祈りの生活の土台
2003.10.7.(火)
ベック兄メッセージ(メモ)
引用聖句
ルカの福音書 11章1節から13節
さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに
言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」そこ
でイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ。御名があがめられ
ますように。御国が来ますように。私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。私たちの罪
をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。私たちを試みに会わ
せないでください。』」また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうち、だれかに友だちが
いるとして、真夜中にその人のところに行き、『君。パンを三つ貸してくれ。友人が旅の
途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ。』と言ったとします。すると、彼
は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、
子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』あなたがたに言います
が、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み
続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。わたしは、あなた
がたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかり
ます。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は
見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うとき
に、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。卵を下さいと言う
のに、だれが、さそりを与えるでしょう。してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、
自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父
が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」
先週のメッセージのテーマは、『祈りをしている教会』でした。今日は、『祈りの生活の土台』について、一緒に考えたいと思います。
人間にとって一番大切なのは、祈ることです。祈ることとは、助けを求めることです。どういう人たちが助けを求めるのでしょうか。困っている人たちです。問題を持つ人たちです。悩んでいる人たちなのではないでしょうか。ですから、主は恵んでくださり、問題を与えてくださいます。悩みを与えてくださいます。病気を与えてくださいます。そうしないと、人間は心から祈ろうとしないからです。だからこそ今日は、「祈りの生活の土台」について、少し一緒に考えてみたいと思います。
自分の信仰生活を振り返ってみると、いろいろなことを経験していることに気付きますが、次のような5つの事柄も、私たちが既に経験していることと思います。
1.「祈りの難しさ」は、私たちがもう既に経験していることです。祈りは非常に難しいことだということは、私たちが非常にしばしば感じることです。メッセージをすることや人を誘うことは、そんなに難しいことではありません。けれど、いったん祈るとなると、非常な戦いが起こるものです。そればかりでなく、祈りによって勝利を得ることは、何と難しいことでしょう。
2.私たちは、もっともっと「祈りの特権」ということを深く知らなければならないと思います。天におられる主の御前に祈るということは、何というすばらしい特権でしょうか。私たちは、イエス様によって喜んで聖なるお方に近づき、「天のお父様」と呼ぶことが出来るのではないでしょうか。祈りは大きな特権です。祈るときに、それを深く思うべきです。
3.私たちはみな、心の内に、「祈りは大切である」ということを知っております。私たちの天との繋がりは非常に大切です。私たちの出来る奉仕のうちで一番大切な奉仕は、まちがいなく祈りです。主のために、また、兄弟姉妹のために最も大切なことは、「祈りにおける生きた交わり」です。
4.私たちはもう既に、祈りのうちにそれを「妨げるもの」を経験したことと思います。悪魔は、私たちが祈らないようにと、あらゆる試みを設けてきます。このことは、祈りがいかに大切であるかということをよく示しています。悪魔は大切でないものをひどく攻撃するはずがありません。だからこそ、私たちは、悪魔が責めれば責めるほど、祈りに祈ろうではありませんか。
5.祈りは、私たちの「霊的生活の鏡」のようなものです。祈らない人は、霊的に成長しません。集会に何人来るかが大切なのではありません。私たちが、いかに主のみこころにかなった祈り人であるかということが大切です。
これら5つの事柄は、私たちにはもう経験済みのことですから、今日は、この『祈りの生活の土台』というテーマのもとに、お話しをしたいと思います。
このために、7つの疑問を持ち出して、この疑問に答えることにしましょう。
1. 主なる神が、この宇宙、森羅万象を制限されずに支配しておられるお方であるとするなら、なぜ、私たちが、なお主に祈る必要があるのでしょうか。これは、一つの大きな疑問です。
その答えは、少し長いですけれど、「この宇宙を支配する掟を、更に支配する掟が祈りである」ということです。もう一回言いましょう。「この宇宙を支配する掟を、更に支配する掟が祈りである」。多くの人たちは、「私たちの祈りは主のみこころに影響を及ぼし得ない」と言います。また、「祈りは恒久不変の宇宙現象を絶対に覆し得ない」と言います。けれど、ヨシュアは祈りによって、太陽を1日24時間沈まないままにしておきました。アメリカの学者たちは、これを徹底的に調べた結果、確かにそうでした。「1日がちょっと長い」ということです。このことについて、ヨシュア記の10章を読むと、次のように書かれています。旧約聖書の353ページです。12節から14節までお読みいたします。
主がエモリ人をイスラエル人の前に渡したその日、ヨシュアは主に語り、イスラエルの
見ている前で言った。「日よ。ギブオンの上で動くな。月よ。アヤロンの谷で。」民がその敵
に復讐するまで、日は動かず、月はとどまった。これは、ヤシャルの書にしるされている
ではないか。こうして、日は天のまなかにとどまって、まる一日ほど出て来ることを急がな
かった。主が人の声を聞き入れたこのような日は、先にもあとにもなかった。主がイスラエ
ルのために戦ったからである。
とあります。これによって分かることは、「宇宙を支配する掟を、更に支配する掟がある」ということです。この上の掟を動かすのが、祈りです。
これをもっと分かりやすくするために、一つの例をあげてみましょう。ニュートンという学者が発見した「万有引力の法則」は、定まった一つの掟です。この引力があるから、人間は空中高く一人で舞い上がることが出来ないのであり、また、鉛筆や万年筆を落とした場合、それらは空中にとどまったり、また、はるか大空に飛んで行ってしまうというようなことがないのです。けれど、私たちは明日ドイツまで行きますが、飛行機はこの引力を克服して空を飛びます。引力は相変わらず常に存在しているけれど、その飛ぶ法則が引力に打ち勝っているために、飛行機は大空を飛んでいるわけです。
祈りも同じことです。主は、お一人では働こうとされません。祈りの人と共にお働きになるのが、主のみこころです。この事実は、私たちが聖書や教会の歴史を学ぶときに、はっきり分かるのです。例えば、ダニエルは、みこころにかなう祈りの人でした。その時、主の民であるイスラエル人は囚われの身であり、悪魔が勝利をとっておりました。けれど、ダニエルは主のみこころを知っていましたから、熱心に主に祈り、結果として奇蹟を経験することが出来たのです。主のみこころにかなった祈りは、実に、「奇蹟をもたらす力」です。主のみこころにかなった祈りに不可能なことはないのです。
まことの祈りは、この地上における実り多き働きです。私たちが、祈りのうちに主と交わることは、主のみこころです。ですから、私たちは、この祈りの特権と責任を十分に自覚し、この末の世にあって、ひたすらに祈ろうではありませんか。
2. 「祈りに秘訣があるのでしょうか」ということです。
答えは、「あります」。祈りの秘訣は、「主ご自身との交わり」です。信仰生活の秘訣は、主と一つになることですが、これと同じように、祈りの秘訣は、主イエス様との親しい交わりです。私たちは、主との交わりによって、天のお父様に近づくことが出来ます。この事実を深く考えてみると、本当にうれしくなります。コリント第一の手紙6章17節に、
しかし、主と交われば、一つ霊となるのです。
とあります。また、ヨハネ第一の手紙1章3節。
私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと
交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストと
の交わりです。
もう一箇所。コリント第二の手紙13章13節。
主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありま
すように。
とあります。私たちが、主イエス様および父なる神と御霊の交わりにあずかっていることは、疑いもない事実です。
主の御救いにあずかった兄弟姉妹と、まだ救い主を知らない人たちの違いはどこにあるのでしょうか。救われていない人たちは、何かある神や偶像に祈ります。ですから、それらの神々はどこか遠くに離れており、また、「死する者の如し」でありますけれど、主を知るようになった者は、イエス様と一つになることによって、生ける主なる神との交わりを持っています。ここにその違いがあるのです。
悪魔の働きは実に巧みであって、悪魔は常に私たちに、「おまえたちは、神から遠く離れているのだ」とささやきかけています。けれど、もし私たちが主イエス様にあるなら、主なる神と私たちの間には、決して決して隔たりはないのです。なぜなら、神の子としての主イエス様より父なる神のみそば近くにある者はなく、私たちはその御子イエス様にあるのですから。
「祈りは霊的な事柄である」ということを知ることが大切です。人の霊は、新たに生まれることによって生き返り、聖霊と一つになります。この結びつきから、本当の祈りが生まれてきます。多くの人たちはこの交わりを持っていませんから、祈りの答えがやってきません。肉による祈りには、答えがありません。この肉による祈りとは、何でしょうか。私たちの意思、願い、望み、考えによる祈りは、肉の祈りです。このような祈りは、もちろん主のみこころにかなわない祈りであることは言うまでもありません。もし、私たちが、主イエス様の内にとどまり続けるなら、常に霊によって祈ることが出来、主の答えは、私たちに常に確実に与えられることでしょう。なぜなら、主ご自身が約束してくださったからです。ヨハネ伝15章の7節を見ると、次のように書かれています。193ページになります。
あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でも
あなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえら
れます。
すばらしい約束なのではないでしょうか。祈りの秘訣は、イエス様との交わりです。もし、このことをしっかりと記憶にとどめておくなら、多くの失敗から免れるでしょう。この失敗の一つは、マタイ伝の6章7節、8節に書かれています。
また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らは
ことば数が多ければ聞かれると思っているのです。だから、彼らのまねをしてはいけませ
ん。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを
知っておられるからです。
このような祈りは、決して主のみこころにかなった祈りではありません。けれど、私たちは時々、このような祈りを主に捧げはしないでしょうか。また、私たちは、長く祈ったり、熱心に祈るなら、主は必ず聞き届けてくださると考えるのではないでしょうか。このような祈りが、主との親しい交わりに代えられて捧げられているのが、現実ではないでしょうか。
本当の祈りの秘訣は、主との親しい交わりです。祈りは、主が与えたくないものを求めるものではなく、主が与えたいところのものを祈り求めるものです。聖書の中に、「イエス様は、夜を徹して祈られた」と書いてありますが、この祈りは、前から計画されていた祈りではありません。イエス様は、ただただ祈らざるを得なかったのです。祈るより他に仕方がなかったのです。祈りは自分の努力ではなく、御霊の押し出しです。主との交わりにある一言の祈りは、人間から出た最上の祈りよりはるかに価値のある祈りと言わなければなりません。イエス様との親しい交わりが問題なのです。
それから、作った祈りは、やはり誤りの一つです。私たちはいろいろなことに対し、主の関心を呼び覚ますために祈ります。祈りの重要さは、信じる者みなが、等しく認めていることです。従って、主のための新しい計画が成されると、私たちは熱心に祈ります。しかし、その働きが、主のみこころであり、主の成さるわざであるかどうかを知ることを忘れているのです。私たちが成すことすべてが、主との親しい交わりから出てくるものでなければなりません。主は、私たちの主に対する最上の努力でも、それが人間的な努力であれば、それに対し全く関心を持たれません。主のみこころは、私たちが主の働きに関心を持つことです。もし、私たちがこれを知らなければ、私たちが祈る多くの時間は、無駄に過ごしたことになります。主ご自身が、働きの設計士であり、また、建設者でなければなりません。主だけが、どうしてその働きを成し遂げられるかをご存じです。ですから、私たちにとって大切なのは、主との交わりを持つことです。イエス様は、「わたしは、わたしの教会を建てる」と約束してくださいました。主のみこころは、その時も今も変わりがありません。ですから、私たちは、主と絶えず一つでいなければ、空を打つ拳闘をすることになってしまいます。
主との交わりの第一段階は、「主の御前に静まる」ことです。ダビデが、詩篇の62篇5節で、
私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ。
と言っているとおりです。私たちは、主の御前に静まることを学ばなければいけません。私たちは、自分の思い、自分の知識、あらゆる自分にまつわりつくものを捨てて、主から新しい啓示を受け取る備えを整えなければいけません。もし、私たちが主の御前に心を静めるなら、自ずから主の偉大さを意識し、その御前にひれ伏し、心から礼拝せずにはおられなくなります。私たちが、王の王、主の主に近づけば近づくほど、心からなる礼拝を捧げずにはおられなくなります。そうするなら、実り多い祈りの道が開かれることになります。
3. 今まで述べてきたような祈りの生活を送り、祈りの奉仕を成すことが、私たちに現実に出来るのでしょうか。
答えは、「はい。出来ます」。と言いますのは、父なる神は、私たちに御子主イエス様と御霊をお与えになったからです。主との交わりに入ることが出来る。これは何という特権でありましょうか。また、何という大きな責任が、私たちに課せられていることでしょう。「私は祈ることが出来ない」という方がいるかもしれませんけれど、主は、もう既に備えを成してくださったのです。私たちは、はばからずして主の御前に近づき、主の絶えざるご臨在の内に住むことが許されています。
主がもう既に備えてくださった事柄を、二つの言葉に要約することが出来ます。即ち、「信頼」と「助け」です。「主に信頼し、勇気を持ち、はばからずして主の御前に出なさい」という勧めは、新約聖書の書簡にたくさん見られるところです。主に信頼する霊は、私たちの祈りの生活に欠くべからざるものです。もし、私たちの主との交わりが、正常な関係になければ、私たちの祈りの生活も危なくなっているのです。聖書の2、3箇所を読んでみましょう。へブル人への手紙の10章。400ページになります。19節から22節。
こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に
はいることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために
この新しい生ける道を設けてくださったのです。また、私たちには、神の家をつかさどる、こ
の偉大な祭司があります。そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良
心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神
に近づこうではありませんか。
もう一箇所です。ローマ人への手紙の5章1節、2節です。271ページになります。
ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、
神との平和を持っています。またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに
信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。
義と認められた者として、神との平和を持つようになった者として、喜んで聖なる主に近づくことが出来るのです。エペソ人への手紙2章18節。同じような事実について書かれています。343ページになります。
私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づく
ことができるのです。
「近づくことができる」とあります。エペソ人への手紙3章12節。
私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に
近づくことができるのです。
まことの信頼には、次の知識が必要だと思います。即ち、私たちは主イエス様によって、主のご臨在の内に入り得る、疑うことの出来ない権利を持っている。これを知ることは大切です。イエス様ご自身が、私たちが主なる神に近づくにあたっての、私たちの権利です。私たちは、イエス様の御名によって父に近づきます。私たちが、己の名によって主に近づくなら、それはいけないことです。けれど、私たちは、イエス様の御名によって、はばからずして御前に近づき得るのです。足を踏み入れることは、まみえることです。私たちは、イエス様によって父なる神に近づき、会いまみえることが出来ます。私たちの愛する主イエス様は、私たちを、ご自身の尊い血潮によってきよめられた者として、父なる神に紹介してくださるのです。私たちは、一人ぼっちで何も出来ないまま、父に近づく必要はありません。主イエス様が、ご自身の義を持って私たちを覆い包み、私たちと共にいまして、父なる神に導いてくださいます。主イエス様こそ、私たちの信頼すべきお方であります。
「信頼」の他に、もう一つの祈りの要素である「助け」は、聖霊によって用意されております。私たちは、確信を持って、はばからずして主のご臨在に入ることが出来ますけれど、一方、私たちは、己の全く望みなき状態を知っております。この弱い私たちを助けて励ましてくださるのは、御霊です。聖霊です。ローマ書の8章。本当にすばらしい励ましの言葉です。慰めの言葉です。276ページになります。26節と27節。
御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったら
よいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちの
ためにとりなしてくださいます。人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っ
ておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくだ
さるからです。
「弱い私たちを」、信じる者たちをです。祈りのとき、聖霊の助けがないときほど憐れなことはないでしょう。ゲッセマネの園で、主イエス様が苦しんで祈られたとき、弟子たちがほとんど祈り得なかったということは、私たちがよく理解出来ることです。けれど、私たちは助け主なる聖霊を持っております。聖霊は、私たちの内に宿ってくださり、私たちの力となり、私たちの内に働かれるお方です。御霊は、私たちの弱きを助けて補ってくださいます。また、何を祈ってよいか分からない私たちの無知を補ってくださるのです。聖霊のみが、主のみこころを知っておられます。この聖霊は、私たちが主のみこころにかなった祈りを成すために、私たちの内に宿っておられます。イエス様ご自身が、私たちの信頼の対象であり、御霊は、私たちの助け主です。ですから、私たちは、はばからずして父なる神との交わりを持ち、祈ることが出来るのです。
4.どうして、祈ることはこんなに難しいのでしょうか。
悪魔が、何とかしてまことの祈りを妨げようとしているからです。悪魔は、私たちの祈りの生活に対し、常に攻撃を加えていることを、私たちは日々覚えます。どの教会も、いかなるキリスト者も、このことを告白せざるを得ないのです。悪魔が私たちを祈らなくしたなら、悪魔は完全な勝利を得ることになります。悪魔はこの事柄を十分に知っていますので、私たちを絶えず攻撃してきます。悪魔は、いろいろな攻撃方法を用います。
(1)私たちの信頼に対して、悪魔は、私たちが主に対し近づくのにふさわしくない者であり、また、望みなき者であることをささやいてきます。もし、私たちがこのささやきに耳を貸すなら、悪魔の大勝利になります。イエス様が私たちの信頼の対象であり、御霊は私たちの助け主であることをしっかり握って祈りましょう。
(2)悪魔は、私たちの肉体に対して、また神経に対して、激しい攻撃を加えてきます。悪魔は、私たちを過労に陥れ、祈れなくしてしまいます。この過労は、しばしば私たちの側に原因があります。イエス様が私たちの信頼の対象であり、また、イエス様を喜ぶことは私たちの力です。もし、私たちが主にある喜びを持っているなら、肉体の疲れをそれほど感じないはずです。
(3)定めた時を祈りに用いようと計画をしていても、それを実現出来ないことが往々にしてあります。これも悪魔の攻撃の一つでしょう。集会の祈り会にどうしても来ることが出来ない兄弟姉妹がおられますが、これも祈りを妨げる悪魔の仕業と言わなければなりません。
(4)私たちは、時々刻々、主との交わりを持ち続けることが出来るのです。けれど、この交わりを断ち切ろうとして、悪魔はいつも戦いを挑んできます。もし、悪魔がこの戦いの勝利を治めるなら、悪魔はすべてを得たことになるのです。
(5)悪魔は、私たちをして、世界の悩み苦しみを見る目をくらませようとします。もし私たちが、いつも自分、自分、自分のためにだけ祈るなら、悪魔は大笑いすることでしょう。主イエス様は、「畑は世界なり」と言われました。私たちは全世界のために祈る責任を持っています。だから、私たちは目を覚まして祈らなければいけないのです。
5.もし、ある一人の人が祈り、その答えがなかなか得られないような場合、何か方法があるのでしょうか。
それは、あります。先週学んだことです。「教会の祈り」です。「兄弟姉妹と共に祈る」ことです。個人個人の祈りは重要不可欠なものですけれど、それにはおのずから制限があります。お互いに助け合い、お互いがお互いを必要とし、決して一人でいることが出来ません。これが、主の国の掟です。私たちは、どうしてもお互いに必要としています。特に祈りにおいてはそうなのです。私たちはもう既に、何か特別の問題が起こった場合、一人の祈りではどうしても不十分であるということに気が付いていることでしょう。マタイによる福音書の中で、次のような箇所があります。21章の13節です。イエス様の非常に厳しい言葉です。
そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる。』と書いてある。
それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」
マタイによる福音書の18章19節、20節。
「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事
でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださ
います。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるか
らです。」
ヘブル書3章6節に、
私たちが神の家なのです。
と書かれています。イエス様は、ご自身の家、ご自身の教会の真中におられるのです。また、主イエス様は、二、三人でも、ご自身の名によって集まるその真中におられます。一人だけで祈っているところとは、書いてありません。もちろん私たちが一人でいても、主のご臨在はありますけれど、イエス様はここで、教会がいかに大切であるか、また、共に祈る祈りがいかに大切なものであるかを教えるために、はっきりと言われました。
「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるから
です」と言われました。もし、私たちが共に主の御前に祈るなら、もっと祈りの目的を
達する力が加えられるのです。ですから、主イエス様は、私たちが共に祈ることを望ん
でおられます。共にする祈りは、力があります。
6.父なる神との交わりを通して、祈りに対するどのような観点が得られるのでしょうか。
8つの見方があります。
(1)「すべてのことを主に告げる」ことです。私たちの生活にとって、どんな些細なことも意味のないものはありません。日常生活のどんな小さな事柄をも、私たちは主に告げることを許されています。
何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、
あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
と、ピリピ書4章6節に書かれています。
(2)主は、私たちに、「求めよ」、「求めて」と言われます。イエス様は、私たちが求めることを願っておられます。ヤコブもまた次のように書いたのです。ヤコブ書1章5節、6節を見ると、次のように書かれています。新約聖書の408ページになります。
あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、
とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。ただし、
少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波の
ようです。
ヤコブ書4章2節の後半。
あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。
もし、私たちが主に拠り頼んでいなければ、まことの求めを成すことが出来ません。拠り頼んで求める者は、まちがいなく奇蹟を経験します。
(3)「とりなし」です。他の方のために、主の御前にとりなすことです。私たちが他の人のためにとりなすとき、大祭司であられる主イエス様は、いつも私たちのために祈られ、心配され、そして、私たちは主との深い交わりを持つことが出来ます。このような祈り人は、パウロの同労者であるエパフラスでした。コロサイ書の4章12節を見ると、彼について次のように書かれています。
あなたがたの仲間のひとり、キリスト・イエスのしもべエパフラスが、あなたがたに
よろしくと言っています。彼はいつも、あなたがたが完全な人となり、また神のすべての
みこころを十分に確信して立つことができるよう、あなたがたのために祈りに
励んでいます。
(4)「根気強い祈り」です。根気強い祈りをする条件として、主のみこころが何であるかをはっきりと知って、それを自分のものとしていなければいけないのです。どうして多くの祈りを捧げても、それが聞き届けられないのでしょうか。なぜ聞き届けられないかと言いますと、それは、それによって、主のみこころとみ思いを、私たちが深く悟るためです。霊的生活における要塞を打ち壊すのは、根気強い祈りに他なりません。マタイ伝7章の7節、8節。よく知られている箇所なのです。
「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。
たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ
出し、たたく者には開かれます。」
すばらしい約束です。マルコによる福音書の9章。イエス様は困った弟子たちに、次のように言われたのです。77ページです。9章の28節、29節。
イエスが家にはいられると、弟子たちがそっとイエスに尋ねた。「どうしてでしょう。私たち
には追い出せなかったのですが。」すると、イエスは言われた。「この種のものは、祈りに
よらなければ、何によっても追い出せるものではありません。」
(5)「勝利ある祈り」という観点があります。祈りは、ありとあらゆるものの上に高められた御方との交わりです。祈りは、主イエス様と共に御座に座すことを意味しています。もろもろの名に勝る御名による祈りは、何と力ある祈りでしょう。エペソ書の2章6節に、パウロは当時の信じる者に書いたのです。
キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせて
くださいました。
過去形です。
(6)「戦いの祈り」があります。いくら望みなき状態にあっても、戦いの祈りをするときに、十字架の勝利が現わされます。初代教会は、祈りのうちに戦って、よみがえられた主の勝利を経験しました。一つの実例は、使徒行伝の4章を見ると書かれています。4章23節から31節。214ページです。
釈放されたふたりは、仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちが彼らに言ったことを
残らず報告した。これを聞いた人々はみな、心を一つにして、神に向かい、声を上げて言っ
た。「主よ。あなたは天と地と海とその中のすべてのものを造られた方です。あなたは、
聖霊によって、あなたのしもべであり私たちの先祖であるダビデの口を通して、こう言われ
ました。『なぜ異邦人たちは騒ぎ立ち、もろもろの民はむなしいことを計るのか。地の王
たちは立ち上がり、指導者たちは、主とキリストに反抗して、一つに組んだ。』事実、ヘロ
デとポンテオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民といっしょに、あなたが油を注がれた、
あなたの聖なるしもべイエスに逆らってこの都に集まり、あなたの御手とみこころに
よって、あらかじめお定めになったことを行ないました。主よ。いま彼らの脅かしをご覧に
なり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。御手を伸ばしていやしを
行なわせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行なわせ
てください。」彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満た
され、神のことばを大胆に語りだした。
「戦いの祈り」でした。
(7)「信仰による祈り」です。この祈りは、主のみこころが何であるかを明確に知ることが前提となっていなければいけません。このような祈り手は、直ちに答えをいただく祈り手です。ペテロはそれを経験したのです。使徒行伝の9章40節に、
ペテロはみなの者を外に出し、ひざまずいて祈った。そしてその遺体のほうを向いて、
「タビタ。起きなさい。」と言った。すると彼女は目をあけ、ペテロを見て起き上がった。
これに加えて、次のような観点もあるでしょう。
(8)「重荷ある祈り」です。この祈りは、主イエス様の御苦しみにあずかる祈りです。パウロは、次のように言っています。ガラテヤ書4章19節。
私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがた
のために産みの苦しみをしています。
この祈りは、父のみこころとの交わりを意味しています。これを考えますと、最後の疑問が生じてきます。
7.聖書における祈りの重要な結果は何でしょうか。
それは、「尊き教会」です。「尊き教会」、「主イエス様にふさわしい着飾った花嫁」は、父のみこころにかなう者です。ですから、私たちは、尊き教会になるために集中的に祈らなければいけないのです。主イエス様が十字架におかかりになる前のヨハネ伝17章とパウロの祈りを考えるときに、この「尊き教会」という言葉がいかに大切であるかを知ることが出来ます。祈るときに、どうかこの事実を常に心に留めておいていただきたいのです。失われゆく魂を獲得するということだけでなく、救われた私たちが、イエス様と一つになるということが、本当に必要です。
また、主の持っておられる富と一つになることも大切です。こんにち、最も大きな問題と言わなければならないことは、教会を通して主のご栄光が輝き渡ることです。御霊が、このように主イエス様の富を現わす道具は、教会より他にありません。
これらの事柄をすべて包括しますと、イエス様は、私たちとのもっともっと内面的な交わりを待っておられるということになります。これは、祈りのみです。父なる神は、多くの神の子が、御子イエス様の内にあって、ご臨在のもとにあることを望んでおられるのです。父なる神は、大祭司であられる主イエス様と共なる祭司を置くということを求めておられるのです。
了
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