キリスト者の使命 5
2004.2.10(火)
ベック兄メッセージ(メモ)
引用聖句
へブル人への手紙 12章1節、2節
こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのです
から、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている
競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者である
イエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、
はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
ピリピ人への手紙 3章13節から16節
兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に
励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心
に走っているのです。ですから、成人である者はみな、このような考え方をしましょう。
もし、あなたがたがどこかでこれと違った考え方をしているなら、神はそのこともあなた
がたに明らかにしてくださいます。それはそれとして、私たちはすでに達しているところを
基準として、進むべきです。
コリント人への手紙・第一 9章26節、27節
ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような
拳闘もしてはいません。私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほか
の人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。
今どこを見ても、すべてが大変な早さでおかしくなっています。宣教師のための特別な雑誌がありますから、新しい聖書が出ることは前から分かっていたのですけれども、現実的になったのは、残っている聖書を、吉祥寺キリスト集会で買わないかという話があったことからです。なぜなら、ちょっと不思議なのですけれど、吉祥寺キリスト集会のようにたくさんの聖書を買う教会は他にないのです。
私が初めて日本へ来た時、唯一の聖書は文語体で書かれていました。他にはなかったのです。そして今、年配の方々はみな、「あれは一番良い聖書だった」と言われます。その後、口語体の聖書が出ました。なぜなら、若い人たちには、文語体が理解出来ないからです。それはもちろん分かります。けれど、口語体の聖書は、三百箇所以上も、間違って訳されていたのです。イエス様が神そのものであると、適当に訳されていたのです。あいまいな聖書だったのです。ですから、多くの主を恐れている人たちは、「ちょっと良くない」と思いました。中心になったのは、その時、ラジオ牧師であった羽鳥明兄です。非常に素晴らしい兄弟です。彼が中心になって、38人の主を恐れる学者たちの作った聖書が、私たちが今使っている、「新改訳」の聖書です。
そして何年も前から、今の聖書にある「らい病」という言葉は、「けしからん。差別する言葉ではないか」と言われてきました。しかし、「らい病」とは、聖書の中で、「罪」を現わす言葉です。集会の一人の姉妹は、「『らい病』という言葉を変えることは、良くない」と、聖書協会といのちのことば社を相手に、この1、2年間戦って来ました。けれども、「まあいいではないか」となだめられ、突然、「ツァラアトに冒された人」と訳されることになってしまったのです。「ツァラアトに冒された人」とは、お坊さんのお経のようで、何を言っているのか分かりません。結局、みなを喜ばせるための聖書です。訳した人たちが誰か分からないけれど、間違いなくヒューマニストたちです。誰もつまずかないようにと、配慮しています。けれども、そういう聖書は、神のことばなのでしょうか。
「エホバの証人」の聖書は、神のみことばではないのです。自分たちの教えを証明するためのものにすぎません。「私たちの教えは聖書的です」と言っています。昔、「エホバの証人」は、文語体の聖書を使ったのです。そして、やはり途中で困ってしまったのです。自分たちの教えが間違っていることを、聖書を通して証明されてしまったからです。ですから、彼らはそのような箇所は、すべて適当に取り替えているのです。
みことばとは、「鏡のようなもので、炎のようなもので、金づちのようなもので、食べ物であり、真理であり、光であり…」と聖書は言っています。また、「剣のようなものです」。ヘブル書の著者は、次のように書いたのです。
ヘブル人への手紙 4章12節。
神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の
分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。
この、人間のたましい、即ち、人間の理解力、感情、意思を霊から切り離すことこそが、考えられないほど大切です。そして、みことばを通して、「神のことばは…出来る」と書かれています。
人間を喜ばせようとする聖書は、果たして神のことばなのでしょうか。ですから、私たちは、何があっても今の聖書をたくさん買いましょう。集会で、いのちのことば社の聖書を3000冊、買うことになります。聖書協会に残っている3000冊も、まだ決まっていないのですけれど、おそらくまた提供されるようになるのではないでしょうか。
どうして、それぞれの自宅でストックしてもらうかといいますと、救われていない家族や同級生がいるでしょう。祈っている人たちが導かれた時、聖書をあげられなかったら、ちょっと大変なのではないでしょうか。ですからみなが犠牲を払って、小さな家では10冊、大きな家でしたら50冊買ってストックしてもらったら、再臨があっても、後でその聖書を見つける人たちが読めばいいでしょう。
今まで、「キリスト者の生活の目的と使命」について考えてまいりました。「信仰の戦い」について、「勝利を得るための必要性」について、一緒に考えてまいりました。
確かに、救われること、神の子となることは、人間にとって一番大切です。なぜなら、神の子となった者は、安心して将来に向かうことが出来るからです。行く先は決まっているからです。けれども、それだけでは十分ではありません。「信じる者の生涯は、おもむくままの散歩ではなく、まさに勝利を得るための戦いそのものである」と、聖書ははっきり言っているのです。私たちは、真剣に、そして、喜びに満ちて主に従っていくべきです。主の証し人として働かなければなりません。イエス様は、心からの献身を望んでおられるのです。
今日は、「競技の規定」について、少し考えたいと思います。
オリンピックの競技が始まる前に、競技者たちは、宣誓によって責任を明らかにしなければならなかったのです。即ち、彼らは「競技の規定」を守る義務を持っていたのです。例えば、定められたコースに従わずに、勝手に最短距離を走ったりすることは許されなかったのです。全競技を規定に従って行なうことは、非常に苦しいことだったのですけれど、定められた規定を忠実に守った者だけが、勝利者として、冠を受ける見通しを持つことが出来たのです。
心から主イエス様に従おうとする時、或いは忠実な証し人として主を証しする時に、必ず出てくる諸困難を決して避けないようにしましょう。イエス様は、決して罪の前に降伏なさいません。従って、私たちもまた、罪の前に降伏してはなりません。節制を守りましょう。そして、快楽や享楽、或いは自分の利益や楽な生活など、走るべき行程の妨げとなるようなものは捨てましょう。自分の全生涯を主イエス様に委ねましょう。献身は、豊かなる実をもたらします。祝福は、ただ自分を無にすることによってのみ与えられるものです。それは、主のためになされるあらゆる霊的な勝利と働きの原則です。
イエス様のためにいのちを失うことは、目標に向かって走るあらゆる競技者にとって、規定に従って競技をすることを意味します。イエス様ご自身の場合も、そのようになさいました。今、読んでいただきました初めの引用箇所を見ると、イエス様は競走者であられました。即ち、「ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、十字架の死を忍んだ」とあります。
ヘブル人への手紙 12章1節、2節。
私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走
を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエス
から目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかし
めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
イエス様は、競走者であられました。
次に、読んでいただきました初めの引用箇所を見ても分かります。パウロもまた、競走者でした。そして、彼は信仰生活の中で、目的を目ざして天の栄光を得ようと、からだを伸ばしたのです。
ピリピ人への手紙 3章13節。
私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。
すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、…
コリント人への手紙・第一 9章26節、27節。
私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もして
はいません。私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に
宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。
使徒の働き 20章24節で、
私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかし
する任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。
パウロはこのような決断をしたから、大いに祝福されたのです。
イエス様は競走者であられ、パウロも競走者でした。「主のみことばも競走者である」とあります。だから、パウロは、「主のことばが早く広まるように」と祈ったのです。
テサロニケ人への手紙・第二 3章1節ですけれども、次のように書かれています。
終わりに、兄弟たちよ。私たちのために祈ってください。主のみことばが、あなたがたの
ところでと同じように早く広まり、またあがめられますように。
原語では、「非常に早く走るように」という意味です。「聖書が最も大切にされるように」と要求しています。聖書は、私たちとともにあり、私たちを支配し、警告し、力を与えてくれるものです。そして、現在から将来にわたって、主の愛のご計画を私たちに見させてくださるただ一つの書物です。聖書は、ただ単に読まれるだけではなく、個人的に体験されなければなりません。聖書を体験的に知った兄弟姉妹は、この喜びの訪れを、一人でも多くの人たちに宣べ伝えずにはおられないのです。
旧約聖書の中で、ダビデについて次のように書かれています。
サムエル記・第一 21章8節。
ダビデはアヒメレクに言った。「ここに、あなたの手もとに、槍か、剣はありませんか。私
は自分の剣も武器も持って来なかったのです。王の命令があまり急だったので。」
エペソ人への手紙 5章16節の中で、
機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。
このみことばは、私たちが、今の時を主のために生かして用いることを意味しています。即ち、全生涯を一分一秒ごとに主に明け渡し、すべてを主に委ねることに他なりません。私たちがすべてを主に委ねると、主のみことばも早く広められる結果になります。私たちが、恥じることなく、イエス様を多くの人たちの前に忠実に証しするなら、みことばは、ずっと早く広められるようになります。このように個人的に証しすることは、非常に大切なことです。
使徒の働き 20章31節。パウロの素晴らしい証しです。
ですから、目をさましていなさい。私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがたひとり
ひとりを訓戒し続けて来たことを、思い出してください。
一人一人に対して証しをする用意のない者は、多くの人に語る権利を持っていません。
伝道の歴史を振り返ってみると、おもな伝道方法として、大衆伝道よりは、むしろ初代教会などに見られる個人伝道のほうが、みことばを早く走らせた結果になっているのです。私たちは、キリスト者や他の人たちに向かって、イエス様が私たち自身にいかに大いなることをしてくださったかということと、恵みを与え、救ってくださったことを、証しする義務を持っています。
聖書は、「賞与」について、いったい何と言っているのでしょうか。
競技の勝利者は、ギリシヤ人にとって最高の名誉を得た者であると、一般に考えられていました。勝利者が自分の故郷に帰った時には、最高の尊敬をもって歓迎されたのです。紀元前776年から紀元217年まで、勝利者とその故郷の名前が、全部もれなく書き記されて、こんにちに至っています。
新約聖書の中には、5種類の栄冠について記されています。
1.「義の栄冠」と言われているものです。
テモテ人への手紙・第二 4章8節。パウロの証しです。
今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者
である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者
には、だれにでも授けてくださるのです。
2.「朽ちない冠」です。
コリント人への手紙・第一 9章24節から26節までお読みします。
競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知って
いるでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。また闘技をする
者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのです
が、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。ですから、私は決勝点がどこか
わからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。
「朽ちない冠」こそが、初代教会の目的でありました。
3.「誇りの冠」です。
テサロニケ人への手紙・第一 2章19節に書かれています。
私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるの
はだれでしょう。あなたがたではありませんか。
このテサロニケの信じる者は、ただ主を信じただけではなく、心から主のために生きた、主に仕える兄弟姉妹でした。
4.「いのちの冠」と呼ばれているものです。
ヤコブの手紙 1章12節です。
試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束さ
れた、いのちの冠を受けるからです。
主を愛する者に与えられるものです。
ヨハネの黙示録 2章10節にも、同じ「いのちの冠」について、次のように書かれています。
あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをため
すために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十
日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにい
のちの冠を与えよう。
「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば」です。そうしなければ、もちろん駄目です。
5.「栄光の冠」と呼ばれているものです。
ペテロの手紙・第一 5章3節と4節を見ると、次のように書かれています。
あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模
範となりなさい。そうすれば、大牧者が現われるときに、あなたがたは、しぼむことのない
栄光の冠を受けるのです。
「兄弟姉妹のため、彼らの成長のために犠牲を払う人たちは、栄光の冠を受ける」とあります。従って、「永遠のいのち」とか、「救い」とかだけが問題なのではなく、「主イエス様の栄光を自分自身のものにすること」こそ、最も大切なことであることを忘れてはなりません。イエス様は、祈りの中で次のように言われました。
ヨハネの福音書 17章22節。素晴らしい祈りです。
「またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたち
が一つであるように、彼らも一つであるためです。」
「わたしたちが、即ち、イエス様と父が一つであるように、彼らも、兄弟姉妹も一つになってもらいたい」。
ヨハネの福音書 17章24節。
「父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょ
におらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下
さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。」
イエス様は、将来多くの兄弟の中の長子として、完全に明らかにされるのです。
ローマ人への手紙 8章28、29節の中で、この主のご目的について、次のように書き記されています。
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべて
のことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。なぜなら、神は、あらか
じめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それ
は、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。
私たちは、天の召しにあずかっている者、そして、イエス様にあずかる者となるのです。
ヘブル人への手紙 3章1節。
そういうわけですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちの告白する
信仰の使徒であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。
ヘブル人への手紙 3章14節。
もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者
となるのです。
主なる神で、審判者であられるイエス様は、勝利を得た競走者たちとともに、ご自身の栄光を現わすと約束されています。イエス様は、ご自身の王としての栄光を、ただ一人ご自身のために持とうとしておられるのではありません。信仰の勝利者たちもまた、ともにイエス様のご栄光にあずかるようにと、とりなしてくださいます。「勝利者たちは、イエス様とともに世々限りなく支配する」と、書かれています。
ヨハネの黙示録 22章5節。
もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光
もいらない。彼らは永遠に王である。
これが競技者の目標です。そのために私たちは、「主にふさわしく歩む」ことが必要です。
ですから、パウロは、テサロニケにいる兄弟姉妹に書いたのです。
テサロニケ人への手紙・第一 2章12節です。
ご自身の御国と栄光とに召してくださる神にふさわしく歩むように勧めをし、慰めを与え、
おごそかに命じました。
けれど、すべてのキリスト者が勝利の栄冠を得るのではなく、ただ忠実に、すべてを主に委ねた兄弟姉妹だけが、勝利者となる資格を与えられるのです。確かに、誰でも、楽な生活をしようと思えばすることが出来るでしょう。そして、犠牲なしに与えることが出来、苦労することなく働くことが出来、自己否定なしに愛することが出来るでしょう。私たちは、競走者でなくてもよいのです。目標に向かってゆっくりと前進してもかまいません。私たちは、激しい戦いの苦労と患難なくしても生きることが出来ます。けれども、私たちは、冠を与えられない時になって、驚いてはなりません。真の代償なしには、賞与は与えられません。本当の苦労がなければ、報いはありません。激しい戦いがなければ、賞与の栄冠は与えられません。ただ忠実なる者だけが、冠を得るようになります。
競技者が失格とされる可能性もあるということです。私たちはいかなる場合にも、次のことを忘れてはなりません。即ち、その競技に参加することが、必ずしも賞与を保証するとは限りません。冠は、競走の初めにではなく、最後に与えられるからです。疑いもなく、救いと永遠のいのちとは、十字架の犠牲に基づいた信仰、主の恵みの贈り物です。けれども、勝利の冠は、忠実な信仰によってのみ与えられるのです。従って、聖書は非常に真剣な警告を与えています。
ヨハネの黙示録 3章11節。
「…わたしは、すぐに来る。あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っている
ものをしっかりと持っていなさい。…」
またパウロは、愛弟子であるテモテに書いたのです。
テモテへの手紙・第二 2章5節。
また、競技をするときも、規定に従って競技をしなければ栄冠を得ることはできません。
パウロはまた、コロサイにいる兄弟姉妹に書いたのです。
コロサイ人への手紙 3章24節、25節。
あなたがたは、主から報いとして、御国を相続させていただくことを知っています。あなた
がたは主キリストに仕えているのです。不正を行なう者は、自分が行なった不正の報いを
受けます。それには不公平な扱いはありません。
この聖句が何を意味しているのか、解釈の問題になると、私たちは必ずしも厳密な意味で一致しているとは言えないかもしれません。けれど、その聖句が聖書に記されているにもかかわらず、それを無視したり、或いはその鋭い警告をあいまいにしてしまうことは、許されません。
パウロは、確かにキリスト者は救われているが、そのすべてのわざが焼き尽くされる可能性について書いたのです。コリント第一の手紙のよく知られている箇所なのですけれども、このコリントにいる兄弟姉妹は、もちろん救われていました。永遠のいのちを持っていました。「行き先はもう決まっています。天国です」と。けれど、「報いられるかどうかが問題です」とパウロは書いたのです。
コリント人への手紙・第一 3章13節から15節。
各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その
日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれ
かの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼けれ
ば、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。
永遠のいのちは、永遠のいのちです。救われている人たちは、もちろん救われています。永遠のいのちは、失われ得ないのです。けれども、「損をする可能性がある。損害を受ける可能性がある」と、パウロはここで書いたのです。
また、パウロは、主イエス様に選ばれた器ではあっても、不忠実になったり、退けられた者となったりして、賞与を得られなくなる可能性についても書いたのです。前に読みました箇所です。もう一度読みます。
コリント人への手紙・第一 9章26節、27節。
私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もして
はいません。私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣
べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。
「私も失格者になる可能性がある」と、パウロは正直に言ったのです。これらすべてのことは、非常に真剣な問題であり、救われた喜びと主の再臨を心から持ち望む場合にも、新約聖書のこの真剣な警告を忘れることは、決して許されません。
このような警告が、具体的には果たして何を意味しているのかということは、私たちにとって必ずしも明らかではありません。私たちは、次のようなものが並んでいるということが分かります。「約束」と「警告」、「前もって喜ぶこと」と「神聖な恐れ」、「幸せ」と「真剣さ」です。
最後に、次のような問いについて、少し考えたいと思います。
1.走る途中で駄目になってしまった競走者は、栄冠を与えられるのでしょうか。
それに対して、聖書ははっきり、「否」と言っています。前に読みました、
コリント人への手紙・第一 9章24節から26節を読むと分かります。
競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知って
いるでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。また闘技をする
者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのです
が、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。ですから、私は決勝点がどこか
わからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。
と書いてあるからです。
2.他の人を主イエス様のもとに導けなかった者に対して、冠が与えられるのでしょうか。
この問いに対しても、聖書は、「否」と言っています。なぜなら、多くの人を義に導いた者だけが、冠を与えられるからです。旧約聖書のダニエル書の中で、次のような箇所があります。
ダニエル書 12章の3節。
思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星の
ようになる。
とあります。パウロは、テサロニケ人を多く主のもとに導いたゆえ、次のような証しをすることが出来たのです。
テサロニケ人への手紙・第一 2章19節。
私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるの
はだれでしょう。あなたがたではありませんか。
3.主の群れを守らなかった者、即ち、兄弟姉妹のために労を取らなかった者は、報いを得るのでしょうか。
これに対しても、聖書は、「否」と言っています。
ペテロの手紙・第一 5章1節から5節。次のように書かれています。
そこで、私は、あなたがたのうちの長老たちに、同じく長老のひとり、キリストの苦難の
証人、また、やがて現われる栄光にあずかる者として、お勧めします。あなたがたのうちに
いる、神の羊の群れを、牧しなさい。強制されてするのではなく、神に従って、自分から
進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。あな
たがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となり
なさい。そうすれば、大牧者が現われるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠
を受けるのです。同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身
に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。
4.忠実なるしもべ、イエス様の再臨を心から持ち望む者のために、「義の冠」が約束されています。けれども、その反対に、不忠実で、主の再臨を真に待ち望むことをしない者に対しては、その冠が与えられるのでしょうか。
聖書は、「否」と言っています。前に読みました、テモテ人への手紙・第二 4章7節、8節は、本当に素晴らしいパウロの証しです。殉教の死を遂げる前にした証しです。
私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄
冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを
私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授
けてくださるのです。
5.試練を耐え忍ばなかった者に対して、冠が与えられるのでしょうか。
これに対しても聖書は、「否」と答えます。前に読みました、ヤコブの手紙 1章12節。
試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束さ
れた、いのちの冠を受けるからです。
私たちの生涯は、永遠の目標に仕えるべきです。私たちの時は、この永遠から初めて、その意味と内容を持つことが出来ます。その道は、永遠の目標のために続いています。
永遠にわたって価値あるものだけが、私たちの生涯においても、本当に価値あるものです。その他の多くのものにも、現在、非常に大切であると思われているものが少なくありません。けれど、本当の意味は、この永遠なるものの中にしか存在しません。主の国なしには、すべて世的なものであり、価値のないものです。
この永遠なるものとして、パウロは次のように証ししたのです。「キリストは、私のいのちです」。結局、「私にとって、すべてのすべてです」と。
イエス様の復活の勝利は、現在も私たちのすべてに貫いています。イエス様は、私たちのすべての主であり、いのちの要素、私たちの力です。
私たちのすべての会話は、主の前で話すことであり、この世のあらゆる仕事は、すべて主イエス様に奉仕することです。私たちの日常生活は、すべてイエス様による信仰生活です。
こんにち、すべてをイエス様に委ね明け渡す者は、この地上の生活においても、決して損をしてはいません。イエス様は、私たちを引き上げ、私たちの地上での生活をきよめてくださいます。従って、私たちはただ単に救われた喜びに満足するのではなく、一人一人に課せられた義務について、真剣に考え直さなければならないのではないでしょうか。
勝利を得る者だけが、冠を受けます。
了
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