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メ ッ セ ー ジ ・ 証 し 集


キリスト者の使命 4
   
2004.2.3(火)
ベック兄メッセージ(メモ)

 
引用聖句
コリント人への手紙・第一 9章24〜27節。
   競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということ
  を知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。
  また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるた
  めにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。ですか
  ら、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳
  闘もしてはいません。私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほ
  かの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。


 「主イエス様のものとなること」こそが、最も大切なことです。「主のものとなること」とは、救い主を知ることによってのみ、得られるのです。救いを求めようとしなければ、決して救われません。「求めよ。そうすれば与えられる」と約束されているからです。
だから主は、いろいろな悩み・苦しみ・問題を与えてくださいます。主を受け入れた人は、救われていても、またいろいろなことで悩みます。必要だからです。

「いったいどうしてなのでしょうか。一番悩んでいるのは私です」と、確信している人が数えられないほど多くいます。けれども、それはもちろん嘘です。人間はみな悩む者です。けれども、悩むことは偶然ではないし、運命でもないし、天罰でもありません。
「一時的な問題が解決されれば救われる」と考える人は、考えられないほど多くいるのではないでしょうか。「主人だけが変われば…」、「子どもが聞く耳を持つようになれば…」、「自分の病気が癒されれば…」。「…こうなれば、救われる」と考えていますけれど、まことの主なる神は、人間のこういった小さな問題を解決するというよりも、むしろ、問題・悩み・苦しみ・病気を与えてくださるのです。それは、根本問題を解決するためです。
根本問題の解決とは、もちろん「救いの神を知ること」です。

 3000年前に、ダビデは、この「救いの神」を知るようになり、次のように言ったのです。「主は私の力であり、ほめ歌である。主は私の救いとなられた」と。「主」と「救い」とは、別々ではなく一つなのです。「主は、私に救いを与えられた」のではなく、ダビデは、「主は、私の救いそのものとなられた」と言ったのです。イザヤも同じことを言いました。
イザヤ書 12章2節。
   見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は、私の力、私のほめ
  歌。私のために救いとなられた。

 そして、前にも引用したマリヤの告白も、すばらしい告白であります。
ルカの福音書 1章46・47節。
   マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜び
  たたえます。」

「主は、私の救い主です」と言える人こそが、「幸せ」と言えるのではないでしょうか。
主を知ることによって、初めて、私たちはこの地上において、本当に満たされた生活を送ることが出来ます。満たされた人生を送るためには、永遠のいのち、主との平和、罪の赦しが必要です。従って、「イエス様が、私をも心配してくださり、導いてくださり、そして守っていてくださる」という確信を得ることを意味しているのです。そして、「死んでから、永遠にイエス様と一緒になる」という確信こそが、最高の宝物なのではないでしょうか。「いつまでもイエス様と一緒になる」という事実について考えると、いま現在持っている苦しみなんて小さなものになるのではないでしょうか。

 「すべてこの世のものは、過ぎゆくはかないものです。ただ永遠なるものだけが、いつまでも存続するのです。そのために、永遠なるものを目ざして、私たちも一生懸命にならなければなりません」。これこそが、新約聖書の手紙を書いた人たちの切なる願いであり、また祈りだったのであります。従って、私たちはこのような信仰の戦いをするときには、私たちの持っているエネルギーを全部出し切って、主のために生きなければならないのです。

では、いったい私たちの目印となるものは何であるべきなのでしょうか。前に話したように、イエス様のみことばである聖書を愛し、信じる者同士の主にある交わりを求め、また感謝をもって祈りと願いとをささげることです。また、悪いと分かっている物事や人々から離れることも、主イエス様の勝利の現われであると、聖書ははっきり言っているのです。

 主のものとなった兄弟姉妹のすべてが持っている使命とは、まさにイエス様ご自身を証しすることに他なりません。イエス様が、私たちの中で大きくなればなるほど、私たちも真剣にイエス様を証しせざるを得なくなります。つまり、私たちが外に向かって証しをするということは、すべて主との関係にかかっています。私たちが御霊によって満たされれば満たされるほど、「救われている事実を、感謝と喜びを、一人でも多くの人々に告げ知らせたい」という気持ちが強まってきます。私たち一人一人が、「イエス様が、私たちにとっていかなる意味を持っているか」を、明らかにしなければなりません。イエス様のものとなった兄弟姉妹にとって、証しをするということは、だれにでも出来ることです。そして、証しをするということは、どこでもできることです。
イエス様を紹介したらすぐ手をひいて、「今度は、イエス様、あなたの番です。よろしくお願いします」という態度をとれば、主は必ず恵んでくださいます。言葉や行ないをもって証しをするということは、その人との関係が良いとか悪いとかいうこととは、全く関係ありません。主イエス様が、私たちの心の目を開いてくださることができれば、私たちはその時こそ、感謝と喜びをもって、大胆にイエス様を証しすることができます。
1.競走
 けれども、証しをするということは、常に戦いと結びついています。「この戦いとは、一つの競走である」と、前に一緒に学んだことがあります。「私たちの目前にある、主の目標を目ざしている。すなわち私たちは、キリスト・イエスにおいて召してくださる神の賞を得ようと努めている」とパウロは言ったのです。
ピリピ人への手紙 3章14節。
   キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざ
  して一心に走っているのです。

目標だけを目ざせば、いろいろな問題は小さくなります。コロサイにいる人々を、パウロは励ましたのです。
コロサイ人への手紙 3章1・2節。
   こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、
  上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。
  あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。

そうすれば、元気になります。そうしなければ、すぐ精神的に疲れ果ててしまいます。

2.拳闘
パウロは競走について言っただけではなく、この間話しましたように、拳闘についても
いろいろなことを言ったのです。
ギリシャ時代の競技のおもな種目の2番目は、拳闘、つまりボクシングでした。これは、最も激しい競技の一つだったのです。これは、ボクサーが互いに打ち合い、特に顔を打つことを目的とするのです。決定的なパンチは目の下を打つことであり、それはこんにち、ノックアウトと呼ばれているようなものだったのです。パウロはその表現を使っているのです。今読んでもらった箇所の中に出てきます。パウロの個人的な告白です。
コリント人への手紙・第一 9章26・27節。
   ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような
  拳闘もしてはいません。私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほか
  の人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。

ここで、「自分のからだを打ちたたいて服従させる」とは、自分自身のからだにパンチを与え、特に目の下にパンチを与えることによって、自分自身のからだを完全にノックアウトさせることを意味しています。すなわち、これは次のようなことを意味しています。
信じる者は、自分のいのちを少しも惜しいとは思わないことです。すなわち、もしも自分中心の考え方、自分だけの願い、また楽な生活を送ることを求めることが、自分にとって勝利の戦いを勝ち取るために妨げとなるならば、それらのものをはっきりと否定しなければなりません。私たちは霊を汚すあらゆるものから目をそらすべきです。また、すべての悪口などに対しては、耳をふさぐべきです。
ヤコブの手紙 3章7・8節に、次のように書かれています。
   どのような種類の獣も鳥も、はうものも海の生き物も、人類によって制せられるし、
  すでに制せられています。しかし、舌を制御することは、だれにもできません。それ
  は少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。

10節。
   賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あ
  ってはなりません。

3.レスリング
 ギリシャ時代の第3の競技種目は、レスリング、すなわち日本の相撲のようなものでありました。この種目は、2人が互いに取っ組み合って相手を倒し、地面にからだを押しつけることによって勝利を決めたのです。パウロはエペソ人への手紙で、この戦いについて述べていますが、それは両者が非常に接近して手づかみで戦うほどの白兵戦、あるいは、肉迫の戦いを意味するのです。
エペソ人への手紙 6章12節です。
   私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者
  たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。

決して、目に見える世界に対しての、人間に対しての、もちろん主にある兄弟姉妹に対しての戦いではありません。悪霊に対するものです。パウロは、私たちの敵(悪霊)を無視することは許されないということを知っていたのです。
やみの力に対して真剣に取り組もうとしない者は、悪魔の奴隷となり、その結果、狂信的になるような犠牲を、自ら招くことになります。この狂信的な状態に入ると、自分自身が、めくらになり、思い上がり、その危険が分からなくなり、ものを見る目が濁ってしまい、倫理・道徳・その他、主イエス様に対する態度が、間違ったものになるのです。そのような状態が続くと、私たちの信仰は駄目になり、それを見た敵は、ある時突然攻撃を加え、肉の罪を通して私たちを打ち負かそうと試みるのです。それは、まさに肉の罪がもたらす結果です。

以前には主イエス様に祝福された兄弟姉妹が、このような状態に陥って、悪魔の攻撃を受けたために、信仰が駄目になりメチャメチャになった例があります。それゆえにパウロは、「その時、その敵を見失ってはならない」と警告したのであります。
・私たちは、その敵がすぐそばにいることに対して、絶えず目を覚ましていなければなりませ
 ん。
・そして、その敵との戦いに勝たなければなりません。その敵は、私たちを叩きつぶそうと、
 いろいろな誘惑を試みるに違いありません。
・その敵を、決して忘れてはなりません。私たちは、常に戦う者であるべきです。
・その戦いをする時に、私たちは決して落胆してはなりません。なぜならば、イエス様は、
 臨在しておられ、ともに戦ってくださるからです。イエス様は、その敵よりもはるかに強い
 お方です。ですから、私たちは主の武具で身をかため、イエス様の偉大な力によって強く
 なるべきです。そしてその戦いに勝利者となるべきです。この敵との戦いで、最後には必ず
 イエス様の力によって、敵が大地に叩きつぶされ、負けることに決まっています。

このやみの力との戦いで最も大切なことは、言うまでもなく、「祈り」に他なりません。この祈りは、ただ単に生けるまことの神の子となった私たちが、天の父なる神と話し合うことだけではありません。またイエス様の御名を呼び求めたり、ほめたたえたりすることだけでもありません。また単に、礼拝をしたり、与えられた祝福のために感謝したりすることだけでもありません。また求めることを主イエス様に申し上げることだけでもありません。
ピリピ人への手紙 4章6節に、次のように書かれています。
   何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによっ
  て、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。

まことの祈りは、上に述べたこととともに、さらに、「やみの力に対する戦い」をも、意味していることを忘れてはなりません。聖書はいろいろなところで、祈りの戦いについて述べています。このように祈りの中で、ともに戦い合う兄弟姉妹は、こんにちどこにいるのでしょうか。もしも、そのような祈りの戦いをしないならば、悪魔は私たちを眠りこませ、その策略の中に落とし込ませようとするに違いありません。

けれども、いつ如何なるところにおいても、祈りの戦いによって悪魔に打ち勝った本当のキリスト者がいたことは、歴史的な事実です。本当に祈る人は、悪魔よりも強いのです。祈りこそ、悪魔がどうすることもできない本当の力です。

ここでドイツの教会にある一つの絵のことについて、ちょっと話したいと思います。
それは、天秤ばかりの片方の皿の上で一人の子どもが祈っており、反対側のお皿には重りが乗っています。しかも、その大きな重りの上には3人の悪魔の使いがそのお皿を下に押し下げようとし、そのお皿の下には2人の悪霊が同じくそのお皿を下に引き下げようとしています。けれども、悪霊たちがいくら一生懸命になっても、上に上がってしまったお皿を下に動かすことはできないのです。

このように、祈りの力が、悪霊たちよりもはるかに強いものであることを、この絵を描いた人は現わそうとしています。一人の子どものような祈りの力は、全世界の悪霊よりも、はるかに強いのです。信仰をもって祈ることは、悪魔の攻撃や、この世の権威などよりもはるかに力があります。信仰はイエス様の力であり、あらゆる悪魔の力よりも勝っているものです。
ヤコブの手紙 5章16節に、次のように書かれています。
   ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いや
  されるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。

祈る者は、すなわち勝利者です。別の言葉で表現するならば、主イエス様ご自身こそ、まことの力です。イエス様は、ただ単に最後の審判者であるばかりでなく、競技場で競技をする者の力そのものであり、また泉です。


イエス様は、私たちに次のようなことを命令しておられます。
・「あなたがたは、競技者、競走者となりなさい」。そして、いつも上にある目標を見ながら
 走りなさい。枝葉のことは構わずに、ただ上にあるものだけを見つめて走らなければなり
 ません。
・また、「本当のボクサー、拳闘家となりなさい」。パウロが言っているように、自分のからだを
 打ち叩きながら走ろうではありませんか。
・そしてまた、「本当のレスラーとなりなさい」。この戦いは、決して血肉に対する戦いでは
 なく、目に見えない世界に対する戦いです。

このように、3つの命令があります。「競技者、拳闘家、レスラーとなりなさい」。
イエス様の命令は、決して、私たちにとって不可能なことを要求することではなく、その命令を守り従うための備えの力を、常に与えてくださるものです。

この戦いの秘訣は、イエス様の十字架にあります。十字架が、もしも単なる教えであるならば何にもなりません。けれども、イエス様の十字架は、実際に私たちの生活の中に入り込んでくるものであり、それを私たちは日々体験的に知ることができるのです。私たちのために十字架につけられた主イエス様だけが、私たちの本当の主であり支配者で、私たちはその事実を日常生活の中で体験することができるのです。私たちにとって、信仰生活と日常生活は一体とならなければなりません。もし、上からの力が日常生活の中で、私たちを動かす原動力となるならば、本当にすばらしいと思います。

パウロの手紙の中で、彼は、競争の規定についても、いろいろなことを書きました。
ギリシャ時代の競技に参加できる必要条件は、以下のようなものでした。
・ 奴隷ではなく、自由な民であること。
・ 外国人ではなく、その国の民。すなわちギリシャ人であること。
・ 犯罪者ではなく、ギリシャの神々に対して尊敬の念を持ち、忠誠を誓った民であること。

従って、自由、市民権、そして市民としての忠誠と尊敬が、その前提となっていたのです。もちろんそれだけではなく、身体の力と訓練が必要でした。その競技を指導するためには、一人、またはそれ以上の審査官がいて、彼らの前で競技の参加希望者はあらかじめ試験を受けなければならなかったのです。その競技が開催される前に、競技参加希望者は、一人一人、時には10ヶ月にも及ぶほどの、長い特別な訓練をすることがしばしばありました。さらに、一般にはその準備のために、非常に節制した生活のあり方が要求されたのです。ギリシャの競技の場合には、一定の期間、当時の体操場にあった講堂で、保健体育だけでなく、一般的な教養に関する教義を受けた者でなければ、参加の許可を得ることができなかったのです。ギリシャ時代の考え方は、当時、肉体の訓練と精神的な教養とを切り離すことのできないものでした。

 いったいだれが、信仰の走るべき行程を走り通すことができるのでしょうか。だれが、栄冠を勝ち取るために走り抜くことができるでしょうか。ただ罪の赦しを得、罪の力から解放されている者、また主の国の市民、すなわち神の子どもとされた者、そして「みこころにかなった生活をしよう」と心から願って、そのように望む者だけが、勝利の栄冠を得るために走り通すことができるのです。ですからパウロは、
コリント人への手紙・第一 9章24〜27節で、次のように言ったのです。
   競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということ
  を知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。
  また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるた
  めにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。ですから、私
  は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしては
  いません。私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ
  伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。

「私たち」、すなわち、主イエス様に出会った私たちです。

パウロは、私たちにとって、節制が必要であることを思い出させています。節制、自制、自己否定が、勝利に輝く私たちにとって必要な前提となります。すなわち、私たちは自分自身を否定し、一番大切なもののために、枝葉のものを断念し、喜んで犠牲をささげる用意を常に持っていなければなりません。自分の栄光を否定しなければ、イエス様に従っていくことはできないのです。喜んで犠牲を払う決心を持っていない者は、主の栄冠を勝ち取ることはできません。いつも自分だけを大切にする者は、主イエス様が再臨された時に大きな失望を経験するようになります。この世を思う心、快適な生活をしたいと思う気持ち、傲慢、自分が主役を演じたい気持ちなどにいつもとらわれている人は、走るべき行程を決して走り尽くすことができません。心から主を思い、日常生活が本当の信仰生活となった者だけが、イエス様によって強められます。

 私たちは、そのような信仰生活に入った時に、初めて、いくら走っても疲れることのない者となります。私たちはそのような時にだけ、初めて、スタートラインからゴールインするまで全速力で、信仰の走るべき行程を走り尽くすことができるのです。そのようにして走り抜いた結果、天にいます審判者、すなわち賞を与えるお方は、私たちに冠を与えてくださるのです。

けれども、パウロはそれと同時に、大きな危険をも忘れなかったのです。それは、あらゆるキリスト者に対して共通に言えることですが、他の人に福音を宣べ伝えておきながら、自分が失格者にならないように、自制と自己否定をし続けなければならないことです。  
 私たちは、パウロと同じような心構えを持っているでしょうか。それは、次のようなことをはっきりとさせることによって知ることができます。すなわち、「イエス様のために、自分のいのちを失う者だけが、いのちを得るようになる」のです。
ヨハネの福音書 12章24節。よく知られている箇所です。
  「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、
  それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」

また、イエス様は同じ意味の言葉を言われました。
マタイの福音書 16章25節。
  「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだ
  すのです。」

イエス様は、決して群集からほめられるために、ことを行なったことがなかったのです。ルカの福音書を見ると、イエス様は従うための必要条件について次のように言われました。
ルカの福音書 9章57〜62節。
   さて、彼らが道を進んで行くと、ある人がイエスに言った。「私はあなたのおいでに
  なる所なら、どこにでもついて行きます。」すると、イエスは彼に言われた。「狐には
  穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」イエスは別の人
  に、こう言われた。「わたしについて来なさい。」しかしその人は言った。「まず行って、私の
  父を葬ることを許してください。」すると彼に言われた。「死人たちに彼らの中の死人たちを
  葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」別の人はこう言った。「主
  よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください。」するとイ
  エスは彼に言われた。「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさ
  わしくありません。」

「人の子」、イエス様ご自身のことです。

イエス様は、間違いなく次のことを言われました。すなわち「弟子となることは、激しい戦いを意味します。そして、あることをする場合、前もってその費用を計算し、それを支払う用意ができた者だけが、実際問題として本当に主に従っていくことができる」ということです。
同じくルカの福音書 14章26〜33節。
  「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいの
  ちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。自分の十字架を負っ
  てわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。塔を築こうと
  するとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者
  が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。基礎を築いただけで完成できな
  かったら、見ていた人はみな彼をあざ笑って、『この人は、建て始めはしたものの、完
  成できなかった。』と言うでしょう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えよう
  とするときは、二万人を引き連れて向かって来る敵を、一万人で迎え撃つことができ
  るかどうかを、まずすわって、考えずにいられましょうか。もし見込みがなければ、
  敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和を求めるでしょう。そういうわけ
  で、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になるこ
  とはできません。」

自分のいのちまでも憎まない者は駄目です。戦いがなければ勝利はありません。十字架がなければ栄冠はないのであります。イエス様は、妥協せずに、断固として次のように言われました。「あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません」。

この世には、喜んでイエス様に従っていく兄弟姉妹ばかりいるのではありません。そのような兄弟姉妹は、いつまでたっても霊的信仰的に成長することはないのです。そして、他の人たちに対しても祝福を与えることになりません。勝利に満ちて、実り豊かにイエス様に従うことの奥義は、そのような兄弟姉妹に対して遠ざけられてしまっています。
 そのような兄弟姉妹は、絶望して諦めてしまうか、あるいは心から祈り、主にだけ頼るかに分けることができます。いずれにしても、罪を告白しないかぎり、必ず障害物にぶつかってしまいます。すなわち、その障害物とは、その人だけが知っている罪、嘘、偽り、あるいは性格的な弱さによって犯した罪、悪い習慣、今の悪い関係を、完全に断ち切ることなく、妥協してあいまいにしてしまうことなどが、信仰の妨げになっています。
ですから、約束された賞を得るために、罪の束縛から自由にしていただくように、告白すべきことがあれば、すべてを隠さず告白しましょう。別れなければならない人とは、はっきりと別れましょう。主イエス様のために、はっきりした態度をとりましょう。
その時はじめて、主の祝福が私たちの上にくだるようになります。

 聖書は、単に、主の勝利についてだけでなく、人間の責任感についても語っています。すなわち、主から与えられる価なしの恵みについてだけでなく、私たちの献身の必要性についても語っています。従って、私たちは心の中で、いわば次のように言うべきです。
「私は、もはや私自身のエゴを知らない。私は、私のエゴとは全然関係を持たない。私は、私自身の願いのために思い煩うことなく、エゴを大切にしない。というのは、私と私のエゴとは離婚したのですから」と。
ガラテヤ人への手紙 2章19・20節の中で、パウロは、違う言葉で同じことを言っているのです。
   しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと
  ともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私の
  うちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のた
  めにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

「私は、どうしようもない者ですから、もう終わりです。今からはイエス様にご支配していただきたい」と。

 この間、初めてドイツのフィリンゲンへ行って、アイドリンゲンの、昔の神学校の校長先生だったヘーデ姉妹とお会いしたのです。もう90歳になっておられるかもしれません。フィリンゲンに行って、そこからお見舞いに行きました。お見舞いはいつも本当にすばらしい体験です。
 彼女の人生は、もちろんみことばによって変えられたのです。彼女はある時一つの夢を見たのです。夢は大切にしない方がいいと思います。夢は夢です。けれども、聖書が何と言っているかと考えれば、祝福になるかもしれません。姉妹は夢の中で、遠くに十字架を見たのです。少し近づくと、「だれか十字架に掛かっているではないですか。どなたかなぁ」。もっと近づくと、「自分に似ているのではないか」。十字架のもとに着いたら、やはり自分でした。その時、悪魔は攻撃するため、誘惑するために近づいて来ました。けれど、「私は、十字架につけられたから、もう死んでしまったのだ」と、十字架を見た時、悪魔は逃げてしまったのです。自分で何をしてみても、もう全部意味のないことです。彼女はこの夢を見た時、「私はもう駄目です。いくらクリスチャンらしい生活をしようと思っても無理です。何にもできません。けれども、それで終りではありません。生きているのは、キリストです」と思われたそうです。

このイエス様に頼れば、すなわち、「私の考えていることは駄目です。自分の思っていることも大切ではありません。イエス様、よろしくお願いします」。
この態度をとると、祝福が流れます。
                                     

 了



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◆メッセージ(ベック兄)

※一部、テープの転換による不明部分あり

神のみことばは神のみことばである(5) 2006. 4. 18
神のみことばは神のみことばである(4) 2006. 4. 11
神のみことばは神のみことばである(3) 2006. 4. 4
神のみことばは神のみことばである(2) 2006. 3. 21
家族の救い 2006. 3. 19
神のみことばは神のみことばである(1) 2006. 3. 14
主イエスは神の子キリストである(4) 2006. 3. 7
主イエスは神の子キリストである(3) 2006. 2. 28
主イエスは神の子キリストである(2) 2006. 2. 14
主イエスは神の子キリストである(1) 2006. 2. 7
勝利の生活の秘訣 2006. 1. 24
イエス・キリストのからだ 2006. 1. 17
主の永遠からの予定 2006. 1. 10
元旦メッセージ 2006. 1. 1


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