キリスト者の使命 1
2004.1.13(火)
ベック兄メッセージ(メモ)
引用聖句
エペソ人への手紙4章13節から15節
ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全
におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。それは、私
たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教え
の風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって
真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができる
ためなのです。
エペソ人への手紙6章10節から17節
終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策
略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私
たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、
また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから、邪悪な日に際して対抗
できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のす
べての武具をとりなさい。では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸
には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべてのも
のの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消す
ことができます。救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを
受け取りなさい。
人間は共通して皆悩む者です。多くの人はうまく隠そうとするけれど、意味のないことです。人間は確かに悩む者です。だいたい、一時的な問題のために悩んでいる人が多いのではないでしょうか。
ご主人とはうまくいかない、子供も問題を作る、経済的にもちょっと苦しい、あまり健康でもないし…。やはり、人間はいろいろなことで悩んでいます。
どうして悩みがあるのでしょうか。私たちに必要だからです。根本問題が解決されていないからなのではないでしょうか。根本問題の解決とは、もちろんイエス様のものとなることです。その結果として、変わらない喜びを得て、あらゆる不安から、心配から、解放されるようになります。そして、生き生きとした希望を持って、前向きに生活することが出来るのです。
けれども、救われた者の生涯は、おもむくままの散歩ではなく、まさに戦いです。勝利の冠を得るための戦いです。今日から始まるメッセージの題名は、そういうものではないでしょうか。『勝利の冠を得るための戦い』、他の題名を付けてもいいでしょう。例えば、
『キリスト者の使命』という題名を付けてもいいかもしれません。
人生において最も大切なことは、救い主を持つことです。すなわちイエス様を体験的に知ることです。救いの神を知るようになった人々の証しとは、次のようなものです。
・3000年前に、ダビデ王は次のように言ったのです。
「主は、私の力であり、ほめ歌である。主は、私の救いとなられた。」(詩篇118:14)
・2600年前に、イザヤは次のように言ったのです。
「見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は私の力、私のほめ歌。
私のために救いとなられた。」(イザヤ12:2)
救いとは、ものではない。救い主を持つことです。
・イエス様を生んだマリヤは次のように告白したのです。
「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。」
(ルカ1:46、47)
救いの神を知ることによって、はじめて私たちは、この地上において本当に満たされた生活を送ることが出来ます。満たされた人生を送るためには、永遠のいのち、主なる神との平和、罪の赦し、従って主イエス様が私を心配し、導き、そして守っていて下さるという確信が、生活の土台とならなければなりません。そして、「私たちが死んだ後は、永遠にイエス様と交わり、栄光を共にすることになる確信」こそが、最高の宝物なのではないでしょうか。「いつまでも、主イエス様と共になる」という事実について考えると、確かに、私たちは小さくなり、主を礼拝せざるを得なくなります。
このような人間の永遠の栄光というものは、新しく生まれ変わることによって、初めて可能となるものですから、そのことこそ、私たちの人生において最も大切なことに他なりません。けれども、聖書は、「新しく生まれ変わったばかりのキリスト者は、幼子のようなものである」と言っています。
例えば、ペテロ第一の手紙の2章2節に、次のようにペテロは書いたのです。416ページになります。
ペテロ第一の手紙2章2節。
生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。そ
れによって成長し、救いを得るためです。
「乳飲み子は、いつまでも乳飲み子の状態にとどまっているのではなく、成長しなければならない」ということが、これを見ても明らかなことです。
もう一箇所、コリント第一の手紙の3章です。パウロも、コリントにいる人々に、同じようなことを書くようになったのです。やっぱり悩みながら、苦しみながら、書いたのではないかと思います。292ページ。
コリント第一の手紙3章の2節。
私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、
まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです
パウロは、コリントにいる信者たちに対して、乳飲み子にミルクを飲ませるようなことだけしか出来なかったのです。ミルクは確かに消化のために最も良い食糧ですけれど、それは救いの基礎を形成するものに他なりません。コリントにいる兄弟姉妹は、例えばエペソにいる兄弟姉妹や、コロサイにいる兄弟姉妹に対して、パウロが書き送ったような性質の、個々の真理を理解することが出来なかったのです。
このようにパウロは、多くの信者たちに対して、ちょうど、母親がその子どもを育てるように振舞ったのです。けれどパウロの目的は、いつまでも乳飲み子の世話をするのではなく、信者たちが「全き人」となることでした。ですから今読んでもらいましたエペソ書4章の13節で、「大人にならなければならない」と書き記しました。
エペソ書4章13節から15節。
ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全
におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。それは、私
たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教え
の風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって
真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができる
ためなのです。
イエス様を持つことは、確かにすばらしいことですけれど、それだけでは決して充分ではありません。むしろ、イエス様が私たちを御手の中に置くことによって、私たちの主として、私たちの全てを支配なさることこそが大切です。イエス様を知ることとは、確かに恵みです。努力した結果ではない。けれど、私たちがイエス様のために用いられる器となるために、イエス様を、私たちの主として、よりよく体験的に知ることが大切です。
従って私たち信者は、全ての生活が絶えずイエス様のために営まれているように、主に従って行かなければなりません。ですから、「自分に与えられている生活の目的、又、使命とはいったい何なのか」と考えるべきなのではないでしょうか。別の言葉で表現すれば、私たちは、永遠の勝利の冠のために生きていくことが、大切なことであると言えるのです。
新約聖書の中では、この地上における普通のいわゆる競争と、私たち信じる者の霊的な信仰的な戦いとが、対比されています。従って、競争、あるいは戦いは、私たちの信仰を励ますためのものとして考えられている、ということがわかります。
新約聖書が書かれた当時のギリシヤ、ローマで行なわれたスポーツについて、ちょっと簡単に考えてみたいと思います。
その当時、ギリシヤ人は、ただ単に精神的な訓練だけではなく、肉体的な訓練をも重要なものと考えていたのです。「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」と、一般に考えられていました。そのために当時のギリシヤ人は、男も女も7歳になると、激しい運動をさせられたのです。小さい時からそのような訓練を受けたために、大人になった時にも、非常に美しく健康な体が形作られたのでした。そのことは、当時の彫刻などを見ればよくわかります。「美と徳は、切り離すことの出来ないものである」とは、当時のギリシヤ人に共通した考え方でした。従って、美しい心と健全な身体が理想とされたのです。ギリシヤ語以外の言葉では、良いものと美しいものとは区別され、別の表現で表わされるのですが、ギリシヤ語ではそれらの言葉が同じ語源から創られています
このように、ギリシヤでは善と美とが理想とされましたが、これに対して、ローマでは正義と力とが理想とされていました。それにもかかわらず、それぞれの違った理想は、共に、スポーツによって達成されると考えられたのです。
けれど、ギリシヤやローマのスポーツは、常に偶像礼拝と結びついていました。例えば、オリンピック競技は、ゼウスの神の名誉のために行なわれたのです。別の競技はコリントの近くで行なわれたために、海の神、ポセイドンを誉めたたえるために開かれたのです。又、ある競技は、太陽の神、アポロを記念するために行なわれたのです。オリンピアでは中心にゼウスの祭壇が築かれており、全ての競技が終わるとこの祭壇の前に華やかな行進が繰り広げられたのです。ローマではスポーツを始める前に、神々の偶像が車に乗せられて競技場を一回りすることが慣わしとされたのです。この競技は非常に有名なので、人々はいろいろなことをよく知っていました。
従って、パウロもその競技についてよく知っていましたが、それが偶像崇拝であるために、彼は決してそれに参加したことも、又、見たこともなかったでしょう。
そのようなわけで、確かにこのスポーツは偶像崇拝であったけれど、パウロは一つの例として、この競技を使って説明したのです。しかし、パウロは決して妥協したのではなく、初めから終わりまで真理を証ししたのです。
パウロは、ギリシヤ人の考え方やローマ人の考え方をよく知っており、それらの人々にわかりやすく説明するために、このような例を用いたのです。パウロがこのような一つの例を用いて宣べ伝えた福音は、「イエス様が救い主である」ということに、他ならなかったのです。
「イエス様こそ、罪の債務と罪の力から解放することのお出来になる救い主なのであり、このイエス様を信じた人々は、新しいいのちを得ることが出来、あらゆる問題を解決することが出来、そして、喜びと力とが与えられる」と、パウロは証ししたのです。それだけではなく、「主は勝利の生涯、すなわち、栄光に満ちた永遠の目標と、生き生きとした望みとを、私たちに与えてくださる」とパウロは強調したのであります。
ローマ書1章16節を見ると、彼は次のように書いたのです。265ページになります。
1章の16節をお読みいたします。
私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべて
の人にとって、救いを得させる神の力です。
福音とは神の力そのものです。けれども、イエス様と結びついている時にだけこの力が現われることを忘れてはなりません。聖霊が、この力を私たちに与えるようにとりなしておられます。けれど大切なのは、私たちが全てを主に明け渡すこと、委ねることです。
イエス様を信じることは、すなわち、勝利の戦いを勝ち取ることを意味します。従って私たちは、この力によって主の目的である勝利の冠を得るために走ることを急がなければなりません。このように、私たちにとって、主イエス様から与えられた力を用いて、主の目的に向かって走ることが必要です。従って救われた者の生涯は、前に話したように散歩ではない。まさに、勝利の冠を得るための戦いに他なりません。
私たちは自分自身の力によって戦うのではなく、主の恵みと憐れみによって与えられた上からの力によって戦わなければなりません。
新約聖書の中には、ギリシヤ、ローマ時代の競技のことが描かれていますが、いったいこれは何のために書かれているのでしょうか。私たちにとって、救われた者であるということだけでは充分ではないからです。それは単に初めの第一歩にしか過ぎません。むしろ永遠の戦いの目標が重要な問題です。そのために私たちは、今まで以上にもっとイエス様を信頼し、イエス様に全てを委ねなければなりません。
私たちは真剣に、そして喜びに満ちて主に従って行くべきです。私たちは今まで以上にもっとイエス様に信頼し、イエス様に全てを委ねなければならない。私たちは、真剣に、そして喜びに満ちて主に従って行くべきです。私たちは、主の証し人として用いられなければなりません。
従って、私たちは主のご目的を目ざして走り、イエス様において上に召してくださる主の勝利を得ようと努めるべきです。全てこの世のものは過ぎ行くはかないものです。ただ、永遠なるものだけがいつまでも存続するのです。そのために、永遠なるものを目ざして、私たちは一生懸命にならなければなりません。従って、私たちはこのような信仰の戦いをする時、私たちが持っている霊的なエネルギーを全部出し切って、主のために生きなければなりません。
私たちが目ざして走っている目標は、本当に素晴らしい栄光に満ちているものです。私たちが、忠実な主のしもべとして最後まで奉仕するならば、それによって得られる報いは考えられないほど大きいものです。生きておられるイエス様は、私たち信者に霊の力を充分に備えていて下さいます。イエス様は、私たちに大胆な証しをする勇気と、信仰の確信と、確実なる勝利とを与えて下さいます。
パウロが言ったように、「信者の生涯とは、言わば、『組みうち』のようなものである」、つまり、悪霊に対する戦いであるとあります。前に読んでもらいました箇所を、もう一度開きましょうか。348ページになります。
エペソ書の6章10節から13節。
終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策
略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。
ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く
立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。
別の言葉で言えば、「競技場で走る競走」のようなものです。大切なのは、「主にあって」という言葉です。主と結びついていなければ、すべてはダメだからです。
同じく、パウロはピリピにいる兄弟姉妹に、次のように書いたのです。ピリピ書の3章、これもよく知られている箇所であります。354ページ、12節からお読みいたします。
ピリピ人への手紙3章12節から14節。
私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕
えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが
私を捕えてくださったのです。兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えて
はいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひた
むきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄
冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。
私たちは、このようないろいろな力に対して霊の戦いをしなければならない。ある場合には、救いの兜をかぶり、御霊の剣を持って白兵戦を行ない、又、ある場合には、火の矢が飛ぶ遠隔地の戦争を行なわなければなりません。
エペソ6章16節、17節。
これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放
つ火矢を、みな消すことができます。救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、 神のことばを受け取りなさい。
そこでは、打ち砕かれた悪魔の要塞が問題となります。
コリント第二の手紙の10章、326ページですが、次のように書かれています。
コリント第二の手紙の10章の4節と5節です。6節まで読みましょうか。
私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあ
るものです。私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶり
を打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、また、あなた
がたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです。
私たち、主の恵みによって救われた者は、その意味で、戦士であると言えます。
テモテ第二の手紙の2章3節に、パウロはその表現を使いました。380ページです。
キリスト・イエスのりっぱな兵士として、私と苦しみをともにしてください。
イエス様のために奉仕することは、すなわち聖なる戦いです。主イエス様のしもべとして、証し人として、固く立とうと思う者は、この戦いの意味を自ずから感じ取るはずです。
私たちがイエス様と共に歩もうとする時に、この世の未信者から強い攻撃を受けること
は明らかです。何故ならば、それは、イエス様を受け入れないもの、すなわち、生まれながらの人間の性質だからです。彼らは皆、口を揃えて反対します。イエス様の時代の場合もそうでした。ルカ伝19章14節に次のように書いています。
「…国民たちは…『この人に、私たちの王にはなってもらいたくありません。』と言った。…」
これこそ、生まれつきの人間が語る言葉です。今まで私たちは、おもに外面的な敵に対す
る戦いを考えてきました。そこで次に、私たちの内面的な戦いについてちょっと考えたい
と思います。
ここで、大切な成果、成長という言葉が多く使われますけれど、それは、私たち人間が小さくなり、その代わりに、イエス様ご自身の姿が大きくなることを意味します。従って、いつかは古きものがなくなり、新しいものがもたらされることになります。
ヨハネ伝3章30節に、バプテスマのヨハネの素晴らしい証しですけれども、
「…あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」
とあります。「あの方は」、すなわちイエス様は、です。この態度を取る者は自由になり、用いられます。
信じる者にとって最も大切な聖書の箇所とは、おそらくガラテヤ書2章20節でしょう。334ページです。皆さん暗記しているかもしれません。本当に成長の秘訣を表わす言葉です。ガラテヤ書2章20節。
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、
キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、
私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
結局、「私はもうどうでもいい、大切ではない。内に住まれるイエス様が働くことがお出来になり、導くことがお出来になれば私は喜ぶ」とパウロは決心したので、大いに用いられるようになったのです。
主の救いに預かるようになった兄弟姉妹の内側には、古い性質と新しい性質とありますが、それらの性質は併存しているというよりも、むしろ対立しているという表現を使った方がよいのではないでしょうか。聖書は、「対立」と言っているのです。
ガラテヤ書5章17節。
なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは
互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることが
できないのです
このような内面的な戦いは、私たちの肉体が存在している限り、絶えず行なわれるのです。
しかしながら残念なことには、実際問題として多くの救われた者は、これら二つのものが対立し合うというよりは、むしろ、妥協していい加減になってしまうことに慣れてしまっているのではないでしょうか。
その結果は、聖霊の導きに対して鈍感になったり、優柔不断な態度のために証しをする力がなくなったり、この世のことばかり考えたり、私たちの思いや望みが全く塵にまみれてしまうことなのです。
このような妥協した生活との別れは、早ければ早いほど簡単であり、徹底的にすればするほど良いことは言うまでもありません。私たち主の血によって買い取られた者は、常に、競技をする者であるべきです。
テモテ第二の手紙の2章の5節、380ページですけれども、パウロは、愛弟子であるテモテに次のように書いたのです。
また、競技をするときも、規定に従って競技をしなければ栄冠を得ることはできません。
ここで使われている競技の規定とは、定められたコースを忠実に公正に守らなければならない約束のことを言うのです。例えば、マラソンをする場合に、定められたコースを走らずに楽をしようと思って最短距離を走ってゴールインしても、勝利の栄冠は得られません。
これは地上の競技ですが、信仰の戦いにおいても、主イエス様を全く信頼し、全てを主イエス様に委ねることが要求されます。イエス様は、心からの献身を望んでおられます。決して妥協することは許されません。
いずれにしても、古き性質と新しい性質とがごちゃごちゃになってしまうことは退けられなければなりません。この戦いは真剣な戦いであり、主に対する信仰をゆるがない心で持ち続け、主に従って行かなければなりません。
使徒行伝の11章23節に、バルナバという男は、アンテオケまで行って、次のような態度を取ったとあります。
彼はそこに到着したとき、神の恵みを見て喜び、みなが心を堅く保って、常に主に
とどまっているようにと励ました。
常に主にとどまることこそが大切です。主と結びついていると祝福があり、周りの人々も導かれます。
このように私たちは、信仰生活の一面として、主のものになった兄弟姉妹の責任について考えました。そこで、これから信仰生活のもう一つの面について考えるべきなのではないでしょうか。
確かに自分の意志で決定することは大切ですが、主の力によらずに自分の力で、栄冠を勝ち取ろうとしたり、古い性質に対して戦おうとすることは正しくないことです。
それでは、主のものとなった兄弟姉妹の目印となるものはいったい何なのでしょうか。
一番目、主の御言葉である聖書を愛し、
二番目、信じる者との主にある交わりを求め、
三番目、ことごとくに感謝をもって、祈りと願いとを捧げること。
四番目、悪いとわかっている物事や人々から離れることも、主の勝利の現われなのではないでしょうか。
けれど、残念なことに、多くのせっかく救われた兄弟姉妹が、自分の利益を考え、この世の愛を求め、他人に対して冷たくあしらったり、心がかたくなであったり、生き生きとした祈りの力を体験することがなく、証しにも力がなく、御言葉を尊重せず、罪に負けてしまうのです。いったいこのような状態からの逃れ道があるのでしょうか。もしイエス様が私たちの中で勝利を収めておられるならば、同時に、罪の力に対しても勝利を得ていることを意味するのであります。
ネヘミヤ記の8章、754ページになりますが、8章の10節。
「…悲しんではならない。あなたがたの力を主が喜ばれるからだ。」
別の訳は、「主を喜ぶことは、あなたがたの力です」とあります。すなわち、毎日の生活の中で、勝利を得る力に他なりません。私たちが、主イエス様を見上げ、主イエス様に従い、主イエス様にとどまるならば、罪に対する勝利の問題が実際に解決されることになります。その結果、私たちは喜んで光の中を歩むことが出来るようになります。
今まで述べてきたことを要約すると、
第一にしなければならないことは、勝利の栄冠を得るために力を尽くして走ることであり、次に、主から与えられた恵みを素直に従順に受け取ることです。
従って、栄冠を得るために、私たちは決して中途半端な、曖昧な態度を取るのではなく、全てを主イエス様に委ね、イエス様により頼むことが大切です。
最後に、いったい誰が勝利の冠を得ることが出来るのかということについて、考えたいと思います。テサロニケ第一の手紙2章19節に次のように書かれています。364ページです。
私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠とな
のはだれでしょう。あなたがたではありませんか。
このテサロニケという町にいる兄弟姉妹は、パウロの奉仕によって主に導かれただけではなく、主の恵みによって成長した者で、豊かな実を結ぶようになったので、パウロの喜びでした。これに反して、一人も主のみもとに導けなかった者は、どうして勝利の冠を得ることが出来るのでしょうか。決して出来ません。
ギリシヤ、ローマ時代の競技には多数の観客が集まったのです。ローマのある競技場では、パウロ時代に約25万人、4世紀になると38万5千人の観衆が集まったと言われています。それに対して今日、私たちの信仰生活の戦いは、ただ単に周囲の人々から見られているだけでなく、主イエス様を初めとする目に見えない世界からも見守られていることを忘れてはなりません。
ローマ時代の競争は、人間と人間との力を競い合うスポーツから、次第に人間と野獣との戦いに変わっていったのです。例えばライオンとの格闘は、初めは犯罪者だけにやらせたのですが、ネロ皇帝の時代になると、主イエス様を信じる者も戦わされ、ひどい場合には、主イエス様を信じる者に油をかけて火を付けるなども平気で行なわれたのです。
パウロはローマ書の16章の中で、25人の兄弟姉妹の名前をあげて、それらの人々について語っています。パウロは、
・まず3節と9節で「キリスト・イエスにある私の同労者」と言い、
・次に5節と8節と9節と12節で、「主にあって愛する兄弟姉妹」と言い、
・それから7節、「私と一緒に投獄されたことのある兄弟」と言い、
・10節、「キリストにあって練達の兄弟」とも言い、
・更に13節、「主にあって選ばれた兄弟」とも言っています。
ここで名前をあげられた兄弟姉妹の大部分は、疑いもなくパウロ自身と同じように迫害され、殺されてしまったのです。
この手紙が書かれてから6年位たって、特にローマを中心として、主イエス様のものになった兄弟姉妹に対する大きな迫害が始まったのです。しかしながら、そのような大きな迫害にもかかわらず、これらのキリスト者は、少しも死を恐れることなく、静かな内にもイエス様を信じる喜びをもって、その苦しみを甘んじて受けたのです。
けれども残念なことには、それと反対に迫害や死を恐れたために、信仰から離れ、ダメになってしまった信者もありました。例えば、ディオクレティアヌス(?)皇帝の時に行なわれた迫害について、その当時のことを記している古文書の原典が、次のように言っています。
「72歳になる老人が、皇帝の命令に服従して偶像崇拝をしてしまった」と。つまり彼は、主イエス様のことを思わず、人のことを思ったために、この世と妥協して信仰から離れてしまったのです。その当時のローマの秘密警察は、その老人が偶像崇拝をしたことを見たというふうに証言しています。この古い文書が記していることは、何という恐るべき悲劇ではないでしょうか。あるキリスト者は、主イエス様を拒んでこの世と妥協し、殺されないために自分が本当に偶像崇拝をしているところを役人に見てもらい、それを公に証明してもらったのです。
このことは、私たち現在のキリスト者が行なう証しとどのような関係を持っているのでしょうか。いったい私たちの信仰とはどうなのでしょうか。
マタイ伝10章の32節、33節を見ると、次のように書かれています。17ページになります。
ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父
の前でその人を認めます。しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、
わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。
すべての主イエス様のものとなった兄弟姉妹の持っている使命とは、まさに、イエス様ご自身を証しすることに他なりません。イエス様が私たちの中で大きくなられればなられるほど、私たちも真剣に主イエス様を証しせざるを得なくなります。
つまり、私たちが外に向かって証しをするということは、すべてイエス様との関係にかかっています。私たちが聖霊によって満たされれば満たされるほど、救われている事実を、感謝と喜びを、一人でも多くの人に告げ知らせたいという気持ちが強まってきます。
私たち一人一人が、「主イエス様は、私たちにとって如何なる意味を持っているか」を、明らかにしなければなりません。
主イエス様のものとなった兄弟姉妹にとって、証しをするということは、誰にでも出来ることです。そして証しをするということは、何処ででも出来ることです。
言葉や行ないで証しをするということは、その人の関係がいいとか悪いとかいうこととは全く関係ありません。イエス様が私たちの心の目を開いて下さることが出来れば、私たちはその時こそ、感謝と喜びとをもって大胆にイエス様を証しすることが出来るのです。 けれど、証しをするということは、常に戦いと結びついています。
信仰の道は戦いと献身を通して進みますが、その結果は、すばらしい栄光に満ちた勝利の生涯であります。
了
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