捕えられた者として歩みましょう (1)
2004.3.9(火)
ベック兄メッセージ(メモ)
引用聖句
使徒の働き 16章6節から36節
それから彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・
ガラテヤの地方を通った。こうしてムシヤに面した所に来たとき、ビテニヤのほうに行こうと
したが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。それでムシヤを通って、トロアスに
下った。ある夜、パウロは幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、「マケドニヤ
に渡って来て、私たちを助けてください。」と懇願するのであった。パウロがこの幻を見たと
き、私たちはただちにマケドニヤへ出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音
を宣べさせるのだ、と確信したからである。そこで、私たちはトロアスから船に乗り、サモト
ラケに直航して、翌日ネアポリスに着いた。それからピリピに行ったが、ここはマケドニヤ
のこの地方第一の町で、植民都市であった。私たちはこの町に幾日か滞在した。安息日
に、私たちは町の門を出て、祈り場があると思われた川岸に行き、そこに腰をおろして、集
まった女たちに話した。テアテラ市の紫布の商人で、神を敬う、ルデヤという女が聞いてい
たが、主は彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた。そして、彼女
も、またその家族もバプテスマを受けたとき、彼女は、「私を主に忠実な者とお思いでした
ら、どうか、私の家に来てお泊まりください。」と言って頼み、強いてそうさせた。私たちが
祈り場に行く途中、占いの霊につかれた若い女奴隷に出会った。この女は占いをして、主
人たちに多くの利益を得させている者であった。彼女はパウロと私たちのあとについて来
て、「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えている
人たちです。」と叫び続けた。幾日もこんなことをするので、困り果てたパウロは、振り返っ
てその霊に、「イエス・キリストの御名によって命じる。この女から出て行け。」と言った。す
ると即座に、霊は出て行った。彼女の主人たちは、もうける望みがなくなったのを見て、パ
ウロとシラスを捕え、役人たちに訴えるため広場へ引き立てて行った。そして、ふたりを長
官たちの前に引き出してこう言った。「この者たちはユダヤ人でありまして、私たちの町を
かき乱し、ローマ人である私たちが、採用も実行もしてはならない風習を宣伝しており
ます。」群衆もふたりに反対して立ったので、長官たちは、ふたりの着物をはいでむちで打
つように命じ、何度もむちで打たせてから、ふたりを牢に入れて、看守には厳重に番をする
ように命じた。この命令を受けた看守は、ふたりを奥の牢に入れ、足に足かせを掛けた。
真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも
聞き入っていた。ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとび
らが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった。目をさました看守は、見ると、牢のとびらが
あいているので、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとした。そこ
でパウロは大声で、「自害してはいけない。私たちはみなここにいる。」と叫んだ。看守は
あかりを取り、駆け込んで来て、パウロとシラスとの前に震えながらひれ伏した。そして、
ふたりを外に連れ出して「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。」
と言った。ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われ
ます。」と言った。そして、彼とその家の者全部に主のことばを語った。看守は、その夜、
時を移さず、ふたりを引き取り、その打ち傷を洗った。そして、そのあとですぐ、彼とその家
の者全部がバプテスマを受けた。それから、ふたりをその家に案内して、食事のもてなし
をし、全家族そろって神を信じたことを心から喜んだ。夜が明けると、長官たちは警吏たち
を送って、「あの人たちを釈放せよ。」と言わせた。そこで看守は、この命令をパウロに伝え
て、「長官たちが、あなたがたを釈放するようにと、使いをよこしました。どうぞ、ここを
出て、ご無事に行ってください。」と言った。
昨日、埼玉県の行田市で、ある14歳の子どもの葬儀がありました。彼は、走ることが大好きで、いつも走っていました。先週の木曜日、元気に学校へ行って、友だちと一緒にマラソンをして、倒れてしまいました。彼のお父様は、まだ救われていないけれど、非常に心を開いておられる様子でした。お兄さんは16歳ですけれども、彼にとっても大変なショックだったことと思います。けれどもご両親は、葬儀に出席した人たちに手紙を書かれたのです。その手紙の最後に引用された箇所が、
ローマ人への手紙 8章38節、39節です。
私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に
来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主
キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。
お母様の姉妹も、証ししてくださったのです。「どうしてこんなことになったのか、分かりません。けれど、確信しているのは、運命でもないし、天罰でもないし、特別に愛されている証拠です」と話されました。彼は、走ることが大好きで、やはりゴールインしたのです。私たちはみな追い越されました。走ることこそが大切です。彼のお母様も、「主は、最善の時に、最善をなしてくださいます」と話されました。
イエス様が、「わたしは、あなたがたを孤児とはしません。わたしは、あなたがたとともにいます。わたしは、決してあなたがたから離れず、あなたがたを捨てない」と言われたことを考えると、やはり素晴らしいのではないでしょうか。イエス様は、比類なきお方であり、信頼出来るお方であり、人間一人一人を理解出来るお方であるだけではなく、一人一人を考えられないほど愛していてくださるお方です。
イザヤ書 38章17節。イザヤは2600年前に告白したのです。
ああ、私の苦しんだ苦しみは平安のためでした。あなたは、滅びの穴から、私のたまし
いを引き戻されました。あなたは私のすべての罪を、あなたのうしろに投げやられました。
ある時、御代田で、5、6人の子どもが、広い集会場をぐるぐると走り回っていました。自分の家では走り回ることが出来ないから、楽しくてしかたがない様子でした。私は、一人の8歳の男の子をつかまえて聞いたのです。
「ちょっと聞きたいことがあります」。「何?」。「イエス様のこと好き?」。「うん。大好き!」。「どうして? どうしてイエス様のこと大好きなの?」。
彼は、素晴らしいことを言ったのです。
第一番目の答えは、「死なれないから」。
第二番目、「私のわががままを赦してくださるから」。
第三番目、「私を愛していてくださるから」。
幸せです。子どもは本当に良いです。大人は駄目です。
結局、大人の考えている救いは、だいたい、「自分の今の一時的な問題が解決されれば・・・」ということです。けれど、本当は違います。だいたい、「主人だけが変われば…」、「子どもが聞く耳を持つようになれば…」、「健康になれば…」。これも一つの救いかもしれないけれど、主の考えておられる救いではないでしょう。人間は、一時的な問題の解決だけを考えます。主は、根本問題を解決なさりたいのです。根本問題が解決されれば、人間は喜びを持って、「主は私の救いです」と告白することが出来ます。
救われることは確かに素晴らしいけれど、十分ではありません。やはり、走らなければなりません。今、話した14歳の彼のように、走らないと駄目なのです。
ピリピ人への手紙の中で、パウロの走る態度を見ることが出来るだけではなく、パウロは、「兄弟たち。私を見ならう者になってください」と言っているのです。よく知られているピリピ人への手紙 3章12節から14節をちょっと読みましょう。
私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えよう
として、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくだ
さったのです。兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、こ
の一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進
み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一
心に走っているのです。
ピリピ人への手紙 3章17節。
兄弟たち。私を見ならう者になってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本
として歩んでいる人たちに、目を留めてください。
とあります。20節は素晴らしいです。
ピリピ人への手紙 3章20節、21節。
私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになる
のを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力
によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるので
す。
確かに、私たちは今、将来のことを理解出来ないし、想像することも出来ません。主のお考えと、私たちの考えとは違うからです。ですから、人間は悩むのです。
イザヤ書 55章8節、9節。
「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なる
からだ。――主の御告げ。――天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道
よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」
「あなたがた」とは、「信じる者」です。主の思いと信じる者の思いは、全く違います。
どうして新約聖書の手紙が書かれたかと言いますと、使徒たちは非常に悩んだからです。祈りの結果として書いたのです。救われた人たちがなかなか成長しなかったから、使徒たちはみな、悩みました。
走ることとは何なのでしょうか。主を仰ぎ見ることです。現実から目をそらし、十字架の上で犠牲になられ、復活なさり、昇天なさり、高く引き上げられたイエス様、また近いうちに再び来られるイエス様を仰ぎ見ることこそが、走ることです。ヘブル人への手紙の著者は、書いたのです。
ヘブル人への手紙 12章1節から3節。
こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのです
から、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている
競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者である
イエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、は
ずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。あなたがた
は、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの
心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。
元気のもととは、何ですか。主を仰ぎ見ることです。
もう何十年も前のことだったのですけれども、フィンランドのヘルシンキで、オリンピックが開かれた時、ある女性が馬術で金メダルを取りました。優勝したのです。けれども、この女性は健康な人ではなかったのです。からだの不自由な人でした。小さい時から小児麻痺で、手足が思うようにならなかったのです。けれども、彼女は自分のからだを打ち叩いて服従させ、馬術を習いました。オリンピックの時も、自分で馬に乗ることが出来ないので、人に乗せてもらったのです。けれども、見事に優勝したのです。ちょっと考えられないほど素晴らしいことなのではないでしょうか。けれど、彼女は、金メダルを得るためにだけ、そのように努力したのです。私たちは、永遠の冠を目ざして、目標を目ざして、力を尽くして戦うべきなのではないでしょうか。
コリント人への手紙・第一 9章25節。前に、何回も読んだ箇所です。
また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるために
そうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。
パウロは、ピリピにいる兄弟姉妹に対して、次のように書き送ったのです。
ピリピ人への手紙 3章17節。
兄弟たち。私を見ならう者になってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本
として歩んでいる人たちに、目を留めてください。
ピリピ人への手紙 3章13節、14節。
私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。
すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにお
いて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。
大切なのは、過ぎ去ったことではないのです。今からです。
ここで、パウロが話しかけているピリピの教会が、どのようにして出来たのかについて考えたいと思います。パウロの第二次伝道旅行は、シラスという同労者と一緒でした。
途中で、パウロとシラスに、テモテという若者が加えられたのです。三人は、行く先々で、主イエス様がすべての者の主であることを宣べ伝えました。三人には、喜びもありましたし、もちろん、悲しみもありました。
主のみことばを宣べ伝えていく所では、人は、必ず二つの群れに分かたれていきます。
・一つの群れは、主のみことばに素直に聞き従い、主の祝福にあずかる人たちであり、
・もう一つの群れは、主のみことばに聞き従わず、結局、滅びに向かう人たちです。
三人が伝道していくうちに、彼らは、突然主から、「これ以上伝道の手を広げないように」という御告げを受けたのです。前に読みました、
使徒の働き 16章6節、7節です。
それから彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・
ガラテヤの地方を通った。こうしてムシヤに面した所に来たとき、ビテニヤのほうに行こうと
したが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。
三人は、それまでベタニヤの地方に伝道の手を伸ばし、小アジヤ全体に福音を広めようと計画したのです。そして、「この計画をお願いします。主よ。祝福してください」と祈り続けたのです。けれど、この三人に対して、主は、「わたしの心はそこにはありません。違います。わたしの思いと、あなたがたの思いとは違います」とお知らせになったのです。エレミヤ記 29章11節です。
「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ。
――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与
えるためのものだ。」
主のみわざは、決して後ろに退いてはいきません。主はいつも積極的な道を開いてくださいます。一つの道がふさがれれば、さらに良い、祝福の道を備えていてくださるのです。パウロとシラスとテモテの三人は、自分の計画がみこころではないことを教えられた時、主の前に黙して静まっていますと、主は新しい道を示されたのです。
使徒の働き 16章9節、10節です。
ある夜、パウロは幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、「マケドニヤに渡っ
て来て、私たちを助けてください。」と懇願するのであった。パウロがこの幻を見たとき、私
たちはただちにマケドニヤへ出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べ
させるのだ、と確信したからである。
主が示された場所は、今までのアジヤとは違って、ヨーロッパでした。ヨーロッパでは、福音を聞いた人が一人もいなかったのです。主が示されたその場所は、後に、非常に祝福を受けた場所となったのです。そこで救われた最初の人たちは、紫布の商人でユダヤ人のルデヤという婦人、それから、占いをする女奴隷のギリシヤ人、それから、監獄の獄吏とその家族でした。この獄吏は、ローマ人でした。ヨーロッパで打ち立てられた最初の兄弟姉妹は、ユダヤ人とギリシヤ人とローマ人から成り立っていたわけです。
・主のからだなる教会は、世界的であり、そこには国民の間の差別が全くありません。
・主のからだなる教会は、天的であり、地的ではありません。
・主のからだなる教会は、御霊により支配されているべきであり、人間の組織によって支配されていてよいものではありません。
パウロの手によって打ち建てられていた数多くの教会の中で、このピリピの信じる者の群れは、一番良い教会でした。この教会はパウロの喜びでした。ピリピ人への手紙を見ると分かります。
ピリピ人への手紙 1章3節から5節です。
私は、あなたがたのことを思うごとに私の神に感謝し、あなたがたすべてのために祈る
ごとに、いつも喜びをもって祈り、あなたがたが、最初の日から今日まで、福音を広めるこ
とにあずかって来たことを感謝しています。
例えば、コリントにいる人たちに、パウロはこのように書くことが出来なかったのです。彼らは、確かに主イエス様を信じ、救われたのですけれども、全然成長しなかったのです。パウロの悩みの種だったのです。
パウロは、後になって、あの小アジヤ全体に福音を宣べ伝えるという自分の計画を捨てて、御霊の声に聞き従ったことを、どれほど喜び、主に感謝したか分かりません。もし、パウロが自分の計画に従っていたなら、彼はどれほど大きな損失を招いたかしれません。私たちの中には、自分が思っている計画に対して、道が閉ざされてしまっているような状態にある人もいるかもしれません。イエス様は、そのような人たちに、ご自分の道を示そうと望んでおられます。
ピリピ人への手紙を読んでいますと、パウロのピリピ人に対する愛がにじみ出ています。パウロは、ピリピ人と深い心の交わりを持っていました。パウロは、自分の胸の内を全部、ピリピの兄弟姉妹に打ちあけることが出来たのです。パウロに愛されたピリピの信じる者の群れに、パウロの手紙が届きました。ピリピの兄弟姉妹が、一緒にこの手紙を開いて読みますと、パウロの決心が書かれていました。
ピリピ人への手紙 3章17節。
兄弟たち。私を見ならう者になってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本
として歩んでいる人たちに、目を留めてください。
ピリピ人への手紙 3章13節、14節。
兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励
んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリス
ト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っ
ているのです。
これを読んだピリピの信者たちも、パウロと同じ決意を、もう一度新たに固めたに違いありません。パウロは、驚くほど霊的に高い人でした。それにもかかわらず、彼は、前のものに向かって進み、目標を目ざして一心に走っているのです。
ピリピにある兄弟姉妹は、パウロの目から見て模範的な信者でした。けれどもパウロは、なおそれに満足せず、「私を見ならう者になってください」と呼びかけています。パウロは霊的な人であり、ピリピの兄弟姉妹も模範的な人たちでした。それにもかかわらず、なお、「前のものを求めよ」と言うのですから、私たちもこれに深く心を留める必要があるのではないでしょうか。
私たちが、あまり気にも留めずに見過ごしにしている主の備え、また与えようとされる報いは、いったい何なのでしょうか。からだを伸ばして、目標を目ざして走り抜いて行く時、備えられている報いは、いったい何なのでしょうか。主が与えようとされる報いとは、いわゆる「救い」ではありません。パウロは、既に救いの確信をいただいていました。
パウロは、既に自分は永遠のいのちを持っているということを確信したのです。
ピリピ人への手紙 1章21節を見ると、彼は次のように言うことが出来たのです。
私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。
「もうイエス様から離れられません」。パウロは、自分の肉体が滅びると、天の住みかに帰り、主イエス様とともに生きることが出来ることを、本当に楽しみにしていたのです。
ピリピ人への手紙 1章23節。
私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリスト
とともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。
「死ぬこと」と、「世を去ること」とは、キリストとともになることです。「死ぬ瞬間にイエス様と一緒になる」と考えると、やはり嬉しくなるのではないでしょうか。
パウロは、自分自身のことは少しも考えなかったのです。自分のすべては主にあることを、よく知っていたからです。
ピリピ人への手紙 4章18節。
私は、すべての物を受けて、満ちあふれています。
「喜びに満たされている」と、満ち足りたパウロの心が表わされています。このパウロにして、なおも目標を目ざして、神の賞与を得ようと努めているとは、不思議なことです。
けれども、前へ進む前に、ここで少し考えるべきなのではないでしょうか。即ち、私たちは、既に永遠のいのちを持っているのでしょうか。イエス様と個人的にお会いしているのでしょうか。主のみことばは、「主イエス様を持つ者は永遠のいのちを持ち、主イエス様を持たない者は永遠のいのちを持っていない」とはっきり言っているのです。
主イエス様は、聖書の中で、たとえをもって救いの道を教えておられます。
・この世には二つの門があります。一つの門は広く、一つの門は狭いのです。
・この世には二つの道があります。一つの道は広く、一つの道は狭いのです。
・この世には二つの群れがあります。一つの群れにはたくさんの人がおり、もう一つの
群れには少しの人しかいません。
・この世には二つの目標があります。一つは永遠の滅びであり、一つは永遠のいのちです。
このように、イエス様は、全世界の人たちを二つに分けておられます。
主は、私たちの心の深みまでご存じです。主が私たちを見られるのと同じ目をもって、私たちも自分自身を見ることが出来たら幸いです。私たちが、心の目を開いて自らを省みる時、自分が、主の前に恐るべき罪人であることが分かるはずです。
ローマ人への手紙の3章の中で、パウロは、旧約聖書の詩篇からいろいろな言葉を引用して、次のように書いたのです。すべて旧約聖書からの引用であります。
ローマ人への手紙 3章10節から18節です。
「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべて
の人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりも
いない。」「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」「彼らのくちびるの下に
は、まむしの毒があり、」「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」「彼らの足は血を流
すのに速く、彼らの道には破壊と悲惨がある。また、彼らは平和の道を知らない。」「彼ら
の目の前には、神に対する恐れがない。」
この世で求められているのは、頭の良い人たち、優秀な人たち、魅力的な人たち、金を持つ人たち、権力を持つ人たちでしょうけれども、主が求めておられるのは、心を砕かれ、みことばにおののき、主を恐れている人たちです。もし、「あの兄弟、この姉妹は、主を恐れている」と言うことが出来れば、素晴らしいのではないでしょうか。砕かれている心を持たない人は祝福され得ません。みことばにおののかない人は、決して祝福され得ません。主を恐れない人は、何があっても祝福され得ないのです。
主を恐れたアブラハムは、告白しました。
創世記 18章27節
「私はちりや灰にすぎませんが、…」
必死になって、ちり、灰を集める人は、おそらくいないでしょう。売り物になりません。役に立たないものです。捨てられるべきものです。アブラハムはそのように思ったのです。「私は捨てられるべき者です。価値のない者です」。だからこそ、彼は祝福されました。
ヨブは、ヨブ記 42章6節で告白したのです。
それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。
アサフは、詩篇 73篇22節で、
私は、愚かで、わきまえもなく、あなたの前で獣のようでした。
と告白しました。「私はどうしようもない者です。主が憐れんでくださらなければ、おしまいです」と、正直な人間はみな、認めざるを得ないのではないでしょうか。
イザヤは、イザヤ書 6章5節で、告白しました。
「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、…」
ペテロも叫んだのです。ルカの福音書 5章8節。
「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」
このような祈りは聞かれません。主は、離れようとなさいません。そのような者こそ、受け入れてくださいます。イエス様は、正しい人たちの友ではなかったのです。いつも、罪人の友でした。
こんにち、主は、いったいどのような人たちを探し求めておられるのでしょうか。
イザヤ書 66章2節に書かれています。
「――主の御告げ。――わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことば
におののく者だ。」
主を恐れる兄弟姉妹は、へりくだって心砕かれた人たちです。そしてまた、主の光によって、自分のみじめさと虚しさを知るようになった兄弟姉妹です。パウロは、主の救いにあずかるようになった人たちに、次のように書いたのです。未信者にではなく、救われた人たちにです。
ガラテヤ書 5章19節から21節です。
肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔
術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類
のものです。
自分のわがままや過ちを告白した人は、罪の赦しを得て大いに喜ぶことが出来るのです。
詩篇 32篇1節から5節に、3000年前、ダビデは次のように書き記したのです。
幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認
めにならない人、心に欺きのないその人は。私は黙っていたときには、一日中、うめいて、
私の骨々は疲れ果てました。それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨
髄は、夏のひでりでかわききったからです。私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を
隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなた
は私の罪のとがめを赦されました。
イエス様は、罪人の友です。
イエス様は、どのような人たちを受け入れてくださるのでしょうか。イエス様は、どのような罪人でも、みもとに来る人たちを拒まずに受け入れてくださいます。
イエス様は、どのようにしてその罪人を受け入れてくださるのでしょうか。放蕩息子の話を聞くと分かります。大喜びで赦して、受け入れてくださいます。
イエス様は、その罪人をいつ受け入れてくださるのでしょうか。聖書はコリント人への手紙・第二 6章2節で、「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です」と。
永遠のいのちを持っていても、確信のない人たちは、今日でも本物を得ることが出来るのです。ただ祈ればよいのです。
「イエス様、私には満足がありません。永遠の世界に対して不安です。私の罪は赦されていません。あなたの血潮によって、どうか私の罪を赦し、永遠のいのちを与えてください」と祈ると、主は必ず受け入れてくださいます。
ヨハネの福音書 6章37節。
「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。」
これこそが、使徒パウロの経験でもありました。
テモテへの手紙・第一 1章12節から17節を、お読みいたします。
私は、私を強くしてくださる私たちの主キリスト・イエスに感謝をささげています。なぜ
なら、キリストは、私をこの務めに任命して、私を忠実な者と認めてくださったからです。私
は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないと
きに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。私たちの主の、この恵みは、キ
リスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました。「キリスト・
イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま
受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。しかし、そのような私があわ
れみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている
人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。
どうか、世々の王、すなわち、滅びることなく、目に見えない唯一の神に、誉れと栄えとが
世々限りなくありますように。アーメン。
了
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