捕えられた者として歩みましょう (2)
2004.3.16(火)
ベック兄メッセージ(メモ)
引用聖句
ピリピ人への手紙 3章12節から14節
私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えよう
として、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくだ
さったのです。兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、こ
の一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進
み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一
心に走っているのです。
先週に引き続いて「走りましょう」というテーマについて考えましょう。
まず、主のみもとに走ること。それから、苦しんでいる人々のところに走ることこそが、大切なのではないでしょうか。イエス様の呼びかけとはいつも二種類の呼びかけでした。まず、「おいで、わたしのところに。休ませてあげます」そして、あとで、イエス様は「出て行け。全世界に出て行って福音を宣べ伝えなさい」と言われたのです。
神の恵みの福音を証しすることが私たちの任務であり、使命であり、また、特権です。パウロはピリピにいる兄弟姉妹に、「私は目標を目ざして走っている」と書き送ったのです。その時、パウロはローマの刑務所の中で、過ごしていたのです。イエス様の救いにあずかり、イエス様のものになったということは、結局、戦いの中に自分の身が閉じ込められたことを意味します。この戦いに勝つためには、全力をあげて走らなければならない。それほど、激しい戦いです。
パウロは別のところで、信じる者の生涯を競技者にたとえています。
コリント人への手紙・第一 9章24節
競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただ一人だ、ということを知って
いるでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。
ヘブル書の著者も同じように書いたのです。
ヘブル人への手紙 12章1節
こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのです
から、私たちもいっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競
走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。
信じる者はみな、イエス様を知るようになり、走るようになります。なぜなら、イエス様からもう離れられないからです。そして、家族に対して、親戚に対して、知り合いの人々に対して重荷を感じて、イエス様を紹介したい気持ちを持ちますけれど、多くの場合は、走り続けません。もうどうせだめなのではないかと思ってしまいます。だから、ここで、「走り続けよう」とあります。
パウロのすばらしい証しですけれども、彼は次のように言ったのです。
使徒の働き 20章24節
私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかし
する任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。
このようなことばを読んでみると、信仰の競走を走り抜くには、まつわりつくいろいろなものを捨てなければならないことがわかります。それが思い煩いである場合もありましょうし、憂鬱な気持ち、不信仰、人間を恐れることであるかもしれない。十字架を負うことを拒むことであるかもしれません。
パウロの目ざした目標とは、パウロの目ざした報いとは、何だったのでしょうか。もちろん救いではありません。彼はもうすでに救われていたのですし、「私は永遠のいのちを持っている、私の国籍は天国である」と、彼は確信したのです。
パウロの目ざした目的とは、罪の赦しではなかった。すでに得ていたからです。また、パウロの目ざした目標とは、地上における名声でもなかった。なぜなら、パウロはすでに生きている間に主イエス様のものになっていただけではなく、非常に恵まれた人として、動かすことのできない名声も、確保していたのです。また、異邦人に対する使徒として、すべての人に認められていたのです。パウロは一度も他の人に認められたいなどと思ったことはないのです。
パウロの時代には、自分の栄誉のために働く兄弟姉妹がいたようです。ピリピ人の手紙を読むとわかります。そういう兄弟姉妹は、ねたみや、闘争心、また、党派心や虚栄からイエス様を宣べ伝える人々でした。パウロは「イエス様が宣べ伝えられれば、私は喜ぶ」と言ったのです。けれども、パウロの時代にもそうでしたが、この末の世ではなおさら、そうではないでしょうか。信じる者の中にも、認められたいと願う霊が働き、何とかして、信用を得、名声を博し、大いなる者と呼ばれたいと、働く人がいます。
イエス様に出会った者は、イエス様によって救われたとき、その喜びの余り、「自分の持っているものはすべて主にささげ、主に仕えたい。この世の名声は問題ではない」と思ったことがあるはずです。けれども、そのうちに、名誉心が頭をもたげてきて、「自分は何かになりたい、認められる者になりたい」と思うようになります。口では、もちろん、「主にすべてをささげて、主に仕えている」と言いますけれども、実際には人間の誉れを求める人がいるのではないでしょうか。もし人の誉れを求めているなら、肉においてはおのれを喜ばせ、当りさわりのない楽な生活をすることができるでしょうけれど、パウロのように、ただ、主の誉れを求め、上のものを目ざして走ろうとする者は、いろいろな困難が降りかかってきます。
パウロの証しは、コリント第一の手紙を見ると次のように書き記されています。
コリント人への手紙・第一 4章9節から13節
私は、こう思います。神は私たち使徒を、死罪に決まった者のように、行列のしんがりと
して引き出されました。こうして、私たちは、御使いにも人々にも、この世の見せ物になっ
たのです。私たちはキリストのために愚かな者ですが、あなたがたはキリストにあって賢い
者です。私たちは弱いが、あなたがたは強いのです。あなたがたは栄誉を持っているが、
私たちは卑しめられています。今に至るまで、私たちは飢え、渇き、着る物もなく、虐待さ
れ、落ち着く先もありません。また、私たちは苦労して自分の手で働いています。はずかし
められるときにも祝福し、迫害されるときにも耐え忍び、ののしられるときには、慰めのこと
ばをかけます。今でも私たちはこの世のちり、あらゆるもののかすです。
パウロの目ざした目標は、罪の赦しではなかったのです。彼は、自分の罪はもう既に赦されて永久的に忘れられている、という確信を持っていたのです。また、パウロの目ざした目標は、地上における名声でもなかったのです。パウロの目ざしたものは、もちろん、自分の持ち物でもなかったのです。自分の持ち物を少しでも多く持とうという願いは、確かに、若い頃のパウロの切なる願いだったに違いない。彼は知的にも人より優れようとし、非常な努力をしました。
ピリピ人への手紙 3章の5、6節を読みます。
私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっ
すいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法
による義についてならば非難されるところのない者です。
パウロが若い頃に持っていたこのような霊は、天からのものではなかったのです。従って、天の報いとは少しの関係もありません。
多くのキリスト者は、ただ自分の祝福だけを求めて祈り、信仰生活を続けますけれども、他人の祝福を願わないで自分の祝福だけを求める人は、あたかも、登山靴をはいて、リュックサックを背負って走る競技者のような者なのではないでしょうか。このような人は、しばらくは走るけれども、途中で疲れてしまい、動けなくなってしまうのです。
パウロは当時イエス様のことを宣べ伝えた人たちについて、悲しいことを言ったのです。
ピリピ人への手紙 2章21節
だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。
同じピリピ人への手紙3章18節で、パウロは、「このような人たちは、キリストの十字架に敵対して歩んでいる人たちだ」と言っています。彼らは、イエス様ご自身に敵対してはいません。イエス様を知り、イエス様を信じ、罪の赦しをいただいた兄弟姉妹です。それでもなお、十字架に逆らっているというのです。これらの人たちは、「誤解されたくない、侮られたくない、イエス様のために恥を負いたくない」人たちです。これらの人たちは、人の思いで、イエス様に十字架にかからないようにといさめたペテロに似ている者です。イエス様はペテロに、
マタイの福音書 16章23節
「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、
人のことを思っている。」
と激しく言われたのです。
ペテロは、イエス様に従うようになり、全部を捨てたのです。イエス様を第一にする者
です。けれども、気づかないうちに、彼は悪魔と同じ思いになってしまったので、イエス
様は「下がれ。サタン」と言われたのです。
「イエス様の十字架の敵」とは、ピリピ書3章の19節によると、「地上のことを思っている人たち」のことを言います。私たちは十字架に敵対しているのでしょうか。それとも、神の国とその義とを、まず第一に求めているのでしょうか。
パウロは体を伸ばして走るようになったのです。どうしてでしょうか。いうまでもなく
救われるためでもない。地上における名声のためでもない。自分の持ち物を得ようと思ったからでもない。パウロはどうして体を伸ばして走ったのでしょうか。彼の目的とは一体何なのでしょうか。奉仕の結果でもなかったと考えるべきではないでしょうか。
パウロは、驚くほど主に祝福され、すばらしいご奉仕をしました。そのご奉仕の結果が彼の目的ではなかったのです。前に話しましたように、パウロは今、ローマの牢獄でピリピにいる兄弟姉妹に手紙を送っています。パウロはそのご奉仕の大部分を、すでにその時終わったのです。しかもなお、
ピリピ人への手紙 3章13節、14節
ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに
向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を
目ざして一心に走っているのです。
と言っています。
多くの人は、パウロの奉仕によって救われ、また、パウロの奉仕によって主をよりよく知るようになりました。けれど、パウロは奉仕の結果を目標にはしていなかったのです。私たちも、奉仕の結果を最後の目的とするならば誤りです。
ある人は奉仕といって奉仕に熱中しています。けれども、もし病に倒れて何年間も寝たきりになれば、一体どういうことになるのでしょうか。やっぱり、絶望してしまいます。
また他の人たちは、ご奉仕を出来る環境にあるのに、自分は出来ないと言います。他の人だけ豊かに祝福され、自分は祝福されない。そのようなときは、一体どういうことなのでしょうか。
もちろん、イエス様は、私たちが真実に主に仕えることを願っておられますけれども、奉仕そのものが目的となり、まことの奉仕に達するための妨げとなるなら、ちょっと悲しいことなのではないでしょうか。前に引用したパウロの証しをもう一度読みます。
使徒の働き 20章24節
けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福
音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思い
ません。
パウロが求めていた報いとは一体何なのでしょうか。今まで、彼の求めていた報いは何でなかったかを見てきましたけれど、パウロが求めていた報いとは一体何なのでしょうか。
彼の書いた手紙を読むとはっきりわかります。
1.彼の求めた報いとは、目的とは、ただ「主の誉れ」だけでした。
「イエス様が中心になれば、もうそれで結構です」。まことの報いを目ざして、ひたすらに走る者は、信者や他の人たちの栄誉を求めず、ただ主イエス様の誉れを求めて走ります。
ダマスコの途上で、復活なさったイエス様が、パウロに出会われたのです。パウロは、捕えられ、監禁されてしまったのです。その時から、主は、一つの目的を持ってパウロに出会われたのです。パウロは、主は、自分を主の僕として奉仕をするために救ってくださったのだと思ったに違いありません。
けれど、今、パウロは、何年もの間ご奉仕を続けた後、捕われの身となって、ローマのひとやに繋がれています。そして、ピリピの主にある兄弟姉妹に手紙を書き送っています。
目に見える伝道のご奉仕は大体終わったというのに、彼はなお、「目的を目ざして走っている」と書き送っているのは、一体どういうことなのでしょうか。御霊は絶えず、パウロを前の方に追いやってやみません。ですから、パウロはそのように言わざるを得なかったのです。
主ご自身は、パウロよりもっと大きな関心を持って、このまことの目標を達成しようと願っておられました。ですから、パウロをして、目標を目ざして励ましめたのです。問題は、私たちが満足するのではなく、主が満足されることです。
また、主は、私たちが、主が示される目的だけに向かって邁進することを願っておられます。その時はじめて主は満足なさいます。
パウロの著しい特徴は、主をお喜ばせするために、すべてのことをしたということなのではないでしょうか。回心の時にもうすでに、彼はなんと言ったかと言いますと、「主よ、私はこれから何をしたら良いのでしょうか」と主の御声に耳を傾け、それに聞き従いました。パウロの生涯は、主の指図どおりに動いていたのではないでしょうか。ですから、主は、パウロに、ご自身のご目的を上から教えられたのです。パウロは主のまことの目的を知ったからこそ、ただひたすら体を前に伸ばして、それを目ざして前進しました。
けれど、この主のご目的は一体何だったのでしょうか。
イエス様はゴルゴタで十字架におかかりになる前に、父なる神に祈って言われたのです。
ヨハネの福音書 17章24節
父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょ
におらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下
さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。
もちろん、この祈りは必ず聞かれます。
また、よみがえられ、昇天され、引き上げられたイエス様は、弟子ヨハネに次のように
言われました。これも考えられないほど、すばらしい約束です。
ヨハネの黙示録 3章21節
勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を
得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。
イエス様とともに御座に着く。主とともに永遠に支配する。これこそがパウロの目ざした目的であり、また報いでした。何という驚くべき栄光に満ちた立場でしょう。人からの誉れは小さなものです。「主とともに永遠に過ごす」という驚くべき声が、私たちを待っているのですから。
パウロの目ざした目的、報いとは何だったでしょうか。「主の誉れ」です。
2.「自分の持ち物を求めず、自分をむなしくする」ことです。
今読みました箇所の中で、「わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座についたのと同じである」とあります。この主イエス様のみことばの裏に、「わたしを模範として、わたしに従いなさい」という意味が含まれています。ピリピ人への手紙に、イエス様の勝利の道を歩む模範が書かれています。毎日読むべき箇所ではないでしょうか。
ピリピ人への手紙 2章5節から11節
あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのう
ちにも見られるものです。キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てる
ことができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じように
なられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで
従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、
すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるも
の、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、
「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。
イエス様は主なる神の御ひとり子であられましたから、天におられたならば、何の不自由もなく、驚くべき祝福のうちに住むことがお出来になったのに、ご自分の身をむなしくして、しもべの形をとり人間の姿になられ、それだけではなく、おのれを低くして死に至るまで、しかも、十字架の死に至るまで従順であられました。全部、考えられない、想像出来ないことです。けれども、聖書の中心テーマはそれなのです。人間が何を信ずべきか、するべきかではなく、「イエス様の犠牲の死」です。
イエス様は人の誉れも、人の名誉も得ようとは、ひと時も思われなかったのです。また、イエス様はご自分のものを求めようとは思われなかったのです。まったく、おのれをむなしくしておられたのです。
もちろん、イエス様は結果を数える奉仕者ではなく、ただ、み父に従順に従い、十字架の死に至るまで従順であられたのです。
このイエス様の霊は、み父にことごとくよみせられましたので、イエス様がよみがえられたとき、み父は、イエス様に一番高い御位をお授けになったのです。イエス様は今、天の御位に座しておられますけれど、ただお一人でそこにいることを願っておられません。イエス様が十字架に掛かってくださったのは、信じる者一人一人が、ご自分の霊をもち、御座に着くことが出来るようになるためでした。
だからこそ、パウロはその道がどんなに恥と苦しみに満ちていても、御座に続く十字架の道を自ら選び取ったのです。この道はパウロにとって、決して気楽な散歩道ではなかったのです。やがて、主の御手からいただく驚くべき報いを知ったとき、それまでたくわえ受け継いでいた律法の義、その他ありとあらゆるものは、パウロの目にはちり、あくたのように見えたのでした。パウロはそれらをひと思いに捨ててしまいました。
けれども、パウロにとって、栄光への道は孤独の道でもありました。なぜなら、小羊であられる主イエス様の行かれる道は、恥とそしりの道であるからです。けれど、恥とそしりに満ちたこの道の終わりは、栄光の御座の真中に続いているのです。しかし、十字架に敵対して歩いて行く者は、これと反対の経験をするでしょう。彼らの歩いて行く道は、人の誉れと名声を求める道であり、彼らの求めている栄光は、やがて恥とそしりに変えられることでしょう。
ピリピ人への手紙 3章18節、19節をもう一度読みましょう。
というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのです
が、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。彼らの最後は滅びで
す。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは
地上のことだけです。
「キリストの十字架の敵」であって、「キリストの敵」と書いてありません。
十字架の道は、恥とそしりの道です。イエス様が裸にされ十字架につけられた時、群集はイエス様を指差し、「彼は私たちと同じく、等しく人間ではないか、神の子だと言うのは偽りではないか」と、思う存分そしり、あなどりました。福音書を見ると、次のように書かれています。
マタイの福音書 27章39節から40節
道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。」
ルカの福音書 23章35節から37節、39節
民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救っ
た。もし、神のキリストで、選ばれたものなら、自分を救ってみろ。」兵士たちもイエスをあざ
けり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、「ユダヤ人の王なら、自分を救え。」と
いった。十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリス
トではないか。自分と私たちを救え。」と言った。
十字架の道は、恥とそしりの道です。イエス様は十字架の死に至るまで、従順でした。国がイエス様を十字架につけたのではない。私たち一人一人に対するはかり知れない愛が、イエス様を十字架につけたのです。
私たちの真中におられる、よみがえられたイエス様は、私たちが十字架の敵であるか、あるいは十字架をいとわず、恥も死もいとわず、すべてを主にささげているか、すべてをご存知です。私たちは、ピリピの兄弟姉妹のように、主のみに喜ばれる者になっているのでしょうか。
ピリピ人への手紙 2章25節から30節をお読みいたします。
しかし、私の兄弟、同労者、戦友、またあなたがたの使者として私の窮乏のときに仕え
てくれた人エパフロデトは、あなたがたのところに送らねばならないと思っています。
彼は、あなたがたすべてを慕い求めており、また、自分の病気のことがあなたがたに伝わ
ったことを気にしているからです。ほんとうに、彼は死ぬほどの病気にかかりましたが、神
は彼をあわれんでくださいました。彼ばかりでなく私をもあわれんで、私にとって悲しみに
悲しみが重なることのないようにしてくださいました。そこで、私は大急ぎで彼を送ります。
あなたがたが彼に再び会って喜び、私も心配が少なくなるためです。ですから、喜びにあ
ふれて、主にあって、彼を迎えてください。また、彼のような人々には尊敬を払いなさい。
なぜなら、彼は、キリストの仕事のために、いのちの危険を冒して死ぬばかりになったから
です。彼は私に対して、あなたがたが私に仕えることのできなかった分を果たそうとしたの
です。
パウロは、ピリピの信じる者の群れに属しているエパフロデトについて、このように、書いたのです。このエパフロデトに対しては、「私の同労者、私の戦友、私の兄弟」と呼びかけています。エパフロデトは、パウロと同じく、永遠に朽ちない一つの目的を目ざして走る競技者でした。この一つの目標を心の目で見た者は、自分自身をかえりみません。「自我」という足かせから、解放されているからです。
ピリピ人への手紙2章の21節と30節は、実に著しい対照を示していたのではないでしょうか。
21節は、はかない人の名声を求めて走る者の姿が、書かれています。
だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリストのことを求めてはいません。
30節には、朽ちることのない天の御国を求めて走る人の姿が、書かれています。
彼は、キリストの仕事のために、いのちの危険を冒して死ぬばかりになったからです。
パウロ自身、前に読みましたように証ししたのです。
使徒の働き 20章24節
私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた神の恵みの福音をあかしす
る任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。
また、エパフロデトも、パウロも、ただ一つの天の賞与を求めて走り続けました。
ピリピ人への手紙 3章13節、14節
ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに
向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を
目ざして一心に走っているのです。
パウロは有能な主に仕えるしもべとして、当時すでに認められていたのです。パウロは名声も得ていたので、彼が残る天の栄誉を目ざして走ることは、簡単なことだったという人もいるかもしれませんけれど、エパフロデトを考えてみましょうか。彼は、名もない、誰の目にも目立たない、普通のひとりの信者に過ぎなかったのです。けれども主の目からは、パウロも、エパフロデトも、同じ主に仕える者として見えたに違いありません。問題は、私たちが何と何をしたかということではない。私たちがどれほど、主に忠実で従順であったかということです。
コロサイ人への手紙をみると、パウロは信じる者のとるべき態度について、次のように書いたのです。
コロサイ人への手紙 3章23節
何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。
そうしないと、疲れてしまい落ち込むようになり、喜びもないし、力もないと言えます。
パウロの目ざした目標は何だったのでしょうか。ピリピ書を見ると、次の答えが出ます。すなわち、パウロの目ざした目標とは、イエス様を知る知識の絶大な価値でした。
ピリピ人への手紙 3章8節
私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損
と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思って
います。
パウロは、このためにすべてのものを捨て去りました。パウロがここで言っている、「キ
リスト・イエスを知っていることのすばらしさ」は、イエス様について知る知識とは全く違います。より以上に優れたものです。
キリストについての知識は、集会に来たり、聖書の学び会に出席したり、本を読んだりすることによって、たくわえることが出来るでしょう。パウロは、イエス様について知りたいとは言っていません。さらにまさるものを求めていたのです。
すなわち、「私はキリストを得たい」と、彼は心から叫んだのです。これは一体何を意味しているかと言いますと、パウロは、「よみがえりの主のいのち」を、自分のものとしたかったのです。それでは、そのよみがえりの力は、どうしたら自分のものとすることが出来るのでしょうか。それはイエス様の苦難にあずかって、その死のさまに等しくなることによってのみ、自分のものにすることが出来るのです。
私たちが、すべてを主にささげた献身者として、自分が持っている考え、意思、感情、
すべてを主にささげ、自分の当然持ってよいと思われる権利も、主にささげたいものです。
御座で主の賞与を得る者は、聖書の知識が豊かな者ではないでしょう。また、熱心に奉仕する者でもないでしょう。どういう者なのでしょうか。
そういう奉仕者とは、結局、キリストの霊に豊かに満たされている者です。
ピリピ人への手紙 3章13節、14節
兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励
んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心
に走っているのです。
パウロは、誰が何と言おうと、このただ一つの目的を目ざして走り抜こうと決心したのです。パウロは、何としてもこの賞与を得たいと願いましたから、他の人は変な気持ちを持っていたかもしれません。けれども、パウロは、「人間はどうでもいい。私のために死なれ、復活なさったイエス様だけを仰ぎ見ると解放される」とわかったのです。
ヘブル人への手紙 12章2節
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。
イエスはご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を
忍び、神の御座の右に着座されました。
イエス様だけを仰ぎ見ると、やっぱり、喜びがわいてきます。
了
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