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メ ッ セ ー ジ ・ 証 し 集


祈りをしている教会
   
2003.9.30.(火)
ベック兄メッセージ(メモ)

                        
引用聖句
 使徒行伝11章19節から13章3節。
   さて、ステパノのことから起こった迫害によって散らされた人々は、フェニキヤ、キプロス、
  アンテオケまでも進んで行ったが、ユダヤ人以外の者にはだれにも、みことばを語らなか
  った。ところが、その中にキプロス人とクレネ人が幾人かいて、アンテオケに来てからは
  ギリシヤ人にも語りかけ、主イエスのことを宣べ伝えた。そして、主の御手が彼らとともに
  あったので、大ぜいの人が信じて主に立ち返った。この知らせが、エルサレムにある教会
  に聞こえたので、彼らはバルナバをアンテオケに派遣した。彼はそこに到着したとき、神の
  恵みを見て喜び、みなが心を堅く保って、常に主にとどまっているようにと励ました。彼は
  りっぱな人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。こうして、大ぜいの人が主に導か
  れた。バルナバはサウロを捜しにタルソへ行き、彼に会って、アンテオケに連れて来た。そ
  して、まる一年の間、彼らは教会に集まり、大ぜいの人たちを教えた。弟子たちは、アンテ
  オケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。そのころ、預言者たちがエルサレム
  からアンテオケに下って来た。その中のひとりでアガボという人が立って、世界中に大きき
  んが起こると御霊によって預言したが、はたしてそれがクラウデオの治世に起こった。そこ
   で、弟子たちは、それぞれの力に応じて、ユダヤに住んでいる兄弟たちに救援の物を
  送ることに決めた。 彼らはそれを実行して、バルナバとサウロの手によって長老たちに送
  った。
  そのころ、ヘロデ王は、教会の中のある人々を苦しめようとして、その手を伸ばし、ヨハネ
  の兄弟ヤコブを剣で殺した。それがユダヤ人の気に入ったのを見て、次にはペテロをも
  捕えにかかった。それは、種なしパンの祝いの時期であった。 ヘロデはペテロを捕えて牢
  に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた。それは、過越の祭りの後に、民
  の前に引き出す考えであったからである。こうしてペテロは牢に閉じ込められていた。教会
  は彼のために、神に熱心に祈り続けていた。ところでヘロデが彼を引き出そうとしていた日
  の前夜、ペテロは二本の鎖につながれてふたりの兵士の間で寝ており、戸口には番兵
  たちが牢を監視していた。すると突然、主の御使いが現われ、光が牢を照らした。御使い
  はペテロのわき腹をたたいて彼を起こし、「急いで立ち上がりなさい。」と言った。すると、
  鎖が彼の手から落ちた。そして御使いが、「帯を締めて、くつをはきなさい。」と言うので、
  彼はそのとおりにした。すると、「上着を着て、私について来なさい。」と言った。そこで、外
  に出て、御使いについて行った。彼には御使いのしている事が現実の事だとはわからず、
  幻を見ているのだと思われた。
  彼らが、第一、第二の衛所を通り、町に通じる鉄の門まで来ると、門がひとりでに開いた。  そこで、彼らは外に出て、ある通りを進んで行くと、御使いは、たちまち彼を離れた。そのと
  き、ペテロは我に返って言った。「今、確かにわかった。主は御使いを遣わして、ヘロデの
  手から、また、ユダヤ人たちが待ち構えていたすべての災いから、私を救い出してくださっ
  たのだ。」こうとわかったので、ペテロは、マルコと呼ばれているヨハネの母マリヤの家へ
  行った。そこには大ぜいの人が集まって、祈っていた。彼が入口の戸をたたくと、ロダと
  いう女中が応対に出て来た。ところが、ペテロの声だとわかると、喜びのあまり門を開けも
  しないで、奥へ駆け込み、ペテロが門の外に立っていることをみなに知らせた。 彼らは、「
  あなたは気が狂っているのだ。」と言ったが、彼女は本当だと言い張った。そこで彼らは、
  「それは彼の御使いだ。」と言っていた。しかし、ペテロはたたき続けていた。彼らが門を
  開けると、そこにペテロがいたので、非常に驚いた。しかし彼は、手ぶりで彼らを静かに
  させ、主がどのようにして牢から救い出してくださったかを、彼らに話して聞かせた。それ
  から、「このことをヤコブと兄弟たちに知らせてください。」と言って、ほかの所へ出て
  行った。さて、朝になると、ペテロはどうなったのかと、兵士たちの間に大騒ぎが起こった。
  ヘロデは彼を捜したが見つけることができないので、番兵たちを取り調べ、彼らを処刑する
  ように命じ、そして、ユダヤからカイザリヤに下って行って、そこに滞在した。 さて、ヘロデ
  はツロとシドンの人々に対して強い敵意を抱いていた。そこで彼らはみなでそろって彼をた
  ずね、王の侍従ブラストに取り入って和解を求めた。その地方は王の国から食糧を得てい
  たからである。定められた日に、ヘロデは王服を着けて、王座に着き、彼らに向かって
  演説を始めた。そこで民衆は、「神の声だ。人間の声ではない。」と叫び続けた。すると
  たちまち、主の使いがヘロデを打った。ヘロデが神に栄光を帰さなかったからである。彼は
  虫にかまれて息が絶えた。主のみことばは、ますます盛んになり、広まって行った。任務
  を果たしたバルナバとサウロは、マルコと呼ばれるヨハネを連れて、エルサレムから帰って
  来た。
  さて、アンテオケには、そこにある教会に、バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ
  人ルキオ、国主ヘロデの乳兄弟マナエン、サウロなどという預言者や教師がいた。彼らが
  主を礼拝し、断食をしていると、聖霊が、「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、 
  わたしが召した任務につかせなさい。」と言われた。そこで彼らは、断食と祈りをして、
  ふたりの上に手を置いてから、送り出した。


 今日の題名は、『祈りをしている教会』です。人間はいろいろなことで悩みます。どうしたらいいのかと尋ねる人もいるのですが、皆わかっているのです。いつも、自分で最後に答えます。「祈りしかないですね」と。もちろんその通りです。聖書とは、勉強しなければならない教科書ではないのです。ただ、祈りへの呼びかけです。

人間はいろいろな悩みを、苦しみを持っているのです。どうしてであるかと言いますと、祈りの材料として与えられているからです。祈ったら何を経験するのかと言いますと、「主は生きておられる」ということです。祈ろうとしないと、救いはありません。「求めよ、そうすれば与えられます」とあります。
聖書の中で最も短い祈りは、「神さま、こんな罪人の私をあわれんでください」です。
一言だけです。そして、この祈りをささげた人は神によって良しとされ、救われたのです。一言だけ祈って救われるなんて、そんなことなのかと思う人もいるかもしれない。けれども、そうなのです。人間は自分の救いのために、何もすることができません。罪滅ぼしのために何をやっても無駄です。どうして人間がそんなに簡単に救われるのかと言いますと、イエス様にとって簡単ではなかったからです。未信者にとってだけではなく、信者にとっても最も大切なのは、やはり祈ることです。確かに浅薄な祈りがよくささげられますが、私たちのきわだっている特徴は、「主のみこころにかなった祈り」ではないでしょうか。

いったいどうして多くの信じる者は、イエス様をよりよく知ることが出来ないのでしょうか。主はどうしてもっともっと力ある業を行なうことがお出来にならないのでしょうか。どうしてある兄弟姉妹は集会から急に姿を消してしまい、共に主を知りたいと望まないのでしょうか。私たちが祈らなかったからです。みこころにかなう祈りをささげなかったからです。祈りの不足は、悪魔の勝利を意味しているのです。
私たちは、新たに自分の罪を認めることができれば幸いだと思います。そのためには、主のみこころにかなった模範的な祈りをささげることが大切です。そして模範的に祈っている教会を観察すると、よくわかります。ですから今日のテーマは、『祈りをしている教会』であります。

今、兄弟がお読みになりました、使徒行伝12章に書かれている祈り会の結果はとても重要でした。ペテロの解放、エルサレムで起こった出来事だけではなく、24節のように、「主のことばは、ますます盛んになり、広まって行った」のです。すなわち、全世界に、福音が盛んに広められました。
12章の1節。
   そのころ、ヘロデ王は、教会の中のある人々を苦しめようとして、その手を伸ばし…

と書いてあります。「そのころ」とありますが、いったい何の頃だったのでしょうか。
それは大いなる祝福と霊的な勝利の時期でした。多くの人々が回心を経験し、兄弟姉妹たちが喜びながら主を賛美し、前進した頃でした。パウロとバルナバは約1年間アンテオケの教会で一生懸命奉仕して、主の祝福を豊かに体験することができたのです。アンテオケの兄弟姉妹たちが主にあって喜んで交わりをしていたとき、「そのころ、預言者たちがエルサレムからアンテオケに下って来た」と書いてあります。そして御霊によって、「大飢饉が起こるだろう」と預言しました。これは、実際的な挑戦を意味していました。すなわち、祝福されたアンテオケの信者たちは何をするのでしょうか。エルサレムに住んでいる兄弟姉妹たちを助けるのでしょうか。エルサレムの教会は、飢饉によってひどい目に会ったのです。
 使徒行伝11章の29節。
   そこで、弟子たちは、それぞれの力に応じて、ユダヤに住んでいる兄弟たちに救援の物
  を送ることに決めた。

とあります。彼らは、「私たちは心を尽くして兄弟たちを助けなければならない」と決心したのです。アンテオケの信者たちは、「私たちは、エルサレムから遠く離れている独立の信者の群れだ。こんなことは私たちの責任ではないのだ」と議論しなかったのです。まことの主の祝福があったら、いつも、全世界の兄弟姉妹に対する愛があります。
29節。
   ユダヤに住んでいる兄弟たちに救援の物を送ることに決めた。彼らはそれを実行して、
  バルナバとサウロの手によって長老たちに送った。

こういうふうに、バルナバとサウロは、起こった危機によってエルサレムに行ったわけです。もしアンテオケの祝福された信者たちが、「私たちはエルサレムから遠く離れているから。まったく独立した信者の群れだから…」と考えたなら、サウロとバルナバはエルサレムに行かなかったでしょう。またエルサレムで行われた主の力ある業を経験しなかったでしょう。アンテオケの兄弟は必ずや束縛されたでしょう。又、サウロとバルナバは宣教師として出かけなかったでしょう。
御霊に対する従順は、何という大切なことでありましょうか。その出来事によって一つのことは明らかです。すなわち、私たちの個人個人の問題や困難は、主とのもっともっと大きな活動との関係を持っているということです。アンテオケの教会は、主の豊かな祝福を経験し、主との親しい交わりを味わい、聖霊の御声に従い、エルサレムに住んでいる兄弟姉妹に援助を送ることに決めた時に、そのころ、ヘロデ王はエルサレムにある教会の者たちに圧迫の手を伸ばしていたのです。
ご存知のように、このヘロデ王の攻撃は、結局悪魔の攻撃でした。彼は用いられた器に過ぎなかったのです。主が教会に新しい啓示、新しい祝福、新しい愛と勝利を与えられると、悪魔はいつも激怒して攻撃します。そして、私たちは、何としばしばそのことにびっくりすることでしょう。何か起こると、すぐ、「私は失敗したのでしょうか、私が悪かったのでしょうか、私のせいだったのでしょうか」と考えるのです。ヘロデ王は教会の長老であるヤコブを、イエス様の血肉の弟ですけれど、このヤコブを剣で殺して、又、ペテロも捕らえて獄に投じたのです。ところがこの兄弟姉妹たちは驚きませんでした。私たちのせいではないかとたずねませんでした。彼らは、これは人間の単なる努力ではなく悪魔の攻撃であることがわかったからです。
ヤコブは剣で切り殺されました。ペテロは捕らえられ、獄に投じられたのです。「ペテロは獄に入れられていた」と書いてあります。ペテロの状態は、全く望みのない状態でした。信者たちはどうすることもできなかったのです。
12章4節。
   ヘロデはペテロを捕らえて牢に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた。
  それは、過越の祭の後に、民の前に引き出す考えであったからである。

たしかに見込みのない状態でした。けれども5節の後半に、「教会は彼のために、熱心に祈り続けていた」とあります。祈っただけではなく、「祈り続けていた」。ヘロデや悪魔の攻撃に対する教会の答えは、熱心な祈りでした。獄に入れられているペテロだけが問題ではなかったのです。ペテロの奉仕も獄に投じられたのですから。けれど、教会では熱心な祈りが主にささげられました。確かに「鎖」、「兵卒」、「番兵」があったのです。それにもかかわらず、教会では熱心な祈りが主にささげられたのです。「第一と第二の衛所」、また「鉄の門」があったのですけれども、教会では熱心な祈りが主にささげられたのです。主の使いは、この鉄の門を開けませんでした。聖書は、10節ですが、「門がひとりでに開いた」と言っています。すなわち、熱心な祈りによって開かれたのです。

三つの点について簡単に考えたいと思います。
 第1番目、教会の祈り。
 第2番目、主にささげられた祈り。
 第3番目、ペテロのための熱心な祈り。

まず、第1番目に、「教会の祈り」について考えたいと思います。
聖書は、ペテロの祈りについて語っているのではなく、教会の、すなわち兄弟姉妹の祈りについて語っています。ペテロは、自分の危険についてよく知っていました。ところがすべてのことを委ねて、ぐっすり眠ってしまったのです。これは、主に対する本当の信頼の現われなのではないでしょうか。もし、明日の朝切り殺されるということがわかったら、私たちはおそらく眠れないのではないでしょうか。ここで、「教会では彼のために熱心な祈りが主にささげられた」と書いてあります。私たちはこの祈り会に出席している兄弟姉妹の名前を知りません。それはどうでもいいからです。おそらく、アンテオケから派遣されたサウロとバルナバも出席していたでしょう。けれども、このような長老たちが大切なのではなく、単なる祈りも問題を解決する道具ではない。問題なのは、教会全体の祈りです。
悪魔の攻撃に対する解決は、教会の能動的な祈りです。悪魔は今も変わりません。悪魔は、今日もヘロデたちによって私たちを攻撃するのです。主の道、主の方法に対する反対者は多くあります。けれども、私たちの愛する主も変わられません。イエス様は、昨日も今日もいつまでも変わらないお方です。だから私たちは心から喜ぶことができます。主は、今日も祈りを聞きとどけられるお方です。また、まことの教会も変わりません。
まことの教会は霊的な一致を意味しています。聖霊の力によって生きている霊的な一致は、まことの教会です。この教会は変わりません。そして、私たちもこの教会に属している肢体であると考えると、本当に喜ぶことができるのではないでしょうか。
ここで、「教会では熱心な祈りが主にささげられた」とあります。まことの教会の仕事や、教会の奉仕は、熱心な祈りなのではないでしょうか。当時の兄弟姉妹は、実際的に私たちはどうすることもできないという事実を認めたのです。彼らは、だからこそ徹底的に主の助けを頼ったのです。主ご自身が奇蹟を行なわれなければ、見込みがない。だからこそ、教会では熱心な祈りが主にささげられたのです。彼らは熱心に心から祈ったのです。どうしてでしょうか。ちょうど、毎週の祈り会だったからでしょうか。そして、誰も祈らなかったら、ちょっと変だからと考えたのでしょうか。決してそうではない。彼らはどうしても主の助けが必要だったからです。もし、主ご自身が力ある業を行われなければ、私たちはもうおしまいです。見込みのない状態に陥ってしまうと、彼らははっきりわかったのです。私たちの祈りは何としばしば、義務的な祈り、浅薄な祈りになっているのではないでしょうか。私たちは悩んでいる兄弟姉妹、困っている兄弟姉妹と共に悩み、彼らのために熱心な祈りをささげているのでしょうか。
 パウロはガラテヤ地方にいる兄弟姉妹に次のように書いたのです。ガラテヤ書6章2節です。一文章だけですけれども大切な文章です。
   互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。

「目に塗る目薬を買いなさい」と、主は言っておられます。自分のことばかり考えると、主の望まれる祈りが沸いてこないでしょう。希望を失った兄弟姉妹、絶望している兄弟姉妹の回復のために、どうしても教会全体の祈りが必要です。もし、主が彼らの心の目を新しく開けられなければ、彼らは、また私たちも、見込みのない状態に陥ってしまいます。あの兄弟姉妹に対する責任は自分のものではないと考えたら、本当に災いです。
私たちが主に祝福された者であるなら、これで充分だと思う人が多いのではないでしょうか。けれど、それはあり得ないことです。不幸への早道です。体の血がちょっとだけ止まったら、体全部が、それを直ぐ感じるでしょう。一人の信者の信仰生活が制限されたら、教会全部がそれを感じるでしょう。体の肢体の一つだけでも病気だったら、体全部が病気なのです。二人の信者だけでも統一を持っていなかったら、教会全部が前進しません。教会全体の祈りは本当に大切です。

 第二番目、「主ご自身にささげられた祈り」という点について、ちょっと考えましょう。
12章5節に、
  「教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた」

とあります。この最後の二つのことば、すなわち、「主なる神にささげられた」というのは、そんなに大切ではないと考えている人もいるかもしれない。あるいは、私たちは偶像礼拝者ではないから、主にささげられた祈りは当たり前なのではないかと思う人もいるかもしれません。
まことの祈りは、主にさげられた祈りです。当時の信者たちの祈りは、主ご自身にささ
げられた祈り、また煩悶から出た叫びでした。偽善的な祈り、また習慣的な祈りは恐ろしいものです。傲慢はひどいものです。恐ろしいものですが、祈りの場合には、この傲慢は2倍の醜さを表わします。私たちはどういう態度で祈るのでしょうか。人から褒められるためなのでしょうか。祈るとき、自分自身を、また他の兄弟姉妹を意識しているのでしょうか。あるいは、主のみを見ているのでしょうか。私たちの内に熱心な祈りがあるのでしょうか。自分で祈るときは一生懸命祈るのでしょうけれど、他の兄弟姉妹が祈るとき、私たちは、他の兄弟姉妹と一緒に心を合わせて祈るのでしょうか。この兄弟に対して、あの姉妹に対して、批判的な態度を取るのでしょうか。
はっきり言えることは、エルサレムにいる兄弟姉妹は皆一つでした。バルナバやサウロはとっても素晴らしい祈りのことばを使ったか、年寄りのおばあちゃんが非常に恥ずかしそうに祈ったか、兄弟が熱心に祈ったか、姉妹が声を出さないで祈ったか、私たちは知りません。けれど、彼らは皆一つでした。
以前、喜んで集会に来て、共に賛美し、主のために生きたいと思っていた兄弟姉妹が、集会に来なくなりました。どうしてなのか全くわかりません。けれども彼らは喜びも平安も、今持っていないはずです。私たちはこういう兄弟姉妹に対して無関心なのでしょうか。毎日、彼らのために熱心に祈るようになっているでしょうか。信じる者の無関心によって、悪魔は勝利を得ます。エルサレムにいる人々について書かれています。すなわち、「教会では彼のために、熱心な祈りが神にささげられた」と。私たちも一つになって、熱心に、悩んでいる、困っている兄弟姉妹のために祈ろうではありませんか。エルサレムにいる兄弟姉妹は、一つになって共に祈りました。また、彼らは主ご自身に祈ったのです。他の人を意識しないで、主だけを仰ぎ見たのです。

 第三番目、エルサレムにいる兄弟姉妹によって、「ペテロのために熱心な祈り」がささげられたとあります。ご存知のように、大飢饉のあとで大迫害が続いて来ました。ヤコブは剣で切り殺されました。また、ペテロは獄に入れられたのです。次の朝、ペテロも同じく殺される予定でした。これは教会全体のための何と厳しい信仰の試練、何という恐ろしい試みだったでしょう。悪魔は、信じる者たちを不安や絶望に落とし入れようと努力したでしょう。確かにペテロだけが獄に入れられていましたけれど、これは、教会全体のための恐ろしい試練でした。兄弟姉妹は、「ペテロは明日殺されるだろう、もう駄目だ。あきらめた方がいいのではないか」と考えないで、「熱心な祈りが主にささげられた」と書いてあります。エルサレムにいる兄弟姉妹は、ペテロのために熱心に祈りました。もちろん、このペテロも、決して完全ではなかったのです。彼も失敗し、過ちを犯したに違いない。けれども、兄弟姉妹は、「ペテロはもう少し注意したらよかった。彼自身のせいだ」などとは、決して考えなかったのです。あらゆる議論、あらゆる疑いは、悪魔の働きの結果です。信じる者の一致を壊そうとするのは悪魔の目的です。けれどエルサレムの兄弟姉妹が信仰によって一つになって、ペテロのために熱心に祈りました。彼らはペテロと共に悩んだからです。
確かに、私たちは今、当時の信じる者たちの迫害を経験しないでしょうが、毎日悪魔の憎しみを感じます。信じる者の霊的な交わりを駄目にするために、悪魔はあらゆる手段を用いて攻撃して来ます。批判、または疑いによって、本当の交わりは不可能になります。悪魔の目的とは、私たちが信仰や希望を失うこと、お互いの愛を弱くすることです。
 エルサレムにいる兄弟姉妹は、この危険を感じたのです。だから、彼らは一つになって、ペテロのために熱心に祈ったのです。もちろん、ペテロのためだけでなく、主のご栄光が現われるために彼らは祈ったのです。
私たちは一緒に祈るとき、はっきりとした目的を持ちましょう。はっきりとした目的を持つこと、また、一致することは欠くべからざることです。教会全体の祈りは、いったい何なのでしょうか。幾人かが集まって、一人一人が自分の悩みを祈ったり、感謝したりするためでしょうか。決してそうではない。集まっている兄弟姉妹が個人個人のものではなく、主イエス様の体、イエス様の代表であるべきです。すなわち教会全体の祈りによって、霊的な力が現われ、主イエス様の支配が明らかになるべきです。エルサレムの教会では、ペテロのために熱心な祈りが主にささげられ、こういうふうにイエス様のご支配が明らかになりました。私たちの祈りによって、集会から姿を消した兄弟姉妹たちの生活のさ中にイエス様のご支配が明らかになりますように。
いったいどうして、エルサレムにある教会はペテロのために祈ったのでしょうか。彼を愛したからでしょうか。それは当たり前のことです。けれどその主な理由は、主のみこころだったからです。ペテロが獄に入れられていた時、教会の喜びや、教会の証しと奉仕は制限されたのです。又主は栄光をお受けになれなかったのです。だから、教会ではペテロのために熱心な祈りがささげられたのです。
私たちはいったいどうして、集会から離れた兄弟姉妹たちのために祈らなければならないのではないでしょうか。もちろん、私たちは一人一人をどうしても愛さなければいけません。そうでないと、悪魔が勝利を得るからです。けれども、主のみこころが問題です。兄弟姉妹たちが悪魔の獄に入れられていると、私たちの喜びや証しや奉仕は、制限され、束縛されています。また、主はご栄光をお受けになれません。だから、私たちは集会から離れた兄弟姉妹たちのために熱心に祈らなければならないのではないでしょうか。最近、いろいろな方と会いました。十年ぶりの方とも何人もお会いしました。本当にありがたいことです。2年間だけ姿を消して、放蕩息子のように帰って来た方もおられます。

 エルサレムの教会は、自分たちのために祈りませんでした。いつも、自分、自分、自分のために祈っている信者は、決して前進しません。もし、エルサレムの兄弟姉妹が、自分のために祈った場合を想像してください。ペテロはきっとそのまま獄に入れられていて、次の朝、殺されたでしょう。しかし、兄弟姉妹は悪魔の攻撃に負けませんでした。自分のために祈らなかったのです。御霊に従い、ペテロのために熱心な祈りが主にささげられたのです。はっきりとした目的を持って祈ったのです。ですから、集会から離れた兄弟姉妹たちのために祈りましょう。これこそが、主のみこころです。イエス様は次のように約束してくださいました。
ヨハネ伝10章10節
   わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。

悪魔の獄に入れられている兄弟姉妹たちは、この豊かないのち、また主の喜びを持っていません。エルサレムにいる兄弟姉妹は皆、熱心にペテロのために祈りをささげました。すべての信者は、ただ一つの目的を持っていました。彼らは霊的な一致を持っていたのです。信じる者が共にするとりなしの祈りはとっても重要です。祈りをしているエルサレムの教会は、ペテロのために熱心な祈りが主にささげられたのです。この祈りは確かに恐ろしい戦いでした。「私たちの戦いは、血肉に対する、すなわち、人間に対するものではなく、もろもろの支配と権威と闇の世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである」と、聖書は言っています。エルサレムの兄弟姉妹は、血肉に対し、すなわち、ヘロデ王に対して戦いませんでした。彼らは、天上にいる悪の霊に対して戦ったのです。そのためには、どうしても霊的な一致が必要です。
パウロは、「私は目標をはっきりしないような走り方をせず、空を撃つような拳闘はしない」と言いました。私たちの敵は悪魔です。ヘロデ王たちの後ろに悪魔が働いています。兄弟姉妹の疑いの後ろに、また、毎日の生活のいわゆる小さな出来事の後ろに、悪の霊があります。

最後に、この祈り会の結果について考えたいと思います。
一言で言えば、この祈り会の重要な結果は、霊的な勝利でした。悪魔は、如何にしてこの信者たちを散らせようかと努めたのです。「彼らが不安や絶望に陥って、妥協し、止めるように」、これが悪魔の目的でした。けれど、「教会では彼のために熱心な祈りが主にささげられた」とあります。悪魔の攻撃によって信者たち皆が散らされて、不安や絶望に陥ってしまったということを想像してください。これは主のみことばに何を意味していたのでしょうか。エルサレムの教会の霊的な力や、ペテロの将来は、そんなに問題ではなかったのです。主のみことばは重要でした。そして、この霊的な戦いの後で、12章24節に
   主のみことばは、ますます盛んになり、広まって行った。

とあります。これは、この祈り会の大切な結果の一つでした。また、ヘロデ王も滅んでしまいました。「彼は神に栄光を帰することをしなかったからである」と、書いてあります。
教会全体の祈りによって、霊的な力が現われ、イエス様のご支配が明らかにならなければならない。エルサレムの教会はそうでした。教会の祈りによって、主イエス様のご支配が明らかになりました。悪魔の道具であるヘロデ王は、「虫にかまれて、息が絶えた」と、聖書は言っています。こういうふうに、主が栄光をお受けになりました。教会の祈りは、何という奇蹟を行なう力でしょう。
 12章の初めに、「ペテロは牢に入れられていた」と書いてあります。もちろん、ペテロが獄に入れられていた時、教会の喜びも、教会の証しも、そして奉仕も、確かに制限されていたに違いない。けれども、ヘロデや悪魔の攻撃に対する教会の答えは、熱心な祈りでした。この祈りの重要な結果について、12章の終わりは語っています。すなわち、「主のみことばは、ますます盛んになり、広まって行った」と。全世界に福音が盛んに広められました。13章を見ると、わかります。パウロとバルナバは、エルサレムからアンテオケへ帰ってすぐに宣教師として出かけたのです。エルサレムの教会は、普通の家庭に集まって、熱心な祈りが主にささげられました。そして、主のことばはますます盛んに広まって行ったのです。

 もう一つの結果は、「まことの礼拝」だったのではないでしょうか。
ペテロには、御使いのしわざが現実のこととは考えられず、ただ、幻を見ているように思われたのです。しかしこれは幻ではなく現実であるということを、ペテロはすぐに信じませんでした。また、祈っているエルサレムの教会も同じく、ペテロが解放されたことを初めは信じませんでした。彼らは女中に「あなたは気が狂っているのだ」と言いました。けれど後で、彼らはペテロと一緒に、まことに主を礼拝したのです。主は生きておられます。祈りに答えてくださるのです。パウロは、エペソにいる兄弟姉妹を励ますために次のように書いたのです。これを最後に読んで終わりましょう。
 エペソ書3章、344ページになります。20節、21節です。
   どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを超えて
  豊かに施すことのできる方に、教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々に
  わたって、とこしえまでありますように。アーメン。

とパウロは祈ったのです。

 イエス様はいつも、私たちが求め、また思うところのいっさいをはるかに超えてかなえ
てくださいます。だから、賛美と誉れと栄光がおのずから出てきます。自発的に喜んでさ
さげられるようになります。
 エルサレムに集まった兄弟姉妹は、この祈り会の重大さをあまりよく理解していません
でしたが、彼らはただ、これだけは知っていました。「今、祈らなければならない。祈らな
ければ、喜びがなく、教会は広まることができない」。このことを彼らは知っていました。
ペテロの解放にこれらの事がらは深い関係があったのです。だから、彼らはペテロのため
に熱心な祈りを主にささげたのです。けれども、彼らはこの祈り会の結果、ヘロデ王が虫
にかまれて殺され、主のことばが全世界に広まるということは考えもしなかったでしょう。

私たちがもし祈らなければ、イエス様は主であるという証しが、私たちを通して立たず、
また、私たち自身も信者として進歩がなく、それだけではなく、離れた兄弟姉妹たちも元に戻りません。だから祈りましょう。そうするなら、私たちは祝福され、その証しは多くの人々に広められ、多くの人々が、「イエス様は主である」と告白し、離れた兄弟姉妹たちも元に戻るのです。
もし、私たちがこのように祈るなら、この祈りは日本だけでなく、全世界に大きな影響を及ぼすのです。私たちのきわだった特徴が、祈りでありたいものです。そのために熱心な祈りを主にささげましょう。



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メッセージ・証し集インデックスページ

◆メッセージ(ベック兄)

※一部、テープの転換による不明部分あり

神のみことばは神のみことばである(5) 2006. 4. 18
神のみことばは神のみことばである(4) 2006. 4. 11
神のみことばは神のみことばである(3) 2006. 4. 4
神のみことばは神のみことばである(2) 2006. 3. 21
家族の救い 2006. 3. 19
神のみことばは神のみことばである(1) 2006. 3. 14
主イエスは神の子キリストである(4) 2006. 3. 7
主イエスは神の子キリストである(3) 2006. 2. 28
主イエスは神の子キリストである(2) 2006. 2. 14
主イエスは神の子キリストである(1) 2006. 2. 7
勝利の生活の秘訣 2006. 1. 24
イエス・キリストのからだ 2006. 1. 17
主の永遠からの予定 2006. 1. 10
元旦メッセージ 2006. 1. 1


2005年度のメッセージ集
2004年度のメッセージ集
2003年度のメッセージ集