わが子よ
2003.9.2.(火)
ベック兄メッセージ(メモ)
引用聖句
へブル人への手紙 12章3節から11節
あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、
あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。あなたがたはまだ、罪と
戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。そして、あなたがたに向かって子どもに
対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじては
ならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入
れるすべての子に、むちを加えられるからである。」訓練と思って耐え忍びなさい。神は
あなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょう
か。もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子で
あって、ほんとうの子ではないのです。さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを
懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちは
すべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。なぜなら、肉の父親は、短い
期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益の
ため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。すべての懲らし
めは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、
これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。
今日の題名は、今読みました引用箇所の中の5節、『わが子よ』です。愛の表現なのではないでしょうか。天と地を創造されたお方が、ちっぽけなどうしようもない人間に向かって、「わが子よ」と呼びかけておられるのです。
確かに人間は皆、悩む者です。皆さんご存じだと思いますが、S兄弟は癌になってしまったのです。腎臓癌です。日曜日の午後、ここでメッセージをしてくださり、精神的にとても元気でしたが、家族にとっては、やはりショックなのではないでしょうか。S兄弟と同じように、以前アルコール中毒であったU兄弟は脳腫瘍です。神戸の辺りに住んでおられる兄弟も、今朝、奥様であるM姉妹から電話があって、脳腫瘍なのだそうです。非常に良くない腫瘍で、いつまでもつか分からないそうです。これも悩みであります。T兄姉の娘さんのI姉妹も乳癌です。初めは「たいしたことはないです。手術は日帰りで出来ます」と言われたのですが、実際は、癌がリンパ腺に入ってしまって、非常に危ない状態になっているようです。ぜひ、覚えていてください。
人間は悩む者です。私たちは、共に悩むべきではないでしょうか。けれども、「わが子よ」という言葉について考えると、嬉しくなるのではないでしょうか。誰でもいろいろな問題、或いは悩み、苦しみに出遭うものです。そして、多くの場合、そのようないろいろな問題に直面した時、私たちはいかなる答えをも見出すことが出来ない場合があります。何と多くの人たちは、山のような問題の前に、成す術を知らないで悩んでいます。
ドイツのある家族は、豊かで何の不自由もなく、人間的には非常に幸せな家族でしたけれども、その奥さんが、大量の薬を飲んで自殺を計ったことがありました。けれど、なぜ彼女がそんなことをしたのか、誰も分かりませんでした。また私の親戚の家族ですけれども、非常に豊かで、大変な資産家で、何軒家を持っているか分からないほど豊かな家族がいました。けれども、奥さんはもっと豊かになりたいと思っていて考えられないほどケチな人でした。(笑)けれど一人息子は知能が遅れているために、親の莫大な財産を受け継ぐことが出来ないのです。親も既に死んでしまって、あの一人息子はある施設の中で一生涯過ごさなければなりません。なぜ、そんなふうになったのか。この問いに対しては、誰も答えることが出来ません。
また、ドイツの、一人の立派な主にある兄弟は、自分から金持ちになろうとしたのではなく、財産に恵まれた境遇の中で、ただ主イエス様のご栄光のためにすべてを捧げていました。けれど、ある日突然、いろいろな出来事を通して、莫大な財産を失う結果になってしまったのです。なぜ、そんなことが起こったのか。その理由は、いくら考えても人間的な思いによっては理解することが出来ません。あの兄弟は、すべてが取られた時、次のように言いました。「人は皆、必要な物を持つ。欲しい物は与えられないかもしれないけれど、必要な物を持つようになります」と。そこまで考えることが出来る人は、本当に有り難いのではないでしょうか。そういう人たちこそが、主の呼びかけ、即ち、「わが子よ」という呼びかけを知ることが出来るからです。
また、私は、アイドリンゲンの姉妹会の一人の姉妹のことを思い出します。この姉妹は、長い間、ただイエス様にのみ仕えてきた本当に模範的な姉妹でした。けれども、急に脳溢血のために倒れてしまいました。それ以来、彼女は半身不随となり、一言も話すことが出来なくなってしまったのです。なぜ、そんなことが起こったのか。それは誰にも分かりません。
このように、私たちはしばしば、いろいろな状況の前に成す術を知らず、また、どうしたらそこから逃れることが出来るのか、その逃れ道を見つけることも出来ません。半ば絶望的な状態に陥ってしまうというようなことが、実際にありはしないでしょうか。
これこそが、旧約聖書に出てくるヤコブの経験でした。彼は、次のように嘆いたのです。創世記の42章36節になります。72ページです。
父ヤコブは彼らに言った。「あなたがたはもう、私に子を失わせている。ヨセフはいなくな
った。シメオンもいなくなった。そして今、ベニヤミンをも取ろうとしている。こんなことが
みな、私にふりかかって来るのだ。」
「こんなことがみな、私にふりかかって来るのだ」。彼は、どうしてか、なぜか、全く知らなかったのです。ヤコブのそれまでの生涯においては、自分自身の意思や力に頼って行なったことがたくさんありました。また、ヤコブは、長い間本当に平気で嘘をついたし、人を騙したし、ただ自分自身の利益だけを考えていました。けれども、そのような人を欺く者が、欺かれたのです。「主なる神は、罪を見過ごしにされない」。これは、ヤコブが学ばなければならなかった厳しい教訓でした。「こんなことがみな、私にふりかかって来るのだ」。即ち、言い換えれば、「すべてのことが私に反対している」ということです。ヤコブの場合のように、すべてが失敗に終わりそうだと思える時、いったい何が成されるべきでありましょうか。いかなる態度が取られるべきでありましょうか。
まず最初に、私たちが注意すべきことは、すべてのことが失敗に終わるということは、「ただそのように見えるに過ぎない」ということです。ヤコブの場合もそうでした。なぜなら、ヨセフは確かに今はいないけれど、いつかは必ず会える。シメオンもまた、確かに今はここにはいないけれども、いつか必ず会うことが出来るということです。
私たちは、人間的な見方をする場合、多くのことを正しく見ることが出来ず、次のように言うのです。「すべてのことが私に反対している。すべてのことが失敗に終わっている」。けれども、本当はその反対が真実です。即ち、これらの事柄は、私たちに反対しているのではなく、私たちのためにあるのです。けれど、私たちは、そのことを、今はそのようなものとして認識することが出来ないような性質の者ですから、「隠された祝福」とでも言えるでしょう。「なぜ、私はこんなことを経験しなければならないのでしょうか」。「なぜ、こんなことが私に降りかかっているのでしょうか」。このように、苦しみながら、悩みながら、いくら自問自答しても何の解決をも見出せないような事柄が、実際には数えきれないほどたくさんあります。
次に、「なぜか」、或いは「何のためか」という問いについて、少しだけ一緒に考えたいと思います。答えは3つです。
1. 支配したもう主は、「罪人が救われるために」、それらの多くの出来事を起こるがままにさせておかれるということです。
2. 支配したもう主は、「信じる者が変えられるために」、それらの多くの出来事を起こるがままにさせておかれるということです。
3. 支配したもう主は、「救われた者が本当に主に仕える者として用いられるために」、それらの多くの出来事を起こるがままにさせておかれるのです。
1.「なぜか」、「どうしてか」、「何のためか」と考えると、まず言えることは、今話したように、支配したもう主は、「罪人が救われるために」、それらの多くの出来事を起こるがままにさせておかれるのです。
大切なことは、人間が真理の認識に至ること、即ち、イエス様に出会うことです。どれほど多くの人たちが暗中模索して自分たちが真理を知らないのだということに気がつかないでいることでしょうか。ですから、次のようなことが全く正当でしょう。人間は、救われる前に一度、「失われた状態」でなければなりません。即ち、人間は、主なる神が人間を救ってくださる前に、まず自分の「失われた状態」を認めなければなりません。物質的なものが満ち溢れ、目に見えるものにがんじがらめとなってしまっているため、「永遠のもの」や、「生ける主なる神」について深く考える時間がありません。このことが現代の特徴なのではないでしょうか。
多くの人は、救い主を持つ必要性に対して盲目ですけれど、たとえそのことを認めざるを得なくなったとしても、依然として逃げようとするのです。その人たちは静かになって人生の意味を考えたり、死後の世界を深く考えたりすることをしたがらないのです。このことこそ、主が、多くの不愉快なこと、困難なこと、理解することが出来ないことを、私たちの上に来たらせることの理由なのです。このような主の導きの目的は、ご自身のもとに引き寄せられること、また、赦しと人生の内容を与えてくださることに他なりません。
次に、聖書の中から2つの実例、即ち、旧約聖書と新約聖書から、二人の放蕩息子たちについて見ましょう。
第一の放蕩息子は、マナセという王様でした。歴代誌Uの33章を見ると、次のように書かれています。まず、2節をお読みいたします。
彼は、主がイスラエル人の前から追い払われた異邦の民の忌みきらうべきならわしを
まねて、主の目の前に悪を行なった。
それから、9節から13節です。
しかし、マナセはユダとエルサレムの住民を迷わせて、主がイスラエル人の前で根絶や
しにされた異邦人よりも、さらに悪いことを行なわせた。主はマナセとその民に語られた
が、彼らは聞こうともしなかった。そこで、主はアッシリヤの王の配下にある将軍たちを
彼らのところに連れて来られた。彼らはマナセを鉤で捕え、青銅の足かせにつないで、
バビロンへ引いて行った。しかし、悩みを身に受けたとき、彼はその神、主に嘆願し、その
父祖の神の前に大いにへりくだって、神に祈ったので、神は彼の願いを聞き入れ、その
切なる求めを聞いて、彼をエルサレムの彼の王国に戻された。こうして、マナセは、主こそ
神であることを知った。
とあります。聞く耳もなかったのです。マナセ王は、主の言葉に聞き従おうとしなかったために、主は、やむを得ず多くの苦しみを通して彼を導くしか方法がなかったのです。ですから、突然すべてのことが失敗したように見えました。ですから、彼は悩むようになったのです。けれどもどうして彼は悩んだかといいますと、主のせいだったのです。決して偶然ではなかったのです。その背後に主が立っておられ、すべてのすべてを御手の内に治めておられたのです。11節です。
そこで、主はアッシリヤの王の配下にある将軍たちを彼らのところに連れて来られた。
主のせいだったのです。そして、
彼らはマナセを鉤で捕え、青銅の足かせにつないで、バビロンへ引いて行った。
とあります。そしてこれは、マナセの逃亡生活の終わりを意味したのです。すべてが失敗しただけではなく、これは本当の終わりに他なりませんでした。けれども、このような主の導きの目的は、呪いや滅びではなく、永遠の救いに与からせるために、心の目を開いてくださることでした。12節。
悩みを身に受けたとき、彼はその神、主に嘆願し、その父祖の神の前に大いに
へりくだって、…
もう、ぺっちゃんこになったのです。13節。
神に祈ったので、神は彼の願いを聞き入れ、その切なる求めを聞いて、彼をエルサレム
の彼の王国に戻された。こうして、マナセは、主こそ神であることを知った。
第二の、新約聖書の放蕩息子のことは、皆さんよくご存じです。ルカ伝の15章になります。この放蕩息子は、自信に満ちて両親の家を去りました。彼は、意識して自分が選んだ道へ行ったのです。彼は、何者からも束縛されず、自由に自分の人生を楽しもうと思いました。自分自身の道を行きたいと思う者に対しては、主は好きなようにさせます。たとえ、最初はすべてのことが望みどおりうまくいくように見えたとしても、やがてすべてのことが失敗に向かう時がやってきます。そして、その結果、突然すべてのことが自分に反対しているように思われるのです。お金はまもなく使い果たして、それまで友達と思われた人たちからは捨て去られることになってしまったのです。すべてのことが失敗してしまったのです。
ルカ伝15章14節から16節。
何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。
それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話
をさせた。彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に
与えようとはしなかった。
この大ききんが起こったのも主のせいだったのです。けれど、この導きによって、即ち、この深みへと導かれたことによって、彼は、ただ単に自分自身に立ち返っただけではなく、そのことによって、父の住まいに戻ることになり、まことに満ち足りた幸いな人生へ入ることが出来たのです。
多くの場合、人生の途上には恐ろしくたくさんの困難が横たわっています。けれども、主は常に一つの目的を持っておられます。即ち、私たち罪人をゼロの点にまで低くすること、或いは破産させること、これが主の取られる方法であり、その限りにおいて、すべての者は自分自身の助けとなるものを失い、心から悔い改めることにより、また主を信じることにより、主のみもとに行くことが可能となるのです。使徒行伝の2章を見ると、次のように書かれています。211ページになります。37節と38節です。
人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどう
したらよいでしょうか。」と言った。そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。
そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを
受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」
「なぜか」、「どうしてか」、「何のためか」と考えると、今まで見てきたように、支配したもう主は、「罪人が救われるために」、それらの多くの出来事を起こるがままにさせておかれます。主が、人間に正しい理解と悔い改めを得させるために、確かに多くの事柄を失敗するがままにさせておかれることを見てきました。
次に、「なぜか」、或いは「何のためか」という問いに対して、もう少し考えましょう。答えは前に話したように3つです。
1. 「罪人が救われるために」、主は多くの出来事を起こるがままにさせておかれます。
そして、
2.全ての背後に支配しておられる主は、「信じる者、もう既に救いに与かった人たちが変えられるために」、それらの多くの出来事を起こるがままにさせておかれるということです。
未信者だけではなく、信じる者もまた、いわゆる運命の成せる業を経験することです。信じる者もまた同じように失望落胆し、なぜこんなことが起こるのか、どうしても理解することが出来ない場合に遭遇します。なぜ主は、信じる者が厳しい試練に遭うことを許されるのでしょうか。それは彼らの教育のためです。彼らのきよめのためです。また、彼らが主の御姿に変えられるためです。それを証明するために、聖書から2箇所見てみましょう。ローマ人への手紙の8章。277ページになります。よく知られている箇所です。
8章の28節、29節です。
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべて
のことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。なぜなら、神は、
あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたから
です。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。
私たちの人生の途上に横たわっているものすべて、また、私たちの人生の中に入り込んでくるものすべては、主によって用いられております。主は本当にすべてを用いておられます。ですから、無価値なもの、無目的なものは何一つありません。大切なことは、私たちが新しく造り変えられること、主イエス様に似た者となることです。結局、偶然というものは一つもないと、絶えず覚えるべきではないでしょうか。すべての背後に主が立っておられ、主がそれぞれの場合に応じて、適切な導きを成しておられるのです。「すべてが益となる」。このことを、私たちは常に新たに覚えましょう。
良きこと、いや、最も良きことは、私たちが造り変えられることなのではないでしょうか。造り変えられること、主の御手によって練られることは痛みを伴なうことがあります。即ちそれは、自らが砕かれることなしには、あり得ないことなのです。その時人は、失望、落胆し、力を失い、自暴自棄に陥りがちです。けれど、このようなことは、自分の思い通りにならない時、目先のことしか考えない時に起こることなのです。29節は本当に大切です。
なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ
定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。
イエス様は、御子の姿に似た者となるように、あらかじめ定めておられるのです。主が目指しておられるご目的とは、何とすばらしいものでしょうか。この目的から、常に目を離さないことは、非常に大切です。ですから、初めに読んでもらいました引用箇所の中に、「この方のことを考えなさい」とあります。へブル書12章3節です。
あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。
「イエス様のことを考えなさい」。どうしてでしょうか。
それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。
イエス様から目を離すと、誰でも元気を失います。疲れ果ててしまいます。「霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです」と、へブル書12章10節に書かれています。イエス様は、ご自分に属しておられる者を限りなく愛してくださるから、まさにそのために私たちを懲らしめ、教育なさるのです。主の教育は、私たちが主の聖さに与かるように、ご自身のみもとに引き寄せたく思っておられることです。
私たちの主は完全であり、主の導きも完全です。おそらく私たちはすべてを理解することが出来ず、挫折してしまう危険に直面し、また、自分自身に同情してしまうというような場合も多くあることでしょう。「どうして私は、こんなことを経験しなければならないのでしょうか」、「どうして次から次へとこんなことが私に起こるのでしょうか」、「どうして私は、こんなにたくさんの困難や理解出来ないことを経験しなければならないのでしょうか」と。
へブル書12章11節。
すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるもの
ですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。
ここで大切なことは、その時は一時的に悲しく思われるものですけれど、しかし、「後になると」、それが結果的に幸いになるということです。次のことを覚えるべきなのではないでしょうか。即ち、私たちは、決して主のための実験用モルモットではなく、主は、常に最善のみを考えておられ、私たちは主の最愛の子であるということです。だから、「わが子よ」と書いてあります。たとえ、実際にすべてのことが失敗したとしても、私たちは、「主によって愛されている」ということを知ることが出来ます。まさに、主の試練や懲らしめこそ、主の愛の証拠です。私たちは、今そのことを理解することが出来なくても、しかし後になると、そのことを主に感謝し、礼拝するに違いありません。
ダビデの告白もすばらしい告白です。詩篇の119篇の67節です。
苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、あなたのことばを
守ります。
「なぜか」、或いは「何のためか」という問いについて、少し考えてきました。前に言いましたように、答えは3つです。
1. 支配しておられる主は、「罪人が救われるために」、それらの多くの出来事を起こるがままにさせておかれます。
2. 支配しておられる主は、「信じる者が変えられるため」、それらの多くの出来事を起こるがままにさせておかれるのです。
そして、
3. すべての背後に支配しておられる主は、「救われた者が本当に主に仕える者として用いられるために」、それらの多くの出来事を起こるがままにさせておられるのです。
多くの信者は、「実を結ばない木」のようなものです。主は、彼らを用いることがお出来になりません。その原因は何でしょうか。彼らは、「主なしでも何とか出来る」と考えているからです。もちろんこれは、知らず知らずのうちに、「出来る」と考えているのですけれども、彼らは自分自身の力で、自分自身の知恵により頼んでいます。確かに、多くの信じる者は、「主のために何かをしたい、主のために一生懸命に何かをしたい」と思い、また、「このことや、あのことをしたい」と主に願ったりするのですけれど、結局、彼らはこのことやあのことを、自分がしたいがために、主を利用しようとしてしまっているのです。
けれど実際は、主が信者をお用いになりたいと思っておられるのであり、ご自分の器として、信者を用いたく思っておられるのです。永遠に残る実を結ぶご奉仕は、主のための私たちの努力ではなく、私たちを通して主ご自身が成されるみわざでなければならないのです。これこそ、多くの者が私たちに逆らっているように思われたり、主が私たちを厳しく取り扱わなければならなかったり、私たちが砕かれなければならないことの原因であります。
2つの例を、ちょっと簡単に考えましょう。
一人は、ペテロについてなのです。ペテロはよく知られている人物です。彼は、自信と独立心に満ちた男でした。自分自身の能力に自信を持っていました。ルカ伝の22章。149ページになります。31節から34節までお読みいたします。イエス様がペテロに言われた言葉です。
「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを
願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなた
のために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟は
できております。」しかし、イエスは言われた。「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が
鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」
「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを
願って、結局、祈って、この悪魔の祈りは聞き届けられました。わたしはそれに反対
しません。これは、まことに厳しいつらいことですが、あなたが破産して、本当に自分自身
に絶望するためにはどうしても必要なことです」。
ここで注意していただきたいことは、いろいろな人格の順番、或いは順序です。ここの聖句を見ると、まず「悪魔」、それから「わたし」、即ち「イエス様」です。そして、「シモン・ペテロ」及び「あなたの兄弟たち」、こういう順番になっています。主は、ペテロを通して、彼の兄弟たちを強めようと思われました。けれども、そのためにペテロは砕かれることがどうしても必要でした。そのために、悪魔がペテロを攻撃することになるのですが、その時でも主は、絶えずペテロのために祈ってくださったのです。従って、悪魔は自分がしたいことを何でもするということが出来ません。私たちは、完全に主の御手の中にいるのであり、それは永遠の安全を意味しているのです。ですから、主は悪魔とペテロの間にお立ちになっておられるのです。
ペテロは、本当にすべて失敗してしまいました。彼は最後の土壇場に立たされたのです。そこにはもはや、日常の希望の光も差し込まず、すべての望みが消え失せた全く絶望的な状態が支配しました。けれど、この訓練はペテロにとってどうしても必要でした。ペテロは、もはや自分の力により頼むことが出来なくなってしまったのです。そこから初めて、主は、ペテロをお用いになることが出来ました。その良い例は、五旬節ですけれど、その時、「ペテロを通して三千人以上の人たちが救われた」と聖書にあります。使徒行伝2章に、次のように書かれています。
2章の14節。
そこで、ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々にはっきりとこう言った。
「ユダヤの人々、ならびにエルサレムに住むすべての人々。あなたがたに知っていただき
たいことがあります。どうか、私のことばに耳を貸してください。」
2章37節から41節。
人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどう
したらよいでしょうか。」と言った。そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。
そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを
受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。なぜなら、この約束は、あなた
がたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である
主がお召しになる人々に与えられているからです。」ペテロは、このほかにも多くのことば
をもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい。」と言って彼らに勧めた。
そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子
に加えられた。
とあります。
もう一人は、彼も同じく使徒行伝の中心なる者なのです。パウロであります。パウロも
ペテロと同じように、深みを通っていきました。即ち、3日間、暗やみの中で生きたので
した。そのことを後になって、パウロは次のように証ししたのであります。コリント第二
の手紙の3章。318ページになります。5節と6節です。
何事かを自分のしたことと考える資格が私たち自身にあるというのではありません。
私たちの資格は神からのものです。神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を
下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は
生かすからです。
私たちは皆、実を結ぶ秘訣を知っています。即ち、自分自身を否定し、自分に対して死ぬことです。ヨハネ伝12章の中で、イエス様は、次のように言われました。24節。
まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、
それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。
どこにも多くの重荷に喘いでいる人、いかなる逃れ道をも見出せず、絶望的な状態になっている人がいます。「どうして私はこんなにたくさんの困難を経験しなければならないのでしょうか。どうして私は失敗してしまうのでしょうか」。
おそらくそれは、まだ救いの確信を持たず、「主イエス様こそ私のもの、かけがえのないもの」と言うことが出来ないからではないでしょうか。或いは、もしかすると、それは、あなたの救い主が、あなたをご自分に似た者に造り変えようとしておられるからではないでしょうか。
大切なのは、救われることだけではなく、聖められることです。或いは、それはあなたが今まで主を利用しようとしていた、けれど、今や主があなたを主の御手の中で、ご自身の器としてお用いになろうとしているのではないでしょうか。
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