捕えられた者として歩みましょう (3)
2004.3.30(火)
ベック兄メッセージ(メモ)
引用聖句
ピリピ人への手紙 3章12節から14節
私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えよう
として、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくだ
さったのです。兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、こ
の一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進
み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一
心に走っているのです。
17節
兄弟たち。私を見ならう者になってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本
として歩んでいる人たちに、目を留めてください。
先週の木曜日、誕生日プレゼントをもらいました。ちょうど誕生日だったものですから、結果はどうであれ、主は最善をなすお方であられることを確信しました。
今、重田兄弟が言われたように、慢性白血病だけですから、だから再臨までもちます。(笑)全く心配する必要はないのですが、今、腰が痛くなって、どうしてなのか、それもわかりません。普通、変に動くとおかしくなるのですけれど、そうではなく、土曜日に、私よりもずっと先輩の方々5、6人と――徳島と高知から来られた方々なのですけれど――話していた時、急に腰が重くなって痛くなりました。悪魔の攻撃だったのかもしれないけれど、それにしても主は赦されたのです。ですから、白血病はどうでもいいけれど、腰が痛いのは面白くない。病気は危なくないけれど、腰が痛いだけです。
この間、私が昔入っていた団体にいるご夫婦と会いました。彼らは導かれてイエス様を信じるようになりました。その団体も、宣教師がいる間は非常に良かったそうです。けれども、普通の団体は皆そうなのですけれど、信者が15人、20人集まれば、それでもう充分なのです。宣教師は、また別のところへ行って、開拓伝道をしなければなりません。そして、若い牧師が呼ばれます。だいたい神学校を出たばかりの22、23才位の人たちです。このケースもそうでした。勿論独身ですけれども、牧師ですからやっぱり、「先生」と呼ばれるようになり、皆は従わなくてはいけない。このご主人は、教会に行くのをやめたのです。それで奥さんは非常に悩むようになりました。これから集会に来るようになると思うのですけれども、結局、普通の牧師は一つの教会のことしか考えていない。自分の教会のことだけしか考えていません。それは決して良くないことです。
集会が吉祥寺で始まった時の私の切なる願いとは、「私がいてもいなくてもいいように」ということでした。現実問題としても、そう言えるでしょう。
日曜日の吉祥寺には、毎年1回しかいません。だから、いなくてもいいでしょう。今、重田兄弟が言われたように、百何十人の兄弟たちが御言葉を宣べ伝えるようになったことは、本当に有難い。ですから、私がいなくてもいいのではないでしょうか。かえって、皆、熱心になります。今晩も、掛川まで行くつもりだったのですけれど、隣にいる青柳まこと兄弟は、まことにまことに、いい兄弟です。(笑い)私の代わりに「行く」と言うのです。明日も伊那に行くつもりだったのですけれど、羽石兄弟が、「いいよ。代わりに行きます」と言っているから、やっぱり有難い話なのではないでしょうか。多くの兄弟たちが、主を宣べ伝えるようになったのは本当に有難いことです。
どうして兄弟たちが御言葉を宣べ伝えるようになったかと言いますと、姉妹たちが反発しなかったからです。姉妹たち無しに出来るものではありません。だから、続いて、「走りましょう」。
パウロのメッセージとは、それなのではないでしょうか。今、読みました箇所の中でも、結局、「捕えられた者として走りましょう」と、そういう呼びかけです。イエス様を知るようになってからの、心がまえについての箇所です。
ピリピ人への手紙 1章21節。
私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。
パウロは、自分の肉体が滅びると、天のすみかに帰り、主イエス様と共に生きることが出来ることを楽しみにしていました。
ピリピ人への手紙 1章23節。
私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリスト
とともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。
パウロは、自分自身のことは少しも考えなかったのです。自分のすべては主にあることを、よく知っていたからです。
ピリピ人への手紙 4章18節。
私は、すべての物を受けて、満ちあふれています。
と、パウロは言うことが出来たのです。
このパウロは、目標目ざして神の賞与を得ようと努めたのです。このパウロの目的とはいったい何だったのでしょうか。
ピリピ人への手紙 3章8節。
それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっ
さいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちり
あくたと思っています。
パウロは、イエス様をよりよく知るために、すべてのものを捨て去りました。パウロがここで言っているキリスト・イエスを知っていることのすばらしさは、キリスト・イエスについて知る知識とは全く違います。より以上にすぐれたものです。
キリストについての知識は、この間話したように、聖書を読むことによって、集会に出ることによって、たくわえられるものでしょう。けれども、パウロは、「私はイエス様についてもっと知りたい」と言っていません。「イエス様を得たい」と、心から叫んだのです。これは何を意味しているかと言いますと、パウロは、「よみがえりの主のいのち」を、自分のものとしたかったからです。
それでは、このよみがえりの力は、どうしたら自分のものにすることが出来るのでしょうか。それは、イエス様の苦難にあずかって、その死のさまに等しくなることによってのみ、自分のものとすることが出来るのです。
私たちは、すべてを主にささげた献身者として、自分が持っている考え、意志、感情、すべてを主にささげ、又、自分の当然持ってもよいと思う権利も、主にささげたいものです。御座で主なる神の賞与を得る者は、聖書の知識が豊かな者ではありません。又、熱心に奉仕した者でもないでしょう。キリストの霊を豊かに内に宿している者は、主の賞与を豊かに受けるに違いありません。普通の競争は、自分だけのことを考えるものです。自分だけが速く走り、「一番になりたい。他の人たちは別にどうでもよい」と、誰でも考えますけれど、御座に向かって走る兄弟姉妹の競走は、これと全く反対のものです。おのれをむなしくし、他の人々を、かえりみ、助け、仕えていく者が、一番早く御座に達することが出来るのです。
「妥協するよりも、死んだ方がましだ」と決心したパウロは、ローマの刑務所の中で、次のように書いたのです。
ピリピ人への手紙 3章17節。
兄弟たち。私を見ならう者になってください。
パウロの祝福された人生の特徴は、彼の「謙遜」だったのではないでしょうか。確かに彼は、人間的に考えれば、誇ろうと思えば誇ることが出来たはずです。けれどもパウロは、いつも自分の限界を知り、全能なる主によりすがったのです。このようにパウロは用いられ、多くの人々は祝福されたのです。パウロは、ある町ルステラで福音を宣べ伝えただけではなく、奇跡を行なったのです。それを経験し、自分の目で見た人たちは、パウロを、非常にほめそやしました。その時パウロは、群集の中に飛び込んで叫んだのです。「皆さん。私もあなたがたと全く同じ人間です。大切にされるべき者ではありません」。
結局、パウロは、私たちと全く同じ人間です。このパウロは、初めから主に用いられた人ではなかったのです。徐々に、主の恵みによって変えられるようになりました。
パウロは、改心の直後に、自分自身のことについて考えました。
コリント人への手紙・第一 15章9節で言っています。
私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。
なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。
すなわち、パウロは、コリントの兄弟姉妹の中の一人の長老に言ったでしょう。
「羊皮紙と筆を持って来て、使徒たちのリストを作りなさい。はじめに、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの順に書き、もし終わりに、まだ書く余地があるなら、一番下に、一番小さな字で、『使徒たちの中で一番小さな者、パウロ』と書きなさい」。パウロは、本当にへりくだっていたのです。
それから数年後、パウロはエペソ人への手紙を書いたのです。この手紙に見られるように、彼らに、イエス様の教会について書き送っています。その中で、聖徒たち、主の恵みによって救われた人たちに、パウロはまた書いたのです。
「羊皮紙と筆を持って来て、信じる者のリストを作りなさい。あなたの知っている聖徒たちの名前を書き連ねて、なお、紙に余りがあったなら、その一番下に、一番小さい字で、『使徒たちの中で最も小さな者、パウロ』と書きなさい」。
そしてパウロは、自分の生涯の終わりにして、イエス様にあっての息子テモテに、
「キリスト・イエスは、この世の罪を救うためにこの世に来て下さったことを、あなたは知っている。羊皮紙と筆を持って来て、罪びとたちのリストを作りなさい。その時、一番はじめに、一番大きな字で、『罪人の頭パウロ』と書きなさい」と言っています。
けれども、パウロはこれだけではなく、最後にもう一つの言葉を残していきました。
「テモテよ。筆と赤いインクを持って来て、もう一度使徒たちのリストを取って次の言葉を書き入れなさい。『主の恵みにより、イエス・キリストの使徒パウロ』と、書きなさい。
次に、聖徒たちのリストを持って来て、『主の恵みにより、イエス・キリストのうちにある聖徒パウロ』と、書きなさい。罪人のリストを持って来て、『主の恵みにより、子羊の血によって贖われた、買い取られ、聖められた罪人パウロ』と書きなさい」。
イエス様の恵みを、ほめたたえることの出来る兄弟姉妹は本当に幸せです。
ペテロの手紙・第一 5章10節に、次のように書かれています。
あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中
に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅
く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。
御心にかなう者にと、ダビデは絶え間なく祈り続けたのです。「主よ。私を調べ、私を試みてください。私の思いと私の心を試してください」。
私たちは、心から願いを持って、自らのうちを主の光によって照らし、試していただく必要があります。主の光に照らされると、小さくなります。顔を上げられなくなります。「どうしよう」としか、考えられないでしょう。
ヨハン・セバスチャン・バッハは、心から証ししたのです。あるカンタータに出てくる言葉です。
「私は私の生活を見ると、私の口から次の言葉が出てきます。『主よ。私の神よ。あなたは私のために何をなされたのでしょうか。たとえ私の舌が千枚あっても、あなたのなされたことを言い表わすことが出来ません。あなたは何と善良なのでしょう。あなたの愛は何と豊かでしょう。だから、あなたに賛美と栄光の歌を歌います』」。
使徒パウロは、どうしてそのように用いられたのでしょうか。へりくだったからです。私たちはただ救われるために救われたのではなく、主イエス様の御姿に変えられるために救われたのです。そして、イエス様の御姿に変えられるために、まことの知識にあずかる必要があるのです。
けれども、まことの知識の内容とはいったい何なのでしょうか。
私たちは、「自分の生まれながらの罪の性質は決して直らない」ということを、知らなければなりません。これを知っている人は、自分ですることが出来ません。主により頼まなければ、何もすることが出来ないということも知っているのです。
私たちは、罪を赦されて、主から義と認められるためには、自分で何もすることが出来ませんでした。ただ一方的な憐れみによって義とされました。これと同じように、私たちが聖められていくのも、自分の行ないではありません。このことも知らなければならないのではないでしょうか。このことを、まことの知識として知っている人は、自らを、自ら聖めようと努力することをやめ、ただ、復活なさった、支配し給うイエス様に、自らを、お委ねするはずです。
けれども、問題は、「如何にしてこのような知識に至るか」ということです。それは、
イエス様と同じ御姿に変えられていくことによってのみ、出来るのです。イエス様の霊は、イエス様と同じ御姿に私たちを変える御業を、ただ悩みによってのみ行なわれます。
悩みと戦いの真っ只中にあってはじめて、イエス様と同じ姿に変えられていくのです。
イエス様は、私たちを、人間的な目で見るならば、全く望みのない状態に導いてくださいます。どうしてなのでしょうか。それは、私たちが、「私たちの生まれながらの罪の性質は絶対に良くならないものである」ということを、本当の知識として知っているかどうか、また、私たちは、「聖きに至ることについて全く無力である」ということを、「まことの知識が、単なる教えであるか、また、私たちのいのちとなっているか」、これらを試してみるために、主は悩みのうちに私たちを導いてくださるのです。
イエス様が私たちを通して、集会全体を通して、現わされていかなければいけませんが、これは主ご自身のご計画です。そして信じる者が悩み、苦しみ、押しつぶされているのは、主のご計画です。その苦しみによって、この兄弟姉妹の中にイエス様の御姿が形造られていきつつあるのです。イエス様に変えられることこそが、主の導きの目的ですから、すぐに祈りに答えて悩みから解放されるということをされないのです。
「御心だけがなるように」、主イエス様によって、すべてが創造されました。けれども、イエス様は、たたかれ、鞭打たれ、つばきせられ、侮られたのです。もしイエス様がそうしようと思われたなら、それらの人々は、イエス様の一言でこの地上から抹殺されたはずです。たちどころに滅んでしまったはずです。けれども、イエス様は耐え忍んですべてを負われ、自ら悩みを良しとされ、両手両足に釘を打たれ、十字架上で、「お前は人を救ったのに自分を救うことが出来ないのか」とののしられたのです。もし、そうしようと思われたなら、イエス様のために天の軍勢が控えていましたから、イエス様の一言で、イエス様を救うためにやって来たことでしょうけれど、イエス様はそうされませんでした。
イエス様は、柔和にして心へりくだったお方です。私たちはこのような主と同じ御姿に変えられていきたい者なのではないでしょうか。イエス様は透き通った人格の持ち主でした。極みまでご真実なお方でした。偽善を知らなかったお方です。又、二心を持たなかったお方です。向こうへ行ってあのように言い、こちらに来て都合の良いことを言う、といったお方ではなかったのです。私たちは、このイエス様の御姿に変えられなければなりません。
イエス様は、はっきりとした目的を持っていたお方でした。イエス様は祈りの方でした。また、勇気のお方でした。柔和にして、心へりくだったお方でした。平安、平和、喜びのお方でした。この御姿に私たちも変えられていきたいものです。これに至る道は、主の歩まれた道を歩む道です。悩み多き道、誤解に満ちた道です。又、それはあざけりの道です。私たちは、静かにイエス様によって吟味していただく必要があります。
「主が私たちに語ってくださり、妨げとなっているものをすべて明らかに示してくださるように」と、ダビデは祈ったのです。
詩篇 139篇23節。
神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。
ダビデの祈りはきかれたのです。彼は御心にかなう人と呼ばれただけではなく、考えられないほど多くの人々が、彼を通して祝福されたのです。エレミヤ哀歌の御言葉も、非常に大切な御言葉です。
哀歌 3章40節。
私たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう。
主は、「立ち返るべきである」と言っておられますが、どうしてでしょうか。それは、信じる者が間違った方向に進んでしまったからです。もどらなければならない。何故でしょう。それは私たちが主から離れてしまったからです。このことを認識することは、非常に謙遜なことです。そして、認めることの出来た債務を告白することは、非常に大切な、必要なことです。
旧約聖書に出てくるサムソンという男は、主に選ばれた民に属し、信者で、長い間主の御手にある器でした。今日は時間がないのですけれども、土師記16章を読むと、彼自身の抑えがたい情熱によって、気が付かないうちに、主の霊が彼から去ってしまったことがわかります。イスラエルの敵は、サムソンをあざ笑いました。というのは、彼は、主の霊なしには、力無く、望み無く、助けのない者になったからです。何という悲劇なのでしょうか。
ダビデは、ただ単に主の選ばれた民に属していただけではなくて、選ばれた民の指導者でした。サムエル記下の11章を見ると、彼はバテ・シェバという女性と姦淫を犯し、ナタンという預言者の奉仕によって、自分自身を主の光の中に見ることが出来、次のように告白せざるを得なかったのです。「その姦淫をした男は私です」。ここにも比類の無い悲劇があります。
エリヤという預言者は、主に選ばれ、遣わされた預言者でした。けれども彼は、ある時落胆して荒野に引き返し、主に、「自分のいのちを奪ってほしい、死にたい」と真剣に祈ったのです。列王記上の19章を見るとわかります。すなわち、彼はペチャンコになってしまいました。そのことに対して、悪魔はどんなに勝ち誇ったことでしょうか。
イザヤという預言者は、自分自身を主の光の中に見ました。彼は、自分の不潔さ、不純さに驚き、次のように叫ばざるを得なかったのです。すなわち、「私はわざわいなるかな。私はもうダメです」と彼はすべての障害物を認識し、告白したのです。
イエス様の弟子たちのことを考えても、同じことが言えるのではないでしょうか。最後の晩餐のとき、イエス様は言われました。「あなたがたのひとりがわたしを裏切ります」。
するとひとりの例外もなくすべての弟子たちは、驚いて尋ねました。「主よ。それは私でしょうか」と。私たちもまた、「主よ。それは私でしょうか」と問うべきです。「私たちは、あなたを悲しませたのでしょうか。隠れたところにある障害物を、私にお示しください。私の障害物を認める恵みをお与えになってください」。
ペテロが、自分の恐るべき絶望的状態を認めるようになったことが、ルカ伝の22章を見るとすぐわかります。
ルカの福音書 22章62節。
彼は、外に出て、激しく泣いた。
とあります。「もうおしまいだ」と彼は思ったのです。
けれども、これらのしもべたちは主に立ち返りました。光の中に出ることを敢えてしたのです。すべて偽善的な行為をやめたのです。私たちも、
サムソンのように、力のない、望みのない、助けのないあらゆる状態から脱出すべきです。ダビデのように、あらゆる偽善と姦淫から脱出すべきです。
・エリヤのように、あらゆる無気力さと失望落胆から脱出すべきです。
・イザヤのように、あらゆる目くらの状態と不純から脱出すべきです。
・ペテロのように、あらゆる思い、高ぶりと傲慢から脱出すべきです。
聖書の報告とはすばらしいものです。すなわち、サムソン、ダビデ、エリヤ、イザヤ、ペテロは自分の罪過を認め、主に告白し、主のみもとに立ち返った後、全く回復されたのです。本人たちは、それを考えられなかったし、望もうとしなかったのにです。
イエス様の苦しみにあずかることなしには、成長も、実を結ぶこともあり得ません。日々、打ち砕かれることなしには、私たちの自我は主の働きの妨げとなります。打ち砕かれた後ではじめて、主はお用いになります。
・旧約聖書に出てくる、ギデオンと共にいた300人の兵士たちの持っていた土の器が砕かれた時はじめて、その中に入っていた松明が光を放ちました。
・主はまずご自身に持って来られたパンを裂くことによってはじめて、何千人もの人を満足させることがお出来になりました。
・ナルドの壷も又、高価な香りを家中に満たす前に、砕かれなければならなかったのです。
・サウロが徹底的に砕かれる備えを持った時にはじめて、主は、彼を用いることがお出来になったのです。
・ヤコブも、腰の骨をはずされてビッコを引いて歩くようになったと、聖書に記されていますが、彼もまた砕かれた後はじめて、祝福を受けるようになったのです。
イエス様のいのちは、私たちが日々主に自分の意志を意識的に従わせることによって、砕かれることによってのみ、明らかになります。自己否定は、自分の権利をささげることです。自分により頼まないことです。私たちの思いは大切ではありません。
イエス様の祈りこそが、私たちの毎日の心からの叫びであるべきなのではないでしょうか。すなわち、「私の思いではなく、あなたの御心だけをなしてください」。
ですから、イエス様から、恵みの流れが、いのちの泉が、人々に分け与えられるのです。自分の考え、感情、意志、すべて主のご支配のもとに置かれるとき、私たちの中からも、いのちの泉が湧き出て来るはずです。
毎日、祈るべきなのではないでしょうか。すなわち、
「イエス様。私は自らに絶望しています。自ら何もすることが出来ません。どうか、私を通してご自身の御心をなさしめてください」
と祈ると、主は大いに祝福してくださるのです。
了
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