キリスト集会のご案内
TOP日曜礼拝家庭集会よろこびの集い出版物  


メ ッ セ ー ジ ・ 証 し 集


キリスト者の使命 3
   
2004.1.27(火)
ベック兄メッセージ(メモ)

 
引用聖句
コリント人への手紙・第一 9章24節から27節。 
   競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知って
  いるでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。また闘技をする
  者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのです
  が、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。ですから、私は決勝点がどこか
  わからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。私は自分
  のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、
  自分自身が失格者になるようなことのないためです。


 今、いじめられている人が非常に多いです。結果として、学校をやめて、劣等感に落ち込んでしまい、何の喜びも希望もない子どもがいっぱいいます。人間が自分の敵になるとは、大変なのではないでしょうか。けれども、もし生けるまことの神が自分の敵になってしまわれるなら、もっと大変なのではないでしょうか。聖書ははっきり、「主は、高ぶる者を退ける」と言っています。主は、高ぶる者の敵となられます。「へりくだる者にだけ恵みを与える」とあります。

 正直な人間は、夜になって一日のことを振り返るとき、何を思うのでしょうか。「今日はいいことがあった! いいことがあった!」と誰も言えないのではないでしょうか。結局、毎晩「ごめんなさい」としか、言えないのではないでしょうか。それから、「イエス様は、ダメな者を捨てられないから、ありがたい。今からよろしく。相変わらず迷える羊に過ぎません」と思うでしょう。

 最近の私たちのテーマは、『キリスト者の使命』であります。私たちの人生において最も大切なのは、救い主を持つことです。イエス様を体験的に知ることです。救いの神を知ることによって初めて、私たちはこの地上において本当に満たされた生活を送ることができます。満たされた人生を送るためには、「永遠のいのち」、「主なる神との平和」、「罪の赦し」を知り、従って、「イエス様が、私たちのことを心配して下さり、私たちを導いて下さり、そして守っていて下さる」という確信が、生活の土台とならなければなりません。
 そして、「死んだ後は、永遠にイエス様と交わり、主のご栄光を共にすることになる」という確信こそ、最高の宝物なのではないでしょうか。いつまでも、主イエス様と共になるという事実について考えると、やっぱり喜びが湧いてきます。主を礼拝せざるを得ないのではないでしょうか。
 
パウロは、他の使徒たちと同じように、救われた者たちのことを悩んだのです。パウロの目的は、いつまでも乳飲み子の世話をするのではなくて、救われた者たちが「全き人」となることだったのです。前に読みました、
エペソ人への手紙 4章13節。
   ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全に
  おとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。

 これは、使徒たちの切なる願いでした。そのために、彼らは、いろいろな手紙を書いたのであります。イエス様を知ることは、確かに恵みです。けれど私たちがイエス様のために用いられる器となるために、イエス様を自分の主としてよりよく知ること、体験的に味わい知ることが、考えられないほど大切です。すなわち、信じる者は、「永遠の勝利の冠」
のために生きていくことが大切であるということです。

 パウロは殉教の死を遂げる前に、次のように言い得たのです。
テモテへの手紙・第二 4章7節。
   私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。

もちろん、彼は常にこの態度を取ったのです。
使徒の働き 20章24節。
   私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかし
  する任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。

と、彼は心から言うことができたのです。

 勝利を得る秘訣とは何なのでしょうか。言うまでもなく、「自分を見ないで、勝利者なるイエス様を仰ぎ見る」ことです。だからヘブル書の著者は次のように書いたのです。
ヘブル人への手紙 12章1節、2節。
   こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのです
  から、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている
  競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者である
  イエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、
  はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

パウロは前に話しましたように、おもにギリシャ・ローマ時代の三つの異なった競争について書き記したのです。前回、私たちは、「競走」について考えてまいりましたが、今日は、第二番目になります「拳闘」について、一緒に考えてみたいと思います。

 ギリシャ時代の競技の主な種目の二番目は、「拳闘」、あるいは「ボクシング」だったのです。これは最も激しい競技の一つでした。これはボクサーが互いに打ち合う、特に顔を打つことを目的とするところに、その本当の大変さ、面白さがあったのです。有名な詩人ホーマーの時代、すなわち紀元前900年頃には、手に皮の黒帯をはめ、時には金属を着けたので、非常に危険な競技であり、死者が出るほどでした。決定的なパンチは、目の下を打つことであり、それは、今日「ノックアウト」と呼ばれるようなものだったのです。パウロは、この表現を聖書の中で用いています。パウロの告白、また証しです。
コリント人への手紙・第一 9章26節から27節。
   私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もして
  はいません。私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に
  宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。

 あり得ることです。ここで、「自分のからだを打ちたたいて服従させる」とは、自分自身のからだにパンチを与え、特に目の下にパンチを与えることによって、自分自身のからだを完全にノックアウトさせることを意味しているのです。すなわち、これは、次のようなことを意味しています。「キリスト者は、自分のいのちを少しも惜しいとは思わない」ことです。すなわち、もしも、自分中心の考え方、自分だけの願いや、欲望、楽な生活を送ること、また、快楽を求めることが、自分にとって勝利の戦いを勝ち取るために妨げとなるならば、それらのものをはっきりと否定しなければなりません。自分の拳、拳骨が傷つくのを恐れて、敵を打つ代わりに、空を打つようなことは決して許されません。そのような拳闘は、いずれにしても、勝利を得ることができないことは確かです。だから、パウロは、使徒の働き 20章24節で、
   私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかし
  する任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。

と言い得たのです。パウロは、ここで禁欲生活や、修道院生活を勧めているのではありません。むしろ、競技者としてすべての力を、全身全霊をもって、ひとつの大きな目標に向けることが大切です。そのことによって、勝利を得ることができるのです。

 パウロはここで、いわゆる、「霊肉の戦い」について述べています。新約聖書はいろいろなところで、霊と肉との対立について述べています。ローマ書8章を見てみましょう。
ローマ人への手紙 8章4節から9節。
   それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされる
  ためなのです。肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属
  することをひたすら考えます。肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安
  です。というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服
  従しません。いや、服従できないのです。肉にある者は神を喜ばせることができません。
  けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中
  にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものでは
  ありません。

 また、ガラテヤ書の中にも、同じようなことが書き記されています。
ガラテヤ人への手紙 5章17節です。
   なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに
  対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないので
  す。

 ここで、「肉」という場合は、ただ単に、主イエス様に逆らう罪深い肉欲のことだけでは
なく、人間の生まれつきの古い性質について語られています。
ガラテヤ人への手紙 5章19節から21節。
   肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔
  術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類
  のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておき
  ます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。

                             
パウロは、このようにガラテヤにいる兄弟姉妹に書いたのです。
彼の挙げた肉のわざの半分以上は、まさに精神生活の罪の領域に属します。「ただ単に、不品行、汚れ、好色だけが肉のわざではなく、敵意、ねたみ、争い、愛のないこと、さらには、まじない、偶像礼拝、さらには律法的になることや、禁欲主義なども、肉のわざに他ならない」と、パウロは強調したのです。
コロサイ人への手紙 2章16節から23節を読むと分かります。
   こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のこと
  について、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。これらは、次に来るものの影で
  あって、本体はキリストにあるのです。あなたがたは、ことさらに自己卑下をしようとした
  り、御使い礼拝をしようとする者に、ほうびをだまし取られてはなりません。彼らは幻を見た
  ことに安住して、肉の思いによっていたずらに誇り、かしらに堅く結びつくことをしません。こ
  のかしらがもとになり、からだ全体は、関節と筋によって養われ、結び合わされて、神によ
  って成長させられるのです。もしあなたがたが、キリストとともに死んで、この世の幼稚な
  教えから離れたのなら、どうして、まだこの世の生き方をしているかのように、「すがるな。
  味わうな。さわるな。」というような定めに縛られるのですか。そのようなものはすべて、用
  いれば滅びるものについてであって、人間の戒めと教えによるものです。そのようなもの
  は、人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか、または、肉体の苦行などのゆえに賢いもの
  のように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです。

と、パウロは書いたのです。
例えば、不品行と禁欲主義は、表面的には正反対のものであるけれど、主の御目から見ると、一つのものの両面に過ぎません。言葉を変えるならば、淫らな卑しい肉のわざだけではなく、謙遜らしく信心深くカモフラージュされた肉のわざも、全く同じものです。なぜなら、主イエス様に頼らないで、自分自身の力でやろうとすることは罪であるからです。「信仰から出ないものは、全部例外なく罪である」と、聖書ははっきり言っているのです。

ガラテヤの兄弟姉妹は、律法的な行ないをして自分自身を清めることによって、自分自身を完成させることができると考えていました。パウロはこのような宗教的な努力に対して次のように書いたのです。
ガラテヤ人への手紙 3章3節。
   あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま
  肉によって完成されるというのですか。

このような意味において、霊と肉、すなわち「古き人」と「新しい人」、すなわち、「罪人の自己」と、「新しく生まれ変わって、新しいいのちを植え付けられた人」との間には、常に対立が存在しています。だからパウロは前に読みましたように、
ガラテヤ人への手紙 5章の17節。
   なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに
  対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないの
  です。

と書き記しています。酒を飲み、快楽を求めること、反抗的な生活の奴隷、すべてそれらは、いつも彼を欺き、押さえつける支配者として、この事実を経験しています。これを、「肢体に存在する罪の法則である」とパウロは言ったのです。
彼の正直な証しは、次のように書かれています。
ローマ人への手紙 7章23、24節。
   私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいど
  み、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。私は、ほん
  とうにみじめな人間です。

 それは、人間を捕らえ、罪のもとにがんじがらめに縛りつけ、虜にすることによって、今や「死」のために、実を結ばせようとしていると、パウロはここで言っているのです。
ローマ人への手紙 7章5節。
   私たちが肉にあったときは、律法による数々の罪の欲情が私たちのからだの中に働い
  ていて、死のために実を結びました。

罪は、からだの肢体を無断で利用して、私たちの肢体を不義の武器として使っています。
同じくローマ人への手紙 6章13節。
   また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中
  から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。

 つまり「罪」は、私たちのからだを用いて、それを武器として、主イエス様に逆らおうとしています。この敵は、私たちの目、耳、舌、手、要するにからだのあらゆる肢体を、自分の目標のために使いたがっています。こういうふうにして、人間のからだは卑しめられてしまいます。つまりそれは、悪魔に用いられる器となり、罪のからだとなります。
けれども、パウロは次のように言ったのです。
ローマ人への手紙 6章6節。
   私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私
  たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。

ローマ人への手紙 7章24節。
   私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれ
  るのでしょうか。

彼は、「罪のからだ」、「死のからだ」という表現を使っているのです。人間のからだは、悪魔の武器となり得るのです。前に読みました箇所です。
ローマ人への手紙 6章13節。
   また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中
  から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。

「不義の器」は、「義の器」となるべきです。裁きがなされる復活の時には、「滅びのからだ」に成り下がってしまうのです。旧約聖書のダニエル書の中で、このことについて次のように書き記されています。
ダニエル書 12章2節。
   地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、
  ある者はそしりと永遠の忌みに。

 イエス様は、ヨハネ伝の中で次のように述べられたのです。
ヨハネの福音書 5章29節。
   善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばき
  を受けるのです。

 では、主イエス様のものになった者は、何をなすべきなのでしょうか。私たちは聖なるエネルギーを用いるべきです。私たちは、あらゆる罪深い本能的な生活に対して、「NO」と言うべきです。私たちは霊を汚すあらゆるものから目をそらすべきです。また、すべての悪口や、意味のない無駄話などに対して、耳をふさぐべきです。
ヤコブの手紙 3章7節、8節で次のように書かれています。
   どのような種類の獣も鳥も、はうものも海の生き物も、人類によって制せられるし、すでに
  制せられています。しかし、舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっと
  していない悪であり、死の毒に満ちています。

同じくヤコブの手紙 3章10節。
   賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あっては
  なりません。

また、怒りに満ちた罪深い価値のないこと、すなわち、のろいではなく、祝福を語るように自分の舌を慎むべきです。私たちは、主イエス様に逆らう自分自身のからだを打ちたたき、それを完全に支配すべきです。私たちは、ちょうどボクサーがリングで敵に対してするように、自分自身の目の下にパンチを与えるべきです。つまり、私たちは、自分自身をノックアウト、KOさせるべきです。あるいは、主イエス様ご自身が、「山上の垂訓」で命令してくださったようになすべきです。マタイ伝に次のように書かれています。
マタイによる福音書 5章29節と30節。
   もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだ
  の一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。もし、右の手
  があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、から
  だ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。

「ゲヘナ」すなわち、地獄のことです。

パウロもまた、同じことについて次のように書いたのです。
コロサイ人への手紙 3章5節。
   ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさ
  ぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。

 しかし、それと同時に、私たちは次のようなことをも体験するでしょう。すなわち肢体に存在する罪の法則を克服することによって、からだは卑しめられず、むしろ、清められ、高められるのです。聖書は、人間のからだは「聖霊の宮」である、信じる者のからだは「聖霊の宮」「主の住まい」であると、言っています。
コリント人への手紙・第一、6章19節。よく引用される箇所です。
   あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、
  あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。

人間のからだは「義の武器」であるべきです。だから、パウロは前に読みましたように、
ローマ人への手紙 6章13節。
   また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死
  者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささ
  げなさい。

人間のからだは、「生きた聖なる供え物」であるべきであると、書かれています。
ローマ人への手紙 12章1節。
   そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いし
  ます。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさ
  い。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

人間のからだは、「主のご栄光を現わす手段」であるべきです。
コリント人への手紙・第一、6章20節。
   あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の
  栄光を現わしなさい。

この人間のからだは、また、よみがえりの時には「栄光のからだ」に変えられるようにな
ります。いわゆる「復活の書」である、第一コリントの中で、パウロは次のように書いた
のです。
コリント人への手紙・第一 15章43節から45節。
   卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによ
  みがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。
  血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。聖書に「最初の人アダムは
  生きた者となった。」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。

「最後のアダム」とは、イエス様のことです。
同じく46節、47節。
   最初にあったのは血肉のものであり、御霊のものではありません。御霊のものはあとに
  来るのです。第一の人は地から出て、土で造られた者ですが、第二の人は天から出た者
  です。

「天から出た者」とは、イエス様のことです。

人間のからだそのものは、決して主なる神に反するものではありません。それゆえに、
あえてそれを否定する必要はありません。そうではなく、むしろ逆に、主が造られたものとして、人間の精神と同様に、からだも肯定されなければなりません。しかし、「私たちのからだは、しばしば罪のために、悪魔の道具として用いられる危険性があるので、絶えず、打ちたたかなければならない」と、パウロは書いたのです。

前にも述べたように、からだを打ちたたくということは、からだそのものが悪いという
ことを意味するのではなく、そのことによって、本来人間のからだが果たすべき機能と役割とを正しい状態におき、そのことによって、真の自由を得ることができるのです。罪は低くされ、神聖さは高められます。罪は、私たちの恥であり、神聖さ、清さは、私たちの名誉です。このことは、私たちの魂と精神だけではなく、肉体についてもあてはまることです。
従って、からだを打ちたたくことは、からだを駄目にしてしまうことではなく、むしろ、反対に、からだを助ける役割を果たすものです。人間のからだは、罪の道具として用いられないようにするために、絶えず打ちたたき続けなければなりませんけれど、主の創造としてのからだは、主の道具として用いられることもあることを忘れてはなりません。

からだは、非常に大きな使命を持っています。それは精神の道具です。このからだを通
して、私たちは外の世界と交わりを持っています。私たちを取り巻く周囲の人々は、私たちのからだが行動することによって、私たちが如何なる者であり、何を考えているかということを正しく理解することができます。例えば、話したり、書いたり、動いたり、行なったり、目の動きであるとか、顔の表情や、ジェスチャー、さらには一般に、からだの形、人の歩き方や働き方、食べ方や飲み方を通して、周りの人々は私たちを理解することができます。もし、からだが無かったなら、主への世界は何も分からない、謎なのではないでしょうか。従って、私たちのからだの肢体は、義なる主の道具として次のことを明らかにするために用いられるべきです。

すなわち、
・主イエス様は生きておられます。
・私たちは、主イエス様を通して、生きておられる救い主と出会うことができます。
・主イエス様だけが私たちを罪の支配から解放し、死の恐れから解き放ってくださる唯一の
 お方です。
・主イエス様は復活されたお方であり、新しい永遠のいのちを私たちに与えて下さったお方で
 あり、実際、主イエス様は私たちのいのちに他なりません。

コロサイ人への手紙 3章4節。
   私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、
  栄光のうちに現われます。

「私たちのいのちであるキリスト」、そして、「私たちもキリストとともに、栄光のうちに現われます」とあります。

また、ピリピ人への手紙 1章21節。よく、葬儀の時に引用される箇所です。パウロの
証しであります。
   私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。

パウロは、このからだのことについて、「主イエス様のいのちが、この身に現われるためである」とはっきり言ったのです。
コリント人への手紙・第二 4章10節。
   いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身
  において明らかに示されるためです。

「イエス様のいのちが、私たち自身のからだを通して完全に現われる」と、聖書は言っています。聖書の約束によると、人間のからだも将来に対して希望を持っています。現在のからだの清めも大切ですけれど、それは同時に、将来の変容をも意味しています。
ローマ人への手紙 8章11節。
   もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおら
  れるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住ん
  でおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。
 

従って、最後の勝利を得るためには、現在私たちのからだが清められなければなりません。パウロは、ピリピ書3章の中で、次のように言っています。「私たちは競技場で一生懸命に戦うことが必要である。それはただ単に、救われるという問題ではなく、神の勝利を得るために必要なのである」と。
ピリピ人への手紙 3章12節から14節。
   私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えよう
  として、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくだ
  さったのです。兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、こ
  の一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進
  み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一
  心に走っているのです。

そして最後に、「私たちのからだが、主イエス様の栄光のからだと同じ形に変えられる」と、
あります。
ピリピ人への手紙 3章20節、21節。
   けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておい
  でになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることので
  きる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくだ
  さるのです。


主はご自分の約束を守るお方であり、この主イエス様に頼ると大いに祝福されます。

                                      


                                    了
     



サイトマップ
更新履歴


メッセージ・証し集インデックスページ

◆メッセージ(ベック兄)

※一部、テープの転換による不明部分あり

神のみことばは神のみことばである(5) 2006. 4. 18
神のみことばは神のみことばである(4) 2006. 4. 11
神のみことばは神のみことばである(3) 2006. 4. 4
神のみことばは神のみことばである(2) 2006. 3. 21
家族の救い 2006. 3. 19
神のみことばは神のみことばである(1) 2006. 3. 14
主イエスは神の子キリストである(4) 2006. 3. 7
主イエスは神の子キリストである(3) 2006. 2. 28
主イエスは神の子キリストである(2) 2006. 2. 14
主イエスは神の子キリストである(1) 2006. 2. 7
勝利の生活の秘訣 2006. 1. 24
イエス・キリストのからだ 2006. 1. 17
主の永遠からの予定 2006. 1. 10
元旦メッセージ 2006. 1. 1


2005年度のメッセージ集
2004年度のメッセージ集
2003年度のメッセージ集