聖日メッセージ
2004.1.4(日)
西軽井沢国際福音センターにて
ベック兄メッセージ(メモ)
引用聖句
創世記3章1節から8節
さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女
に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほん
とうに言われたのですか。」女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいの
です。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはな
らない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と
仰せになりました。」そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あ
なたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようにな
り、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」そこで女が見ると、その木
は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ま
しかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も
食べた。このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であるこ
とを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおお
いを作った。そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。人とそ
の妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。
マタイの福音書24章35節
この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありませ
ん。
ヨハネの福音書16章33節
「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平
安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢であ
りなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」
昨夜、ドイツのある兄弟から電話がありまして、「送ったFAXを読みましたか」と聞か
れたのです。「いいえ。こちらにはFAXがないので、明日の朝、センターで必ず読みます」と答えました。
FAXの内容は、新聞記事だったのですけれども、ローマ法王である、ヨハネ・パウロ2世の正月のメッセージが、ドイツの新聞に掲載されたのです。題名は、『世界を新しくしましょう。戦争なしに、必ずできます』です。すなわち、反キリストの道を備えるためのメッセージでした。言うまでもなく主イエス様の名前は出てきませんし、「私たちは、平和の君であるキリストなしに、がんばりましょう」と、言わなかったけれど、その考えは明らかです。すなわち、「聖書は何と言っているか」という考えが一つもないのは、悲劇的であります。けれど、私たち主を知る者にとっては、別の意味で喜ばしいことなのではないでしょうか。すなわち、「私たちの主イエス様は、もうちょっとで、必ず来られる」という確信が強められるからです。
兄弟のお読みになりました創世記3章を見ると、「人間の悩みのもとは何であったか」が、分かります。
悪魔は、最初は、主なる神のことばの後に、疑問符を付けただけなのです。「神は本当にそう言ったの?」と。けれども、それだけではなく、神のみことばの代わりに、自分のことばを付け加えたのです。「あなたがたは、決して死にません」と。人間は、主のみことばより悪魔のことばを信じたので、罪人となり、神との交わりを持てなくなってしまったのです。
主を恐れないで、主のみことばの前におののかない者は、知らないうちに悪魔のとりこになります。ですから、今年こそ新たに、「主のみことばにだけ頼ろう」と決心すべきなのではないでしょうか。
イエス様の取られた態度は、私たちの態度であるべきです。イエス様は、「あなたのみこ
とばは真理です」と言われました。これこそイエス様の、証しでもあり、心からの告白でした。当然ですけれど、イエス様のように、みことばを大切にした人間は一人もいません。イエス様にとって、みことばとは、すべてのすべてでした。みことばなしに、イエス様は生きることがおできにならなかったのです。ですから、イエス様は、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」と言われました。みことばに頼ることこそが、喜びの源であり、まことの平安をもたらすものであります。
当然ですけれど、自分の力で、聖書を理解しようと思えば上手くいきません。イエス様の時代の聖書学者たちの読み方は、もちろん間違っていたのです。ですから、イエス様は、彼らに厳しく言われたことがあります。
ヨハネの福音書5章39・40節。
「…あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。
その聖書が、わたしについて証言しているのです。それなのに、あなたがたは、いの
ちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。…」
聖書は、単なる「教理」が問題ではありません。「イエス様ご自身」が、問題です。なぜなら、イエス様は、「聖書がわたしについて証言している」とはっきり言われたからです。
「わたしのことばは、永遠に残る」とも言われました。(マタイの福音書24章35節)
「聖書を読むこと」と「いのちを得ること」、「生かされること」は、一つの事柄であり、決して二つのものではありません。ですから、モーセは当時のイスラエルの民に向かって次のように言ったのです。
申命記32章47節。
「…これは、あなたがたにとってむなしいことばではなく、あなたがたのいのちであるから
だ。…」
全聖書は、主の息が吹き込まれることによって書かれたものです。主の感動により、主の息吹により、霊感によって書かれた書物です。ですから聖書は、「主の教え」というよりも、「主ご自身の啓示」そのものです。主は、みことばをもってご自身をお現わしになります。主のみことばは、私たちとって、「いのちのパン」とならなくてはならない。なぜなら聖書は、「教理」や「真理の原則」を語っているというよりも、「いのちのパン」そのものであるからです。
イエス様ご自身は、私たちがそれによって生きることをお望みであり、ご自分は、「いのちのパン」となりたく思っておられるのです。イエス様によって、みことばによって、生きることこそが、最も大切なのではないでしょうか。
ダビデという王様は、3000年前に生きた男でしたけれども、彼は主によって大いに
愛されただけではなく、みこころにかなう人だったのです。いったいどうしてでしょうか。
彼にとって、みことばこそが、すべてとなったからです。
普通だったら、問題があれば、いろいろなことで悩むなら、詩篇を1篇ぐらい読めば、大丈夫でしょう。詩篇119篇は、ちょっと長すぎます。けれども、みことばの大切さを現わす詩篇なのではないでしょうか。たとえば、
9節。
どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従
ってそれを守ることです。
16節。
私は、あなたのおきてを喜びとし、あなたのことばを忘れません。
92・93節。
もしあなたのみおしえが私の喜びでなかったら、私は自分の悩みの中で滅んでいた
でしょう。私はあなたの戒めを決して忘れません。それによって、あなたは私を生か
してくださったからです。
105節。
あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。
162節。
私は、大きな獲物を見つけた者のように、あなたのみことばを喜びます。
165節。
あなたのみおしえを愛する者には豊かな平和があり、つまずきがありません。
みことばこそが、素晴らしい宝ものであります。
イエス様は、お別れのことばとして、弟子たちにはっきり言われました。「あなたがたは、世にあっては患難があります。平和のない世界を経験し続けます。しかし、勇敢でありなさい。喜びなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」と。(ヨハネの福音書16章33節)
みことばに頼ると、やっぱり前向きに生活することができ、安心して将来に向かうこと
ができるのです。
イエス様は、また来られます。イエス様の一つの名前は、「光」です。「わたしは『世の光』そのものです」。(ヨハネの福音書8章12節)このイエス様は、2000年前に来られただけではなく、また近いうちに来られます。2000年前に来られたイエス様は、もちろん「光」そのものであり、将来来られるイエス様も、同じく「光」として来られます。
ヨハネの福音書12章46節。
「…わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまること
のないためです。…」
イエス様は、「光」です。昨日も今日も、いつまでも「光」そのものです。
「平和の光」であるのは、主イエス様だけです。確かに政治家たちも、「宗教家たちと仲良くしよう。平和を作ろう」と思っているのですけれども、反キリストだけが、その意味で成功します。3年半の間だけ平和になりますが、それで終わりです。
イエス様だけが、「平和」と「希望」と「慰めの光」そのものです。イエス様を「光」と
して知るようになる者は、だれでもその人の人生の中で、すべてのものが新しくなります。
価値観も変わります。生ける希望を持つようになります。こんにちの何と多くの人々が、
暗やみの中に生きているでしょう。「何ゆえにこの地上に存在しなくてはいけないのでし
ょうか」、「自分の人生の内容は、いったい何であるべきなのでしょうか」と悩んでいます。これらの問いに対する答えを知らない人々は、みんな暗やみの中で生きている人々であると聖書は言っています。
主のみことばは、確かに大変です。鏡のようなものです。岡山集会に集っている、ある兄弟は、次のように言われたことがあります。「私にとって面白くなかったのは、まず警察、2番目に税務署、3番目に聖書でした」と。けれども彼は変えられて、今では、「聖書こそが、彼にとって一番大切な宝物」になったのです。確かに主の判断は面白くないでしょう。「正しい人はいない。ひとりもいない。善を行なう人はいない」。結局、みな駄目なのです。
パウロは、ローマにいる兄弟姉妹たちに、次のように書いたことがあります。
ローマ人への手紙14章23節。
信仰から出ていないことは、みな罪です。
ちょっと大変ではないでしょうか。「信仰から出ていないことは、みな罪です」。信仰とはもちろん、一つの教えを信じ込むことではなくて、イエス様とのつながりです。「イエス様とのつながりを持っていない状態は、罪である」ということです。
光に照らされることを拒まない人、そして過ちを犯す者として、まことの光であるイエス様のみもとに来る人は、もちろん受け入れられます。決して拒まれません。救われるの
です。光に来る人は、罪から離れるようになります。
コリント第二の手紙6章14節。
光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。
と、パウロは、コリントにいる人々に書いたのです。
もちろん私たちは、イエス様のことを理性でつかむことができません。たとえばイエス様は「わたしは、光そのものです」と言うことがおできになったのです。人間は、決して言えません。聖書から見ると、人間は「光」ではなくて、「やみ」です。人間の内側には、「暗さ」と「不純」と「偽善」があります。だから、大部分の人間は、「光」であるイエス様との関係を持ちたくないのです。当時もそうだったし、今もそうです。「当時の人々は、光よりもやみを愛した」と書いてあります。考えられないけれどもそうなのです。
ヨハネの福音書3章19節。
光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったから
である。
人間は、本当に「馬鹿」そのものです。光よりもやみを愛するなんて。
「光」であるイエス様が来られたから、希望があります。イエス様は「光」として人間
の暗やみの内側を照らしてくださり、確かに罪を明るみに出してくださいますけれども、それだけではありません。明るみに出された罪は、もう罪ではなくて「光」なのですって。これも、いくら考えてもピンときませんし、想像できませんけれど、聖書はそう言っているのです。その意味は、「イエス様は、告白した罪・言い表わした罪を、もう思い出されない。犯さなかったようにしてくださる」という意味です。光に照らされることこそが、未信者にとってだけではなく、信じる者にとっても一番大切なのではないでしょうか。
パウロは、自分の「イエス様との出会い」について、いろいろなことを書いたのですけ
れども、使徒行伝の9章の中に一番細かく書き記したのです。3節から少しお読みいたします。224ページです。これは、パウロの、いわゆる回心についての証しであります。使徒行伝9章3節から5節。
ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が
彼を巡り照らした。彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」
という声を聞いた。彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、お答えがあっ
た。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。…」
上からの光によって照らされた時、初めてサウロは、「自分のやっていることは、とんでも
ないことであり、全く悪魔的で、的外れな行ないである」ということが分かったのです。女中の指差しによって、ペテロというイエス様の弟子も、明るみに出されたのです。遣わされた預言者であるナタンによって、ダビデの罪も明るみに出されたのです。それによって、彼らは回復され、また喜ぶことができる人間になったのです。
イエス様の呼びかけとは、もちろん変わらない呼びかけです。「おいで。わたしのところ
に。わたしは光です」。光のもとに行きたくない人は、自分の罪を隠す者であり、正直にな
りたくない思いの現われです。不幸への道です。人間にとって最も大切なのは、光に照らされることなのではないでしょうか。だから、主イエス様は、「おいで。わたしのところに」と呼びかけておられます。
ヨハネ第一の手紙1章は、素晴らしい箇所です。ヨハネの書いた手紙は、救われた人々が生かされるために書かれた言葉です。結局、最も大切なことについて書かれている言葉です。
ヨハネ第一の手紙1章7節。
もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互
いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。
非常に大切な箇所です。ここで、「ある罪」と書いてないのです。「すべての罪」と書かれています。本当の満足の秘訣は、暗やみから脱出して、光であるイエス様のもとに行くことです。イエス様は、すべてを新しくしてくださるのです。
結局、イエス様の呼びかけは、すばらしい呼びかけです。「やみの中を歩かなくてもいい。何も隠さなくても結構です。おいで。わたしのところに。光であるわたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」と。「いのちの光」とは、もちろんイエス様ご自身です。そしてイエス様を持つ者は、もう乏しいことがない。もう心配する必要がない。イエス様は道を備えていてくださるからです。
パウロは、エペソにいる兄弟姉妹に、次のように書いたのです。346ページです。
エペソ人への手紙5章8節。
あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の
子どもらしく歩みなさい。
「光となったから、光の子どもらしく歩みなさい」。
新約聖書の手紙は、全部、信じる者の成長のために書かれたものです。すなわちパウロは、「あなたがたは、光であるイエス様に出会ったから、あなたがたは光となったから、だからもう大丈夫です」とは言っていません。パウロは、「あなたがたは主にあって、主によって光となった」。意味は、「光であるイエス様から離れるといっぺんに駄目になる」です。「自分勝手な生活をすると、自分の知恵・自分の力に頼ると、駄目になる」と、「気をつけなさい。光であるイエス様とつながっているときにのみ、私たちは光である」とはっきり書かれています。
もちろんイエス様も同じことを強調してくださいました。ヨハネの福音書15章の中で、
「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。…」「わたしから離れては、あなたがたは信仰を持っていても暗やみです」と言われています。
コロサイ人への手紙にも、似ている箇所があります。パウロはコロサイにいる兄弟姉妹に、次のように書きました。357ページです。
コロサイ人への手紙1章13節。
神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してく
ださいました。
「暗やみの圧制」と、「御子のご支配」とは何という違いなのでしょうか。ここでも、同じことが言えます。すなわち、もし私たち信じる者がイエス様に頼らなければ、自分の努力は全く無駄であり、的外れの行動に過ぎない。
(テープB面へ転換のため不明)
コリント第一の手紙の中で、また同じ事実が述べられています。313ページです。
15章51・52節。
聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまう
のではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のう
ちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられる
のです。
どういうふうに変えられるのかと言いますと、イエス様と同じ姿に変えられるのです。
よみがえりの体、栄光の体を持つようになります。
58節も大切でしょう。
ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主の
わざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知
っているのですから。
ここでアンダーラインすべき言葉は、「主にあって」という言葉です。「主にあってむだで
ない」と約束されています。主に頼ると、私たちは確かに守られ、導かれ、満たされ、用
いられます。主に頼らなければ、主は私たちを守ることができないし、導くこともできな
いし、満たすこともできない。私たちは用いられ得ないのです。
ローマの刑務所の中でパウロは、いわゆる「喜びのふみ」を書いたのです。ピリピ人へ
の手紙です。
4章5節に、次のように書いたのです。
主は近いのです。
これは、毎日覚えるべき事実なのではないでしょうか。「主が来られるのは、もうちょっとです。イエス様の再臨を喜びつつ生活しましょう」と、パウロは刑務所の中から自由の身となった信者たちを励ましたのです。
やがて来られるイエス様に対して、心の備えをすることが要求されています。主の再臨が近いということを喜びつつ、生き生きとした信仰生活を送っている信者が少ないのではないでしょうか。イエス様は来られます。今日かもしれません。新約聖書の中で430回再臨について書き記されています。だからそれはどうでもいいことではなくて、最も大切なことなのではないでしょうか。
初代教会の人々は、当時の社会の中で異分子となったのです。迫害される者とされたの
です。けれども、いくら迫害されても彼らは喜んだのです。いったいどうしてでしょうか。
「主は生きておられる、主はまた来られる」と確信したからです。初代教会とは、「待ち望む教会」でした。
ヨハネ第一の手紙3章3節に、
キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自
分を清くします。
と書かれています。別の言葉で言いますと、私たちは主の再臨を意識しつつ、待ち望んで生活していると、もっと注意深くなり、光の中を歩むでしょう。「今まで以上に、待ち望みの生活をしなさい」と、使徒たちは当時の信じる者を励ましたのであります。
イエス様の再臨を待ち望まない兄弟姉妹は、不従順です。不従順は罪です。主と自分の
間のへだての壁です。「今まで以上に、主に喜ばれる生活をしなさい」、これこそが、使徒
たちの願いであり、また心からの祈りでした。それは、「自分自身の気に入るようなことだ
けをするのではなく、また、人の気に入られるようなことだけをするのではなく、ただ、主のみこころにかなうことだけをしなさい」という意味です。パウロはこの態度を取りました。両方は無理です。どちらかです。
ガラテヤ書1章10節。
いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。あるい
はまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を
買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。
人間を喜ばせようと思えば、必ずうまくいきません。できるものではありません。
主の再臨について考えると、今まで以上に救われていない人々のために祈り、かつ戦うことなのではないでしょうか。
マタイの福音書9章36節に、次のように書き記されています。
また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそ
うに思われた。
主を知らない人々を見て、私たちは無関心でしょうか。あるいは、何があってもイエス様
を紹介したい気持ちを持っているでしょうか。パウロは次のように証ししました。
コリント第一の手紙9章16節。
私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどう
しても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったら、私は
わざわいに会います。
同じく9章22節。
すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためで
す。
コリント第二の手紙7章1節を読んで終わりましょうか。322ページです。
愛する者たち。私たちはこのような約束を与えられているのですから、いっさいの霊肉の
汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。
「このような約束」、すなわち、イエス様の再臨という約束です。
私たちは、自発的に、断固としてこの態度を取る時にのみ、光の中を歩み、また主に用いられるようになります。
使徒たちの手紙の内容とは、どういうものであったかと言いますと、
・ 意識的に、主にだけ、みことばにだけ、頼りましょう。
・ 主の再臨を、喜びながら待ち望みましょう。
・ 失われている多くの人々の救いのために祈り続けましょう。
私たちはどうして救われたのでしょうか。結局、そのためなのではないでしょうか。
「主に仕えるため、また、イエス様の再臨を待ち望むためである」と、聖書ははっきり言っているのです。
了
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