主を待ち望む
2003.12.16(火)
ベック兄メッセージ(メモ)
引用聖句
マタイ伝1章18節から21節
イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていた
が、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。夫
のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと
決めた。彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデ
の子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊
によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご
自分の民をその罪から救ってくださる方です。」
第二コリント 8章9節。
あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富ん
でおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリス
トの貧しさによって富む者となるためです。
今読んで下さった箇所を通して、はっきりとわかることは、本当のクリスマスは大きな喜びと結びついているということです。イエス様はどうしてこの世に来られたかと言いますと、私たちが本当の意味で、富む者となるためです。
本当の富とはいったい何なのでしょうか。言うまでもなく、罪の赦しを得ることです。変わらない喜びを自分のものにすることです。どういうことがあっても喜ぶことが出来るということは、考えられない宝物なのではないでしょうか。
喜びがなければ、人生は全く重苦しいものになります。変わらない喜びを持っていなければ、人生は退屈なものになります。喜びは、私たちの生活を維持する上で健全な空気を与えてくれます。喜びは、生活の中で非常に大きな推進力となっているのです。喜ぶことが出来れば、どういう悩みがあってもやっぱり違います。
イエス様はどうしてこの世に来られたかと言いますと、私たちがこの変わらない喜びを自分のものにするためです。もちろん、イエス様の話されたことの目的もそうでした。
ヨハネ15章11節。
「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあ
り、あなたがたの喜びが満たされるためです。」
イエス様がこの世に来られた。これこそが、考えられない素晴らしい事実です。多くの人はクリスマスを祝いますけれど、どうしてお祝いするのか意味が全くわかっていません。人間が本当の喜びを得るために、イエス様は来られました。
去年でしたか、一昨年でしたか、ちょっと忘れたのですけれども、市川の近くの病院で、何人かの兄弟姉妹はクリスマスの歌を歌いました。その時、一人の若い奥さんがいまして、この姉妹が歌った後、輝いた顔で何と言ったかと言いますと、「生きていて良かった!」と。彼女は結婚していて、6歳と8歳の子どもがいます。ご主人はアルコール中毒なのです。彼女は無視されてしまって、「人生は面白くない」、「死んだほうがいい」と思って、自分の住居の11階から飛び降りて死のうと思ったのです。けれどうまくいかなかったのです。下の古い洗濯機の中に入ってしまいました。日本製の洗濯機だったから・・・。ドイツの洗濯機だったら、おそらくダメだったでしょう。医者はもちろん、「もうダメ」。車椅子の生活も全く不可能で、入院になりました。病院の中で、どういうふうにしたらうまく死ぬことが出来るかばかり考えて、自殺未遂もありました。彼女の部屋は、刑務所のようなものになってしまいました。いつも注意していないと今度は何をするかわからない。足ももう使いものにならないから、いろいろなことを考えるしかありません。うまく死ぬことが出来なかったけれど、彼女は、「死ぬことが出来なかったのは、良かった。生きていて良かった」。生きていて良かったと言ったのです。
結局、この不幸を通して、彼女はイエス様を信じるようになり、喜ぶようになったのです。そのために、イエス様が来られました。
ルカ伝2章の中で、一番よく読まれる箇所ですけれど、クリスマスのすばらしい出来事、事実について次のように書き記されています。2章の9節からちょっとお読みいたします。
すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく
恐れた。御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のための
すばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主
がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉
おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」す
ると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言っ
た。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に平和が、御心にかなう人々にある
ように。」
主の栄光が現われた。羊飼いたちはすばらしい喜びの知らせを聞いたのです。その内容は、「救い主があなたがたのために生まれた」。飼い葉おけの中に救い主が寝ておられたのです。多くの天の軍勢も現われて主を賛美したのです。「平和があるように」と。
世界中の政治家たちは、平和について考えますけれど、もちろん、全部無駄な話しです。平和になり得ません。宗教が存在しているからです。宗教が存在している限り平和になり得ません。全部無駄です。フセインが捕まえられたけれど、だから平和になるのではない。「恐れることはありません」。あらゆる心配から解放されるべきです。「あなたがたのために救い主がお生まれになりました」。確かにクリスマスの時、人は、いろいろなことを考えます。一番宣伝するのはデパートなのではないでしょうか。結局、やっぱり買ってもらいたい、儲けたいのです。
主なる神も、人間に贈り物をしようとしておられるお方です。そして、主なる神は非常に気前のよいお方で、ケチケチしたことを知らないお方です。「いくら出すか」など思っておられない。主は富んでおられる所にお住みになり、その満ち満ちているものの中から与えられるお方です。私たちに御ひとり子なるイエス様を与えられたのです。ベツレヘムにおいて、主なる神の愛は、純粋で完全な形をとって、自らを啓示されました。
主なる神は、何か第二次的なものを私たちに与えられたのではなくて、その最愛の、御ひとり子であるイエス様を与えられました。御父にとって如何に大いなる犠牲であったか、私たちには、今生きている間にピンとこないし考えられません。確かにイエス様が人間になられたのは考えられない犠牲ですけれど、御父にとっても大変な犠牲でした。ですから、聖書の中で一番よく知られている箇所の、ヨハネ伝の事実が強調されています。
ヨハネ伝3章16節です。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる
者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
遣わされたイエス様こそが、父の愛の現われそのものです。どうしてイエス様が遣わされたかと言いますと、「御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つため」です。ヨハネ第一の手紙4章9節にも、ヨハネは全く同じことをちょっと違う言葉で書き記したのです。430ページです。
神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいま
した。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちおられた」と、弟子たちは喜んで告白することが出来たのです。
当時の人々は、この御父から贈られた宝物に対してどのような態度を取ったのでしょうか。イエス様を生んだマリヤも、初めは「何のことでしょうか?」と思いを巡らしていました。すると、御使いは言いました。「恐れるな。マリヤよ。あなたは主なる神から恵みを頂いているのです。見よ。あなたは身ごもって男の子を産むようになる。その子をイエスと名づけなさい。彼は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれるのです」。
ルカ伝1章の34節、38節をみると、マリヤの考えについて次のように書かれています。
34節。
そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男
の人を知りませんのに。」御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き
方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれ
ます。
38節。
マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこ
の身になりますように。」
最近は、子どもが生まれる前に、男か女かわかるようになっていますけれど、結婚する前に子どもが与えられるかどうか、誰もわかりません。男か女かもちろん、誰もわからない。子どもが出来る前に、生まれる子どもの名前について考える人はあまりいないでしょう。けれども、マリヤは全部わかったのです。男の子、そして、つけるべき名前は、「イエス」であると。イエスとは、「罪から救う者」の意味です。
ヨセフの態度はいったいどういうものだったのでしょうか。マタイ伝1章19節、24節を見ると、次のように書かれています。二人はお互いに愛し合っていたし、いつか結婚しようと約束し合っていました。けれども、彼は、マリヤが妊娠しているのではないかと突然わかった時、考えられないほどのショックを受けたのです。
1章の19節。
夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせよ
うと決めた。
24節。
ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、そして、
子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。
聖書を見ると、結婚する前に親しい関係をもってはいけないと、はっきり書かれています。現代人の多くは、この聖書の御言葉を無視して、「お互いに愛し合っているから良いではないか」、「いつかどうせ結婚するのではないか」。けれども、うまくいきません。主の祝福がないからです。マリヤとヨセフはもちろん、親しい関係を持っていなかったのに、彼女は妊娠した。考えられないことです。医学的にも考えられないことなのではないでしょうか。けれども、旧約聖書の中で、そのことははっきり予言されていたのです。イザヤ書の中に、「処女が身ごもるようになる」と、はっきり書かれています。
確かにヨセフも初めはびっくりしました。けれども、御使いが彼に全てのことを明らかにした後、主の御言葉に従う決心をしたのです。だから、マリヤは殺されなかったのです。当時、結婚しないで子供を生む女性は、皆、石で殺されてしまったのです。ヨセフは彼女と結婚したので、結局、皆はヨセフの子どもだと思ったのです。けれどもヨセフもマリヤも、決してそうではないとわかったのです。
当時の祭司の奥さんであるエリサベツの態度はどういうものだったでしょうか。彼女は非常に幸いな者でした。賛美が唇にのぼりました。彼女は、マリヤとともにこの大いなる贈り物に対して、主に心から感謝し喜んだとあります。ルカ伝1章42節を見ると、次のように書かれています。
そして大声をあげて言った。「あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福
されています。・・・」
44節から45節。
ほんとうに、あなたのあいさつの声が私の耳にはいったとき、私の胎内で子どもが喜ん
でおどりました。主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなこと
でしょう。」
けれども、全く違う態度を取った人もいました。ヨハネは、この悲しい事実について、又その理由について、次のように記しました。ヨハネ伝3章19節を見ると、次のように書かれています。
光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからで
ある。
悲しい事実です。イエス様が、光として、約束された救い主として来られましたけれども、「人々は光よりもやみを愛した」。どうしてであるかと言いますと、「その行ないが悪かったからである」。結局、悔い改めたくなかったからです。頭を下げたくなかったのです。
当時の宿屋の主人は、その贈り物を理解することが出来ませんでした。彼は、如何なる贈り物が彼にもたらされたかということに気がつかなかったので、「彼らのいる余地がない」と、断ったのです。彼はこの贈り物の価値をもちろん認識できなかったのです。
ルカ伝2章7節に、次のように書かれています。
男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのい
る場所がなかったからである。
飼い葉おけでお生まれになった主イエス様は、のちにすぐ、両親と一緒にエジプトまで逃げなければならなかったのです。そしてイエス様の最後とは、十字架の上でした。
当時の王であるヘロデ王は、ひどく残酷な気持ちを持つようになりました。自分の王国を失うのではないかと思ったので、彼は、このことを聞いて不安を感じたのです。彼は、この贈り物が、彼に対して永遠の王国に至るための戸を開けるであろうということを、知らなかったのです。マタイ伝の2章に、次のような箇所があります。
2章8節。
そして、こう言って彼らをベツレヘムに送った。「行って幼子のことを詳しく調べ、わかった
ら知らせてもらいたい。私も行って拝むから。」
大嘘つきそのものです。
13節から16節。
彼らが帰って行ったとき、見よ、主の使いが夢でヨセフに現われて言った。「立って、幼子
とその母を連れ、エジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロ
デがこの幼子を捜し出して殺そうとしています。」そこで、ヨセフは立って、夜のうちに幼子
とその母を連れてエジプトに立ちのき、ヘロデが死ぬまでそこにいた。これは、主が預言
者を通して、「わたしはエジプトから、わたしの子を呼び出した。」と言われた事が成就する
ためであった。その後、ヘロデは、博士たちにだまされたことがわかると、非常におこっ
て、人をやって、ベツレヘムとその近辺の二歳以下の男の子をひとり残らず殺させた。
当時の羊飼いたちは、目で見、耳で聞き、そして急ぎ足で主を賛美しながら、ベツレヘムへ向かったと、書いてあります。
ルカ伝2章8節から18節。
さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。する
と、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れ
た。御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすば
らしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお
生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけ
に寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」すると、
たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。「
いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるよう
に。」御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。「さあ、
ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」そして急
いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。それを見
たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。それを聞いた人たち
はみな、羊飼いの話したことに驚いた。
とあります。又、マタイ伝2章の中にも、遠い国から来た博士たちについて、いろいろなことが書き記されています。2章10節、11節。
その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。そしてその家にはいって、母マリヤとともにお
られる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物
としてささげた。
この宝物はもちろん、彼らにとって全てでした。けれども、主イエス様のためだったら、喜んで全てを捧げることが特権であると思ったのです。
いうまでもなく、ヨセフ、マリヤもこの宝物が必要でした。彼らは本当に貧乏そのものだったのです。普通だったら子羊を捧げるのですけれども、ヨセフとマリヤは、そのお金でさえもなかったので、鳩だけを捧げたのです。エジプトへ逃げるために、向こうで生活するために、やっぱりこの宝物はどうしても必要でした。
ルカ伝2章に戻りまして、一人の老人がいました。『シメオン』という老人でした。彼は待ち望む思いに満ち溢れていたと、聖書は言っています。そして、彼は、今や長い間待ち望んでいた救いを見ることが出来た。彼は、「幼子を腕に抱き、主に感謝した」とあります。
2章の27節から29節。
彼が御霊に感じて宮にはいると、幼子イエスを連れた両親が、その子のために律法の
慣習を守るために、はいって来た。すると、シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて
言った。「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくだ
さいます。私の目があなたの御救いを見たからです。…」
もう一人、年配者がいました。『アンナ』という女性です。彼女も、主に感謝を捧げ、そして、この幼子のことを、エルサレムの救いを待ち望んでいる全ての人々に語り聞かせたとあります。
37節から38節。
その後やもめになり、八十四歳になっていた。そして宮を離れず、夜も昼も、断食と祈り
をもって神に仕えていた。ちょうどこのとき、彼女もそこにいて、神に感謝をささげ、そして、
エルサレムの贖いを待ち望んでいるすべての人々に、この幼子のことを語った。
とあります。当時、自分の救いの必要性を求めた全ての人々は、救い主の出現を心から待ち望んでいました。約束された救い主の出現を待ち望んでいた全ての人々は、このことが実現された時、そのお方がどういうお方であるか、ということを知ることが出来たのです。そしてそのことを知ることが出来た人々は、誰でもこの方を喜んで受け入れただけでなく、拝んだのです。けれども、大部分の人々は、この方、即ちイエス様を受け入れようとしなかったのです。
ヨハネ伝1章11節。
この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。
とあります。彼らの心の根が暗くされていたから、自分たちは主イエス様を必要としているということがわからなかったのです。宗教的な指導者たちは、聖書学者たちは、無関心であり、イスラエルの民の大部分は悔い改めようとしなかった。ヘロデ王は、この救い主を滅ぼそうとしたのです。
イエス様を待ち望まないということは、イエス様を求めないということは、イエス様を拒んでいるのであり、これほど愚かなことはないのではないでしょうか。
私たちは主の大いなる贈り物に対して、どのような態度を取るのでしょうか。マリヤのように驚き、そして、「お言葉どおりなりますように」と願うのでしょうか。ヨセフのように、びっくりしてから従順に従うのでしょうか。エリサベツのように、「全く幸いな者」と呼ばれるのでしょうか。宿屋の主人のように、理解することが出来なかったり、ヘロデ王のように、ひどく残酷な気持ちを持つのでしょうか。羊飼いたちのように、目で見ることが出来、博士たちのように、大いなる喜びに満たされるのでしょうか。シメオンのように待ち望み、再臨されるイエス様を待ち望み、アンナのように、主なる神に感謝を捧げ賛美するのでしょうか。
主はどういう名前を持っておられるのでしょうか。「来られる方」です。主は来られる方です。イエス様は確かに来られた。だから、私たちは喜ぶことが出来る。来られたから、嬉しい。
けれどもそれだけでなく、この「来られたお方」が、十字架の上で犠牲になり、救いの道を開かれたのです。そのうえこの主はまた来られます。ヘブル人への手紙9章を見ると、次のように書かれています。クリスマスの時、やっぱり2000年前に来られた主イエス様についてだけ考えることは、充分ではないと思います。9章28節。399ページです。
キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪
を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。
イエス様はご自身を捧げられました。無視されても、呪われても、殺されても結構であると、イエス様は思われたから、私たちは喜ぶことが出来るのです。
罪の問題を解決されるお方は、イエス様しかおられません。イエス様はまた来られます。ヘブル書10章の37節に、
「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。…」
「もうちょっとで、イエス様は来られる」。イエス様を知るようになった者は、輝く素晴らしい将来を持つ者です。イエス様は信じる者にとって、道であり、真理であり、いのちです。イエス様なしの将来は真っ暗やみです。イエス様を知るようになった者は、本当に喜ぶことが出来ます。なぜならば、私たちは確信することが出来ます。「もうちょっとで、イエス様はまた来られます。今日かもしれない」。イエス様は、「明日のことは思い煩うな。今日の苦労で充分なのではないか」。毎日、「イエス様はもうちょっとで来られる」と考えると、全然違うのではないでしょうか。イエス様の再臨を信じることだけでは、もちろん決して充分ではありません。待ち望まなくては、あまり価値のないものです。
確かに、聖書の中に、イエス様の空中再臨について記されている箇所は多くないのです。けれども、私たちにとって一番大切なのではないでしょうか。その中で主な箇所は、テサロニケ第一の手紙の4章とコリント第一の手紙の5章です。
先ず、テサロニケ第一の手紙4章の16節を読みましょう。
主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って
来られます。
即ち、再臨される主とは、十字架の上で犠牲になられたイエス様ご自身です。いわゆる、教会歴史をみると、今まで大体400人の人が「おれが、再臨したキリストだ」と言い張ったのです。笑い話です。十字架上で犠牲になられたイエス様ご自身が来られます。他の人間ではありません。自分が再臨したキリストだという人に、「ちょっと、あなたの手と足を見せてください」と言えば、わかります。その人の手と足に釘跡がなければ、嘘つきです。イエス様ご自身が天から下って来られます。
それから、キリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たち
が、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。この
ようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
先に召された方々が先です。私たちではありません。
昨夜、ある姉妹は、ご主人のことについて、「どうしようか…」と悩み、そして、「祈るしかない」という結論になったのです。ご主人たちは、奥さんに勧められたら、だいたい反発します。あのご主人は、集会のメッセージ、再臨のメッセージを聞いて、それから、ちょっと心を頑なにしてしまわれたらしいのです。
聖書は何と言っているかと言いますと、「イエス様はまた来られる。その時、悔い改めた人たち、本当に主の前でペチャンコになった人たち、また、『イエス様、憐れんでください。赦ししてください』と願った人たちは、もちろん、天に引き上げられるようになります。死を見ないで」。あのご主人は、「嫌です。笑い話です」としか、言えなかったのです。
昔、何十年前だったかわからないけれど、K兄弟も、軽井沢で野口兄弟からイエス様の再臨の話を聞かれたのです。K兄弟は怒って「けしからん。おかしい」。そして、娘さんに、「帰ろう」。けれど主は恵んで下さって、とんでもない霧になったのです。もう、車は乗れません。5メートル先も見えない。危なくて仕方がないから、一晩残って次の日、イエス様に克服されて、イエス様を信じるようになられたのです。まともな人間は、「再臨」なんて、考えられないのではないでしょうか。けれども、「地上に残されないように」と、心配するようになれば、ありがたいのではないでしょうか。
イエス様が来られる時、今まで主を信じていた死者は、皆よみがえります。灰になった体の中から新しい体が出るのです。御代田の「待合室」である、納骨堂へ行って調べるといいです。もしかすると、残っている灰があるかもしれない。そうすれば、救われていなかった。本当の意味で救われた人たちの壷は、空っぽです。何も入っていない。
結局、私たちは半分しか救われていないでしょう。私たちが今、経験出来る救いとは、霊的な救いだけです。罪の赦しは得られますし、神との平和も持つようになります。永遠のいのちを自分のものにすることが出来ます。けれど、これは半分です。体はまだ贖われていません。みんなまだ疲れるでしょう。病気にもなるではありませんか。だから完全な救いではありません。イエス様の救いは完全な救いです。いつ私たちがこの完全な救いを経験するかと言いますと、再臨の時です。今の体も変えられます。「一瞬のうちに、栄光の体、よみがえりの体になる」と、あります。
もう一つの箇所は、コリント第一の手紙の15章です。いつも両方の箇所を読むべきではないかと思うのです。なぜなら、ある人たちは疑問視するようになるのです。「イエス様は今日来られるかもしれないけれど、ちょっと心配なのです。もし残されたら・・・」と。「キリスト者としての私の生活は、あまり模範的ではないのではないか」と、みんなそう思うのではないでしょうか。逆に、「私は大丈夫です」と自信を持っていると、ちょっと困るのかもしれません。けれども、私たちは、はっきりとした確信を持つべきです。
ですから、このコリント第一の手紙の箇所は、非常にありがたいのです。テサロニケにいる兄弟姉妹は模範的でした。パウロは、彼らについて考えた時、嬉しくて嬉しくて仕方がないから、「主よ。感謝します」と言えたのです。しかし、コリントにいる兄弟姉妹のことを考えた時、パウロは泣いてしまいました。もうお手上げなのです。どうしようもない。彼らは確かに救われました。永遠のいのちを持つようになったけれど、パウロにとって、コリントにいる兄弟姉妹は悩みの種でした。けれども、パウロは彼らにも同じことを書いたので、ありがたい。
第一コリント15章51節、52節。
聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのでは
なく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッ
パが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
「あなたがた」、コリントにいる兄弟姉妹のことです。「みな変えられる」、皆含まれているので、非常にありがたい。イエス様の体に属する者は皆、引き上げられます。そして、皆変えられるのです。イエス様のみ姿に変えられるのです。いつでしょうか。やっぱりその時です。誰も、「私はOKです」と言えないのではないでしょうか。皆、不完全でダメなのです。迷える羊です。イエス様を信じることによって、迷える羊がすぐ羊飼いになれるのならありがたいのですけれど、なれるものではないでしょう。迷える羊として生まれた者は、死ぬまで迷える羊です。だから、羊飼いに頼らなくてはならない。パウロは58節に書いているのです。
ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励
みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているので
すから。
「労苦が、無駄でないことを知っているのですから」と書いていない。「主にあって」と、
書いてあります。これが問題なのです。「主にあって無駄でない」ことが、約束されてい
ます。主に頼ると、私たちは必ず守られ、導かれ、満たされ、用いられます。主に頼らな
ければ、主は導くことがお出来にならないし、満たすこともお出来にならないし、用いる
こともお出来にならないのです。
ピリピ書4章5節の中で、パウロは短い文章ですけれど、「主は近いのです」と書いたのです。「主は近い」。彼は刑務所の中で何を経験したかといいますと、「私は一人ぼっちではない、主が離されないから」。
パウロは、ローマの刑務所に入った時、主も一緒に入られました。だから、パウロは、ピリピ人の手紙を、『喜びの書』と言われている喜びの手紙を、書いたのです。「主は近い」と、彼は当時の信じる者に書いたのです。
すなわち、「イエス様の再臨を喜びつつ生活しましょう」と。やがて来られる主の再臨に対して、心の備えをすることが要求されています。主の再臨が近いことを喜びつつ、生き生きとした信仰生活を送っている信者が、ちょっと少ないのではないでしょうか。
結局、毎日、「今日かもしれない」と、考えるべきなのではないでしょうか。新約聖書の中で、430回も再臨について述べられています。だから、考えられないほど大切です。
ヨハネ第一の手紙3章3節。
キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くし
ます。
結局、待ち望む者は、適当に生活することが出来ません。
私たちは、主の再臨を意識しつつ待ち望んで生活しているなら、やっぱり注意深くなり、そして光の中を歩みたいと望むようになります。すなわち、今までよりももっと主を待ち望むようになります。
イエス様を待ち望む者は、一つの願いを持っています。すなわち、イエス様を喜ばせたい。だから「イエス様、あなたを喜ばせたいけれど、どうしたらいいのですか。お教えになって下さい」と願うようになります。ある人たちは人間を喜ばせたいと思っているから、霊的に全然成長しません。両方は無理です。どちらかです。
パウロは、ガラテヤ書1章の10節で次のように告白しました。一つの証しです。
いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。あるいはまた、人
の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするよう
なら、私はキリストのしもべとは言えません。
人間を喜ばせたいのでしょうか。人間の奴隷になるか、主のしもべになるかの、どちらかです。
主の再臨を待ち望む者の、一つの特徴は何であるかと言いますと、まだ救われていない家族のために祈り続けることです。途中で祈ることをやめる人もいるのではないでしょうか。「どうせダメだ」。もちろん、現実を見るとそれしかないでしょう。けれども、イエス様は、家族の救いを約束されているから望みがあります。イエス様はいつも私たちの信仰、私たちの祈りに対して、応えようとなさっています。
又、イエス様を待ち望んでいる人たちの見方は、イエス様のような見方なのではないでしょうか。イエス様について聖書は言っています。
マタイ伝9章36節。
また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに
思われた。
イエス様は無関心ではなかったのです。イエス様にとって人間一人一人の魂は、全宇宙の財産よりも尊いのです。魂を獲得することとは、イエス様を紹介することです。
人を納得させようと思っても、全く意味のないことです。イエス様を紹介したら、早く手を引いて、「今度はイエス様、あなたの番です。よろしく」という態度を取ると、主は、必ず働いて下さるのです。
パウロは、第一コリント9章22節で、次のように書き記しました。
すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためで
す。
イエス様は来られただけでなく、イエス様はまた来られます。毎日、イエス様を待ち望みつつ仰ぎ見ると、やっぱり人生は変わります。
パウロの呼びかけだけでなく、手紙を書いた使徒たちの全ての呼びかけとは、どういうものであったかと言いますと、「意識的に、主にだけより頼みましょう」。「主の再臨を喜びながら生きましょう」。又、「失われた魂の救いのために祈り続けましょう」です。
私たちはどうしてイエス様を知るようになったのでしょうか。主を待ち望むためです。
ですから、「今日かも知れない」という待ち望みを持つことこそが、考えられないほど大切です。
了
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