の願いは、私たちを導き伴ない行くことです。イエス様は、決して私たちを奴隷のように束縛することを望まず、私たちの本当の幸せを思っておられるのです。マタイ伝の9章36節に、次のように書いてあります。
   また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに
  思われた。

飼う者のない羊とは何という姿でしょう。飼う者のない羊とは、羊飼いのない羊です。そうすればお終いです。もう一箇所、エレミヤ記の50章6節と17節をお読みいたします。1227ページです。6節。
   わたしの民は、迷った羊の群れであった。その牧者が彼らを迷わせ、
  山々へ連れ去った。彼らは山から丘へと行き巡って、休み場も忘れてしまった。

50章17節。
   イスラエルは雄獅子に散らされた羊。

とあります。飼う者のない羊は、休む所がありません。飼う者のない羊は、獅子に追われて死んだ羊です。また、エゼキエル書34章ですけれども、次のように書かれています。1302ページです。34章6節です。
  「わたしの羊はすべての山々やすべての高い丘をさまよい、わたしの羊は地の全面に
  散らされた。尋ねる者もなく、捜す者もない。」

  飼う者のない羊は、もろもろの山に散らされている羊です。飼う者のない羊は、誰も捜す者のない、尋ねる者のない、助ける者のない羊です。飼う者のない羊は、弱り果てて倒れています。こんにちも、このように飼う者のない羊のような、さ迷っている人たちが、何と大勢いることでしょうか。
  羊飼いなる主イエス様の御声に聞き従うということは、全く明らかな導きを意味しています。従って、イエス様の声に聞き従う者は、弱り果てて散らされている、導き手のない、さ迷う羊のようにではなく、はっきりとした安全な導きを持っているのです。「彼らをわたしの手から奪い去るものはない」と、イエス様は約束しておられます。私たちが、イエス様の御声に聞き従う時、初めて本当の満足が与えられるのです。イエス様の御声に聞き従い、主に導いていただこうと望む者は幸せです。主に導いていただくか、或いは自分勝手に自分の道を歩むかのどちらかです。
  イエス様の声とは、いったいどういう声なのでしょうか。まず、「力強い声」です。それから、「人を納得させる力を持っているもの」です。また、「いのちを与えるもの」であり、「招きの声」であり、また、「慰めを与える声」であります。そして、主の声は、「導き伴ない行く声」です。

*7、イエス様の声は、「願っている声」です。ヨハネ黙示録の3章20節を見ると、次のように書かれています。441ページになります。
  「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、
  わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」

  イエス様は、「立って戸をたたいて呼んでいる」とここに書かれています。このように、イエス様は、常に主を知らない人たちの心の戸をたたいておられ、その人がイエス様の声を聞いて戸をあけること、そして、その中に入ることを願っておられます。けれども、 イエス様は、ただ単に、主を知らない人たちの心の戸をたたいて、その人にイエス様の声を聞いてもらいたいと願われるだけではなく、信じる者に対しても、その心の戸をたたいておられるのです。イエス様を主として、主にすべての支配権を委ねる用意の出来ている者は、何と少ないことでしょう。それこそ少なからず、信者がイエス様との生き生きとした交わりを持てないことの原因であります。
  イエス様と食事を共にすることは、イエス様との交わりを持つことを意味しているのです。そして、私たちと交わりを持たれることこそがイエス様の切なる願いですから、イエス様は、私たちの心の外に立って扉をたたき、私たちを呼んでおられるのです。
  イエス様は、私たちと一つになることを心から願っておられ、望んでおられます。イエス様は、友と語り合うように、私たちと語ることを望んでおられます。主の声を聞いたすばらしさを、バプテスマのヨハネも経験したのではないかと思います。ヨハネによる福音書の3章を見ると、彼の経験について、次のように書き記されています。162ページになります。3章の29節と30節です。
   花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、
  花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです。
  あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。

  イエス様の友であるヨハネは、主イエス様の声を聞いて喜び満ち足りたのです。ですから、本当に満ち足りて喜びたいと思う者は、ヨハネと同じように主イエス様の御声を聞くべきです。「イエス様だけが栄えることを切に望み、そのためにいかなる犠牲をも払う覚悟を持ち、そのために自分が衰えることもいとわない」と言う者こそ、完全なる満足を得ることが出来るのです。
  イエス様は、私たちと最も親密な深い交わりを持ちたいと、心から願っておられます。それは、私たちが、主の前を光の中に歩む時、即ち、隠された罪がなくなった時に初めて与えられるものです。イエス様との交わりは、私たちが100パーセント、イエス様に寄り頼み、すべてを主に委ね、明け渡した時に成就されるのです。イエス様との交わりは、本当にイエス様と一体となることに他なりません。それこそイエス様が切に望んでおられることですが、私たちの求めているものは、いったい何なのでしょうか。
イエス様の声は、あまりにも「力強かった」ので、ヨハネはそれを聞いた時に、死んだようになって倒れてしまいました。イエス様の声は、あまりにも「説得的」であったため、猛り狂った迫害者サウロは、本当に燃えた証し人に生まれ変わったのです。また、イエス様の声は、「いのちを与える力を持っておられた」ので、死んだラザロをすぐに生き返らせることがお出来になったのです。イエス様の声は、「招く声」であったため、何千万という苦しんでいる人たちが、イエス様のみもとで憩うことが出来たのではないでしょうか。また、イエス様の声は、「慰めを与える声」でもあったため、自殺をしかけた人たちが、イエス様の御声によって生きる望みを与えられたのです。また、イエス様の声は、「導く声」でもあったので、さ迷う人たちが、イエス様の御声によって立ち返ることが出来、本当の満足を見出すことが出来たのです。イエス様の声は、「願っておられる声」でもあったため、あらゆる国民の多くの人たちは、イエス様を単に、「救い主」としてだけではなく、「主」として受け入れ、本当の満足を与えられたのです。
イエス様は、いつも変わることなく、以前と同じお方です。イエス様の声も、昔と異なるところがないのです。イエス様の声を聞こうと思えば、その御声が、他の者よりも強いものであることが分かります。イエス様の声は、私たちをも納得させようとしておられるのです。いのちを与える主の御声は、私たちの生活をも満ち足らせようと願っておられるのです。また、招いておられるイエス様の声が、重荷を負って苦しんでいる人たちを解放し、完全な安らぎと憩いとを与えてくださるのです。ただ慰めを与えるイエス様の御声は、私たちが過去に犯したもろもろの事柄を洗い流してくださり、私たちが完全に、すべてを主に明け渡すことが出来るようにしてくださるのです。万物をお造りになった主は、私たちとの生き生きとした交わりを望んでおられるのです。


私たちは、イエス様の声に聞き従う覚悟が出来ているのでしょうか。それとも、私たちは、自分の心の声や他人の声、更には悪魔のささやきが渦巻いている状態に留まろうとしているのでしょうか。
 イエス様の声に聞き従うただ一つの道は、「自分が衰えて、イエス様が栄えることを望む心構え」であります。この心構えを、私たち一人一人が持つ時に初めて、私たちはイエス様と一つになることが出来るのです。


                                    了



サイトマップ
更新履歴


メッセージ・証し集インデックスページ

◆メッセージ(ベック兄)

※一部、テープの転換による不明部分あり

神のみことばは神のみことばである(5) 2006. 4. 18
神のみことばは神のみことばである(4) 2006. 4. 11
神のみことばは神のみことばである(3) 2006. 4. 4
神のみことばは神のみことばである(2) 2006. 3. 21
家族の救い 2006. 3. 19
神のみことばは神のみことばである(1) 2006. 3. 14
主イエスは神の子キリストである(4) 2006. 3. 7
主イエスは神の子キリストである(3) 2006. 2. 28
主イエスは神の子キリストである(2) 2006. 2. 14
主イエスは神の子キリストである(1) 2006. 2. 7
勝利の生活の秘訣 2006. 1. 24
イエス・キリストのからだ 2006. 1. 17
主の永遠からの予定 2006. 1. 10
元旦メッセージ 2006. 1. 1


2005年度のメッセージ集
2004年度のメッセージ集
2003年度のメッセージ集