元旦メッセージ
2004.1.1(木)
西軽井沢国際福音センターにて
ベック兄メッセージ(メモ)
新年おめでとうございます。
今年、ドイツのクリスチャンたちのために選ばれたみことばは、マルコの福音書13章
31節の言葉です。
この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。
この「決して滅びないみことば」の中から、3箇所お読みいたします。
ペテロ第二の手紙 3章12節。
そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなり
ません。
箴言 24章11節。
捕えられて、殺されようとする者を救い出し、虐殺されようとする貧困者を助け出
せ。
ヨハネの福音書 10章16節。
わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導か
なければなりません。
「神の日」とは、主イエス様の再臨の日のことです。また、「ほかの羊」とは、遠く離れていて、人間的に見ると救われ得ない人々のことです。あなたの家族、また、知り合いの人たちも含まれています。わたしはそれをも導かなければならないと、イエス様は言われました。これこそ、イエス様の情熱なのです。これこそ、私たちの持つべきものではないでしょうか。このまことの愛がなければ、私たちの行ないは、すべて虚しいものであり、的外れのものです。
あらゆる時代の最大の誤りの一つは、「未信者は、主なる神について、もはや何一つ知りたいと思わないだろう」と、多くの信者が思い込んでしまっていることではないでしょうか。多くの信者は、「人間は、福音に対して全く無関心になってしまっている」と思い込んでいるのですけれど、それは、誤り以外の何ものでもありません。人間はみな、「永遠なるもの」「変わらないもの」「存続するもの」を求める気持ちを持っています。聖霊は、この飢え渇きを引き起こしてくださるのです。大部分の人たちは、私たちが考えるよりもはるかに「救い」を求めて待ち望んでいる、ということを決して忘れてはいけません。
これらの人たちは、どのようにしてイエス様のために獲得されるのでしょうか。
「主のみことばはむなしく戻ることがない」ということ、そしてまた、「小さなことにおける忠実さが、必ず報いられる」ということを知ることが大切です。人が救われるためには、大きなことよりも小さな愛の奉仕の方が普通であり、大きな跳躍ではなく、小さな歩みの方が普通です。すなわち、人は聞いてすぐ救われるというよりも、少しずつ導かれていくでしょう。
「聞くことができる」ということは、「話したいと思うこと」より大切です。多くの場合、語ることのできる時を与えられると、かたくなな堅い心も開かれます。しばしば、聖書講義は一方通行の独演となってしまい、相互交流が不可能となりがちですけれども、大切なのは、お互いに「聞き合い、語り合うこと」です。大切なのは、いわゆる「知識を与えること」より、「語り合うこと」。それから、その人を「イエス様との語り合い」、すなわち「祈り」に導くことです。話しの相手の人が、自分の心を開けば開くほど、主のみもとに導かれる可能性は大きくなります。ですから、最大の戒めは「忍耐」です。
覚えるべきことは、次のようなものでしょう。すなわち、主のこと、聖書のことを弁明
することが必要なのではなく、「幼な子のように、主イエス様を証しすること」こそ、大切
です。かたくなな心は、「愛」と「誠実さ」を知るようになると、開かれていくようになり
ます。非常識なことをすれば、いかなる交わりも聖別されません。相手の人を煩わせたり、侮辱したりすると、その人は心を閉ざしてしまうのです。心の扉を無理にこじ開けることはできませんし、また、する必要はありません。
また、「どのように語られるか」ということも大切です。興奮してしまうと、いっぺんに
駄目になってしまいます。自分のものにしよう、教会員を作ろうとするのではなく、ただ「助けたい」という意欲を持つことが大切でしょう。雄弁な講演よりも、大切なものは、たとえ、つたないことばであっても、まごころから出てくることばであるなら、その方がはるかに効果的です。たとえ私たちが、表面的には「完全に失敗した」と思うようなことがあっても、それがまごころから出ているのであるならば、必ず、主ご自身が、実を結んでくださいます。
相手の人と話しながら、絶えずイエス様により頼む姿勢を持ち続けましょう。いろいろな質問を受けた場合、答えとして全面に出てくるのは、自分の経験よりも、むしろ主なる神のみことばであるべきです。ただ一つの武器は、「主のみことば」です。
証しの中心は、いつもイエス様であるべきです。すなわち、「イエス様の死によって、私
たちは永遠のいのちを約束されている」、「イエス様の復活によって、死は力を失った」ということが、中心となるべきです。
私たちは、「決して恥をこうむることのない、生き生きとした望み」を持っています。私たちは、いわゆる「キリスト教」という宗教を宣伝する者ではなく、イエス様を「救い主」として、「支配者」として、また「解放者」として、そして「近いうちに来られるお方」として、宣べ伝える者です。神学よりも議論よりも、大切なのは、「たましいの救い」です。
人は誰でも、交わりを求め、必要としています。人は、個人的に語り合いたいと思っています。私たちが考えるよりはるかに多くの人たちが、当時のギリシヤ人のように、「私たちはイエスを見たい」という願望を持っているのであります。
たましいを獲得するために覚えるべきことは、「犠牲なしには、いかなる実も結ばれない」ということです。主の愛が私たちを駆り立てなければなりません。「悩んでいる人たちとともに悩むこと」を、主は望んでおられます。主イエス様の愛を持って、この世の悩みを見る者は、福音を宣べ伝え、証しせざるを得ません。かたくなな一面性や、うわべだけの偽善的行為や、極端な禁欲生活は、いつも人をつまずかせます。
決定的に大切なのは、「主の霊によって導かれること」です。すなわち、毎日、毎日、何
回も主に尋ねることです。「主イエス様。私は何をしたらいいのでしょうか」と。ピリポという初代教会の一人の兄弟は、この態度を取ったからこそ、主によって導かれ、用いられ、誰もいないところ、すなわち荒野へ導かれ、そこで、求めている、すでに備えられているたましいに導かれたのです。このように導かれた人は、他の人を導くことができるのです。
今までの点をまとめてみると、次のようになります。
・聞くこと。
・話すこと。
・説教するよりも、語り合うこと。
・強制することではなく、提供すること。
「愛」は、相手の心を柔らかくし、「熱狂」は、相手の心を閉ざしてしまいます。心の扉
を、無理にこじ開けるのではなく、期待を持って、たたき続けることです。
・何があっても、大切なのは、「みことば」だけです。
みことばに信頼すると、奇跡を経験します。
ある時、イギリスの伝道者であるスポルジョンという人のところに、一人の人がやって
来ました。「私は、もう何ヶ月間も説教しましたが、一人も救われなかった」。すると、ス
ポルジョンは尋ねたのです。「あなたは、みことばを宣べ伝える時、主が、必ずいつも祝福
してくださり、失われたたましいをみもとに引き寄せてくださると思いますか」。答えは、「もちろん、そんなことはないでしょう」というものでした。「そこにこそ、原因があるのです。それを、あなたが素直に信じたなら、また期待していたなら、主は大いに祝福してくださったのです」と、スポルジョンは答えたのです。主は、私たちの期待に応じて答えてくださいます。
次のように祈ることができる人は、幸いです。
「主イエス様。いろいろな障害物や、能力のなさにもかかわらず、私を、人をすなどる者になさってください」と。
イエス様は、完全に挫折したペテロに言われたように、次のように語られるでしょう。
「わたしに従いなさい。わたしはあなたを、人をすなどる者にしよう。わたしはしよう。あなたは、どうせできないからだ」と、主は言われます。
主の行ないは、創造的なわざです。存在しないものも、存在するようになります。人を
すなどる者になるのは、自分の努力によってではありません。人をすなどる者になるのは、研究や頭の知識によってでもありません。人をすなどる者は、主の創造的なわざによるのです。
主イエス様が、弟子たちを「人をすなどる者」としてお用いになるために、「わたしに従いなさい」と呼びかけられた時、弟子たちは自分たちの網を捨てて主に従いました。そして、イエス様が弟子たちをお用いになるようになったのです。弟子たちは、自分のものを捨て、妨げとなるもの、引き留めようとするものを捨て、第二・第三のものも捨てたのであります。すべて「自分のもの」は、主の働きの妨げとなります。私たちの最大の敵は、私たちの自我」です。すなわち「自分の思い」「自分の考え」「自分の感情」であります。
みことばは言っています。「権力によらず、能力によらず、他の方法や道にもよらず、人
間の計画にもよらず、わたしの霊によって」と。「わたしに従いなさい。わたしは、あなた
を人をすなどる者にしよう」と。
日々、打ち砕かれることがなければ、主の働きの妨げとなります。私たちのうちにある主イエス様のいのちは、私たちが、日々自分の意思を、意識的に主に従わせることによって、砕かれることによってのみ、明らかになります。
イエス様が、私たちに与えてくださった「みことば」は、目に見える世界の「あらゆる現実」よりも、信じるに足るものです。
「イエス様は、みことばを成就するためには、自然法則をも打ち破ることがおできになる方である」ことを、覚えましょう。私たちの主イエス様は、ご自身の約束を決して破られません。主イエス様は、すべての力を握っておられ、主のみことばは「永遠の真理」ですから、必ずみことばの通りになります。この信頼を、私たちは必要としているのです。
間違った謙遜、すなわち「不信仰」によって、私たちは主の御名を汚すことになります。
主のために生きる備えのあるところでは、歓呼の喜びが私たちの心を満たします。それは革命的な働きをします。すなわち、イエス様が招いて、解放してくださる人たちが、「煩わしい人間関係」から解放され、「死の恐怖」から解放されます。
主イエス様によって解放された人たちは、喜びと感謝に満ち、主イエス様のために進んで奉仕したいと願うようになります。イエス様は、「絶えざる喜び」、すなわち、「いかなる悲しみも奪うことのできない喜び」を与えてくださいます。
これらを見ると、人は、私たちの周囲に急に聞くようになり、飢え渇きを持つようになります。そして、私たちは備えられた心に、福音を宣べ伝える特権を持つようになります。
次の心構えを持つ必要があります。すなわち、
「主イエス様。陶器師であるあなたが、私の人生の粘土をお取りになって、あなたの御名の栄光のために役立つものをお造りになってください。そして、多くの人たちが救われるようにしてください。ここに私はいます。どうか私をお用いになってください」。
最後に、詩篇126篇5・6節を読んで終わります。
涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。種入れをかかえ、泣きなが
ら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。
「主の御名によって」出かけなさい。
「滅びゆくたましい」のところに出かけなさい。
「主の愛によって」心を動かされて出かけなさい。
「種」である「主のみことば」を、自分のものにしなさい。
そうすれば、あなたは救われた多くの人たちのたましいを持って帰ってくるようになり、そして、あなたの心は、喜びに満ちたものとなります。
そしてあなたは、主を心から礼拝せざるを得なくなります。
これこそ、主の再臨の日を待ち望むことであり、また再臨を早めることなのであります。
了
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