リバイバルの必要性
2003.11.4(火)
ベック兄メッセージ(メモ)
引用聖句
詩篇26篇2節。
主よ。私を調べ、私を試みてください。私の思いと私の心をためしてください。
詩篇139篇23節から24節。
神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。
信じる者の集いは、いつも喜びの集いです。どうしてであるかと言いますと、いつでも悔い改めることができるからです。
この間のドイツの喜びの集いは、ちょっと変わった集いだったかもしれません。夫婦が非常に多かったのです。以前、ミヘルスベルクに行った人たちは、だいたい5日間だけ、向こうで泊まりました。その時ドイツ人は、「日本人はおかしい。もう少し、ゆっくりした方がいいのではないでしょうか」と言いました。そして、「今度は、試験的に10日間にしましょう」ということになったのです。その結果、どうであったかと言いますと、年配の方ばかり集まるようになったのです(笑)。普通の社会人は、なかなか10日間も休めないでしょう? そのことを計算に入れていなかったのです(笑)。けれども、いろいろな方がメッセージしてくださいました。7組のご夫婦が証しをしてくださったのです。まず、ご主人がメッセージして、奥さんが証しをされたのです。……本当によかったのです。
一人の兄弟は、会社の社長さんなのですけれども…大きな会社です。1,000人以上働いている会社の社長さんなのですけれども…、彼はアイドリンゲンで短く証ししてくださったのです。どういうふうに証しが始まったかと言いますと、「みなさん。私は、悔い改めるためにドイツまで来ました」と。もう、嬉しくなりました。すごいでしょう? もちろんそのために、別にドイツまで行かなくてもいい(笑)。今日でも、悔い改められます。
ドイツの宗教改革者であるマルチン・ルターは、次のように言ったことがあります。「悔い改めることは、最も素晴らしい仕事である」と。悔い改める兄弟姉妹は、みなの喜びの種であり、悔い改めたくない兄弟姉妹は、みなの悩みの種になるのではないでしょうか。
新約聖書の手紙を読むと分かります。信者は、もちろん同じ救いにあずかった者であり、救われている者であり、行き先も決まっています。天国です。けれども、2種類の信者がいます。あるイエス様を信じる者は、非常に大きな喜びの種となっています。パウロは、それが分かったから、次のように書いたのです。テサロニケ第一の手紙1章の2節です。
私たちは、いつもあなたがたすべてのために神に感謝し…ています。
すごい言葉です。「私は、たまに、あることのために感謝できます」なのではありません。「私は、いつもあなたがたすべてのために感謝しています」と。結局、テサロニケの人々
とは、自分のみじめさと無力さを感じて、「主が守ってくださらなければ、導いてくださら
なければ、もうおしまいだ」と、分かった人たちだったのです。
けれども、他の兄弟姉妹のことを考えた時、パウロは正直に言ったのです。「私は困っています」「私は大いに悩んでいます」「涙を流しています」「苦しんでいます」と。どうしてであるかといいますと、確かに、彼らは一度導かれ、救われたのですけれども、成長しなかったからです。
ある兄弟姉妹は、「イエス様は、もちろんいつか来られるでしょうけれど、まだまだ来られません」と考えていますから、「そんなに待たなくてもいいでしょう」と思っています。別の兄弟姉妹は、期待を持って、「今日かもしれない」と思いながら生活しています。
ある兄弟姉妹は、自分のために生活し、自分自身を実現しようと望み、他の兄弟姉妹は、「主のために生きたい!」すなわち、「イエス様に喜ばれたい!」と切に望んでいます。
「主だけがさかんになり、私は別にどうでもいい。決して大切ではない」という思いを持つ兄弟姉妹もいます。
ある兄弟姉妹は、「中心になって役割を演じたい。もしそうでないと、おもしろくない」。不平不満を言います。別の兄弟姉妹は、「イエス様にのみ、すべての栄光を帰していきたい」と心から望んでいます。
ある兄弟姉妹は、つまずきを与え、分裂を起こす者であり、別の兄弟姉妹は、命がけで集会全体の一致が現われることを望んでいます。
一言で言いますと、ある兄弟姉妹は、残念ですけれど、暗やみの中にいるのであり、別
の兄弟姉妹は、マルコの福音書5章に出てくる女のように、イエス様の前に出てひれ伏し、
イエス様に真実を余すところなく打ち明ける兄弟姉妹です。
ダビデは心から叫んだのです。前に読んでもらいました箇所です。すなわち、
主よ。私を調べ、私を試みてください。私の思いと私の心をためしてください。
毎日、この祈りをささげるべきなのではないでしょうか。「試みてください。ためしてください」。私たちは、心からなる願いを持って、自らのうちを主の光によって照らし、試していただく必要があるのではないでしょうか。主の光に照らされると、誰もが小さくなります。顔を上げられなくなります。「どうしましょう」としか、考えられなくなります。
光に照らされた時はじめて、王であるサウルは、自分のやっていることは、とんでもないことであり、全く悪魔的であり、的はずれの行ないであることが分かったのです。主を知る人々は、だいたいみなそういうことを経験しなくてはならないのではないでしょうか。
「わたしのもとに来なさい」と、イエス様は呼びかけておられます。「わたしは光です。唯一のまことの光です」。光のもとに行きたくないということは、結局自分の罪を隠すことであり、正直になりたくないことです。すなわち、不幸への道そのものです。生まれつきの人間は、決して光のもとに行こうとしません。
前に、ある家族が私の家に来られました。ご主人は挨拶として、なかなか良いことを言われました。「私は悔い改めるために、今日来ました。私は間違っていて、家族の者たちは、大いに悩みました。…云々」と話された時、それを聞いた娘さんは、驚きと喜びのあまり、泣いてしまわれたのです。
今日から始めたいテーマとは、『リバイバルの必要性』についてです。「リバイバル」という言葉は、日本語ではなく、英語の言葉です。日本語に直すと「霊的覚醒」、あるいは、「信仰の復興」、「信仰の復活」を意味するものです。眠ってしまった信者は、リバイバル、信仰の復興を必要とします。すなわち、主との生き生きとした交わりによって新しくされ、新しく生かされることを必要とします。
私が神学校にいた時、リバイバルが起こるようにと、ひたすら祈り求める祈りのグループがありました。このグループは、祈りを始める前に必ずいつも一つの歌を歌ったのです。どういう意味であるかといいますと、「主よ、力を贈り給え。海の大波のようにリバイバルを贈り給え。そしてわが内を目覚めさせてください」。「わが内を目覚めさせ給え」ということこそが大切なのではないでしょうか。すなわちリバイバルは、まず個人的に私の内に起こらなければなりませんが、私たち一人一人にその備えがあるでしょうか。多くの場合、どのような時にリバイバルが起きたかを見てみると、そこには、隠れた祈りの闘士がいることが分かります。「イエス様よ、どうか新たにお働きになってください。リバイバルを起こしてください。さもなければ、私に死を来らせ給え」と祈る、祈りの人が、リバイバルの陰に必ずいたのです。主イエス様は、こんにち、私たちの間にこの祈りの闘士を求めておられます。破れの狭間に立ちはだかって、とりなす人たちを求めておられます。
主はかつて、2,500〜2,600年前の話なのですけれども、次のように言われま
した。エゼキエル書22章30節、1282ページになります。
わたしがこの国を滅ぼさないように、わたしは、この国のために、わたしの前で石
垣を築き、破れ口を修理する者を彼らの間に捜し求めたが、見つからなかった。
「わたしは…捜し求めましたが、見つからなかった」。私たちは、主のみこころのとおり、破れ口に立つ者となっているのでしょうか。それとも、主がたずねられたけれど、得られなかった者たちの中の一人なのでしょうか。
私たちは、リバイバルがどうしても必要であるということを、深く感じとっているでしょうか。私たちの側に何か重大な欠陥があることを感じているでしょうか。多くの信者の、リバイバルに対しての態度は、「リバイバルのために祈り求めても、主の時が来なければ、何も起こらない。だから、その時が来るまで仕方がなくて待たなければならない」と考え、真剣な態度で主に望みません。けれどもイエス様は、信じる者の渇き切ったような、また、みじめな様を見て、喜ばれるでしょうか。私たちが、リバイバルのために主の備えられた条件を満たすならば、その瞬間に、リバイバルが起こり広がるのです。
リバイバルとは、「新しく目覚めさせられたいのち」を言います。ここで大切なのは、新しく目覚めさせることのできる新しいいのちを持っているのは、まことの信者だけだということです。未信者の人たちにリバイバルはあり得ません。未信者の人たちはまず新たに生まれなければならないからです。眠ってしまった信じる者にこそ、リバイバルが必要なのであり、こんにち眠った信者は、実にたくさんいるのではないでしょうか。けれど眠りから覚めなければならない時期が来ている。目覚めるためには、まず自らが、眠りこけ、霊的に死んでいる様を認め、告白する必要があります。ご臨在の主が、このリバイバルの必要性を悟らしめてくださったら、本当に幸いと思います。
どうしたらこのようなリバイバルが起きるのでしょうか。答えは2つです。
・第1番目、私たちが主にためされることによってです。
・第2番目、私たちが主をためすことによってです。
この両方の働きが必要です。
1.私たちが主にためされること
まず、私たちが主にためされることが必要です。もし主イエス様が私たちをためすことがおできになったら、それは本当に良いしるしです。私たちが自らの内をどんなにためしても、たずねても何の役にも立ちません。私たちにとって大切なのは、イエス様に私たちの内をためされることです。ダビデの心の態度が、どうしても必要です。前に読みました箇所を、もう一回読みましょうか。詩篇26篇2節、
主よ。私を調べ、私を試みてください。私の思いと私の心をためしてください。
そして、139篇23・24節、
神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってくだ
さい。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いて
ください。
と、当時の大王であるダビデは祈ったのです。
私たちは、どうしたらリバイバルを見ることができ、新たに生かされるのでしょうか。自らを自分でためすのではなく、主イエス様の光によって心の内を照らしていただき、ためしていただかなければなりません。
詩篇25篇4・5節、これもやはり、ダビデの祈りであります。
主よ。あなたの道を私に知らせ、あなたの小道を私に教えてください。あなたの真
理のうちに私を導き、私を教えてください。あなたこそ、私の救いの神、私は、あな
たを一日中待ち望んでいるのです。
どうして、彼は一日中待ち望んでいたかといいますと、「主が教えてくださらなければ、迷うことばかりだ」と分かったからです。143篇を見ると、同じくダビデは祈ったのであります。143篇の8節、
朝にあなたの恵みを聞かせてください。私はあなたに信頼していますから。私に行
くべき道を知らせてください。私のたましいはあなたを仰いでいますから。
10節、
あなたのみこころを行なうことを教えてください。あなたこそ私の神であられます
から。あなたのいつくしみ深い霊が、平らな地に私を導いてくださるように。
結局、「主よ、守ってください。導いてください。教えてください」という態度こそが、主
が望んでおられる祈りの態度です。
ホセアという預言者は、やはりリバイバルの大切さが分かったから、次のように言ったのであります。旧約聖書1363ページ。ホセア書10章12節です。もちろん救われたイスラエルの民に言われた言葉です。
あなたがたは正義の種を蒔き、誠実の実を刈り入れよ。あなたがたは耕地を開拓せ
よ。今が、主を求める時だ。ついに、主は来て、正義をあなたがたに注がれる。
口語体の聖書では、
…主は来て救いを雨のように、あなたがたに降りそそがれる。
となっています。「雨」とは、「私たちが主の霊によって新しくされること」を言っている
のです。ホセアはここで、「正義を注がれる前に、まず、新田を耕せ。耕地を開拓せよ」と
言っています。主の霊が私たちの心を目覚めさせる前に、私たちの心がまず耕されなければならないのです。
私たちの心は、どうしたら「新しく耕された土地」となることができるのでしょうか。
私たちが心からなる願いを持って、自らの内を、主の光によって照らして、ためしていただくとき、私たちの心は耕されてくるのです。私たちの祈りに答え、主は、私たちの罪を明るみに出してくださいます。漠然とした罪の悔い改めは、あまり役に立たないものです。私たちは、一つ一つ罪を犯しましたから、一つ一つ教えられて、それを悔い改めなければなりません。
リバイバルのために何が必要でしょうか。前に話したように、まず私たちが主にためされることが必要です。それによって罪が明るみに出されます。
信じる者の犯す罪とは、二種類あるのではないでしょうか。
一つは、いわゆる「怠慢」の罪です。
もう一つは、「欲望」と呼ばれる罪です。
・怠慢の罪
怠慢の罪とは、一体何なのでしょうか。ヤコブの答えは次のものであります。
ヤコブの手紙4章17節、412ページ。
なすべき正しいことを知っていながら行なわないなら、それはその人の罪です。
もう一回読みましょうか。「なすべき正しいことを知っていながら行なわないなら、それはその人の罪です」。
このような怠慢の罪とは、一体どのようなものなのでしょうか。
@感謝をしないこと
たとえば、「感謝をしないこと」は罪であると聖書は言っています。イエス様は、私たちがまだ罪人だったとき、私たちの罪のためにいのちを捨ててくださいました。私たちは、このイエス様に対して、心からなる感謝をささげているでしょうか。感謝をしないことは罪であり、感謝をしない生活は天の窓を閉じてしまいます。ダビデは詩篇50篇23節をみると、次のように告白したのであります。
「感謝のいけにえをささげる人は、わたしをあがめよう。その道を正しくする人に、
わたしは神の救いを見せよう。」
この言葉を、逆に考えるなら、「感謝のいけにえをささげない者は、わたしを侮り、自分の
行ないを慎まない者には神の救いが示されない」という意味になり、主イエス様に感謝の
いけにえをささげない者にはリバイバルが起こらないということを教えています。
私たちは、イエス様に感謝しない罪を言い表わし、主にお詫びしたいのではないでしょ
うか。主は、私たちが心を持って、くちびるを持って、感謝のいけにえをささげることを
待っておられます。
どうして感謝をささげることができるのでしょうか。主の恵みによって、救いにあずか
ることができたからです。家族の救いも約束されているからです。主は、「告白された罪を
永久的に赦し、また心に思い出さない」と約束しておられます。
A主に対する愛の欠乏
二つめの怠慢の罪は、「主に対する愛の欠乏」であると聖書は言っているのです。イエス様は、私たちが心を尽くし精神を尽くしてご自分を愛することを願って、待ち望んでおられます。単一な心を持って主を愛することを願っておられます。
聖書の中で、「主はねたむ神である」と書かれています。私たちは、妻が夫を、夫が妻を半分だけしか愛さなかったら、他の人を愛したら、もちろんねたむでしょう。私たちが、心を尽くして主を愛さなければ、主は悲しまれます。私たちは、主イエス様の血潮によって贖われた者であり、私たちのすべては主のものです。私たちの愛も、ひたすら主に注がれなければなりません。
私たちは仕事や良心、また自らの思いに忠実であり、主よりもこれらに、より忠実に歩んでいるのではないでしょうか。黙示録2章4節。みなさんがよく覚える言葉ですけれども、次のように書かれています。高く引き上げられた、天国にお帰りになったイエス様の、この地上にいる信者たちに対する呼びかけです。
あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。
イエス様に対する愛の欠乏は、なんと大きな罪でありましょうか。主イエス様に対する愛の欠乏をイエス様に言い表わしましょう。そうしなければ、霊的に前進することはできません。イエス様にいかに愛されているか、毎日覚えるべきです。
ダビデは、本当に心から言えたのです。「あなたを信じるだけではない。もちろんあなた
の存在を認めるだけではない」と。
詩篇18篇1・2節、
彼はこう言った。主、わが力。私は、あなたを慕います。主はわが巌、わがとりで、
わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。
B聖書を読まないこと
三番目に、「聖書を読まないこと」も怠慢の罪であると、聖書は言っています。もちろん、私たちはどうして聖書を読むかと言いますと、知識を得るためではありません。精神的に疲れないためであり、悩みながら喜ぶことができるためであり、前向きに生活することができるためです。私たちは、毎日また何週間も、喜びを持たないで聖書を読むようなときがあるのではないでしょうか。私たちが、飢え渇きを持って聖書に接しなければ、また、みことばを深く味わわなければ、霊的に一歩も前進しないと言っても、不思議ではありません。この罪を言い表わすなら、主は私たちにみことばに対する飢え渇きを与えてくださいます。主は、新しい御声を持って、私たちに語りかけてくださるのです。
申命記17章19節です。306ページです。
自分の手もとに置き、一生の間、これを読まなければならない。それは、彼の神、
主を恐れ、このみおしえのすべてのことばとこれらのおきてとを守り行なうことを学
ぶためである。
少し後になりますが、ヨシュア記の1章8節。338ページです。
この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならな
い。そのうちにしるされているすべてのことを守り行なうためである。
また、詩篇119篇72節をみると、次のように書かれています。
あなたの御口のおしえは、私にとって幾千の金銀にまさるものです。
と、ダビデは告白したのです。97節。
どんなにか私は、あなたのみおしえを愛していることでしょう。これが一日中、私
の思いとなっています。
140節。
あなたのみことばは、よく練られていて、あなたのしもべは、それを愛しています。
「理解しています」ではありません。「暗記した」のでもありません。「愛しています」と。
結果はどういうものなのでしょうか。エレミヤの答えは次のようなものです。エレミヤ書15章16節。このエレミヤという男は、考えられないほど悩みましたし、苦しみました。絶えず迫害され、誤解され、いじめられたのです。けれども彼は、変わらない喜びを得たのです。どうしてでしょうか。みことばを捜したからです。聞く耳を持っていたからです。みことばを自分のものとしたからです。
私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私
にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。
私たちの信仰生活は、みことばを食べるはかりに従って、程度に従って、成長します。
C不信仰
四番目の怠慢の罪は、「不信仰」です。聖書は、「信仰なくして行なうことは、すべて罪
である」と言っています。信仰は、イエス様との交わり、イエス様との結びつきです。主
との結びつきがなければ、私たちは罪の中に生きています。イエス様だけを大切にしない
ことは、すなわち悪魔を喜ばせることです。この地上のこと、目に見えることを大切にす
ることは、主イエス様を除け者にすることを意味しています。
信じることは、主イエス様に留まることを意味しています。ヨハネの福音書15章5節
をみると、ぜひ覚えるべき言葉です。毎日覚えればありがたいのですけれど。
わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもそ
の人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れて
は、あなたがたは何もすることができないからです。
聖書の中に、たくさん約束の言葉がありますけれど、これを信じないことは、罪です。たとえば、使徒の働き16章31節、
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」
私たちはこの約束を本当に信じているでしょうか。私たちはこの約束を100パーセント、しっかりと信じて、毎日感謝して歩むことが許されているのです。
マルコの福音書6章の中に、驚くべきことが書かれています。1節から6節まで。
イエスはそこを去って、郷里に行かれた。弟子たちもついて行った。安息日になっ
たとき、会堂で教え始められた。それを聞いた多くの人々は驚いて言った。「この人は、
こういうことをどこから得たのでしょう。この人に与えられた知恵や、この人の手で
行なわれるこのような力あるわざは、いったい何でしょう。この人は大工ではありま
せんか。マリヤの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではありませんか。その
妹たちも、私たちとここに住んでいるではありませんか。」こうして彼らはイエスにつ
まずいた。イエスは彼らに言われた。「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、親族、
家族の間だけです。」それで、そこでは何一つ力あるわざを行なうことができず、少数
の病人に手を置いていやされただけであった。イエスは彼らの不信仰に驚かれた。そ
れからイエスは、近くの村々を教えて回られた。
結局、イエス様は、故郷であるナザレのすべての病人を癒したかったのです。けれども、彼らの不信仰のゆえに、何もできなかったのです。不信仰は罪です。
D祈りを怠ること
五番目の怠慢の罪とは、「祈りを怠る罪」であります。本当の祈りはどういう祈りであり
ましょうか。本当の祈りは、御霊が私たちを通して祈る祈りです。私たちは、だれに祈る
のでしょうか。遠く離れた、神に祈るのでしょうか。もし、遠くにいる神に祈るなら、昔のバアルの預言者たちがやったように、大声で叫ばなければならないでしょう。私たちは、
全宇宙を支配しておられる主ではあるが、私たちの内に住んでおられる主に祈るのです。
それでは、どのように祈ったらよいのでしょうか。思いを込め、主の答えを信じて祈る
ことが大切です。イスラエルの民は、みことばを読み、祈るときには、主の名を口にしなかったのです。主なる神を畏れていたからです。私たちが祈る時、イスラエルの民と同じように畏れを持って主の御前に出ているでしょうか。未信者に対して、パウロはローマ人への手紙3章18節に、次のように書いたのであります。
「神に対する恐れがない。」
けれどもこの言葉は、多くの信者に当てはまる言葉ではないでしょうか。
イザヤは、次のように書いたことがあります。イザヤ書66章2節の後半、
わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。
「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ」。
私たちは、主のみことばにおののく者なのでしょうか。主を恐れる畏れを知っている者なのでしょうか。
E集会に集わないこと
六番目の怠慢の罪とは、「集会に集わないこと」であります。集会は、もちろん宗教的な
クラブではありません。引き上げられた主イエス様がかしらであり、そしてこの主の御名によって集まる兄弟姉妹は、かしらなるイエス様の体です。聖書によると、この「体なる教会」は「神の家」であり、「真理の柱」、また「土台」であると、あります。
マタイの福音書6章33節をみると、イエス様は、山上の垂訓の中のみことばで、
神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらの
ものはすべて与えられます。
結局、主を第一にすると、主は祝福してくださる。決して損をしません。第一に主の義を求めず、主の国を求めることをしないで、いろいろな雑事や仕事のために、集会に集わない信者が大勢います。もちろん、やむを得ない場合もあるのですけれど、この点についても、ダビデのように主に申し上げたい。「主よ。私を調べ、私を試みてください。私の思いと私の心をためしてください」。
へブル人への手紙10章25節をみると、次のように書かれています。401ページ。
ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合
い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。
F親戚・肉親・友人たちに対する愛の欠乏
七番目の怠慢の罪とは、「親戚・肉親・友人たちに対する愛の欠乏」であります。私たちが携わっている仕事を、家族の救いより大切に思っている人がいるのではないでしょうか。これは私たちの義務として与えられた仕事であると考えますが、主が私たち信じる者に与えてくださった義務は、あまり考えない場合があります。
私たちの家族が、まだみ救いにあずかっていないのに、永遠の滅びに歩んでいるのに、私たちは無関心でいることができるでしょうか。私たちの家族、親戚、知り合いの人々のために、真剣に祈ることをしないで、虚しく過ごしている日々を思い出さないでしょうか。このことについても、罪は、山と積まれているのではないでしょうか。
G他の多くの滅びゆくたましいを愛さないこと
八番目の怠慢の罪とは、「他の多くの滅びゆくたましいを愛さない罪」です。私たちは、心から自分の周りにある滅びゆくたましいを愛しているでしょうか。彼らのために、私たちはあらゆる犠牲を払っているでしょうか。私たちが犠牲を払っているかいないかによって、私たちの滅びゆくたましいを愛しているかいないかが、分かります。
主がこの罪を赦し、私たちの心に救霊に対する熱情を与えてくださったら、本当に幸い
です。
H兄弟姉妹のために目を覚ましていないこと
九番目の怠慢の罪とは、「主にある兄弟姉妹のために目を覚ましていないこと」です。
へブル人への手紙の4章1節、
こういうわけで、神の安息にはいるための約束はまだ残っているのですから、あな
たがたのうちのひとりでも、万が一にもこれにはいれないようなことのないように、
私たちは恐れる心を持とうではありませんか。
私たちは、主にある兄弟姉妹に心を用いているでしょうか。これは、本当に私たちのつと
めです。兄弟姉妹が霊的に前進するように、一人一人と交わりを持ち、心を用いているでしょうか。私たちは愛する兄弟姉妹、また求道者の方々の名前を書きとめ、日々ともに祈りましょう。
Iおのれを捨てて主に従わないこと
最後に、十番目の怠慢の罪とは、「おのれを捨てて主に従わないこと」であります。犠牲を払うことなしに、霊的な成長はあり得ません。死なしに、永遠にとどまる実を結ぶことはできません。主の御名のために、私たちは、はずかしめを受け、そしりを受ける備えがあるでしょうか。ヤコブ4章17節、ヤコブは、
こういうわけで、なすべき正しいことを知っていながら行なわないなら、それはそ
の人の罪です。
と書いたのです。
主ご自身がこれらの怠慢の罪を、ご自分の光によって教えてくださったならば、本当に
さいわいです。これらを認め、改めるとき、豊かなリバイバルが起こるのです。
了
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