キリスト者の使命 2
2004.1.20(火)
ベック兄メッセージ(メモ)
引用聖句
ピリピ人への手紙 3章14節
キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心
に走っているのです。
使徒行伝 20章24節
けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの
福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは
思いません。
テモテへの手紙第二 4章7節、8節
私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の
栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、
それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれに
でも授けてくださるのです。
先週、始まったテーマは、『キリスト者の使命』、或いは『主の勝利を得るための戦い』であります。
人生において最も大切なこととは、言うまでもなく、救い主を持つことです。即ち、主イエス様を体験的に知ることです。救いの神を知ることによってはじめて、私たちはこの地上において、本当に満たされた生活を送ることが出来るのです。満たされた人生を送るために、「永遠のいのち」、「主なる神との平和」、「罪の赦し」、従って、「主イエス様が自分のことを心配し、導き、そして、守っていてくださる」という確信こそが、生活の土台となっていなければなりません。そして、「召された後、永遠に主イエス様と交わり、栄光をともにすることになる」という確信こそが、最高の宝物なのではないでしょうか。
「いつまでも、主イエス様とともになる」という事実について考えると、本当に主を礼拝せざるを得ないのではないでしょうか。
パウロの目的は、今読んでもらいました引用箇所を見ると分かります。やはり、「主の勝利を得よう。主を喜ばせたい」、そのような気持ちでした。そして、他の救われた人たちについても、パウロは確かに祈り、戦いました。悩みました。涙を流したのです。なぜなら、救われた人たちが、なかなか成長しなかったからです。いつまでも乳飲み子の世話をすることが、パウロの目的ではなかったのです。救われた人たちが全き人となることこそが、彼の目ざした目的でした。
先週も読みました箇所ですけれど、エペソ書4章13節を見ると、彼は、次のように書いたのです。
ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全に
おとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。
「おとなになること」こそが、パウロの祈りの目的でした。
イエス様を知ることは確かに恵みです。けれど、私たちがイエス様のために用いられる器となるために、主イエス様を私たちの救い主としてだけではなく、主として、よりよく体験的に知ることこそが要求されているから、使徒たちはみな、いろいろな手紙を書いたのです。彼らの救いのためではありません。彼らはみな、既に救われていたのです。けれども、主によって用いられなければ、やはり主は喜ばれないし、救われた人たちも本当の意味で喜ぶことが出来ないのです。「勝利の冠を得るために生きるべきである」と、使徒たちはみな、強調して書き記したのです。
新約聖書の中には、「この地上における普通の競争」と、「私たち信じる者の霊的、信仰的な戦い」とが対比されています。従って、「競争」、或いは「戦い」は、私たちの信仰を励ますためのものとして考えられているということが分かります。
これから、おもにギリシヤ・ローマ時代の三つの異なった競争について、ちょっとだけ一緒に考えてみたいと思います。
これらの三つの競技について、聖書は、次のようなものを挙げています。
第一番目、「競走」
第二番目、「拳闘」
第三番目、「戦い」
1. 多くの場合に「競走」について述べられています。
この「競走」は、私たちの目前にある主の目標を目ざしているのです。即ち、私たちは、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の勝利を得ようと努めているのです。
ピリピ人への手紙3章14節で、
キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心
に走っているのです。
と、パウロは言ったのです。
2.「拳闘」は、私たちの中にいる敵と戦うことを目標としています。
コリント第一の手紙の9章24節から27節を見ると、パウロは、コリントにいる兄弟姉妹を次のように励ましたのであります。302ページになります。
競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知って
いるでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。また闘技をする
者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのです
が、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。ですから、私は決勝点がどこか
わからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。私は自分
のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、
自分自身が失格者になるようなことのないためです。
「自分自身が失格者になること」は、あり得ることです。
3.「競走」があり、「拳闘」もあり、そして「格闘」、「戦い」、或いは「相撲」は、私たちの周囲にある、私たちの外にある闇の力との戦いを指しています。エペソ書の6章12節、よく読まれる箇所なのですけれども、
私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者
たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
「格闘」とは、「戦い」です。「血肉」とは、「人間」です。目に見える人間です。「私たちの格闘は、悪霊に対する戦いである」と、ここで分かります。
このように、三種類のスポーツと比較することは、それらが非常によく似ているにもかかわらず、私たち信じる者の戦いの、「三つの異なった精神的な方向」を意味しています。
「競走」について考えてみると、「競走」が意味している最も大切な真理は、次のようなものでしょう。即ち、
・すべてのキリスト者は、目標に到達することが出来るということです。従って、主の力を持っ
て恵みに従えば、私たちもまた、目標を得ることが出来るのです。
・すべてのキリスト者は、力の限りを尽くして走り、そして、急がなければなりません。従って、
私たちもそのようにしなければなりません。
・すべてのキリスト者は、目標を常に意識しなければなりません。誰も枝葉のことに目を奪わ
れて、目標から離れることは許されません。従って、私たちもまた、的はずれな生き方をして
はなりません。
・すべてのキリスト者は、ゴールインするまで走り抜けなければなりません。誰も途中で疲れ
て、やめてしまうことは許されません。
・すべてのキリスト者は、休みなく前進しなければなりません。そして、立ち止まることは許さ
れません。
・すべてのキリスト者は、この障害物競走で躓かないように、また、倒れないように注意しなけ
ればなりません。敵は、私たちを倒そうとしますけれど、主イエス様は、私たちを守ることが
お出来になるお方です。
・すべてのキリスト者は、最高のものを得ようと欲しなければなりません。そして、いかなる
場合にも、低い目標で満足してはなりません。従って、私たちもそのようにしなければなりま
せん。
その時にだけはじめて、私たちは、主イエス様の栄光の冠を得る恵みにあずかるようになります。
ペテロは、当時の信じる者に次のように書いたのです。第二ペテロの手紙1章11節。
このようにあなたがたは、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国
にはいる恵みを豊かに加えられるのです。
また、パウロは、救われた人たちに、第二コリント人への手紙5章10節で、
私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体に
あってした行為に応じて報いを受けることになるからです。
そして、前に読んでもらいました初めの引用箇所は、本当に主を崇拝する気持ちから出たものです。第二テモテへの手紙4章8節。
今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者
である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者
には、だれにでも授けてくださるのです。
「授けてもらったらよい」ではなくて、既に、彼は確信を持って、「必ず授けてくださるのです」と。
パウロは、救われた兄弟姉妹の成長、救われた兄弟姉妹のきよめの必要性と信仰の戦いの大切さを明らかにするために、このような「競走」について説明したのです。
コリント第一の手紙9章24節。
競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知って
いるでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。
「のんびりしたらいけない」ということです。ピリピ人への手紙3章14節。
キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心
に走っているのです。
と、パウロは証しすることが出来たのです。
そして、殉教の死を遂げる前に、第二テモテへの手紙4章7節で、
私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。
と、言うことが出来たのです。使徒行伝20章24節。
私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかし
する任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。
すばらしい証しではないでしょうか。「走ること」こそが、要求されています。例えば、へブル人への手紙の12章1節を見ると、次のように書かれています。404ページ。
こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのです
から、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている
競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。
「走ること」とは、何でしょうか。答えは2節です。
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、
ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の
御座の右に着座されました。
このような箇所は、目標を意識していることと、上のものを求める心を指し示しているのではないでしょうか。一人の人間にとって、その人がいかなることを考えているか、いかなる目的を持っているかということこそが、決定的なことであります。このような内面的な態度及び姿勢から、その人全体の外面的な行ないも決定されます。
イエス様は、私たちの罪を赦してくださり、永遠のいのちを与えてくださるだけではなく、私たちの人格そのものを新しい者に作り変えたいと思っておられます。考え方、見方、価値観も変えてくださいます。
このような本当の意味の人間革命、即ち、人を造りかえるためには、次に述べることが大切です。私たちの内面的な決断、心の考えや求める気持ちが上にあること、即ち、永遠なる主イエス様ご自身に向けられていることこそが大切です。コロサイ書の3章は、非常に大切な、素晴らしい主の呼びかけです。360ページです。
1節と2節をお読みいたします。
こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にある
ものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、
地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。
これは単なる提案ではなくて、はっきりとした命令であり、主のみこころの現われです。次のことが言えるのではないでしょうか。
・上にあるものを思う兄弟姉妹は、主なる神が自ら啓示される泉、即ち、主イエス様を愛して
います。
・上にあるものを思う兄弟姉妹は、自分のいのちの泉であられる主イエス様と、個人的な祈り
の交わりを持っています。
・上にあるものを思う兄弟姉妹は、目まぐるしい生活の中にあっても、常に静かな祈りと平安
の中にいることが出来る人たちです。
・上にあるものを思う兄弟姉妹は、時々祈るというのではなく、絶えず祈り、絶えず感謝してい
るのです。
・上にあるものを思う兄弟姉妹は、上にあるものを見上げることによって、主が、私たちを心に
留められ、導いてくださるようにと願っているのです。
・上にあるものを思う兄弟姉妹は、この世においても誠実な、そして、良心的な行ないの模範
者となり、そしてそれと同時に、主イエス様の栄光が明らかにされることを、心から待ち望ん
でいる者です。
・上にあるものを思う兄弟姉妹は、この地上においても責任を果たし得るが、その本当の目的
は天にあります。
・上にあるものを思う兄弟姉妹は、イエス様ご自身を愛し、主のみことばである聖書をも愛する
者に他なりません。
そのような、主と主のみことばを愛する人の生活には、虚しく意味のない日は一日もありま
せん。そのような兄弟姉妹は、聖書を通して、主イエス様が、毎日自分に語りかけてくださ
ることを求めています。聖書全体は、語り尽くすことの出来ないものであり、信仰といのちの
動かない土台です。というのは、主のみことば全体は、上にあるものを思う兄弟姉妹にとっ
て、約束と戒めであり、主イエス様の賜物と使命であり、まことに生き生きとした力を与えて
くださるものであり、人生の正しい方向を指し示してくださるものであるからです。
上にあるものを思う兄弟姉妹の心と、聖書を読む喜びとは、相い伴なうものです。すべての
みことばは、天からの賜物であります。従って、聖書を読むことをおろそかにしたり、みこと
ばを聞くために、集会に行って主にある交わりを持つことを怠る者は、結局、地上のことを思
い、霊的に貧しく、この世に属し、上にあるものを思う召しを拒むようになってしまいます。
・上にあるものを思わない兄弟姉妹は、競走を終わりまでやり通すことが出来ません。そのよ
うな兄弟姉妹は、本当の競走者がするように、目標を意識して上を目ざして走る代わりに、
右を見たり、左を見たり、結局は同じような状態にとどまらざるを得ません。
・上にあるものを思う兄弟姉妹は、夜も昼もみことばを思います。みことばを喜ぶ者は、いかに
祝福されることでありましょう。詩篇の中に、そのような証しがたくさん出てきます。例えば、
詩篇1篇の1節、2節を読むと、次のように書かれています。832ページになります。
幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着か
なかった、その人。まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口
ずさむ。
・上にあるものを思う兄弟姉妹は、主のおきてのうちの奇しいことを見るようになります。
119篇は、一番長い詩篇なのですけれども、ダビデが、主のみことばのすばらしさ、大切さ
について、いろいろなことを証ししたのです。18節です。
私の目を開いてください。私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留める
ようにしてください。
これは、ダビデの心からの願いであったから、彼は、「みこころにかなう者」と呼ばれるようになりました。また、大いなる獲物を得た者のように、主のことばを喜ぶようになります。同じく詩篇119篇の160節です。
みことばのすべてはまことです。あなたの義のさばきはことごとく、とこしえに至ります。
また、162節です。
私は、大きな獲物を見つけた者のように、あなたのみことばを喜びます。
主のみことばを通して、新しい力が、上にあるものを思う兄弟姉妹の中に入ってくるのです。上にあるものを思う兄弟姉妹の目は、上にあるものに向けられ、目前に置かれた目標に向かって急ぎ、前進する競走者となるのです。この競走の最後には、勝利が待っています。この勝利は、イエス様の再臨が行なわれた時に、明らかになります。ペテロ第一の手紙を見ると、次のように書かれています。415ページです。1章13節を読みます。
ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現われのとき
あなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。
心を引き締め、身を慎む兄弟姉妹は、絶えず目を覚まし、主イエスを待ち望む兄弟姉妹です。「心を引き締め」とは、即ち、完全に、徹頭徹尾主の恵みに信頼することを意味します。「恵み」とは、人間の行ないとは正反対に、主イエス様が私たちのために成してくださったことです。従って、本当の競走者は、100パーセント主イエス様の恵みに信頼して走る者です。即ち、自分自身の力に頼らず、ただ主イエス様が明らかにされる目標だけを目ざして走る兄弟姉妹です。
本当の競走者の目的とは何でしょうか。ピリピ人への手紙を見ると、次のように書かれています。354ページです。3章の20節と21節です。
けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として
おいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせること
のできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変え
てくださるのです。
私たちの思いは、絶えず目標を意識し、永遠なる一つの目的だけにすべてを集中していなければなりません。それとは反対に、目標が一つに定められていない場合には、主から与えられる力でもって、目前に置かれた目標に向かって前進することが出来ません。それは、パウロが、証しの中で正しく言っているとおりです。ピリピ人への手紙3章の14節です。
キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心
に走っているのです。
1. パウロは、「競走者の召し」について語っています。
その「召し」は、ただ主イエス様お一人だけであり、すべてのものは主イエス様を通して成されるということです。ピリピ人への手紙3章の4節から7節までお読みします。
パウロの証しです。
ただし、私は、人間的なものにおいても頼むところがあります。もし、ほかの人が人間的
なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上です。私は八日目の割礼を受け、
イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法に
ついてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば
非難されるところのない者です。しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私は
キリストのゆえに、損と思うようになりました。
2.「競走者の霊的目標」について、パウロは次のように述べられたのです。
即ち、ただイエス様のために行なわれるということです。同じくピリピ3章8節、9節。
それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、
いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらを
ちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、キリストの中にある者と
認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、
信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。
3.「競走者の努力と力」について、語られています。
即ち、主イエス様とともに、上に召してくださる主の勝利を得ようと努めているということです。同じくピリピ3章10節から14節です。
私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、
キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。私
は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとし
て、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださっ
たのです。兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この
一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって
進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして
一心に走っているのです。
4.「競走者の幸いな待ち望み」について、パウロは次のように述べています。
即ち、いつまでも主イエス様と一緒になることです。前に読みましたピリピ3章20節。
けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておい
でになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることので
きる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくだ
さるのです。
主イエス様によって完全に捕えられていることこそ、あらゆる力の秘訣です。イエス様によって捕えられた者だけが、目標を捕えるようになります。ですからパウロは、ピリピ3章12節で、
私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えよう
として、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくだ
さったのです。
「私は捕えられた者です。監禁されてしまった者です。私は主のしもべです」と。
あらゆる勝利は、主に属するもの、前進させるものです。すべてを耐え忍んだ試練は、その兄弟姉妹の信仰を強くします。イエス様の助けを体験した者は、その喜びを増し加えるのです。
ある神学校で、学生たちは、一つのテーマについて、即ち、『全能なる神と悪魔』という論文を書くことになったのです。彼らには、ただ4時間しか与えられていなかったのです。その論文は、あらかじめ三つの部分に分けられるべきでした。即ち、
第一番目、全能なる主。
第二番目、悪魔の存在と本質。
第三番目、全能なる主と悪魔との関係。即ち、悪の発生とそれが許されていることの問題。この悪を主なる神が支配なさり、光の国によって闇の国が支配されること。
などについて、書くことが当然だったのです。
けれども、一人の学生は、主なる神の全能、偉大さ、愛、知恵、真実、善、そして憐れみなどについて、夢中になって書いたのです。突然、終わりの時間がやってきました。彼は、初めから終わりまで、ただイエス様のことについてだけ書き続けたのでありましたが、それは、すべて感謝と喜びに満ちたものでした。彼は、時間になった時、「悪魔に時間なし」と書いて、論文を出したのです。先生がその学生に対して、いかなる評価を与えたかは分かりません。「的はずれ」と書いたかもしれません。けれども私たちは、「悪魔に時間なし」というこの言葉から、多くのことを学び取ることが出来るのではないでしょうか。
私たちの心が、本当に主イエス様によって満たされているなら、悪や悪魔が入り込むところはありません。その時、私たちの心は、いわば主イエス様によって占領された地域のようなものです。私たちの心が上にあるものを思うなら、罪やこの世のものは全く力を失い、私たちは、別の使命と目標を持つようになります。私たちの時間は、主のものであります。イエス様を喜ぶことは、私たちの周囲に張り巡らされた要塞のようなものであります。主イエス様が、私たちを捕えてくださればくださるほど、罪はその力を失います。私たちが、主イエス様のために、主イエス様のための時間を多く持てば持つほど、私たちの敵である悪魔のための時間は、ますます少なくなります。「悪魔に時間なし」です。
ドイツのケルンにある画廊に、大きな油絵があります。それは、旧約聖書の士師記に出てくるサムソンを書いたものです。それを見ると、サムソンは細い紐で縛られ、小さな子どもがその紐を持って、巨人サムソンを導いています。そのサムソンの髪の毛は、断ち切られて大地に落ちています。この髪の毛は、サムソン自身がすべての生活を主に捧げたことの証明となるものでした。けれど、サムソンは、罪によって霊的な力を失ってしまっています。いかに小さな罪があっても、罪を犯した者は、悪魔に縛られてしまうのです。
ただ主にすべてを捧げ尽くすことが、本当の力の秘訣です。ただ主との霊的な交わりだけが、勝利の生活に導くのです。歴代誌Uの16章9節、よく読まれる箇所なのですけれども、次のように書かれています。692ページになります。
主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている
人々に御力をあらわしてくださるのです。
「勝利を得たい」と思う兄弟姉妹は、すべてを主イエス様に明け渡さなければなりません。このように、すべてを主イエス様に委ねたキリスト者だけが、本当に恵まれた、祝福された者です。
競走者の真の生涯は、焦点が二つある楕円、即ち、自分自身とキリストの生活ではなく、主イエスというただ一つの中心点しかない円のようなものです。これこそが、パウロの書こうと思ったことです。
最後に、コロサイ書の1章18節を読んで終わります。358ページです。
また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から
最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられた
のです。
吉祥寺の五日市街道に面しているある家があります。おそらく店でしょう。何が書いてあるかといいますと、「供養第一」、即ち、「この世が第一」。どういう意味か、ちょっと分かりません。けれども、パウロが言っていることは、「イエス様ご自身が、すべてのことにおいて第一のものとなられるべき」です。
イエス様が第一になられたら、人は大いに喜ぶことが出来、そして、祝福されるようになります。
了
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