キリスト集会のご案内
TOP日曜礼拝家庭集会よろこびの集い出版物  


メ ッ セ ー ジ ・ 証 し 集


リバイバルの必要性 3
   
2003.11.18(火)
ベック兄メッセージ(メモ)

 
引用聖句
詩篇 85篇6節
   あなたは、私たちを再び生かされないのですか。
  あなたの民があなたによって喜ぶために。

ホセア書 10章12節
   あなたがたは正義の種を蒔き、誠実の実を刈り入れよ。あなたがたは耕地を開拓せよ。
  今が、主を求める時だ。ついに、主は来て、正義をあなたがたに注がれる。

エレミヤ書 3章22節
  「背信の子らよ。帰れ。わたしがあなたがたの背信をいやそう。」

哀歌 3章40節から42節
   私たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう。私たちの手をも心をも天におられる
  神に向けて上げよう。「私たちはそむいて逆らいました。あなたは私たちを赦してください
  ませんでした。」


 先週、私は、『リバイバルの必要性』についてお話しましたが、眠ってしまった信者こそ、初めの愛から離れてしまった信者こそが、信仰の復興、信仰の復活を必要としています。即ち、主との生き生きとした交わりによって新しくされ、新しく生かされることを必要とします。今、読んでもらいました詩篇の作者の叫びこそが、大切なのではないでしょうか。
詩篇85篇6節。
   あなたは、私たちを再び生かされないのですか。
  あなたの民があなたによって喜ぶために。

 結局、信じる者が心から喜ぶことが出来なければ、もうおしまいです。家族の人たちも導かれ得ないし、周りの人たちも心を開こうとしません。
 先週、一緒に考えた質問とは、「どうしたらこのようなリバイバルが起こるか」でした。答えは、「私たちが主にためされることによって」です。そして二番目に、「私たちが主をためすことによって」です。この両方の働きが必要です。
ダビデの心の態度が、私たちにもどうしても必要です。ダビデは祈ったのです。
詩篇139篇23節。
   神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
                                     
 詩篇26篇2節。
   主よ。私を調べ、私を試みてください。私の思いと私の心をためしてください。

 毎日、何回も祈るべき祈りなのではないでしょうか。先週、私たちは、「二種類の罪」について考えました。「怠慢」の罪と、「欲望」の罪でした。
漠然とした罪の悔い改めは、あまり価値のないものです。「悪かった。ごめんなさい」と、簡単に言いますけれど、それだけでは十分ではないかもしれません。私たちは、一つ一つ罪を犯しましたから、一つ一つ教えられて、それを悔い改めなければならないのではないでしょうか。主の光によって照らされ、主にためしていただくことは、本当に大きな恵みです。

 「上のものを求めないで地上のことを求めること」、「高ぶり」、「ねたみ」、「裁きの霊」、「悪口」、「偽り」、「偽善」、「きまぐれ」、「軽薄」、「つまずき」は、罪と言わなければなりません。時々、集会の兄弟姉妹は、あまり喜べなくなってしまいます。どうしてかと言いますと、裁きの霊があり、悪口があるからです。集会が大きければ大きいほど、それほど問題になりませんけれど、小さい集会だったら、非劇的です。時々、意識して兄弟姉妹にあいさつをしません。あいさつをされても、知らん顔をします。これは、ちょっと考えられないことなのではないでしょうか。大いに喜んでいるのは、悪魔です。
「お互いに愛し合いなさい」。これこそが、考えられないほど大切です。もちろん、「自分の愛で愛しなさい」ではありません。それは無理です。だから、「主の愛」が与えられているのです。けれども先週も学んだように、ヤコブ書4章17節に書かれていますが、
   なすべき正しいことを知っていながら行なわないなら、それはその人の罪です。

「感謝をしないこと」、「主に対する愛の欠乏」、「聖書を読まない怠慢」、「不信仰」、「祈りの少ない生活」、「集会に集わない怠慢」、「親戚、肉親、友人たち、多くの滅びゆく魂に対する愛の欠乏」、「他の兄弟姉妹のために目を覚ましていないこと」、「己を捨てて主に従わないこと」も、同じく罪であります。
パウロだけではなく他の使徒たちも、いろいろな手紙を書いたのです。そして皆、何を強調したかと言いますと、「光のうちを歩みましょう」ということです。例えば、パウロは、エペソ書の5章13節、14節に次のように書いたのです。346ページです。
   けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。明らかに
  されたものはみな、光だからです。それで、こう言われています。「眠っている人よ。目を
  さませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」

 即ち、「明るみに出された罪は、もう罪ではありません。光です」。パウロが、信じる者に書き送った言葉です。もし私たちが、次第に汚れ果ててしまった自らの真相を、主の光によって教えられ、イエス様の血潮を受け入れ、きよめられていくなら、私たちには暗いところがなく、すべてが光となるはずです。これこそが、いわゆるリバイバルです。
 ルカ伝の12章49節で、イエス様は、次のように告白されたのであります。
  「わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。だから、その火が燃えていたらと、
  どんなに願っていることでしょう。」

 イエス様がこの地上に生きておられた時、イエス様は天から火がくだること、即ち、主の霊が豊かにこの地上に注がれることを、願っておられました。今、地上にはおられませんけれど、生きておられるイエス様は、やはりこの願いを、この全く同じ願いを持っておられます。リバイバルがどうしても必要です。

 例えば、人は新しい年を迎えたり、誕生日を迎えると、新しく決心の心を固め、願い事をします。今日は別に元日ではないし、誰かの誕生日でもないかもしれません。けれども、私は一つの願いを持っています。それは、皆さんにちょっとだけ病気になってもらいたいのです。前にお話したことがありますけれども、私は何十年も前に、腎臓炎にかかったことがあります。病気によって違うかもしれませんけれど、私は「非常によかった」と言わざるを得ません。なぜなら腎臓炎にかかると、薬がないので、治療方法は一つしかありません。しばらく寝ること、それだけなのです。腎臓炎になってしまいましたが、後で振り返ってみた時、「よかった、よかった」としか言えなかったのです。
 その時の状況は、次のようなものだったのです。何日間も激しい頭痛が続き、痛み止めを飲んでも全く役に立たなかったのです。ちょうどその時、親しい医者の所へ行く用事が出来、訪ねてみると、診察してもらうことになったのです。その時、腎臓炎にかかっていることが初めて分かりました。腎臓炎とは確かに変わった病気なのです。薬がないのです。治療法と言えば、ただ安静にして寝ることです。その通りにしました。何週間だったか忘れましたけれど、聖書を読んだり本を読んだり出来て、嬉しくて嬉しくてならなかったのです。痛みがなかったからです。塩分の多い物を食べてはいけないので、食べ物はおいしくなくなってしまったのですけれど、本を読むことが出来るのが、嬉しかったのです。
 
今の世を見ると、平安と安静がどこにも見当たりません。多くの人は忙しく働いたり、時間以上に働いています。腎臓炎の治療法は、ただ安静にしていること以外にないのですけれど、これは、静思の時を与えてくれる幸いな病気です。病気になった時、みことばの中に、「腎臓」について何か書いてあるのではないかと調べました。いくつかの箇所があるのです。けれども、日本語の聖書は、時々ちょっと違う言葉が使われています。例えば、詩篇の139篇の中で、原語は、「腎臓」となのですけれど、「内臓」となっているのです。960ページです。13節と14節をお読みいたします。
   それはあなたが私の内蔵を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。私は
  感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、
  それをよく知っています。

「内臓」とは、原語では「腎臓」となっています。そして、エレミヤ書の11章20節。1159ページ。ここも日本語の聖書は、「腎臓」ではなくて、「思い」となっています。
   しかし、正しいさばきをし、思いと心をためされる万軍の主よ。

エレミヤは、主が自分に成してくださったみわざを述べています。続いて、同じくエレミヤ書17章の10節に、主はエレミヤに、
  「わたし、主が心を探り、思いを調べ、それぞれその生き方により、行ないの結ぶ実に
  よって報いる。」

と言われています。エレミヤ書のこの二つのみことばの中に出てくる「思い」という言葉は、本当は、「腎臓」と訳すべきです。
聖書が言っている「腎臓」は、何を意味しているのでしょうか。「腎臓」は「私たちの良心、潜在意識、一番深い心の奥底」を意味しているのです。
ダビデは、前に読みました箇所なのですけれども、詩篇26篇2節で、
   主よ。私を調べ、私を試みてください。私の思いと私の心をためしてください。

と、主の御前に祈り求めていました。ダビデはこの祈りを捧げ、「主よ。どうか、私の良心、私の潜在意識、心の一番深みをお探りください」と言っているわけです。主が、私たちの心の深みまで探ってくださり、それを明るみに出してくださるなら、リバイバルが起こるのです。私たちにその備えがあるのでしょうか。
いわゆる普通の腎臓炎の人たちは、腎臓が元通りになるために、安静がどうしても必要です。これと同じように、主が、私たちの心の深みまでお探りくださるためには、やはり私たちが、主の前に静まっていることがどうしても必要です。私が腎臓炎にかかることになったのは、結局、特に寝るようになるためではなく、主の御前に静まり、心の深みまで探っていただく時を持つためです。そうすると、天より火がくだり、御霊の流れが地上にまで流れ来て、リバイバルが起きるに違いありません。私たちの心の深みが、主に探られ、そして今度は、私たちが主を試みることによって火がくだります。私たちがリバイバルを目の前にしたら、どんなにうれしいことでしょう。主は、それを与えようとなさっておられます。

 ルカ伝から、よく知られている箇所をお読みいたします。二種類の人間についての箇所です。139ページです。ルカ伝の18章の9節から14節までお読みいたします。
   自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのような
  たとえを話された。「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もう
  ひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私は
  ほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようで
  はないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の
  一をささげております。』ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、
  自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』あなたがた
  に言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜな
  ら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。

 ここで、三人の人物が出てきます。初めにイエス様です。二番目にパリサイ人。当時の聖書学者、宗教家です。三番目にいわゆる取税人です。敵国のために金を集める者です。このイエス様は、今日もみことばのご真実をもって、私たちの真中に、親しくご臨在しておられます。ご臨在の、この主イエス様の御声を聞くことが出来たら、幸いです。また、私たちの中には、宮に上った取税人のように、罪を深く自覚している人も何人かおられるのではないかと思います。よく聞く告白は、「私は姦淫の罪を犯してしまった。顔を上げられません」と。けれども、私たちのうちの大部分が、「高ぶるパリサイ人」のような存在ではないでしょうか。
二つの点に分けて考えましょう。
1. 私たちの、「パリサイ人的な心の態度」です。
2. 「このことから解放される方法」についてです。

 人の心は、聖霊の宮であるか、悪魔の道具であるかのどちらかに分けられます。私たちの心はどうでしょうか。今のルカ伝18章11節をもう一回読みます。
  「パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆす
  る者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝しま
  す。』」

「神さま」ではなく、ただ、「神よ。私は…」です。この祈りを通して、私たちはパリサイ人の罪がよく分かります。ここには、傲慢と自己義認と裁きの霊と偽善があります。私たちは、自分の心の内にも、これらの悪しき思いが潜んでいることを、既に認めたのでしょうか。多分、「私は傲慢です。偽善者です。他の人を裁く心を持っています」と告白するでしょう。けれど、私たちは、パリサイ人のように、「私はほかの人たちのようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではない」と、言うのではないでしょうか。私たちのうちの何人の者が、取税人のように、「私は貪欲な者、不正な者、姦淫をする者です。罪人の私をお許しください」と、深く良心を探られ、心を刺されて、主の御前に申し上げるのでしょうか。
 
ドイツに、子どものためのある小さな本があります。この本に出てくる、動物の性質は、私たちの心を照らしてくれる鏡のようなものです。もし主が御霊の光をもって、私たちの心の深みまで、はらわたの底まで、良心の深みまでお探りくださるなら、私たちは自らの心の汚れた恐ろしさに驚くことでしょう。
 多くの人たちは、この本に出てくる動物のような心は、改心する前の人の心にだけ住んでいるのであって、救われた信者の心にはイエス様だけしか住んでおられないのだと、考えますが、これは大きな誤りです。私たちがこのように考えているときには、リバイバルは起きないでしょう。「私たちの内には、主イエス様と御霊が住み、悪魔と悪霊は、未信者の心にしか住むことが出来ないのだ」と誤った考えを持っている限り、リバイバルは起きないでしょう。一般に、信者は救われて神の子となり、未信者だけが罪の奴隷だと考えますが、もし心の深みまで主に探られるなら、この考えが誤りであることが分かるはずです。あなたは、「私は信者であり、罪の赦しを得ている。もちろん、たまには罪を犯すけれど、未信者のように悪くはない。他の人に比べると私はいい方だ」と、考えているかもしれません。けれども、イエス様が、私たちをどのように見ておられるかが問題なのではないでしょうか。主イエス様は、私たちを判断されて、何を考えておられるのでしょうか。
よく読む箇所なのですけれども、マルコ伝の7章をもう一回見てみましょう。72ページになります。20節から23節までお読みいたします。
   また言われた。「人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の
  心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好
  色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚す
  のです。」

「未信者の心からばかりでなく、燃えている信者の心からも、また姦淫の罪人の心からも、福音を述べ伝える者の心からも、このような悪しき思いが出てくる」とイエス様は言われました。ご存じのように、新約聖書の手紙は、未信者のためではなくて、救われた人たちのために書かれているものです。これを見ると、あの小さな本に出ていたあの動物たちは、信者の中にも潜んでいることが分かります。
 使徒パウロの手紙を見てみましょう。パウロは、コリントの町に住んでいる兄弟姉妹たちに、次のように書き送っています。コリントの教会とは、最低でした。けれども、彼らもイエス様に出会って、イエス様を信じるようになり、罪の赦しを得て、神との平和を持つようになり、永遠のいのちを持つようになった人たちなのです。
コリント第一の手紙の5章1節をお読みいたします。295ページです。
   あなたがたの間に不品行があるということが言われています。しかもそれは、異邦人の
  中にもないほどの不品行で、父の妻を妻にしている者がいるとのことです。

「あなたがたの間」とは、「あなたがた救われた者の間」のことです。
次の6章7節から10節。
   そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。なぜ、むしろ不正をも
  甘んじて受けないのですか。なぜ、むしろだまされていないのですか。ところが、それどこ
  ろか、あなたがたは、不正を行なう、だまし取る、しかもそのようなことを兄弟に対してして
  いるのです。あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのです
  か。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼とな
  る者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の
  国を相続することができません。

 同じくコリント第一の手紙の10章8節。
   また、私たちは、彼らのある人たちが姦淫をしたのにならって姦淫をすることはないよう
  にしましょう。彼らは姦淫のゆえに一日に二万三千人死にました。

 イエス様は、燃える炎のような目で、私たちの心の深みまで見ておられます。イエス様は、「私たちのはらわたの底まで探り知る」と言われます。私たちは、主の御手にお任せし、主に探っていただいたら、本当に幸いです。
 次に、パウロはガラテヤの兄弟姉妹に、次のように書き送ったのであります。
ガラテヤ書の5章19節から21節までお読みいたします。
   肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、
  魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった
  類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言って
  おきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。

 これは、未信者に対してではなく、信じる者に対して書き送られた言葉です。
この恐るべき肉の性質は、信じる者に死ぬまで身に付きまとっているものです。信者は、いつでもこの罪を犯す可能性を持っているのです。
 続いて、パウロはエペソの町の兄弟姉妹に、次のように書き送りました。エペソの教会は本当に模範的で、主によく用いられた教会でした。エペソ人への手紙5章3節から5節。
   あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口に
  することさえいけません。また、みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。
  そのようなことは良くないことです。むしろ、感謝しなさい。あなたがたがよく見て知って
  いるとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者――これが偶像礼拝者です。
  ――こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。

 当たり前の話ですけれども、もし、ここに書かれている罪をエペソの兄弟姉妹が犯す可能性がなかったら、パウロがこのように書き送る必要もなかったはずです。霊的に優れたエペソの信者に対してさえ、このような忠告が必要だったのです。
コロサイの兄弟姉妹には、次のように書かれています。コロサイ書の3章5節です。
   ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そして
  むさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。

 霊的に最も高かったと見なされるコロサイの信者の心の中にも、不品行や汚れや貪欲が潜んでいたことが分かります。私たち信者の心も、それを私たちが認めようが認めまいが、同じ罪が潜んでいるのです。全く罪がないお方は、麗しく、欠けたところのない、神の子であられる主イエス様、ただ御一方だけです。信者のすばらしいところは、信者の内に、宿っておられるイエス様だけです。これを、深く認めることができたとき、リバイバルが起きるのです。他の人たちの美しさを見、それに比べ、自分が決して美しくないのを悲観し、いつも暗い気持ちでいる人もいるかもしれません。けれども、主が私たちの心の深みまでも探ってくださるなら、私たちの顔は、心に比べると、まだまだましであることが分かるはずです。もし、私たちの心の深みがこの場に映し出され、目に見えたら、私たちは一人もここにいることが出来ず、恥ずかしさのあまり外に飛び出してしまうのではないでしょうか。

イエス様は、マルコ伝7章で、私たちの心の本当の姿を教えてくださいます。前に読みました箇所です。20節から23節。
  「人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来る
  ものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、
  そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」

「人から」とは、「あらゆる人間から」の意味です。「内側から」です。「外側から」ではないのです。これを考えると、人の外側の麗しさ、その人の良い面などは、実に小さなものになってしまいます。「この兄弟は熱心に、しかも忠実にご奉仕しているから、この兄弟の心には汚れや貪欲はないはずだ」、また、「この姉妹はいつも静かで、人前ででしゃばらないから、この人の心にはわがままな心はない」と考えるかもしれないけれど、イエス様は、「この熱心な、また、この静かな人の心も、マルコ伝7章にそっくりだ」と言っておられます。結局、大切なのは、私たちの考えていることではなくて、主は何を言っておられるのか、そして、もしイエス様が、「未信者の心から出るものは・・・」と言われたのなら、ありがたいけれど、イエス様はそう言われなかったのです。現実は違うからです。結局、人間は駄目なのです。
ローマ書3章10節から12節。
  「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべて
  の人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりも
  いない。」

これが主の判断です。もし誰かが謙遜であるなら、それは、その人の中に住んでおられるイエス様が謙遜であり、もし誰かがきよければ、それは、その人の内に住んでおられるイエス様がきよいのです。人の心は、いつもマルコ伝7章の罪の性質を計っているのです。

私たちの心の本来の性質は、前に話したあの小さな本の動物と同じです。
*まず、「孔雀」がいました。孔雀は、動物の中で一番誇り高ぶる動物です。私たちは、同じように心の誇り高ぶる者です。傲慢は主の最も嫌いなものです。傲慢は主の最も嫌っているものです。神は、高ぶる者を退けざるを得ません。
 *次に、「やぎ」が出てきます。やぎは、非常に臭いの強い、また淫らな動物とされています。やぎは、淫乱と不潔を表わしています。私たちは、どのような絵、どのような本を好んで読むのでしょうか。私たちの想像すること、考えること、夢を見ることは、どんなことなのでしょうか。私たちの思いは、きよめられているのでしょうか。
 *その次に出てくるのは、「豚」です。豚は、汚れに満ち、また節度のない無作法者の代表です。豚は、それを表わしています。
 *その次に、「ガマ」が出てきます。ガマ蛙は、おもに土だけを食べて生きている動物です。これは、地のことだけを思い、また、人に与えることを嫌う、けちん坊を表わしています。私たちは、上のものを求めているのでしょうか。それともガマ蛙のように、地のことだけを求めているのでしょうか。
 *次に、「蛇」が出てきます。蛇は、ご存じのように、アダムとエバを欺きました。私たちの心の中に、多くの蛇にも似た偽善、欺き、偽りが潜んでいます。
 *最後に、「虎」が出てきます。虎は一番恐ろしい動物で、怒りと復讐の心を表わしています。
 
今、挙げたこれらは、人の心を診察した、「主の診断書」です。これは、未信者であろうが、信者であろうが、福音を述べ伝える者であろうが、犯罪人であろうが、共通の診断書です。一言で言えば、「パリサイ人の心」を表わしています。
ルカ伝18章11節、12節。
  「パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のように
  ゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝
  します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげて
  おります。』」

 パリサイ人は、そのように言うことによって、神を偽り者としていることになります。マルコ伝7章の自らの心の状態を認めません。パリサイ人は、「そのような汚れたことは、他の人たちには当てはまるだろうが、自分には当てはまらない。自分はパリサイ人であり、祭司であり、日々祈り、断食し、聖書を読んでいる。神に仕えている。犯罪人や姦淫を犯す者とは少し違う」と心に思っています。パリサイ人のように、このように考えている人は、主を偽り者とする者に他なりません。パリサイ人は、主なる神の御前に真剣に祈ったと思っていたのです。パリサイ人は、姦淫や貪欲な心が自分にはないと思い、信じていたのでした。このように、心の目が見えなくなっているのは、本当に悲劇的なのではないでしょうか。このような人たちは、どんなに周りの人たちの救いのために祈り、断食し、十分の一を献金したとしても、何かを経験したように思うでしょうが、まことの経験を得ることが出来ません。
 使徒パウロは、自らの心の様を知った時、ローマ書7章24節で、
   私は、ほんとうにみじめな人間です。

また、ローマ書7章18節で、
   私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。

と、言わざるを得なかったのです。


 ダビデのように、毎日祈ることこそが大切なのではないでしょうか。
詩篇26篇2節。
   主よ。私を調べ、私を試みてください。私の思いと私の心をためしてください。

 
この態度があれば、主は、豊かに祝福してくださるに違いありません。




サイトマップ
更新履歴


メッセージ・証し集インデックスページ

◆メッセージ(ベック兄)

※一部、テープの転換による不明部分あり

神のみことばは神のみことばである(5) 2006. 4. 18
神のみことばは神のみことばである(4) 2006. 4. 11
神のみことばは神のみことばである(3) 2006. 4. 4
神のみことばは神のみことばである(2) 2006. 3. 21
家族の救い 2006. 3. 19
神のみことばは神のみことばである(1) 2006. 3. 14
主イエスは神の子キリストである(4) 2006. 3. 7
主イエスは神の子キリストである(3) 2006. 2. 28
主イエスは神の子キリストである(2) 2006. 2. 14
主イエスは神の子キリストである(1) 2006. 2. 7
勝利の生活の秘訣 2006. 1. 24
イエス・キリストのからだ 2006. 1. 17
主の永遠からの予定 2006. 1. 10
元旦メッセージ 2006. 1. 1


2005年度のメッセージ集
2004年度のメッセージ集
2003年度のメッセージ集