最後まで従い通す秘訣
2004.2.17(火)
ベック兄メッセージ(メモ)
引用聖句
ヨシュア記 14章6節から14節
ときに、ユダ族がギルガルでヨシュアのところに近づいて来た。そして、ケナズ人エフネ
の子カレブが、ヨシュアに言った。「主がカデシュ・バルネアで、私とあなたについて、神の
人モーセに話されたことを、あなたはご存じのはずです。主のしもべモーセがこの地を偵
察するために、私をカデシュ・バルネアから遣わしたとき、私は四十歳でした。そのとき、
私は自分の心の中にあるとおりを彼に報告しました。私といっしょに上って行った私の身
内の者たちは、民の心をくじいたのですが、私は私の神、主に従い通しました。そこでそ
の日、モーセは誓って、『あなたの足が踏み行く地は、必ず永久に、あなたとあなたの子
孫の相続地となる。あなたが、私の神、主に従い通したからである。』と言いました。今、
ご覧のとおり、主がこのことばをモーセに告げられた時からこのかた、イスラエルが荒野を
歩いた四十五年間、主は約束されたとおりに、私を生きながらえさせてくださいました。今
や私は、きょうでもう八十五歳になります。しかも、モーセが私を遣わした日のように、今も
壮健です。私の今の力は、あの時の力と同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐えるの
です。どうか今、主があの日に約束されたこの山地を私に与えてください。あの日、あなた
が聞いたように、そこにはアナク人がおり、城壁のある大きな町々があったのです。主が
私とともにいてくだされば、主が約束されたように、私は彼らを追い払うことができましょ
う。」それでヨシュアは、エフネの子カレブを祝福し、彼にヘブロンを相続地として与えた。
それで、ヘブロンは、ケナズ人エフネの子カレブの相続地となった。今日もそうである。そ
れは、彼がイスラエルの神、主に従い通したからである。
今、S兄弟が祈りの中で、「走り続けなくてはいけない大切さ」について、言われましたけれど、今日の題名である『最後まで従い通す秘訣』について、考えたいと思います。
カレブは、10節によると、ちょうど彼の85歳の誕生日に、ヨシュアに頼んだのです。「どうか、与えて下さい。モーセによって約束されたヘブロンという地を与えてください」と。ヘブロンという町は、世界一古い町であるかもしれません。ヘブロンという意味は、「つながり」「結びつき」「交わり」のような意味です。カレブにとってどうしても必要なのは、大切なのは、もちろん主との交わりを持つことです。主とつながっていることです。主と結びついていなければ、まことの喜びもないし、平安もあり得ないのです。
本当の交わりの秘訣とはいったい何なのでしょうか。
ヨハネの手紙・第一 1章7節。
もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに
交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。
光の中を歩むことこそが、交わりの秘訣です。主は、「最後まで走りましょう」と、呼んでおられます。黙示録の中に、いろいろなすばらしい約束があります。
ヨハネの黙示録 21章7節
勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子と
なる。
3章21節
勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を
得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。
考えられない、想像できないほどすばらしい約束です。
民数記 14章24節。カレブについて書き記されています。
「わたしのしもべカレブは、ほかの者と違った心を持っていて、わたしに従い通したので、
わたしは彼が行って来た地に彼を導き入れる。彼の子孫はその地を所有するようにな
る。」
結局、子孫も救われるようになるだけではなく、主との交わりのすばらしさをも知るようになります。
前に話しましたように、主の恵みにあずかること、すなわち救われることこそが、考えられないほどすばらしい宝物ですけれども、聖書によると、救われることだけでは決して決して充分ではないのです。イエス様をよりよく知ること、イエス様と一つに結びつくこと、イエス様に用いられることが、どうしても必要です。今の激動と混乱と堕落の時代にあって、悩み苦しみを超越した兄弟姉妹が、本当に必要な者として捜し求められています。勝利を得る者だけが、相続人となることができるのです。
そういう人たちの日常生活は、荒野を行くようなものであり、人間の助けではどうにもならず、どうしても主イエス様の助けを必要とするものです。一般的なキリスト者の日常生活は敗北の生活ではないでしょうか。ですから、勝利を得る者が捜し求められています。
この勝利を得る者の一つの実例は、今からだいたい3500年前のカレブです。イエス様を知るようになった者が、「もうこれで安心だ」と思い込んでしまわないためにも、どうしてもカレブの信仰を心に留めていただきたいのです。
カレブのことについて、3つのことを、これから一緒に見てみたいと思います。
1. カレブは、絶えず主に拠り頼んだということ。
2. いかなる状況の中で、カレブは主に拠り頼んだのかということ。
3. どうして、彼は主に拠り頼むことができたのかということ。
1.カレブという男は、絶えず主に拠り頼んだのです。
カレブの名前は、確かに新約聖書の中に一回も出てきません。けれど、彼の生涯は不信仰と堕落の世界の真っ只中にあって、不動の信仰の模範的な実例なのではないでしょうか。確かに、その当時の人たちは主を知っており、また、主のみこころを知っていたのですけれど、実際は主のみこころよりも、また主の御名のご栄光よりも、自分自身の自我を大切にしていたのです。カレブの場合は全く別でした。カレブは自分について次のように証ししたのです。
ヨシュア記 14章8節。 前に読んでくださった箇所です。
「私といっしょに上って行った私の身内の者たちは、民の心をくじいたのですが、私
は私の神、主に従い通しました。」
普通だったら、なかなか言えないことばではないのでしょうか。彼はそう言っただけではなく、本当にそういう喜びを持っていたのです。「私は私の神、主に従いました」。そして彼だけではなく、モーセも、カレブについて同じことを言うことができたのです。
9節。
「そこでその日、モーセは誓って、『あなたの足が踏み行く地は、必ず永久に、あなたと
あなたの子孫の相続地となる。あなたが、私の神、主に従い通したからである。』と言いま
した。」
カレブの証しは嘘ではなかったのです。モーセも、「その通り」と言ったのです。もちろん、徹底的に大切なのは、カレブの思っていることや、モーセの考えていることではなくて、主ご自身の考えなのではないでしょうか。主ご自身の判断は14節に書き記されています。
14節。
それで、ヘブロンは、ケナズ人エフネの子カレブの相続地となった。今日もそうである。
それは、彼がイスラエルの神、主に従い通したからである。
ですから、カレブの生涯は、私たちが不信仰と堕落の真っ只中にあって、いかに勝利を得る者となることができるかを、私たちに示すことができます。
当時のイスラエル人は、主によって選ばれた民であり、ほふられた小羊の流された血潮によって贖われ、エジプトの王パロから解放されたのです。彼らは、主のみ救いを喜び、主に従おうと心から願っていた人々でした。けれど大部分の人々は、途中で挫折して駄目になり、「主の誉れ」よりもむしろ、「主の恥」となってしまったのです。主イエス様の恵みによって救われた兄弟姉妹は、誰でも、確かに新しい人生の再出発を経験したわけですけれど、大切なことはこれからの歩みです。ですから、カレブと同じように、絶えず主に拠り頼み、主に従い通すことが必要です。私たちが、一人残らず人生の終わりにあたって、「本当に最後まで忠実に主に従い通した」と言われるなら、本当に幸いです。
2.カレブは、どのような情勢の中で主に拠り頼んだのでしょうか。
さらに3つに分けて考えてみると、分かりやすいと思います。
@ 自分の兄弟たちに捨てられた時
A 人々によって攻撃された時
B 荒野の試練を受けた時
カレブはいかに主に拠り頼んだかということです。
@ 自分の兄弟たちに捨てられた時
ヨシュア記 14章8節。もう一度お読みします。
「私といっしょに上って行った私の身内の者たちは、民の心をくじいたのですが、私
は私の神、主に従い通しました。」
もともと身内の者たちは、カレブを助けるべきだったでしょう。そのためにこそ兄弟がいるのです。しかし彼らは、主のみ声に聞き従うよりも、自分の理性の声に聞き従うようになったのです。しかも、彼らの心が分かれてしまったので、カレブを助けることができなかったのです。
確かに、ヨシュアもまた主に拠り頼んでいました。しかし、カレブはある程度まで単独で、孤独でした。というのは、ヨシュアは特別な知恵と多くの特権を持っていたからです。カレブと全く違いました。ヨシュアは、その当時すでにイスラエルの軍勢を率いる地位にあり、しかも、主なる神の友であるモーセと非常に親しい関係にあり、しかもヨシュアは、イスラエルのすべての民を率いる指導者となるよう選ばれていたのです。これに対し、カレブは、他の普通の人たちと全く変わらない身分でした。イスラエルの12部族から選ばれた12人の代表者が、カナンの地に遣わされ、そのカナンの地の豊かさを見ると共に、それに入ることが多くの困難を伴うことをも分かりました。そのために、遣わされた人たちは、カナンの地に入ることができないと、絶望してしまったのです。けれどもそのとき、2人だけが違う態度をとったのです。ヨシュアとカレブです。この2人だけは別でした。なぜなら彼らは、「人間の力では不可能であっても、主にとって不可能なことは無い、必ず奇蹟の御わざをなして下さる」と信じ、疑わなかったのです。
このようにして2人は、主にだけ拠り頼んだ結果、人々から誤解され、迫害され、殺されそうにまでもなったのです。
霊的な前進は、反対なしにはあり得ないでしょう。もし信者が周囲の状況を見て、その問題や困難に心奪われて、主の御約束に頼らないで諦めてしまうなら、これこそが悲劇的です。当時の信者たちは、暗闇しか見ることができず、主と共に前進しようとは、敢えてしなかったのです。そのような状況の中にあっても、カレブは絶えず、主に拠り頼みました。彼の兄弟たちは彼を見捨てました。けれど、それはカレブにとって断念する理由とはならなかったのです。
信仰とは、信頼とは、全く個人的な事柄です。私たちはその点でうまくいかなかった時でも、その責任を他の人のせいにすることはできません。カレブは、カナンの地に入ることを妨げるものを実際に見ました。そしてまた、自分自身の不十分さをも、もちろん良く分かったのです。けれどそれにも関わらず、彼は主にだけ拠り頼みました。私たちもまたいろいろな問題や困難に出会って試練を受けますけれども、しかしそのような時、カレブと同じように、どんなことがあっても主に拠り頼むならば、勝利を得る者となることができます。そして私たちは、勝利を得る者となることができるのですから、そのようにならなければなりません。
A 人々に攻撃された時
カレブは兄弟に見捨てられたとき、主に拠り頼んだだけではなく、人々によって攻撃されたときにも、主にだけ拠り頼みました。あらゆる誤解や非難にも関わらず、堅く信仰に立つことは大切です。私たちは、心を一つにして主に従えば、人々から尊敬され、驚かれると思いがちですが、もしそうではなくて、その反対のことが実際に起こったとしたなら、それは、私たちにとって大変大きなショックとなります。カレブもまたこうした辛い経験を持たなければなりませんでした。民数記の13章を見ると、次のように書かれています。
民数記 13章30節。
そのとき、カレブがモーセの前で、民を静めて言った。「私たちはぜひとも、上って
行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」
このみことばを見ると、カレブの心の状態がどのようなものであったか明らかになります。
14章8節から10節。
「もし、私たちが主の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さる
だろう。あの地には、乳と蜜とが流れている。ただ、主にそむいてはならない。その地の
人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ。彼らの守りは、彼らから
取り去られている。しかし主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」
しかし全会衆は、彼らを石で打ち殺そうと言い出した。そのとき、主の栄光が会見の天幕
からすべてのイスラエル人に現われた。
「しかし全会衆は」、99パーセントだけではない。「全会衆は、」です。
「そのとき」、その前には必要なかったでしょう。
カレブに対する反対は、結局、憎しみに変わりましたが、いったいどうしてそのようなことになったのでしょうか。カレブは、ただ真理だけを宣べ伝えたからです。彼らは真理に耳を傾けたくなかったので、そして、主に徹頭徹尾従い通そうとはしなかったゆえに、カレブを殺そうとしたのです。このようにカレブは辛い経験をしましたが、主にだけ拠り頼む人は誰でも、同じ経験をするのではないでしょうか。信者は、ただ主にだけ拠り頼まないと、感情的になり、目くらとなり、悪魔の虜となってしまいます。しかし、カレブが殺されそうになった時、その瞬間、主のご栄光が現われ、カレブを助けました。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。(ローマ人への手紙 9章33節)」です。
その時、カレブは何一つ知恵を講じませんでした。主がカレブを助け、守ってくださったのです。私たちも同じように主にだけ拠り頼むならば、何ものも恐れる必要はありません。主は、その時、私たちの側に立って下さるからです。神に反抗したり、カレブを攻撃した人たちは、次々と死にました。みなです。99%だけではなくて、みな途中で死にました。20歳以上の者はみなです。不信仰が支配するところには、「霊的な死」もまた、支配するようになります。
民数記の14章38節に、「ヌンの子ヨシュアと、エフネの子カレブは生き残った」と、報告されています。不動の信仰の道は、常に、「いのちに至る道」です。
ここまで私たちは、カレブが、自分の兄弟たちに見捨てられたとき、そして次に、人々に攻撃されたとき、いかに主に拠り頼んだかを見ました。
B 荒野の試練を受けた時
彼が、主にだけ拠り頼んだ様子を見てみたいと思います。
ヨシュア記 14章10節。
「今、ご覧のとおり、主がこのことばをモーセに告げられた時からこのかた、イスラエルが
荒野を歩いた四十五年間、主は約束されたとおりに、私を生きながらえさせてください
ました。今や私は、きょうでもう八十五歳になります。」
カレブは、ただ単に、困った時や、うまくいっている時に、一時的に主に拠り頼んだのではなくて、失望や、どうしたらいいか分からない状態が何度もあった45年間という長い年月を通して、絶えず主に拠り頼みました。不信仰は、決して待つことができませんし、また待ちたくないと思ってしまいます。ある時、イスラエルの民はカナンの地に入ろうと一生懸命努力したことがありました。けれど結局だめでした。敗北に終わってしまったのです。その時、彼らは主に頼ろうとしないで、主のご命令に従わず、勝手なことをしてしまったからです。徹底的にへりくだり、罪を悔い改めなければ、主はその人をお導きになることができません。
民数記 14章29節。
「この荒野であなたがたは死体となって倒れる。わたしにつぶやいた者で、二十歳以上の
登録され数えられた者たちはみな倒れて死ぬ。」
主に従おうとしなかった20歳以上の者たちは、みな荒野で倒れてしまいました。ですから、約束の地に入った者たちは、全く新しい世代の者たちでした。主に拠り頼む者はただ単に、信仰によって歩む心構えを持ち、それを実践するだけではなく、主の時が来るまで待たなければなりませんし、主の試練を受けなければなりません。カレブは、長い年月を通して、「主は必ず最善をなして下さる」と信じ、主に従い通し、すべてを主にゆだねました。
3.どうして、カレブは絶えず主に拠り頼むことができたのでしょうか。
勝利の秘訣は2つです。
@ 主の真実さです。
A 他の者と違った心を持つことです。
@ 主の真実さについて。
死が支配する裁きや、荒野の中でも、カレブは生き続けました。20歳以上の者たちはみな、荒野で倒れて死にましたけれども、ヨシュアとカレブだけが生き残りました。なぜなら、彼らは絶えず真実なる主を見上げていたからです。
ヨシュア記 14章10節を見ると、次のように書かれています。
「今、ご覧のとおり、主がこのことばをモーセに告げられた時からこのかた、イスラエルが
荒野を歩いた四十五年間、主は約束されたとおりに、私を生きながらえさせてください
ました。今や私は、きょうでもう八十五歳になります。」
主に拠り頼まない残りの人たちは、みな自分のいのちを保とうと努力しましたが、結局、失ってしまったのです。
カレブは、11節に書いてありますように、
「しかも、モーセが私を遣わした日のように、今も壮健です。私の今の力は、あの時と
同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐えるのです。」
と、いろいろ話し合おうと努めていたのではないでしょうか。けれど、いくら努めても、
失敗しました。それ以来、彼はあまり話さなくなってしまったのです。そして、他の人たちは、「カレブは負けてしまい、駄目になってしまったのではないか」と思ったかもしれません。カレブは忍耐して、「主の約束は必ず成就する」と信じ続けました。忍耐とは決して弱さではありません。カレブは壮健であり続けました。これは、主の御力の現われです。カレブは死んだ人たちと同じ苦しみを経験しました。すなわち、飢え渇き、荒野の単調さ、いつも同じものを食べることなどでした。彼はすべてを共にしたのです。けれど、以前と同じ力に満たされていたのであります。ちょっと考えられないことです。40歳の人と、85歳の人とは違うのではないでしょうか。しかし、同じだったらしい。40歳の時と、85歳の時と同じ力を持つということは、奇蹟以外の何ものでもありません。
この奇蹟の秘訣は、真実なる主に拠り頼むことでした。私たちが、自分の力で主の御心を行なおうとする時、はじめは大成功に輝くかのように見えるかもしれないけれど、やがて、打ちのめされてしまいます。時の経過と共に、私たちは徹頭徹尾、試練に会います。しかし、それは、私たちがただ主イエス様お一人だけに拠り頼むか否かが明らかにされるためです。主に拠り頼む者は、荒野の中でも新たなる力を得ます。
カレブは、ただ単に約束の地カナンに入っただけではなく、自分に前から約束されていたヘブロンという地をも自分のものとすることが許されたのです。いろいろな問題は何年間も続きましたが、カレブはただ主にだけ拠り頼みましたから、主の約束の実現を経験することができたのです。ヘブロンがカレブのものになるということは、主によって約束されていましたが、周囲の人たちは誰も信じようとはしませんでした。けれども、カレブは、真実なる主のみ約束に拠り頼み続けましたから、主は必ずご自分の約束を守って下さるということを経験することができたのです。カレブは、いつ約束の地に入れるか全然分かりませんでしたが、一瞬たりといえども、主のご目標を忘れることがありませんでした。
それですから、45年経って約束のヘブロンの地に入ることができた時、少しも驚かず、「これは、すべて真実なる主のなさった当然のことである」と、信じて疑いませんでした。カレブは主の啓示にしっかりと拠り頼み、唯一つの主のご目標だけをもって、主の真実に全く拠り頼みました。そのような人たちは、主の奇蹟を経験するのです。
民数記 14章24節。
「わたしのしもべカレブは、ほかの者と違った心を持っていて、わたしに従い通したので、
私は彼が行ってきた地に彼を導きいれる。」
と、主は約束して下さっただけではなく、そのことを実際にカレブは経験しました。
カレブはどうして主に拠り頼むことができたのでしょうか。
初めの答えは、主は真実だからです。変わらないお方であるからです。奇蹟をなすお方であるからです。
A ほかの者と違った心を持っていたからです。
カレブの生涯は、「私たちもまたカレブと同じように、主に対する全き献身をするように」と、呼びかけの意味を持っています。私たちは今日、不信仰と混乱とに囲まれています。主の明らかなご目的は、まだ今のところ完全に実現されたわけではありません。たとえば、私たちの家族がすべてイエス様を信じるようになったとは限らないからです。ですから、私たちの信仰は試されています。すべてを主にゆだねましょう。そして、主が大いなる御わざをなして下さるのを待ち望みましょう。そうすれば、今は不可能なこと、実現されていないことも、やがては成就されます。
カレブの生涯を通して分かることは、大切なのは、私たちの真剣さや、真面目さや、努力ではなく、「ほかの者と違った心を持つこと」です。最後まで主に従い通すためには、ほかの者と違った心を持つことがどうしても必要です。
荒野での数年間は、決して無駄なものではなかったのです。20歳以上の者たち、すなわち、古い、歳をとった者たちはすべて、取り除かなければなりませんでした。この辛い経験を通して、全く新しい世代、すなわち主を第一にする世代が生まれたのです。ここで私たちは一つの実例を見てみましょう。
ヨシュア記 15章16節、17節。
そのとき、カレブは言った。「キルヤテ・セフェルを打って、これを取る者には、私の娘アク
サを妻として与えよう。」ケナズの子で、カレブの兄弟オテニエルがそれを取ったので、カレ
ブは娘アクサを、彼に妻として与えた。
と、あります。「オテニエル」という言葉の意味は、「神の力」です。それは、すなわち、荒野での長い年月を通して、全く新しい力が働くようになった事実と、密接な関連を持っています。オテニエルは、主なる神の真実さを信じ、敵に対して勝利をおさめ、敵の地を自分のものとしたために、主のみ約束を実現していただくことができました。このオテニエルはカレブの甥でした。荒野での生活を通して、カレブだけではなく、カレブの家全体が、親戚をも含めてみな、絶えず主に拠り頼むようになったのです。カレブの娘アクサも同じ霊に満たされ、一番大切なところ泉を取ろうとしたのです。そして得ることができました。
士師記 1章14節、15節。
彼女がとつぐとき、オテニエルは彼女をそそのかして、畑を父に求めることにした。彼女
がろばから降りたので、カレブは彼女に、「何がほしいのか。」と尋ねた。アクサは彼に
言った。「どうか私に祝いの品を下さい。あなたはネゲブの地に私を送るのですから、水の
泉を私に下さい。」そこでカレブは、上の泉と下の泉とを彼女に与えた。
「彼女」とは、アクサのことです。
ヨシュア記 15章19節。
彼女は言った。「私に祝いの品を下さい。あなたはネゲブの地に私を送るのですから、水
の泉を私に下さい。」そこで彼は、上の泉と下の泉とを彼女に与えた。
と、同じことが書かれています。
カレブの家族親戚たちもまた、カレブと同じ霊、すなわち、ほかの者と違った心を持っていたのです。自分だけではなく、ほかの者たちもまた、同じように勝利を得る者となることは、カレブが初めから持っていた切なる願いでした。
モーセやヨシュアといった人たちは、確かに公に認められた偉大なる指導者でしたが、これに対してカレブは、目立たない存在でした。けれど彼の存在は、主の御目から見ると、極めて大切な意味を持っていました。カレブは、ほかの者と違った心を持っていましたから、みこころにかなう者でした。私たちは、弱く意味のない存在、したがって、強くも賢くもない存在であるため、何もできないと思ってしまいがちです。けれども、私たち一人一人を通して、大いなる御わざが為されるべきです。それは可能であるばかりではなく、必要でもあります。すでに勝利を得られた主イエス様を通して、それは可能となります。イエス様の御霊が、自由に私たちの内に、また私たちを通して働くことがおできになるようになると、私たちはほかの者と違った心を持つ者となります。そのことによって人々は惹きつけられるようになり、そして、主のご栄光を受けるようになるに違いありません。
私たちが一人残らず、カレブと同じように、豊かに用いられる器となることができますように。
了
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