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メ ッ セ ー ジ ・ 証 し 集


共なる生活の大切さ
   
2003.9.16.(火)
ベック兄メッセージ(メモ)

                        
引用聖句
 エペソ人への手紙 1章15節から19節
   こういうわけで、私は主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対す
  る愛とを聞いて、あなたがたのために絶えず感謝をささげ、あなたがたのことを覚え
  て祈っています。どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、
  神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、
  あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望
  みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、
  神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大
  なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。

 同、3章1節
   こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となった私パ
  ウロが言います。

 同、3章14節から21節
   こういうわけで、私はひざをかがめて、天上と地上で家族と呼ばれるすべてのもの
  の名の元である父の前に祈ります。どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊によ
  り、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。こうしてキ
  リストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてください
  ますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒
  とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つよう
  になり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、
  神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。どうか、私た
  ちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊か
  に施すことのできる方に、教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々
  にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。

 ピリピ人へ手紙 3章8節から12節
   それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆ
  えに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨
  てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、
  キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じ
  る信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができ
  る、という望みがあるからです。私は、キリストとその復活の力を知り、またキリス
  トの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、
  死者の中からの復活に達したいのです。私は、すでに得たのでもなく、すでに完全に
  されているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを
  得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。


 先週、私たちが一緒に学んだテーマは、「どうしても必要な交わり」でした。ヨハネは、当時の信じる者に書いたのです。ヨハネ第一の手紙 1章3節から4節。
   私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私た
  ちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・
  キリストとの交わりです。私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全
  きものとなるためです。

この「全き喜び」の秘訣とは、言うまでもなく主との交わりです。主との交わりがあれば、信じる者との交わりも尊いものになります。すなわち、「信じる者の一致」こそが、考えられないほど大切なのではないかと思います。

 先週、イエス様の体なる教会の誕生について、いわゆる五旬節について、ちょっとだけ話したのですけれども、五旬節の時から、弟子たちは初めて、本当の意味で一つになったのです。確かに、ペテロが中心だったかもしれません。けれども彼が立った時、みな一緒に立ったのです。前もって相談して「一緒に立とう」…そういうことではなかったのです。
十二人の使徒たちは、もはや十二人の一人一人ではなく、十二人が一つ体を成したのです。
 そして、聖書は何と言っているかと言いますと、「人々は、みなを見て…」とあります。「ペテロを見て」と書いていないのです。「人々は、みなを見て驚いた」のです。「みなの説教を聞いた。みなの証しを聞いた」と書いてないのです。十二人は、本当の意味で一つだったのです。「彼らの喜びは、本物である」と、みな認めざるを得なかったのではないでしょうか。

 先週の木曜日、高松で、ある高校の先生にちょっとだけ会える機会があったのです。ご夫婦でした。ぜひ、祈りの中で覚えていてください。K・Hさんと、M・Hさんですけれども、おもに学生のことと、他にもいろいろなことで悩むようになられたのです。私は全然時間がなくて、坂出にある病院まで行かなければならなかったから、車の中でしかお話できないということで、一緒に坂出の病院に入院されているM兄のところまで行ったのです。M兄は、ずっと癌と戦ってきて、今度は再発ですし、いつまで持つか分からないのです。けれども彼は、もちろん精神的にだけですが、元気そのもので、やっぱり楽しい交わりになったのです。それは、今話したH夫婦にとって、非常によかったのです。結局、私の話だけを聞いたのなら、不充分だったと思います。病院に行って、末期癌の状態でも喜んでいるM兄を見た時、「やっぱりさっきの話は、嘘ではなかった」と分かります。このM兄弟は、証拠なるものになったのです。

 土曜日に、U兄弟のところに行きました。彼は脳腫瘍で、もう長くないでしょう。以前、彼はアルコール中毒で、三年前には息子が自殺してしまったのです。やっぱり大いに悩んだ家族です。彼はもう、話せる状態ではありません。けれども全部分かります。「やっぱり彼も、主との交わりを持っているから、悩みながらも喜ぶことができる」と思いました。奥さまである、M子姉妹は、彼の聖書の中に紙きれを見つけたのです。何が書いてあったかと言いますと、「私の人生の目的とは、定年ではない。私の故郷は、天国です」と。素晴らしいことではないでしょうか。
 その前の日曜日に、ある兄弟姉妹が彼のところに行って、一緒に聖さん式、パン裂きの集会を持ったのです。そのとき、彼も小さい声で祈ったのですけれども、その中で彼は、自分のことばかりではなくて、イエス様を知らない人のためにも、心から祈ったそうです。自分の病気のことよりも、周りの人々にもイエス様を知ってもらいたいと。共に悩む兄弟姉妹、共に喜ぶ兄弟姉妹がいると、やっぱり違うのではないでしょうか。

 いま読みました箇所は、全部似ている箇所なのです。一つの題名をつけようと思えば、
『共なる生活の大切さ』と、つけることが出来るのではないかと思います。

 何年か前に、あるところで、非常に素晴らしい集会を持つことができたのです。そこに集まった一人一人が、持っている悩みや苦しみ、信仰の問題を、みな話し合うことができたのです。その時みな、「本当に一つである交わり」を感じ、体験しました。これこそが、信者たちのあり方であると思ったのです。
 一人一人の悩みが、集会の悩みとならなければいけないはずです。「一つの肢体が、すなわち一人の信者が苦しめば、他の肢体、すなわち他の信者たちも、共に苦しむべきである」と聖書は言っているのです。もしそうでなければ、根本的な誤りがどこかにあると言わなくてはならないでしょう。もし一人一人が、自分一人で苦しんでいると、その人は、霊的な成長ができないばかりか、そうすることによって、他の信者みんなに影響がおよんできます。自分の悩みは、みんなの悩みであり、自分の喜びは、他の兄弟姉妹すべての喜びでなければならないはずです。私たちは、誰にも言わないで一人で苦しんでいることがあるでしょうか。
エペソ人への手紙 3章21節。
   教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえま
  でありますように。アーメン。

とあります。私たちは「教会により、すなわち、私たち信じる者の群れによって、栄光が主に帰せられるように」という願いを持っているでしょうか。集会に、どういう目的を持って来ているのでしょうか。ありきたりの交わりを求めて来ているのでしょうか。あるいは、イエス様に御栄えを帰し、共に主のご栄光を拝するために集会に来ているのでしょうか。

 主が私の信仰生活を一歩一歩導き、引き上げてくださったことを思い起こしますと、次のことが言えます。三段階に分けられます。
・第一に、私は救われていない時、救いの確信を持たないままに、聖書を読んだりお祈りをしたりしていました。もちろん救いの確信を持っていませんでしたから、いわゆる信者の他の方々と共に、「自分たちは罪人である」と告白して過ごしていました。決して、「私は罪人である」と、一人主の前に立って、自分の過ちを認め、悔い改めることはしなかったのです。「あの人も罪人。この人も罪人」と、人の中に自分の罪をごまかしていました。
  けれど、それから主が、私の心の目を開いてくださいました。心の目が開かれると、
自分の罪ばかりしか目に入りません。それで私は絶望し、自殺しようとしました。ですが幸いにも、私の恐るべき罪は十字架の上にイエス様が負いたまい、もうすでに解決さ 
 れていることを知ったのでした。

・ 第二に、その翌日、私は救われたことを知り、救いの喜びを覚えました。その日、この
 喜びをすぐ他の人に証ししました。私はそれまで罪人であるということを分かっていま
 した。ですが、罪を赦され、救われた時、それを公にし、「イエス様は救い主である」と
 いう、この大きな喜びを言い表わすことができたのです。主は、私にとって、日増しに偉大なお方となっていきました。そして、前に読んでもらいました箇所なのですけれども、エペソ人への手紙 1章3節から15節までが、私の身に起こったことであることを知った時、私はこのエペソ人への手紙の箇所の「私たち」というところを消して、「私」と書き直しました。実に、驚くべき幸いな救いでした。
  それからの八年間、私は救われ、きよめられるこの喜びが、私のすべてでした。

・ 第三に、何十年か後で、エペソ人への手紙1章3節からの言葉に、なぜ「私たち」と複数形で書いてあり、「私」と単数形で書いてないか、その意味がようやく分かりました。私たち兄弟姉妹が一つになり、イエス様のご臨在を現わし、証しするために、私たち信者が一つになっていることが、主にとってどんなに大切なことであるかが分かるようになりました。

 ですから、各々の信者が他の信者と共にする生活の大切さは、考えられないほど重要なのではないでしょうか。「本当の教会」、すなわち「救われた兄弟姉妹の群れ」は、霊的成長の場所、証しの場所、戦いの場所、満たされる場所であるべきです。
 使徒の働きの3章4章の、「いやされた足なえ」のたとえを通して、いやされた足なえは、主を知り主のもとに来て救われた時、自分は知らなかったけれど、自然に「教会」、すなわち「救われた兄弟姉妹の群れ」に加えられていたことを見、経験しました。どうしてでしょうか。「主のところに行った」ということは、「主と一つになった」ことを意味し、「主イエス様をかしらとする肢体に加えられた」ことを意味します。かしらと肢体は分けることができません。
 従って、いわゆる「教会の見方」が問題ではないのではなく、「主イエス様ご自身を知ること」が問題となってきます。もし、これを心の深くに見ることができず、また知ることができなければ、前へ進むことができないでしょう。

 新約聖書を見ると、初代教会はこの世の政府から全く離れ、組織や規則に縛られていませんでした。御霊だけが導き手でした。もし、この御霊の統制と導きがなければ、人間の作った組織や規則が確かに必要となります。「独立教会」と言いますが、この「独立」という意味は、「自分勝手な、思うがままの生き方をするために自由を持っている」という「独立」ではなく、「御霊だけが支配できる」ための「独立」を意味しています。
 まことの体なる教会の使命は、誰か他の人が私たちの群れに入って来るなら、私たちは「一つの教えを信じ込んだ人々」であるよりも、「私たちのうちに、現実に主イエス様がご臨在しておられる」ということを感じさせる、そのような「生きた群れ」となるのが目的です。 

 主の恵みによって救われた者は、かしらをイエス様とする肢体です。そして、イエス様はこの肢体を通して、ご自分のご栄光を現わそうとしておられます。いやむしろ、主イエス様は、私たち信者を通してだけしか、ご自身を現わすことができません。私たちは、主の御栄えを現わす使命を負わせられているのです。私たちが主の細い御声を聞き、みこころを心に留めることができますように。その時に、初めて私たちの群れ、「主の体なる教会」が霊的成長をし、実り多い証し、ひたすらなる祈りの戦い、また想像にあまる満たしの場となることができると経験するようになります。
 私たちは、主の満たしを自分一人で経験することはできないのであり、どうしてもお互いに経験しなければなりません。従って、信者が一緒になってする生活は、非常に大切であり、非常に尊い価値あるものと言わなければならないのであります。この救われた者たちの交わりは、理論ではなく、各々が経験すべきものであり、また、経験し得るものです。パウロは、それをエペソ人への手紙に述べております。

 パウロの生涯を、少し見てみましょうか。彼は、なぜユダヤ教から離れたのでしょうか。
彼は聖書の教えを耳にし、読み、かつ学び、それからユダヤ教と比べ、聖書の教えをよりよい宗教として選んだのでしょうか。決して、そうではありません。主イエス様と共に受けた、「新しいいのち」そのものが、自然に、パウロをして、ユダヤ教から脱皮せしめたのでした。彼には、理論は一つもありませんでした。経験があるのみです。
 パウロは、死といのちを知っていました。なぜなら、パウロ自身、死に勝つ「よみがえりの力」を自分のものとして経験していたからです。
 またパウロは、「主の支配」を、理論的にではなく、実際に知っていました。それは、パウロが実際に、主を主として認め、おのれを主の奴隷として生活した、それを見て明らかです。前に読んでもらいました、エペソ人への手紙 4章1節。
   さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召
  しにふさわしく歩みなさい。

「イエス様の囚人である私は」とあります。その前の、3章1節。
   こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となった私パ
  ウロが言います。

 パウロは、ローマの暴君であるネロによって囚われた時、「自分は、ネロの囚われ人である」とは、彼は言わなかったのです。パウロは、心からなる喜びをもって、「私は、イエス様に囚われた。主イエス様の囚人である」と、喜んで証ししたのであります。

 これと同じように、パウロは「主の体なる教会」に対しても、理論的に学んだのではなく、体験的に教えられたのであります。
 パウロはかつて、サウロと呼ばれていた時、主によって救われた人々を迫害しようと息をはずませ、ダマスコの道を急いでいました。彼はその時、主イエス様を迫害しようとはもちろん考えていなかったはずです。イエス様は、その時にはもうすでに地上におられなかったからです。しかしその時、どうだったでしょう。主はパウロに現われ、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」と仰せられました。「なぜ信者を迫害するのか」とは言われなかったのです。「なぜわたしを迫害するのか」と仰せられました。この時、パウロは高く天に座したもう主イエス様と、地上の信じる者たちとは、全く一つのものであることを薄々ながら感じとったに違いありません。
 それからというものパウロは、「自分は、何かあるものの一部分に過ぎない」。すなわち、「主イエス様の体なる教会の一部分に過ぎない」ということをだんだん知るようになったのです。彼は、最初はやはり少ししか主を知りませんでした。けれども、イエス様を知り、「もっとイエス様を知りたい」と心から願った時、もっと主を知るためには、他の救われた兄弟姉妹と共にいなければならない、ということをも知るようになったのです。
 パウロがダマスコの道すがら、主に出逢ってから、パウロのところに普通の信者である一人の兄弟が来て、「兄弟サウロよ。主イエスが、私をあなたのところにお遣わしになりました」と言いました。パウロは、回心したその第一歩から、一人の兄弟、すなわち他の信者と、関わり合いを持ったわけです。ただ一人では、決して前に進むことができなかったのです。  
 私たちも、今までの信仰生活を静かに振り返って考えるなら、どんなに多くの事柄を他
の兄弟姉妹に負っているのかがよく分かります。また逆に、一人で何かをやろうとして失敗に終わったことも多くありました。
 パウロは、突然現われた兄弟に向かって、「あなたは何者ですか。私はあなたと何の関わりがあるでしょうか。私は、自分一人で主を知ったのです」とは言いませんでした。パウロは主イエス様に、確かに直接会いましたが、兄弟であるアナニヤの助けと奉仕がなかったなら、信仰の第一歩すら踏み出すことができなかったのではないでしょうか。従って、パウロはまことの「主の体なる教会」、すなわち「信じる者の集い」は、いかに大切なものであるかということを知るようになったのです。
 彼は、自分が洗礼を受けた日より、「自分は、ただ単に『主の体なる教会』の一つの部分にしか過ぎない。イエス様こそ、ご自分の教会のかしら、支配者であり、導き手であられる」ということを知るようになったのです。パウロは、「主の体である全世界の教会」を見た時、「自分は、主を見た」という誇りは、どこかに消え去り、「自分は、いかに小さな存在であるか」を知るに至ったのです。
 私たちは、主に対する知識が大切であることをよく知っていますが、もし、この「偉大なる教会」を見るに至るならば、また主イエス様を教会のかしらとして見るならば、私たちの持てる主イエス様に対する知識は、いかに卑小であるかを知るに至ります。
 彼は、ローマ人への手紙の中で次のように書いたのです。ローマ人への手紙 1章11節から12節。
   私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでもあなたがた
  に分けて、あなたがたを強くしたいからです。というよりも、あなたがたの間にいて、
  あなたがたと私との互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。

結局、パウロは他の兄弟姉妹との交わりの大切さをよりよく知っていました。成長のためにお互いの助けを必要としています。エペソ人への手紙 3章18節。ここにも、「共に」という表現が出てきます。
   すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解す
  る力を持つようになり、

とあります。パウロは、このようにとりなして祈ったのですが、原語では、「理解する力を
持つように」だけではなく、「完全に知るように」と書かれています。
 イエス様を、「完全に知りたい」と願わないでしょうか。私たちは少ししか持っていない主を知る知識で、満足していてよいものなのでしょうか。それとももっともっと、イエス様を「完全に知りたい」のでしょうか。
 4〜5年信仰生活を送っている者は、もうすでに主を知り得たように考えてしまいます。パウロは、「今ようやく主を知り始めた」と言っています。読んでもらいました箇所ですけれども、ピリピ人への手紙 3章12節で、パウロは、正直に次のように書いたのです。ネロによって捕らえられた者としてではなく、確かにローマの刑務所の中だったのですけれども、彼はイエス様の囚人として書いたのです。
   私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕
  えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエス
  が私を捕えてくださったのです。

主を「完全に知りたい」、これが私たちの目指す目的でなければならないのです。よく引用
する箇所ですけれども、エペソ人への手紙 1章23節。
   教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす
  方の満ちておられるところです。

この説明は、「全き完全なる主イエス様」について書かれている箇所です。全てのものを、全てのもののうちに満たしておられる、完全なる主イエスの姿が描かれています。イエス様は、全てのうちに、「ご自身の体なる教会」に満ちようとされ、それを満たしめようと願っておられるお方です。「教会」は、「主イエス様の満たし」です。
 イエス様を「完全に知る」には、「他の信者と共にする生活」が大切です。だから、パウロは前に読みましたエペソ人への手紙3章18節で強調したのです。すなわち、「すべての聖徒とともに」。このイエス様を「完全に知る」には、「他の信者と共にする生活」が大切です。「すべての聖徒と共に」なければ、主は本当の意味で用いられ得ないのです。 
 私たち、主の恵みによって救われた一人一人が、「もっとイエス様を知りたい」と願っていることは確かです。しかし、一人ではそれがどうしてもできないということを、よく知
っているでしょうか。あなたは、自分一人で主を知りたく願っておられることでしょう。けれども、もしそうなら、あなたは一人で何とかしようともがいていることになり、まことの心の成長を遂げることができない結果になるのではないでしょうか。
 もちろん、こう言っては誤解を招くことになるかもしれません。個人的に、主は導き、霊性を高めてくださいます。一人で聖書を読み、静かに黙想する時も、もちろん大切です。
けれどその時、他の兄弟姉妹にも考えがおよばなければならないということです。
 主イエス様は、一人一人を見られるとともに、「体なる教会」を見ておられます。「わたしは、わたしの教会を建てよう」とイエス様は言われたのです。私たち、救われた兄弟姉
妹の群れは、もっと、共に主を知り、共に祝福にあずかるように祈りたいものです。
 私たちは、主を知れば知るほど、主についてほとんど知っていないということを告白せ
ざるを得ません。もし、おのれの成長、心配だけを考え、他の兄弟姉妹に考えがおよばないなら、「すでに自分は得ている」という自己満足のところに追い込まれてしまいます。「他の信者と共にする生活」の結果は、主をほんの少ししか、まだ知っていないというところに私たちを置きます。

 マタイの福音書 11章29節でイエス様は次のように言われました。
   わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、
  わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。

と、イエス様は約束しておられます。そしてパウロは、前に読みました箇所ですけれど、
エペソ人への手紙 4章2節に、
   謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い…なさい。

とあります。これを考えてみると、主を知ることと謙遜と柔和には、深い関係があること
を知るのです。
 けれど、私たちは他の信者との交わりをなしにして、柔和と謙遜を持ちたもうイエス様
を知ることはできません。もし、あなたが一人ぼっちで生活するなら、柔和と謙遜の尺度
がなくなります。私たちは、何と高ぶった者でしょう。私たちは、心の底から高ぶる者であり、誇れる者であります。謙遜そうに見える人は、大いにして高ぶる人です。
 それでは、一体どうしたら謙遜になれるのでしょうか。傲慢を治す薬があるのでしょう
か。あります。それは「他の信者と共にする生活」です。けれども、集会に来て、隣に座って話を聞く、それは「他の信者と共にする生活」ではないでしょう。「共にする生活」とは、「信者お互いが、喜びと悲しみを共にする生活」を言います。また、「同じ目的を目指す生活」を言います。

 救われた兄弟姉妹の群れは、お互いの霊的成長の場所、また証しの場所、主を礼拝する場所であります。もし、それが心から分かると本当に幸いです。これは具体的な現われとして、自分の興味、願い、目的を否定することを意味するかもしれません。
 これは、言うことは簡単ですが、実際になるとおのれが頭をもたげ、またもや不幸になってしまうといった具合に、なかなか難しいことです。おのれの生まれながらの性質、古き人、おのれの考え、おのれの目的、これらは信者の交わりにとって邪魔ものです。逆に「信者の交わり」は、これら古き性質、おのれの考えや目的にとって、恐るべきものです。

 天上にいる主イエス様を知ることと、地上にいる兄弟姉妹のうちに宿っておられるイエス様を知ることは、全く同じことです。
あなたは一人一人の兄弟姉妹のうちに、イエス様を見ておられるでしょうか。あなたは、他の兄弟姉妹とともどもに、「イエス様をよりよく知ろう」と心から望んでおられるでしょうか。遠く離れていて、相い愛することは、極めて簡単でしょう。けれど、共に生活して、お互いに愛することは極めて大変です。

 何か自分が「役割を演じたい」という古い性質は、全く打ち砕かれなければなりません。
そうなるためには、「信者と共なる生活」が必要です。私たちは今、主を追い求め始めました。パウロでさえ告白しています。前に読みました箇所、ピリピ人への手紙 3章12節。
   私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕
  えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエス
  が私を捕えてくださったのです。

 最後の結果は、どういうものなのでしょう。それは前に読みました、エペソ人への手紙 3章21節にあるように、
   教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえま
  でありますように。アーメン。

ということになります。「私たち一人一人にではなく、主イエス様に栄光があるように」。主の御目から見ると、「体なる教会」は、あの信者この信者という複数ではなく、ただ一つの人格、「主イエス様御一方」です。イエス様だけが、父のみこころにかなうお方であり、私たちはイエス様の体の一部としてのみ、主のみこころにかなう者になることができるわけです。

 旧約聖書を見ると、聖なるものがその宮に満ちた時、そこにとどまり得た人間はいなかったのです。みんな宮から離れ、逃げ行かなければいけなかったのです。
 もし聖霊の宮で、すなわち兄弟姉妹の群れで、何か「役割を演じよう」と試みるなら、
その人は動きがとれなくなってしまうのです。そして主は、もちろん働くことがおできになりません。
 「まことの教会」は、多くの人々ではなく、ただ一人のお方、「主イエス様ご自身」であり、私たちはその肢体の一部分に過ぎません。
 「まことの教会」におけるご奉仕も、これと全く同じです。イエス様は信者たちの絶対
的な支配者です。ですから、イエス様が人をして、伝道者とし、あるいは面倒をみる者、共に悩む者、イエス様だけを示す者たちをお立てになるのです。なぜ、ある人は福音を公に宣べ伝える者となり、ある人は日曜学校でイエス様のことを話すのでしょうか。それらの人は神学校を卒業したのでしょうか。または、生まれながらにして能力があるのでしょうか。決してそうではありません。イエス様によって捕らえられた主のしもべ、また自分の全き無能力を深く知り、日々御霊に導かれる人が、それなのではないでしょうか。
自分は全く駄目な破産者であり、おのれの動機と考えを憎むことを心から知り、信者の交わりのうちに自分が見えなくなることを、そして、栄光が主にのみ帰せられることを喜ぶことができる人は、必ず用いられるようになります。
 主が、ご自身の栄光のために、私たちをそこにまで導いてくだされば、本当に幸いと思
います。

                                     了 
                         



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◆メッセージ(ベック兄)

※一部、テープの転換による不明部分あり

神のみことばは神のみことばである(5) 2006. 4. 18
神のみことばは神のみことばである(4) 2006. 4. 11
神のみことばは神のみことばである(3) 2006. 4. 4
神のみことばは神のみことばである(2) 2006. 3. 21
家族の救い 2006. 3. 19
神のみことばは神のみことばである(1) 2006. 3. 14
主イエスは神の子キリストである(4) 2006. 3. 7
主イエスは神の子キリストである(3) 2006. 2. 28
主イエスは神の子キリストである(2) 2006. 2. 14
主イエスは神の子キリストである(1) 2006. 2. 7
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