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メ ッ セ ー ジ ・ 証 し 集


リバイバルの必要性 4
   
2003.12.2(火)
ベック兄メッセージ(メモ)

 
引用聖句
ホセア書10章12節。
   あなたがたは正義の種を蒔き、誠実の実を刈り入れよ。あなたがたは耕地を開拓せ
  よ。今が、主を求める時だ。ついに、主は来て、正義をあなたがたに注がれる。

 エレミヤ書3章22節。
  「背信の子らよ。帰れ。わたしがあなたがたの背信をいやそう。」「今、私たちはあな
  たのもとにまいります。あなたこそ、私たちの神、主だからです。」

 哀歌3章40節から42節。
   私たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう。私たちの手をも心をも天にお
  られる神に向けて上げよう。「私たちはそむいて逆らいました。あなたは私たちを赦し
  てくださいませんでした。」


 時々、正直な兄弟姉妹に会います。この間の「新潟・喜びの集い」で、2〜3人の人が非常に正直に何と言われたかと言いますと、「私は、元気ではありません」。
 多くの人は、ラオデキヤにいる兄弟姉妹に似ています。高く引き上げられた主は、彼らに何と言われたかと言いますと、黙示録3章17節。
   あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実
  は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。

彼らは確かに、イエス様を救い主として受け入れましたし、「もう行き先は決まっている。
天国だ」と思いました。けれども、主は全然満足しておられませんでした。彼らは、自分
のことに対して全くめくらであったからです。

 パウロも、主と同じことを経験しなければならなかったのです。パウロについて考える
と、彼こそが大いに悩んでいる者でした。悩みのかたまりだったと言えるのではないでし
ょうか。もちろん彼は、悲しみながら喜ぶことができたに違いありません。彼の証しを読
むと本当にびっくりします。一度、時間をつくって、彼の証しをお読みになってみてください。
 彼の正直な証しは、おもにコリント第二の手紙の中に書かれています。パウロは、いろいろな手紙を書きました。ほとんどは、信じる者を励ますために、手紙で主を紹介したのです。けれども、コリント第二の手紙の中で、彼は自分のことについて少しだけ書くようになったのです。たとえばその中で、「私は天に引き上げられたことを経験しました。その時見た栄光があまりにも素晴らしかったから、人間の言葉で言い表わせないから、黙っています」と。結局彼は、14年間黙っていて、誰にも言わなかったのです。理由があったのでしょう。コリント第二の手紙11章の中で、彼は少しだけ自分の経験について触れています。328ページです。11章23節から28節。
   彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上に
  そうなのです。私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち
  打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。ユダヤ人から三十
  九のむちを受けたことが五度、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、
  難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。幾度も旅をし、川
  の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、
  海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇
  き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このような外
  から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。

「日々」、毎日のことです。「諸教会への心づかいがあります」と。彼の苦しみと悩みとは、考えられない、想像できないものでした。けれども彼は、「外から来るものなんて、大したものではない」と言いたかったのではないでしょうか。「日々、私に押しかかる諸教会への心づかいが大変です。せっかくイエス様を知るようになって救われた人たちが、なかなか成長しないので、どうしようもない。私は、大いに悩んでいる」と、パウロは言ったのであります。

 アイドリンゲンで出している、『ビーベルレーゼツエテル』の中に、あるドイツの姉妹の証しが載っていました。どういう証しであったかと言いますと、「私は、長い間、何のために救われたのかさっぱり分かりませんでした。それが分からなければ、結局目的もないし、内容のない信仰生活になってしまいます。けれどもある時、突然示していただきました。私は主に仕えるため、主を待つために救われたのです」と。やはり、それで全部変わったようです。「私たちは主に仕えるために、主を待ち望むために、再臨の期待を持って待ち望むために、救われた」と分かると、やはり違います。多くの人は、「イエス様はいつか来られるけれど、いつになるか分からないから、そんなに熱心に待たなくてもいいだろう」と言います。そういう人の生活は、主のために役に立ちません。けれども、「今日、来られるかもしれない!」という期待を持つと、全く違うのではないでしょうか。

 多くの人は、自分、自分のことしか考えていないから、主に用いられ得ません。だからこそ、私たちの最近のテーマは、『リバイバルの必要性』『リバイバルへの道』です。眠ってしまった信じる者こそが、「リバイバル」、信仰の復興を必要とするのです。すなわち、主との生き生きとした交わりによって、新しくされ、新しく生かされることこそが、必要です。ですから、詩篇の作者は心から叫んだのです。85篇6節。
   あなたは、私たちを再び生かされないのですか。あなたの民があなたによって喜ぶ
  ために。

結局、「信じる者が主によって、主にあって、喜ぶことができなければ、悲しい」と。なぜならば、周りの人たちが、期待を持って心を開こうとしないからです。

 「リバイバルはどうしたら起こるのか」、私たちが主にためされることによってです。
詩篇139篇23節と24節。
   神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってくだ
  さい。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いて
  ください。

これは、ダビデの心からの叫びでした。「主よ。私を調べ、私を試みてください。私の思いと私の心をためしてください」。

 聖書を見ると、二種類の罪があります。いわゆる「怠慢」の罪と、「欲望」と呼ばれる罪
です。もう一度言いましょうか。
 漠然とした罪の悔い改めは、あまり価値のないものです。「悪かった」「ごめん、ちょっと…」と、心からそう思うのかもしれないけれども、「悪かった」と言っても、本当は言っただけで、そう思っていない人もいます。私たちは、罪の一つ一つを犯してしまったから、
やはり一つ一つを教えられて、悔い改めなければならないのではないでしょうか。
 いわゆる「怠慢」の罪とは、どういうものであるかと言いますと、「上のものを求めない
で、地上のものを求めること」です。もちろん「高ぶり」「傲慢」も罪であり、「ねたみ」もそうでありますし、「裁きの霊」もそうであります。兄弟姉妹に対する考えは、イエス様に対する考えです。それを考えると恐ろしくなります。裁き主は、主です。私たちが兄弟姉妹を裁くと、これは主イエス様に対するものであります。恐ろしい。なぜならば、主はもう祝福することができません。導くことができません。「悪口」も、もちろんそうです。「偽り」もそうですし、「偽善」もそうですし、「気まぐれ」もそうですし、「軽薄」もそうですし、「つまずき」もそうです。全部、聖書からみると罪であります。けれどもそれだけではなく、ヤコブの手紙4章17節に、
   なすべき正しいことを知っていながら行なわないなら、それはその人の罪です。

と、ヤコブは書いたのであります。すなわち、「感謝をしないこと」、「主に対する愛の欠乏」
もそうですし、「聖書を読まない怠慢」もそうです。聖書を読んでも、義務的に読むなら、あまり意味のないことです。いわゆる頭の知識を得るために読んでも、意味のないことでしょう。飢え渇きを持って、「もう疲れた。生かしてください」「みこころを明らかにしてください」、こういう心構えを持って聖書を読むと分かります。何が分かるかと言いますと、「聖書は元気のもと、喜びの源です」と言うようになります。「不信仰」も、もちろん罪であり、「主に頼ろうとしない態度」も罪であり、「集会に集わない怠慢」も罪であります。
 主にとって一番悲しい罪とは、「親戚・肉親に対する、知り合いの人たちに対する、愛の欠乏」の罪であります。それだけではなく、「集会の他の兄弟姉妹のために、目を覚ましていないこと」も罪であり、「おのれを捨てないこと」も、「主に従わないこと」も、全部、罪であります。・・・もう、山ほどあります!
 ですから一日が終わって、私たちは何を祈るべきなのでしょうか。夜、「今日は良かった、良かった」と、おそらくまともな人間は言えないのではないでしょうか。やはり、「イエス様、ごめんなさい」としか言えないのではないでしょうか。しかし、それだけで終わるのなら大変ですけれど、その後ですぐに私たちは、感謝することができるのです。なぜなら、パウロはエペソにいる兄弟姉妹に、次のように書いたのです。すばらしい福音です! 
5章13節から14節、346ページ。
   けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。明
  らかにされたものはみな、光だからです。それで、こう言われています。「眠っている
  人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照
  らされる。」

ピンと来ないし、ちょっと考えられないし、どういうものか分かりません。「明るみに出さ
れた罪は、もう罪ではない」のですって! 「光です」と言われています。パウロはこれを救われた兄弟姉妹に書いたのです。「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる」。結局、主の光の中でのみ、私たちは光を見るようになります。もし、私たちが、次第に汚れ果ててしまった自らの真相を、主の光によって教えられ、イエス様の血潮を受け入れ、きよめられていくなら、私たちには暗いところがなく、すべてが光となるはずです。これこそが、聖書に言われている「リバイバル」です。

 主の判断とは、確かに「義人はいない。ひとりもいない。善を行なう人はいない。ひと
りもいない(ローマ人への手紙3章10・12節)」のです。信仰から出ていないことは、
全部罪です。信仰とは、もちろんイエス様とのつながりです。イエス様とつながっていな
ければ、人間のやっていることは、主の目から見ると、全部例外なく罪です。光に照らさ
れることを拒まない人、そして過ちを犯す者として、どうしようもない者として、まことの光であるイエス様のみもとに来る者は、受け入れられます。決して拒まれることはありません。受け入れられ、救われるのです。

 パウロは、コリントにいる人々に、「光と暗やみとにどんな交わりがあるでしょう(コリ
ント第二6章14節)」と書いたのです。イエス様だけが、「わたしは光です(ヨハネ9章5節)」と言うことがおできになったのです。もし、人間が、「みなさん、私を見てください。私は光です。透き通っているのです。偽善も知らないし、わがままも知らない」と言ったなら、みな笑います。あり得ないからです。イエス様だけが、「わたしこそが、光そのものである」と言うことがおできになったのです。
 人間はやみであり、人間の内側には、暗さと不従順と偽善があります。だからこそ、多くの人は光であるイエス様との関係を持ちたくないのです。全部を明るみにされたら大変だからです。光であるイエス様が来られたから、生きておられるから、かえって希望があるのです。「イエス様は、光として人間の暗やみの中を照らしてくださり、罪を明らかにしてくださる」だけではなく、「明るみに出された罪は、もう赦され、忘れられている」と、聖書は言っているのです。

 パウロは、主イエス様との出会いについて、次のように告白したことがあります。
使徒の働き9章3節、224ページです。
   ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が
  彼を巡り照らした。彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」
  という声を聞いた。彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、お答えがあっ
  た。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。

もちろんパウロ、当時のサウロは、そうするつもりではなかったのです。「イエスは、もうすでに十字架の上で死んだのだから、殺されたのだから、いないのだ。だから、イエスを迫害することなどは、意味のないことである」と彼は思ったのです。イエス様を信じる者だけを迫害するつもりでした。けれども、信じる者に対する迫害とは、結局、イエス様に対する迫害であったのです。光に照らされた時初めて、彼は、「自分のやっていることは、とんでもないことであり、全く悪魔的であり、的はずれの行ないである」と、瞬時に分かったのです。
 そこで、彼は何をしたかと言いますと、祈ったのです。今まで彼は、このイエスと全く関係を持ちたくなかったのです。けれども彼は、急に「主よ」と言ったのです。「主よ。私は、どうしたらいいのですか」。今まで持っていた「聖書の知識」は全く役立たないと、彼はいっぺんに分かりましたし、今まで持っていた「自信」も、全くなくなってしまいました。今からどうしたらいいのか、分からなくなってしまったから、「主よ。私はどうしたらいいのでしょうか」と祈ったのです。彼は、死ぬまでこの態度を取り続けたので、大いに祝福されたのです。
 イエス様の呼びかけとは、「わたしのところに来なさい。光であるわたしのところに来な
さい」です。人間は、この「光であるイエス様」のみもとに行くと、やはり「光」を見出すようになります。もちろん、それだけでは十分ではありません。「光のもとに行くこと」と、「光の中にいること」とは違うのです。ですから、ヨハネは、信じる者を目覚めさせるために、次のように書いたのです。ヨハネ第一の手紙1章7節。
   もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互
  いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

何かを隠すと、悪口があると、裁く霊があると、私たちは交わりを持つことが、全く不可
能です。イエス様の呼びかけは、素晴らしい呼びかけです。すなわち、「やみの中を歩かなくてもいいのです。何も隠さなくてもいいのです。おいで!」「わたしに従う者は、決して、やみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです(ヨハネの福音書8章12節)」と。すなわち、「いのちの光」とは、「イエス様ご自身」です。
 パウロは、エペソにいる兄弟姉妹に書き記したのです。5章8節です。
   あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。

けれども、それで終わりではない。
   光の子どもらしく歩みなさい。

と。結局、「あなたがたは光となりました」。もうそれで十分ではないでしょうか。
 この5章8節によると、「あなたがたは、…主にあって」、主にあってのみ、「光」なのです。「光であるイエス様」から離れると、自分勝手に生活すると、すなわち、自分の知恵・自分の力に頼ると、私たちは、瞬時に駄目になります。「光である主」とつながっている時のみ、どうしようもない人間も「光」であると、イエス様は言われたのです。「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないし、わたしから離れたら、あなたがたは救われてはいても、暗やみです」と、イエス様は言われたのです。
 パウロは、コロサイにいる人々に、「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛す
る御子のご支配の中に移してくださいました(1章13節)」と書いたのです。「暗やみの圧制」と「御子主イエス様のご支配」とは、何という違いなのでしょうか。
 もし、私たちが信じる者としてイエス様に頼らないなら、すべての努力、またすべての
ことは、結局無駄なのです。的はずれなことであります。

 今まで、私たちは「信じる者もまだ目的地まで行っていない。闘いに投げ込まれている者である」と一緒に考えました。
 結局人間とは、聖書によるとみな、「パリサイ人的な心」を持っているのです。問題は、この「パリサイ人的な心」から解放される方法とは、いったい何なのかということです。すでに聖霊の宮となっている者でありながら、更に解放される必要があるということは、ある意味で悲しいことです。生まれ変わったけれど眠っている兄弟姉妹は、目を覚まし、新しくされなければなりません。これはどうしても必要な、また、現にある、動かすことのできない事実です。
 健康なキリスト者の生活は、ガラテヤ人への手紙2章20節に書かれているように、「私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられる」のです。実際問題として、バプテスマのヨハネは、同じことを別の言葉で言ったのです。「あの方(イエス様)は、盛んになり私は衰えなければなりません(ヨハネ3章30節)」ということです。もしこのような状態なら、イエス様はいつも信じる者の心の内にいて働いておられますから、新しくされること、すなわちリバイバルされる必要はありません。日々続いて、霊的に目覚めさせられている人は、本当に幸いです。

 私たちに、どのようにしたらリバイバルが起きるのでしょうか。
そのためには、いったい何が必要なのでしょうか。

1.自分のもの足りなさを覚えること 
 私たちは、たましいの深くに、イエス様との深いまことの交わりを持ちたく願っているでしょうか。私たちは、自らの内に足りないものがあることを感じているでしょうか。
いずれにしても、私たちはイエス様との交わり、まことの交わりを持っているでしょうか。私たちは、霊的な健康人でしょうか。
 私たちがもし、意識していない隠れた罪を持っていても、その罪は、意識している罪と同じように主と私たちとの間を隔てるものです。私たちは不満足を覚えているでしょうか。

2.主の御前に自らを裸にすること
 もし、霊的なもの足りなさを覚えているなら、「罪を明るみに出す備え」ができたと言えます。「自分のもの足りなさを覚えること」だけでなく、「罪を明るみに出す備え」も必要であります。
 ダビデは、「どうか私をためしてください(詩篇26篇2節)」と祈ったのです。私たちも、そういう願いを持っているでしょうか。その備えができていない人は、みじめな人であると言わなければなりません。リバイバルを見ることができないし、新たなる祝福にあ
ずかることができないからです。
 もし病気になったら、医者のところに行って、「どうか私を診てください」と頼むでしょう。心の内の足りなさを覚えながら、イエス様の御前に出て、「どうか私をためしてみてください」と願わないのは、罪です。医者に病気を診てもらうときに、着物を脱がなければならないのと同じように、リバイバルを迎えるために、私たちは主の御前にすべてを明るみに出し、裸にならなければなりません。外科医は着物を脱がせるだけではなくて、皮を切り、肉を切って、悪いところを取り出します。主も、私たちに同じ取り扱いをなされるお方です。今イエス様が私たちをご覧になると、「あなたは、もう備えができている」と言われるでしょうか。または、「あなたは、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、裸の者であることを気がついていない」と言われるでしょうか。私たちが自らの罪を明るみに出す備えをし、主に試みていただく備えができると、自らがどんなに罪深い者であるかということが、現われてきます。
 あるところに財産家がいまして、その人にはとんでもない一人息子がいたのです。彼は
本当に放蕩息子そのものだったのです。母親は、息子を心配するあまり、心を痛めて早く
死んでしまったのです。やがて息子は、愛し続けてくれた父親のもとを去って、家を出て
しまいました。それから何年か経った後、息子は父親が死んだ知らせを受けました。息子
は、「葬式に行けば、莫大な財産のうち、いくらかでももらえるだろう」と思って帰ってき
ました。そこには、親戚の人たちが並び、息子を見るとあまり良い顔をしませんでした。やがて、父親の遺言が読み始められました。それには初めから、息子のことに触れられており、それまでに息子がやったいろいろなことが書き並べられており、母親も息子を心配するあまり死んだことが書かれていました。それを聞くうちに、息子は自分の悪いことを聞くに耐えず、その場を出てしまいました。家の中にいる人々は、続けて遺言を読み続けましたが、終わりの方に何と書いてあったでしょう。「もし、この遺言を、息子が悔い改めた気持ちで最後まで聞くことができれば、愛する息子に、私の残した全財産を与える」と書かれていたということです。息子は、最後まで遺言を聞かずに席を外してしまいましたから、財産は親戚のものに分け与えられたということです。
 もし、私たちが、「自らの真相は、マルコの福音書7章20節から23節で、主イエス様がおっしゃっておられる姿と同じだ」ということを認めないなら、私たちは素晴らしいリバイバルという宝を逃がしてしまうことになります。
 結局、イエス様は、何と言われたかと言いますと、「信者であろうと未信者であろうと、人間は駄目で、どうしようもないものだ」ということです。

3.自らの心の内に罪を認めること
 パリサイ人は、自分の罪が覆い隠され、外に現われなければ、主は喜んでくださると思
っていました。けれども、サムエル記で語られたように、人間は外の形を見ますが、主は
心の深みまで見通すお方です。主の御前に、情欲をいだいて女を見る者は、姦淫を犯した
者であり(マタイ5章28節)、人を憎む者は、殺人罪を犯したことになる(ヨハネ第一の手紙3章15節)、とあります。
 私たちは、すでに、自らが「パリサイ人的な心」を持っていることを認めたでしょうか。私たち一人一人の心は、あたかも前に学んだように、孔雀、やぎ、豚、ガマ、蛇、虎、のようなものであります。主の目から見ると、私たちの心の中には高ぶりがあります。情欲があります。汚れ、好色があり、怒り、復讐心があり、怠惰、わがまま、ねたみ、短気、恐れ、これらのものが潜んでいると、聖書ははっきり言っているのです。(マルコの福音書7章20節から23節)もし、私たちがそのことを認めたら、次に主は、私たちを、その告白に導いてくださいます。「主よ。私は罪人です。罪人の私をあわれんでください」と。これは、取税人の告白( ルカの福音書18章13節)だったのです。主の御前に、「私は貪欲な者、不正な者、姦淫をする者です」と、主の光に照らされて告白したことがあるでしょうか。もしこれを告白することができたら、その人は砕かれたたましいを持った人と言えるでしょう。
 このように砕かれた人は、もし誰かが、「人間のたましいの深くには、良いところもある」
などと言うなら、それは、サタンから来たものであると、すぐ見破ってしまうでしょう。また砕かれた人は、信者が持っている「自我」は、主の御前に、「私たちの考え得る最悪の考えと同じ罪」であると知っているのです。結局、「善を行なう人はいない。ひとりもいない(ローマ人への手紙3章12節)」のです。イエス様につながっていなければ、すべては意味のないことです。「私たちの肉の内には、何の良いものもない」とパウロは正直に告白しています。そうすると、悪いものしかないのです。私たちは、自らこれを認め、飾らないで、ありのままに言うならば、解放されます。

4.罪を捨てること
 多くの信者は、「私は罪人です」「汚れた者です」「信仰の弱い者です」と言いますけれど、
同じ状態にとどまっています。罪を認め告白し、それをすっかり断ち切りません。これは、リバイバルを妨げている原因であります。これを考えると、私たちが担っている負債は、何と大きいものでしょう。
 取税人は、「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」と祈りましたが、この時、きっと宮の祭司は、いけにえをささげていたに違いありません。流されるいけにえの血を見ながら、取税人はこのように祈ったのでしょう。
 ただ、血によってのみ贖いが全うされ、ただ、血によってのみリバイバルが訪れます。
私たちは、主の血潮を心から受け入れ、これに感謝をささげたいものです。
 前に読みましたエペソ人への手紙5章13・14節は、本当に素晴らしいみことばです。
   明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。明らかにされ
  たものはみな、光だからです。

明るみにされたものはみな、例外なく、光なのです。もし私たちが、次第に汚れ果ててしまった自らの真相を、主の光によって教えられ、主の血潮を受け入れ、きよめられていくなら、私たちには本当に暗いところがなく、すべてが光となるのです。

 私たちの生活を支配する支配者は、今日まで誰だったのでしょうか。「神の霊」なのでし
ょうか。それとも、「自分」だったのでしょうか。悪魔は、ただ「暗いところ」を支配します。ですから、私たちのすべてを「明るみ」に持ち出しましょう。そうすれば、まことの喜びが訪れます。私たちの心は「悪魔の仕事場」で、そこから悪しき思いが出てくるでしょうか。それとも、私たちの心は「聖霊の宮」として、光輝いているのでしょうか。
 よく知られている箇所ですが、コリント第一の手紙6章19・20節に次のように書き
記されています。297ページになります。このコリントにいる兄弟姉妹は、間違いなく
救われ、導かれたのですけれども、彼らを支配するものは、「主の御霊」ではなく、「自分」
でした。
   あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であ
  り、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
  あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、
  神の栄光を現わしなさい。

今、ここで2つのうち1つを選ばなければなりません。自らのまことのありさまを主の光に照らしていただかず、このまま祝福のない日々を送っていくか、または、すべてを主の御前に言い表わし、自らを、姦淫する者、貪欲な者、不正な者として認め、告白し、驚くべきリバイバルの祝福にあずかるか、このどちらかを選ばなければなりません。
詩篇85篇6節、
   あなたは、私たちを再び生かされないのですか。あなたの民があなたによって喜ぶ
  ために。

哀歌3章40節から42節、
   私たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう。私たちの手をも心をも天にお
  られる神に向けて上げよう。「私たちはそむいて逆らいました。」

けれども、主は呼びかけておられます。エレミヤ3章22節、
  「背信の子らよ。帰れ。わたしがあなたがたの背信をいやそう。」

 聞く耳を持つと、主は豊かに祝福してくださいます。

                                      了




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※一部、テープの転換による不明部分あり

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神のみことばは神のみことばである(4) 2006. 4. 11
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