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メ ッ セ ー ジ ・ 証 し 集


リバイバルの必要性 5
   
2003.12.9(火)
ベック兄メッセージ(メモ)

 
引用聖句
創世記 18章16節から33節
   その人たちは、そこを立って、ソドムを見おろすほうへ上って行った。アブラハムも彼らを
  見送るために、彼らといっしょに歩いていた。主はこう考えられた。「わたしがしようとして
  いることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。アブラハムは必ず大いなる強い国民と
  なり、地のすべての国々は、彼によって祝福される。わたしが彼を選び出したのは、彼が
  その子らと、彼の後の家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公正とを行なわせるため、
  主が、アブラハムについて約束したことを、彼の上に成就するためである。」そこで主は
  仰せられた。「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。
  わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおりに、彼らが実際に行なっているかどうか
  を見よう。わたしは知りたいのだ。」その人たちはそこからソドムのほうへと進んで行った。
  アブラハムはまだ、主の前に立っていた。アブラハムは近づいて申し上げた。「あなたは
  ほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。もしや、その町の
  中に五十人の正しい者がいるかもしれません。ほんとうに滅ぼしてしまわれるのですか。
  その中にいる五十人の正しい者のために、その町をお赦しにはならないのですか。正しい
  者を悪い者といっしょに殺し、そのため、正しい者と悪い者とが同じようになるというような
  ことを、あなたがなさるはずがありません。とてもありえないことです。全世界をさばくお方
  は、公義を行なうべきではありませんか。」主は答えられた。「もしソドムで、わたしが五十
  人の正しい者を町の中に見つけたら、その人たちのために、その町全部を赦そう。」アブラ
  ハムは答えて言った。「私はちりや灰にすぎませんが、あえて主に申し上げるのをお許しく
  ださい。もしや五十人の正しい者に五人不足しているかもしれません。その五人のために
  あなたは町の全部を滅ぼされるでしょうか。」主は仰せられた。「滅ぼすまい。もしそこにわ
  たしが四十五人を見つけたら。」そこで、再び尋ねて申し上げた。「もしやそこに四十人見
  つかるかもしれません。」すると仰せられた。「滅ぼすまい。その四十人のために。」また彼
  は言った。「主よ。どうかお怒りにならないで、私に言わせてください。もしやそこに三十人
  見つかるかもしれません。」主は仰せられた。「滅ぼすまい。もしそこにわたしが三十人を
  見つけたら。」彼は言った。「私があえて、主に申し上げるのをお許しください。もしやそこ
  に二十人見つかるかもしれません。」すると仰せられた。「滅ぼすまい。その二十人のため
  に。」彼はまた言った。「主よ。どうかお怒りにならないで、今一度だけ私に言わせてくださ
  い。もしやそこに十人見つかるかもしれません。」すると主は仰せられた。「滅ぼすまい。そ
  の十人のために。」主はアブラハムと語り終えられると、去って行かれた。アブラハムは
  自分の家へ帰って行った。

 
 今日、もう一回、「リバイバルの大切さ」について一緒に考えたいと思います。
 何年か前に、フィリピンのある島の神学校で、リバイバルが起きたと伝えられています。このリバイバルは、「主イエス様、あなたの教会をきよめてください」という熱心な祈りの答えでした。リバイバルが起きるやいなや、人々は罪を悔い改め、それを主の御前に告白したということです。この集まりは13時間続き、続く10日間のうちに、千人以上の人が導かれ、救われたということです。もし、救われた兄弟姉妹が悔い改めるなら、未信者も必ず悔い改めに導かれるようになります。
 このようなリバイバルを、私たちも必要としているのではないでしょうか。リバイバルがなければ、当然私たちの祈りによって救われるべき人たちが、滅びへと向かわなければならないのではないでしょうか。
 今、読んでもらいました引用箇所を見ると、17節は、ちょっと考えられないような、内容なのではないでしょうか。
   主はこう考えられた。「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろ
  うか。」

 すべての支配者なる、創造主なる神が、ちっぽけな、どうしようもないアブラハムのことを考えて、「やはり知らせるべきだ」と思うようになられたのです。そして、22節。
   その人たちはそこからソドムのほうへと進んで行った。アブラハムはまだ、主の前に立っ
  ていた。

とあります。アブラハムは、主から、「ソドムとゴモラの町が滅ぼされる」という知らせを受けました。その時、彼は無関心でいることが出来ず、主の前にとりなし、祈り続けました。それにもかかわらず、ソドムとゴモラの町は滅んでいってしまったのです。いったいどうしてでしょうか。
 「もし十人の正しい者、即ち、主を恐れる信者、主だけを大切にする信者がいるなら、ソドムとゴモラの町は滅ぼさない」と主は言われ、約束してくださったのです。ソドムとゴモラの町に住む人たちが非常に罪深かったことが、町を滅ぼす原因になっただけではなく、やはりそこに住む、妥協する、主を第一にしない、主を恐れない信者が、あの町を滅ぼす原因になったということがよく分かります。
 私たちは、滅びゆく自分の知っている多くの人たちのことを考えると、実に真剣な気持ちになります。この知り合いになった人たちのために責任を覚えると、主の御前に祈らざるを得ないのではないでしょうか。これらの人たちのことを考え、私たちは無関心でいることが出来るのでしょうか。隣りの家が火事を出して燃えているのに、それを知りながら助けなければ、それは罪です。私たちは、小高い所に上がり、「どこが火事だろう。家族、親戚、また誰か知っている人の家が火事なのではないだろうか」と、心配して走って行きます。また、友だちの家に泥棒が入ることを知りながら、友だちに注意してあげないなら、これも罪なのではないでしょうか。私たちの家族、友だちの多くは悪魔の手にあり、地獄への道を歩き続けています。これを見ながら、私たちはこのまま無関心でいることが出来るのでしょうか。
 パウロは、ローマにいる兄弟姉妹に書いたのです。ローマ書13章の11節です。
   あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。

「あなたがた救われている者が、眠りからさめるべき時刻がもう来ている」ということです。イザヤ書44章3節に、リバイバルの約束が与えられています。
  「わたしは潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあな
  たのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。」

と主は呼びかけ、また約束しておられます。このようなみことばで、主は、私たちにリバイバルの約束、大いなる祝福、新たに生かされる約束を与えていてくださるのです。

私たちは、主なる神によって新しくされ、新しく生かされることを心から願っているのでしょうか。私たちは、この世のあらゆるものよりも、主との交わりを得たいと願っているのでしょうか。また私たちは、真剣にリバイバルのために、主の新たなる祝福のために、祈り求めているのでしょうか。私たちが健康であってもそうでなくても、また人から認められる立場にあってもそうでなくても、私たちの心は、ひたすらにリバイバルを求めて、主イエス様お一人だけが高められるように、求めているのでしょうか。
 私たちの生活そのものが、祈りであるべきです。アブラハムは、「主の前に立ち続けた」と聖書に書かれています。詩篇の作者は、109編の4節の後半になりますが、
   私は祈るばかりです。

とあります。そして、主イエス様について次のように書かれています。ルカ伝6章12節。
   イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。

 夜中祈り続けられたのです。
これに関係して、二つの点について考えたいと思います。
 第一番目、私たちを動かす動機、自分の心の状態とは、どういうものなのでしょうか。
 第二番目、私たちを解放する秘訣とは、いったい何なのでしょうか。
 
1.私たちを動かす動機とは、いったいどういうものなのでしょうか。
 パウロは、パウロが生きていた時代に福音を述べ伝えた兄弟たちについて、少し悲しいことを書いたのです。ピリピ書2章21節。
   だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。

 これは、私たちにも当てはまる言葉なのではないでしょうか。人間は、4つの大きな願いを持っていると言われています。これによって、人は自分のことを思っているかどうかが、分かるのではないかと思うのです。

@ 人は、「身の安全」を願います。
 すべての人が、あらゆる面で安全でありたいと願っています。人はお金を銀行に預金し、将来の子どもの教育費を蓄えようとしますし、また、老後のことを考えて生命保険に入ったりします。これらは、自らの安全を図る策なのではないでしょうか。
 イエス様は、次のように言われました。「恐れるな。心配するな。思い煩うな。地に宝を蓄えるな。まず、神の国と神の義とを求めよ。そうすれば、これらのものはすべてみな添えて与えられるのです」と。この約束を与えられたお方が、この約束を守る力をお持ちになるお方です。お金だけではなくて教育のことを考えても、人はそこに安全を求めていることが分かります。福音を宣べ伝える場合も、まず神学校を出て初めて一人前になり、人の前で話すことが出来るのだと思う人が非常に多いのです。これも、一つの、身の安全を考えていることなのではないでしょうか。
 パウロの証しは、考えられないほど大切です。コリント第一の手紙2章2節です。彼は、次のように言ったのです。主の前に静まった結果、祈り続けた結果であります。
   私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、
  何も知らないことに決心したからです。

 もし、私たちが自分の身を主イエス様に任せ、主イエス様に委ね切るなら、私たちは、本当に不安定な者になるはずです。パウロも人々に語ったとき、弱く、不安であったことを聖書は教えています。パウロは危険にさらされ、不安を身に感じ、死ぬのではないかと思った時があったことも、聖書は教えています。パウロはまた、「私たちは圧迫されている。私たちには逃れ道がない。迫害され、地に倒された者のようになっている」と言っています。これは、安全とおおよそかけ離れた状態ではないでしょうか。

A 人が願っていることは、「安楽」です。
 人の心に深く願っていることは、「安楽な生活を送りたい。この身をいたわって生きたい」という願いです。これを主イエス様は、全く願われなかったのです。マタイ伝20章の28節。37ページになります。イエス様は、自分のことについて次のように言われました。
  「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの
  人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」

 イエス様は、この地上に一つの持ち物も持たれず、また、この世にふるさとを持っておられなかったのです。イエス様は、辱められても黙っておられ、誤解されても、自らを弁護なさらず、黙々として歩まれたのです。
 イエス様については、「私は虫けらです。人間ではありません」という、詩篇22篇6節の作者の言葉がぴったり当てはまります。人間は、自らを弁護することが出来ますが、虫はそのようなことが出来ません。蛇と虫の違いは、大きさと力が違うだけでなく、蛇は、身の危険を感じると鎌首をもたげて向かってきますけれど、虫は何もしないというところに違いがあります。私たちの自我は、あたかも蛇に似ているのではないでしょうか。虫は、どんなにされても逆らうことをしません。ただ、為すがままにされています。イエス様は、「わたしは虫である」と言えたのです。イエス様は辱められ、殺されました。イエス様は、私たちのために「虫」となってくださいました。
 このイエス様は、「父がわたしを遣わしてくださったように、わたしもあなたがたを遣わす」と言われます。主イエス様は、私たちの自我が打ち砕かれ、ヤコブが主なる神と相撲をとって自我が砕かれたように、私たちも己に死んで、主に仕えることを望んでおられます。私たちが、安楽な生活を願わず、ただ主イエス様のなされた生活を願い、それを行なうなら、本当に幸いです。
 けれども、その前にまず私たちは、自分自身の心の状態を考えることが必要です。私たちは、例外なく自らをいたわり、また、打たれたとき逆らっていく蛇のような性質を持っています。
 今、話したように、人はみな、「身の安全」を願いますし、人はみな、「安楽な生活」を送りたいのです。

B 人が願っていることは、「楽しみ」です。
 私たちは疲れると、「休む」と言います。けれども、この休みが、みことばを学ぶことを怠り、祈ることを休み、集会に集うことをやめるのなら、大変なのではないでしょうか。これは結局、自分の霊的ないのちを殺すことを意味します。
 ご臨在の主イエス様は、私たちの心の状態をよく知っておられ、私たちが、自分の時、自分の富、自分の計画、自分の楽しみを持っているかどうか、或いは、「イエス様。私も、私の持っているものも、すべてあなたのものです。あなたのみこころを成さしめてください」と願っているかどうか、すべてをご存じです。イエス様は、「わたしは自分のいのちを与えるために来ました。仕えるために来ました」と言われ、「わたしは自分の願いを持ちません。自分の立場を取りません。どうか、わたしの思いではなく、父よ、あなたのみこころを成してください」という態度を取り続けられたのです。

C 人の心に深く根ざしている願いは、「人に認められたい」という願いです。
 人は、「何とかして自分に人気を集め、人に自分の力を及ぼしたい」という願いを心の中に潜ませています。大切にされ,誉を得、自分を忘れてもらいたくないという願いを持っています。「人に認められたい」と願う人は、惨めな人と言わなければなりません。救われた者たちの世界にも、この「人からの誉れを得たい」という願いが、伝染病のように入っていて、このために多くの人は主に捨てられ、ご用にかなわない者となってしまっています。
 イエス様は、私たちに、「人からの人気を求めず、上のものを求めよ」と言っておられます。私たちは、地をはう虫のように地のことばかり考えず、ただ、上のものを求める者になりたいのではないでしょうか。

今、挙げたこれらの4つの、「安全を願う心」、「安楽を願う心」、「楽しみを求める心」、「人気を得たいと願う心」は、どこから来るかと言いますと、傲慢な、パリサイ人的な、心から来ています。

前に読みました箇所ですけれども、ガラテヤ書の5章を、もう一度開いて見ましょう。339ページです。言うまでもなく、信じる者に書かれた言葉です。どうして書かれたかと言いますと、必要であったからです。救われていても、信じる者も、とんでもない罪を犯す可能性を持っているからです。5章19節から21節までお読みいたします。
   肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、
  魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった
  類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言ってお
  きます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。

 これらの肉の働きは、みな、私たちの誇り高ぶる心から出て来るのです。もう一箇所、マルコ伝の7章です。イエス様の言われた有名な言葉です。20節から23節です。
   また言われた。「人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の
  心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好
  色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚す
  のです。」

とあります。滅びに向かっていく何百万という人たちが、なぜまだ、一度も、イエス様のことを聞かないまま歩み続けているのでしょうか。これはみな、私たち信じる者の罪のゆえです。私たちが自分のことを願っているからです。なぜ、イエス様のからだである私たち兄弟姉妹は、これほど弱く、力なく、悪の霊との戦いに弱いのでしょうか。それは私たちが自分のことを考えているからです。なぜ、多くの兄弟姉妹は、なまぬるく、不熱心で、自己満足しているのでしょうか。それは、自分のことばかり求めているからです。

ここまで、第一番目として、私たちの心の状態について、私たちを動かす力について、考えてきました。

2. 私たちを解放する秘訣について、きよめについて、少し考えたいと思います。
 今まで挙げてきた一つ一つのことは、私たちに当てはまるのでしょうか。私たちはそれを認めるのでしょうか。これは、私たちにも当てはまることです。即ち、主なる神のみことばは、犯罪人や姦淫を犯した者に対してだけでなく、御救いにあずかった私たち信者にも、語りかけておられるのです。聖霊の宮であるべき私たちの心は、往々にして、悪魔の城となる可能性があります。聖霊の宮であるべき私たちの心は、しばしば、強盗の巣となってしまいます。これを信じ認めているのは、残念ながらほんの少数の信者でしかありません。

 救われた兄弟姉妹がこのような状態になってしまうのは、コリント第二の手紙5章17節のみことばを、誤まって解釈するところから来るのではないでしょうか。320ページになります。
   だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去っ
  て、見よ、すべてが新しくなりました。

「その人は」というこの訳は、間違っています。原語には書いてありません。「その人は」ではなく、「そこには新しい創造がある」という意味です。「新しく生まれ変わる以前は、傲慢や不純、地のことばかり思う罪で心が汚れているが、いったん新しく生まれ変わると、これらのものはすっかりなくなってしまう」と考える人が多いようですが、これは誤まった考えです。みことばを読むと、「キリストのうちにある人は、新たに造られた」と書かれていますが、原語を見ると、「その人」が新しくなったのではなく、「その人のうちに住んでおられるイエス様が新しいのである」と言っていることが、分かります。人の持つ古い性質は、生涯その人に付きまといます。けれど、新たに生まれた人の生かされた霊には、イエス様が住んでおられます。
 私たちは、日々自分の内の古き人が、まだ生きていることを認めないわけにはいきません。けれど、古い性質を認めながら、このままで仕方がないのだと諦めているなら、残念なことです。私たちは、主に仕えるために救われました。けれど、しばしば私たちの内の古い人つまり、私たちの生まれながらの性質が、私たちを支配し、指導してきたのではないでしょうか。私たちの心に浮かぶ願いは、イエス様の目的にかなっているのでしょうか。私たちは、イエス様を見上げ、イエス様にご自分の形を、私たちの内に形造っていただきたいものです。

私たちの思いは清められているのでしょうか。パウロは、御霊によって、「私たちは神とともに働く者」(第二コリント6章1節)である」と言っています。けれど、私たちは本当にご用にかなう者なのでしょうか。主イエス様は、ご自分の思う通りに、私たちを用いることがお出来になるのでしょうか。それとも、私たちは、自分の思うことばかりをやっているのでしょうか。

コリント第一の手紙も、救われた者たちのためだけに向けて書かれた手紙なのです。
297ページになります。6章の13節から20節までお読みいたします。
   食物は腹のためにあり、腹は食物のためにあります。ところが神は、そのどちらをも滅ぼ
  されます。からだは不品行のためにあるのではなく、主のためであり、主はからだのため
  です。神は主をよみがえらせましたが、その御力によって私たちをもよみがえらせてくださ
  います。あなたがたのからだはキリストのからだの一部であることを、知らないのですか。
  キリストのからだを取って遊女のからだとするのですか。そんなことは絶対に許されませ
  ん。遊女と交われば、一つからだになることを知らないのですか。「ふたりの者は一心同体
  となる。」と言われているからです。しかし、主と交われば、一つ霊となるのです。不品行を
  避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、不品行を行なう者は、
  自分のからだに対して罪を犯すのです。あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住ま
  れる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないこと
  を、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分
  のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。

 イエス様が、私たちを、価を払って買い取ってくださいました。ですから、私たちは、イエス様のからだの肢体となることが出来ました。からだは、かしらに従わなければなりません。私たちは、何と主イエス様に不従順なことでしょう。また何と高ぶる者でしょう。私たちは、イエス様の肢体として用いられる器ではなく、遊女の肢体となってしまったのではないでしょうか。主の御前に自分の本当の姿を知っている者は、ルカ伝18章に出てくるあの取税人のように、「私は、強盗であり、姦淫を犯した者であり、御前に全く駄目な者です」と言うでしょう。

 どうしたらリバイバルが起きるのでしょうか。主のあふれるばかりの祝福を自分のものにすることが出来るのでしょうか。初めに、自分の汚れた様を見て、自らの物足りない様を知り、飢え渇くことが必要です。多くの人が、自分よりは他の人たちに不満を投げかけています。他の人たちに対する愛を持たないばかりか、批判をしたり、裁いたりします。他の人に、このようにどんなに不満を持っても、リバイバルは起きません。喜んでいるのは悪魔だけです。リバイバルが起きるために、他の人を不満に思うのではなく、まず自分自身を物足りなく思わなければなりません。
 私たちは、聖霊の宮であるキリスト者であっても、強盗の巣になる可能性があるということを知らなければなりません。もし私たちが、自らの状態を深く認めたなら、きよめられなければならないという願いも起きるはずです。
  
 昔のヒゼキヤ王の時代に起きたリバイバルについて、ちょっとだけ考えて終わりたいと思います。歴代誌Uの29章を見ると、次のように書かれています。711ページです。1節から17節までお読みいたします。
   ヒゼキヤは二十五歳で王となり、エルサレムで二十九年間、王であった。彼の母の名は
  アビヤといい、ゼカリヤの娘であった。彼はすべて父祖ダビデが行なったとおりに、主の目
  にかなうことを行なった。彼はその治世の第一年の第一の月に主の宮の戸を開き、これら
  を修理した。さらに、彼は祭司とレビ人を連れて来て、東側の広場に集め、彼らに言った。
  「レビ人たち。聞きなさい。今、あなたがたは自分自身を聖別しなさい。あなたがたの父祖
  の神、主の宮を聖別し、聖所から忌まわしいものを出してしまいなさい。というのも、私たち
  の父たちが不信の罪を犯し、私たちの神、主の目の前に悪を行ない、この方を捨て去っ
  て、その顔を主の御住まいからそむけ、背を向けたからです。また、彼らは玄関の戸を閉
  じ、ともしびの火を消し、聖所でイスラエルの神に香をたかず、全焼のいけにえをささげるこ
  とをしなかったのです。そこで、主の怒りがユダとエルサレムの上に下り、あなたがたが
  自分の目で見るとおり、主は彼らを人々のおののき、恐怖、あざけりとされました。見なさ
  い。私たちの父たちは剣に倒れ、そのため、私たちの息子たち、娘たち、妻たちは、とりこ
  になっています。今、私の願いは、イスラエルの神、主と契約を結ぶことです。そうすれ
  ば、主の燃える怒りが私たちから離れるでしょう。子たちよ。今は、手をこまねいていては
  なりません。主はあなたがを選んでご自分の前に立たせ、ご自分に仕えさせ、ご自分の
  ために、仕える者、香をたく者とされたからです。」そこで、レビ人は立ち上がった。ケハテ
  族からはアマサイの子マハテとアザルヤの子ヨエル、メラリ族からはアブディの子キシュと
  エハレルエルの子アザルヤ、ゲルション族からはジマの子ヨアフとヨアフの子エデン、エリ
  ツァファン族からはシムリとエイエル、アサフ族からはゼカリヤとマタヌヤ、ヘマン族からは
  エヒエルとシムイ、エドトン族からはシェマヤとウジエルであった。こうして、彼らは自分の
  兄弟たちを集め、身を聖別して、主のことばによる王の命令のとおりに、主の宮をきよめに
  来た。祭司たちが主の宮の中にはいって、これをきよめ、主の本堂にあった汚れたものを
  みな、主の宮の庭に出すと、レビ人が受け取って外に持ち出し、キデロン川ヘ持って行っ
  た。彼らは第一の月の一日に聖別し始めた。その月の八日に主の玄関にはいり、八日間
  にわたって主の宮を聖別した。第一の月の十六日に終わった。

22節から24節。
   彼らが牛をほふり、祭司たちがその血を受け取って、祭壇に注ぎかけた。ついで雄羊を
  ほふり、その血を祭壇に注ぎかけた。ついで子羊をほふり、その血を祭壇に注ぎかけた。
  それから、彼らは王および集団の前に、罪のためのいけにえとする雄やぎを引いて来て、
  それらの上に自分たちの手を置いた。それから、祭司たちはこれらをほふり、その血を祭
  壇にささげて、罪のためのいけにえとし、全イスラエルのために贖いをした。全焼のいけに
  えと罪のためのいけにえを、王が全イスラエルのために命じたからである。

28節。
   全集団は伏し拝み、歌うたいは歌い、ラッパ手はラッパを吹き鳴らした。これらはみな、
  全焼のいけにえが終わるまで、続いた。

31節。
   そのようなことのあとで、ヒゼキヤは言った。「今、あなたがたは主に身をささげました。
  近寄って来て、感謝のいけにえを主の宮に携えて来なさい。」そこで集団は感謝のいけに
  えを携えて来た。心から進んでささげる者がみな、全焼のいけにえを携えて来た。

36節。
   ヒゼキヤとすべての民は、神が民のために整えてくださったことを喜んだ。このことが
  即座に行なわれたからである。

 ここに、3つのことが書かれています。
 第一番目、リバイバルの必要性です。即ち、当時の民の状態です。
 第二番目、リバイバルのためのきよめです。
 第三番目、リバイバルの結果について書かれています。

1. その当時の民の霊的状態は、想像できないほど駄目でした。
 神の宮が荒れているか、整頓されているかを見ると、その当時の民の霊的状態が分かります。こんにちの教会にも、同じことが言えるのではないでしょうか。主のからだをわきまえないで過ごす者が多いために、弱い者や病人が大勢おり、眠った者も少なくないといった有様なのではないでしょうか。コリント第一の手紙の11章にそう書いてあります。
305ページです。29節、30節。
   みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことにな
  ります。そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜい
  います。

旧約時代の神の宮、新約時代の主イエス様のからだなる教会は、主のご臨在の場所であり、それを通して、主がこの世を祝福しよう、導こう、支配しようとしておられる場所です。主の全きご臨在、ご支配を認め、受け入れることは、あらゆる祝福の源です。
 当時の宮と主なる神の民の状態は、恐るべきものがありました。第二歴代誌29章5節を見ると、聖所の中に忌まわしいもの、汚れがあったことが分かります。6節に、「主を捨て、主の御住まいから顔をそむけ」とあり、7節に、「主なる神に香をたかず」とありますが、民が祈りの生活を送っていなかったことが、はっきり分かります。9節を見ると、「ある者は剣に倒れ、ある者は捕虜になった」とありますが、これはみな、この世との妥協から生まれたものでした。こんにちの信じる者の群れの様と、まことに似ているのではないでしょうか。
 主の宮に汚れがありました。これが、民が惨めになった一番の原因です。主のご臨在の場所である宮は、主のご支配が去り、ただ汚れるにまかせられていたのです。以前には共に集い、主を賛美し、ご臨在を味わった兄弟姉妹が、今は主を離れ、主に用いられるどころか、悪魔のとりこになっているといった状態です。イスラエルの民がとりこになったように、喜びを失い、礼拝の精神をなくし、憐れな様になっている人たちも多く見受けられます。

2. リバイバルのためのきよめについて書かれています。
 当時、イスラエルの民の祭司であるレビ人は、自分の罪を認め、告白するために、いけにえの動物を祭壇に用いたり、これを殺し、血を流して、主に悔い改めました。レビ人たちは、民の責任を自らが背負っているのだという自覚を持っていました。主に仕える兄弟姉妹一人一人は、この同じ責任を持っているのです。
 主の宮は、主のご臨在とご支配を現わす場所でした。汚れが宮に満ちた場合、徹底的にきよめられなければならないのです。ヒゼキヤの時の汚れた宮は、16日間かかってきよめられました。私たちも心を探っていただき、どんな小さな罪も主の御前に告白し、きよめていただいたら、本当に幸いなのではないでしょうか。

 私たちに主のものとして与えられている使命は、いったい何なのでしょうか。主の宮であることです。ですから、前に読みましたコリント第一の手紙の6章19節に、
   あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、
  あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。

とあります。私たちが、自分が主の宮であることをはっきり分かると、リバイバルが、霊的覚醒が起きます。主の備えられた豊かな祝福を、自分のものにすることが出来ます。
主の恵みによって救われた一人一人は、自分のものではなく、主のものです。

 黙示録の3章20節に、
  「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、
  わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」

とあります。イエス様は、このラオデキヤの教会のかしらではなく、単なる傍観者でもなく、お客様でもなく、「外に追い出されたお方」でした。救われた者は、主の血潮によって買い取られた者であり、主の家です。私たちは、主の家を自分で閉めて、イエス様を外に追い出してよいものでしょうか。もしこの罪が明るみに出されたなら、リバイバルが起こり、大いなる祝福に預かるようになります。
 救われた者の心の中にも、悪意、不誠実、偽善、高ぶりが深く潜んでいます。これを、主の光に照らされて告白するとき、主は赦し、ご自分の宮として、私たちのうちにお住みになってくださいます。

3.リバイバルの結果とは、何だったのでしょうか。
 いけにえの動物を殺し、血を流し、罪が赦されると、人々の心に喜びが沸いてきました。リバイバルは、一つのお祝いのようなものです。主を喜ぶ喜びが、何ものにも増してすべてを支配する、喜びの時です。
 ヒゼキヤの時には、リバイバルのお祝いを一週間続けました。新しくされたその感動が、あまりにも大きかったからです。民は、今までになく多く捧げ、あらゆる偶像礼拝は後を断ち、その祈りは天にまで達したと伝えられています。
 歴代誌Uの30章27節。
   それから、レビ人の祭司たちが立ち上がって民を祝福した。彼らの声は聞き届けられ、
  彼らの祈りは、主の聖なる御住まい、天に届いた。

 
 これこそが、リバイバルなのではないでしょうか。


私たちは、リバイバルを迎えるために価を払う備えがあるのでしょうか。
隠された罪を明るみに出し、人々にそれを払う備えがあるのでしょうか。

                                     
                                    了
 



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◆メッセージ(ベック兄)

※一部、テープの転換による不明部分あり

神のみことばは神のみことばである(5) 2006. 4. 18
神のみことばは神のみことばである(4) 2006. 4. 11
神のみことばは神のみことばである(3) 2006. 4. 4
神のみことばは神のみことばである(2) 2006. 3. 21
家族の救い 2006. 3. 19
神のみことばは神のみことばである(1) 2006. 3. 14
主イエスは神の子キリストである(4) 2006. 3. 7
主イエスは神の子キリストである(3) 2006. 2. 28
主イエスは神の子キリストである(2) 2006. 2. 14
主イエスは神の子キリストである(1) 2006. 2. 7
勝利の生活の秘訣 2006. 1. 24
イエス・キリストのからだ 2006. 1. 17
主の永遠からの予定 2006. 1. 10
元旦メッセージ 2006. 1. 1


2005年度のメッセージ集
2004年度のメッセージ集
2003年度のメッセージ集