捕えられた者として歩みましょう(4)
2004.4.6(火)
ベック兄メッセージ(メモ)
引用聖句
マタイの福音書 11章28節
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すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。 |
マタイの福音書 25章22節から23節
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「二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともによろこんでくれ。』」 |
テモテへの手紙・第二 4章7節から11節
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私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。あなたは、何とかして、早く私のところに来てください。デマスは今の世を愛し、私を捨ててテサロニケに行ってしまい、また、クレスケンスはガラテヤに、テトスはダルマテヤに行ったからです。ルカだけは私とともにおります。マルコを伴って、いっしょに来てください。彼は私の務めのために役に立つからです。 |
この前から始まっているテーマについて、続けて考えたいと思います。テーマは、「走り
続けましょう」。すなわち、「戦い続けましょう」です。
今、最後に読みましたテモテ・第二の手紙の4章9節に、「あなたは、何とかして早く私のところに来てください」と、パウロが書いたのですが、イエス様の呼びかけもそのようなものなのではないでしょうか。「あなたは、何とかして早くわたしのところに来なさい」。
多くの人たちの、最も大好きなみことばの一つは、マタイ伝11章28節なのではないでしょうか。
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すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。 |
どういう状況におかれていても、どういうことがあっても、「あなたは、何とかして、早くわたしのところに来なさい」。すばらしい呼びかけなのではないでしょうか。
ある時、私は一人の人に攻撃されたのです。電話でだったのですが、「簡単過ぎますよ…」と。「救われるのは、そんなに簡単なものではない。やっぱり、人間は苦労しないと、勉強しないと、悟らないと、立派にならないと、救われ得ません」と、そういう考え方だったのです。
けれど、私たちの持っている聖書の言っていることは違います。「早く、わたしのところに来なさい。わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」。
ヨハネの福音書 1章12節に、
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しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。 |
とあります。
イエス様を救い主として受け入れた者は、もちろん、神の子どもです。永久的に神の子どもとなった者は、滅びません。報いられるかどうかは、別の問題ですけれども、永遠のいのちは永遠のいのちです。失われ得ないものです。
ヨハネの手紙・第一 3章1節
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私たちが神の子どもと呼ばれるために、――事実、いま私たちは神の子どもです。――御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。
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2節
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愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。 |
イエス様のところに行く者は、必ず受け入れられます。本当にありがたいことではないでしょうか。
けれども、救われて神の子どもとなることは、確かに、すばらしい、考えられないほどの恵みですけれど、神の子どもとなった者は必ずしも、今、読みましたマタイ伝25章に書かれているように「良い忠実なしもべである」と、言えないのではないでしょうか。
マタイの福音書 25章21節
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「その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』」 |
大切なのは、イエス様のところに行くことです。けれどそれだけではない。本当は私たちが呼ぶべきではないでしょうか。すなわち、「イエス様来てください。迎えに来てください」。これこそが要求されています。ですから、パウロははっきり書いたのです。
テモテの手紙・第二 4章7節、8節
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私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。 |
「主のご再臨を信じる者」とは書いていないのです。「主のご再臨を慕っている者」、すなわち、「首を長くして待っている者に、与えられる」とあります。結局、走り続けなければならない。
私たちの模範は、もちろん主イエス様です。よく知られている箇所ですけれども、毎日読んでもいい箇所ではないでしょうか。
ヘブル人への手紙 12章1節から3節
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こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです |
「罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方」とは、イエス様のことです。イエス様のことを考えなさいと言っています。どうしてか。「それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです」。
勝利を得る道とは、イエス様から目を離さないことです。
私たちは、どのようにしてイエス様を知るようになったのでしょうか。ただ、主の恵みによってです。主は恵んで下さるからです。主が、「みもとに来る者を決して拒まない」と約束してくださったから、主が受け入れてくださったことを確信することができます。
私は、59年前に主の恵みによって救われましたけれど、こんにちに至るまで、救われるということを、まだ理解しているとは言えないし、ピンときません。すなわち、理性でもってつかむものではないのです。そうすると、どうして信じるのでしょう。主は約束を守るお方であるからです。私たちが理解しているかいないかが、決定的に大切ではないのです。イエス様の約束こそが大切です。イエス様がみことばによって語られたことだけが大切です。というのは、主のみことば、聖書だけが真理であるからです。
先日の「大阪の喜びの集い」に、いろいろな方が初めて見えました。集まった人たちは400人以上だったのですけれども、ある人が半ば怒ったのです。私たちが今、賛美している歌を聞いて「けしからん」と。なぜなら、「主イエスだけ」という言葉がよく出てくるからです。だから、「けしからん。どうしてイエスだけか…」。よく聞くことなのです。
けれども、だから、私は喜んで今の歌を歌います。「愛する主イエス」という言葉も、よく出てきます。他のどのような賛美歌、聖歌を見てもないのです。ただ、「イエス様」としかない。
「私たちが罪を告白した時、主はその罪を赦して下さる」というみことばが書かれているので、私たちはそのことを安心して信じることができるのです。大切なのは私たちの理性、私たちの感情ではなく、聖書だけ、みことばのみです。確信の土台は、主のみことばだけです。私たちがそれを理解できるかどうかではなく、イエス様ご自身がそのことをハッキリと約束しておられるので、安心して信じることができるのです。
主は適当に処理することをなさらず、嘘、偽りを全く知らないお方です。だから、私たちは理解できなくても、ピンとこなくても、何も感じられなくても、信じることができるのです。
もしかすると、今日初めて来られた方々もおられるかもしれないし、まだイエス様を受け入れていない方もおられるかもしれない。けれど知るべきことは、どこかの団体の会員になる必要はないということです。そして、「いかなる状況においても、自分のわがまま、罪、過ちは赦されている。主イエス様は、私をも受け入れてくださった」ということを、知る必要があります。なぜならば、その確信がなければ本当の喜びもないし、真の平安もないし、また生きる希望もないからです。自分の債務をもったそのままの状態で主イエス様のみもとに行って、その債務を告白する人は、「自分の罪は赦されている」という確信を持つことができるようになります。
「赦されている」という確信をなぜ持つことができるのでしょうか。なぜなら、イエス様は嘘つきではないからです。必ずご自分のことばを守ってくださるからです。
「赦されている」という確信の結果は何かと言いますと、愛と感謝の表われとして「自分の人生は、今からただイエス様お一人のものになるべきである」と、言うことになるに違いないのです。すなわち、意識的な献身が現われるに違いないのです。「主よ。私はあなたに、私の持っているものすべてをお捧げいたします。私自身でさえもお捧げいたします。なぜなら、私はあなたの御手のうちにある器にだけなりたいからです」。
パウロの最後に書いた手紙、テモテ第二の手紙の中に次のように書かれています。
テモテへの手紙・第二 4章7節
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私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。 |
パウロはこの手紙を書いた時、まもなく殺されるのではないか、殉教の死を遂げるようになるのではないかと思ったでしょう。その時の彼の切なる願いは、「誤解、迫害があってもテモテよ。信仰の戦いを勇敢に戦いなさい」という願い、また祈りでした。
救われることとは確かに大切ですし、すばらしいですし、恵みです。けれど、「私たちは主に仕えるために、また主のご再臨を待ち望むために救われている」と、聖書ははっきり言っているのです。
このテモテ・第二の手紙4章7節から11節に、三人の働き人について書かれています。デマス、マルコ、パウロです。デマスも、マルコも、もちろんパウロも、主との出会いによって新しく生まれたのです。「イエス様の流された血潮によって、自分のわがままや過ちが赦されているのであり、イエス様はすべてを消し去られたのだ。主は自分の罪を二度と思い出さない、心に止められない」と、間違いなく三人とも確信するようになったから、福音を宣べ伝えるようになったのです。強制されたからではなく、イエス様を紹介したいと、三人共に思ったのです。
けれど、イエス様は罪を赦したり、重荷から解放したりなさるお方だけではないのです。イエス様は、救われた人たちを、ご自分の器として用いようと望んでおられます。
「ちっぽけな被造物である人間は、偉大なる創造主の同労者になるべきである」と、聖書ははっきり言っているのです。
コリント人への手紙・第一 3章9節に、次のように書かれています。
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私たちは神の協力者であり、… |
「同労者になりたい」ではない。今現在、私たちは神の同労者です。すばらしい恵みなのではないでしょうか。
コリント人への手紙・第二 6章1節を見ると、次のように書かれています。
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私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。 |
「救われているのはすばらしい。けれども、主は、あなたがたを用いようと望んでおられますよ」と、パウロはコリントにいる兄弟姉妹に書き送ったのです。私たちが、「勝利者なるイエス様の側に立つことを許されている」ということです。
主は、何百回も私たちに向かって呼びかけておられます。「恐れることはない。わたしは、あなたとともにいる。あなたの代わりに戦っている」と。
このようなみことばを、本気になって自分のものにすると何を経験するのでしょうか。すなわち、「主とともに圧倒的な勝利者になる」ということです。
パウロは、次のように言ったのです。個人的な証しだけではないので、複数形で使われています。「私」ではなく、「私たち」です。
ローマ人への手紙 8章37節
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しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてこのとの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。 |
とあります。
勝利者なるイエス様は、器を求めておられ、その器を通して、ご自分の勝利を明らかにすることがおできになるのです。そして、イエス様は、私たちを同労者として用いようと望んでおられます。すべては主イエス様に委ねられています。イエス様は、ご自分がお用いになることのできる兄弟姉妹、すなわち、すべてを主に委ねた兄弟姉妹を求めておられます。こんにち最も必要なのは、主の同労者ではないでしょうか。かしらなるイエス様は、からだである兄弟姉妹を通してお働きになり、ご自身を明らかになさりたいと思っておられます。パウロは、コリントにいる人々に次のように書いたのであります。
コリント人への手紙・第二 2章15節、16節
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私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。ある人たちにとっては、死から出て死に至らせるかおりであり、ある人たちにとっては、いのちから出ていのちに至らせるかおりです。 |
3章5節
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何事かを自分のしたことと考える資格が私たち自身にあるというのではありません。私たちの資格は神からのものです。 |
4章7節
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私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。 |
パウロは、コリントにいる人々に書いたのです。
コリント人への手紙・第一 6章19節、20節
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あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。 |
すべてを捧げつくすことこそ、主に用いられるために要求されています。それは、私たちの場合には、自分の自己本位の生活に死ぬことを、意味しているのではないでしょうか。
「あなたがたは、もはや自分自身のものではない」。
主に仕えている者はだれでも、人殺しと呼ばれている悪魔の攻撃の的になります。救われている者は、確かに救われています。救われている者は、永久に主のものです。悪魔でさえもそれを認めざるを得ないのです。しかし悪魔の目的は、救われた者たちが主に仕えないように、主の同労者にならないようにということです。
パウロは、殺される前の最後の手紙の中で、自分の同労者たちについて書いたのです。
ピレモン書 24節
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私の同労者たちであるマルコ、アリスタルコ、デマス、ルカからもよろしくと言っています。 |
パウロは、この同労者であるマルコ、アリスタルコ、デマス、ルカと本当に一つでした。みな同じ目的を持っていたのです。もう一箇所。ここにもデマスという名前が出てきます。
コロサイ書 4章14節
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愛する医者ルカ、それにデマスが、あなたがたによろしくと言っています。 |
このような箇所を読むと誰でも分かります。すなわち、デマスは、ルカと並んでパウロの同労者でした。パウロはその時ローマで繋がれていたのです。自由に動くことができなかったのです。だから、パウロは、与えられた同労者のために心から感謝しました。
彼らは、パウロの代わりに地方に行って福音を宣べ伝えたのです。デマスも、そのように福音を宣べ伝えていた者の一人でした。当然ですけれど、このような奉仕は、犠牲なしにはあり得ません。自己否定こそが、このような奉仕の土台、また源です。持ち物を得ようと思えば、あるいは目立ちたいと思えば、中心になろうと思えば、このような奉仕は全く不可能です。
デマスは、ある時、「もう嫌です。耐えられない。我慢できない」と思い、パウロから離れ、もっと楽な道を選んだのです。これこそが、パウロにとって大きな悩みであり、悲しみでした。今まで一緒に祈り、みことばを読み、主を賛美し、礼拝した人が、急に姿を消したのです。そういう人は、「イエス様の十字架に敵対して歩いている者である」と、パウロはピリピ人への手紙の中で書いたのです。
デマスも、そういう者になってしまったのです。「十字架に敵対して歩く者」になりました。もちろん、彼はイエス様を捨てたのではないのです。イエス様に敵対しようとも思わなかったのです。ただイエス様の十字架の敵になっただけです。彼はイエス様を知り、イエス様を信じ、罪の赦しをいただいた者で、ある時は本当に喜んで福音を宣べ伝え、イエス様を紹介する者として、パウロの同労者でした。けれど、彼は十字架に逆らうようになったのです。結局、「誤解されたくない、侮られたくない、主のために恥を負いたくない」と、思うようになったのです。そういう人はペテロに似ているのではないでしょうか。人間の思いで、イエス様に、「十字架にかからないように…」と思うようになります。
マタイの福音書 16章21節から23節に、次のように書かれています。
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その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子達に示し始められた。するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」 |
彼は主の同労者ではなく、主に敵対する者でした。みことばの中でよく注意されています。主のお考えと人間の考えとは違う。信仰があっても違う。だから、イエス様は救いにあずかったイスラエルのために言われたのです。
イザヤ書 55章8節、9節
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「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。――主の御告げ――天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」 |
全く違う。主イエス様のペテロに言われたみことばは、確かにちょっと厳し過ぎるのではなかったでしょうか。
マタイの福音書 16章23節
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「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」 |
イエス様の十字架の敵とは、ピリピ人への手紙の3章19節を見ると、「地上のことを思っている兄弟姉妹」のことを言います。私たちは十字架に敵対しているのでしょうか。それとも、「イエス様だけが盛んになり、私たちは衰えなければならない」と、切に望むのでしょうか。
デマスは十字架に逆らうようになりました。結局、彼は、「誤解されたくない。侮られたくない。異分子になりたくない。イエス様のために恥を負いたくない」と、思うようになったのです。「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」というみことばが、デマスにも当てはまるみことばなのではないでしょうか。
デマスと全く逆の態度をとったのはモーセでした。よく読む箇所ですが、毎日読むべきかもしれません。ヘブル書の11章です。モーセのとった態度です。彼は恵まれた男で、知らないうちに皇太子になって、将来世界を治める王となるべき男でした。しかし彼は、ある時全部捨てたのです。何週間、何ヶ月間祈ったか分からないけれど、よく祈った結果、デマスと違う態度に出たのです。
ヘブル人への手紙 11章24節、25節
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信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。 |
デマスは苦しみたくなかったのです。モーセは意識して苦しむことを選び取りました。彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。デマスも、初めの頃はそう思ったのです。間違いなく。
モーセは、報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。デマスは目を離したのです。本当に悲劇的なのではないでしょうか。
イエス様は、はっきり言われました。
マタイの福音書 6章24節
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だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。 |
どちらかしかない。
イエス様の肉の弟ヤコブも、同じ事実について書いたのです。これも、非常にするどい、厳しい言葉です。未信者ではなく、主の恵みによって救われた人たちに書かれた言葉です。
ヤコブの手紙 4章4節
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貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。 |
デマスは、見えない世界よりも、見える世界を愛するようになってしまったのです。
いつまでも続かないものに、頼るようになったのです。悲劇的なのではないでしょうか。
パウロは、コリント第一の手紙に次のように書いたのです。ヤコブと同じように、本当に厳しい言葉です。
コリント人への手紙・第一 16章22節
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主を愛さない者はだれでも、のろわれよ。 |
とあります。
デマスは今の世を愛するようになりました。そして、パウロは、「イエス様を愛さない者はだれでも、のろわれよ」と書いたのです。「のろわれる」とは、失われることではないのです。ただ祝福され得ないだけのことです。けれど主の祝福なしには、私たちは本当にあわれな者になります。なぜならば、主の祝福こそがすべてのすべてであるからです。
欲しいものを全部持っていたソロモン大王が言ったのです。
箴言 10章22節
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主の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない。 |
人生の特徴とは、「人間の苦労」か、「主の祝福」かのどちらかです。
昔のヤコブは、長い間、自分、自分、自分のことだけしか、考えられなかったのです。けれど、あらゆる努力は空しかったのです。彼の絶望の中に光が差し込みました。結果として、彼は心から祈れるようになったのです。
創世記 32章26節
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「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」 |
欲しいもの全部持っていても、祝福がなければ心は満たされ得ない。
デマスは今の世を愛するようになりました。その後彼がどのようになったのか、もちろん私たちは知りません。言えることは、彼は、主イエス様との交わりのすばらしさや、用いられる喜びなしに、自分勝手に選んだ道を歩まなければならなかったということです。
主を愛し、イエス様のためにいのちがけで働く、そして急に離れ、用いられなくなってしまっている人がいます。理由の一つは地上における名声でありましょう。
イエス様から目を離し、自分の栄誉のために奉仕する兄弟姉妹は、知らないうちに、ねたみや、闘争心、また党派心や、脅威から、イエス様を宣べ伝えるようになります。これも悲劇的なのではないでしょうか。
イエス様は、認められたい、何とかして信用を得、名声を確保したいと思う兄弟姉妹を、用いることがおできにならないからです。
救われたばかりの兄弟姉妹は、イエス様を愛し、喜びのあまり、自分の持っているもの全部をイエス様に捧げ、主に仕えたい、この世の名声だって全然問題ではないと思っています。けれど、多くの場合は、信仰生活が長ければ長くなるほど、名誉心が頭をもたげてきて、自分は何かになりたい、認められる者になりたいと思うようになります。
口では、主にすべてを捧げて仕えると言うかもしれないけれど、実際には、人間の前に歩んでいるのであり、主の光のうちを歩んでいないのです。
人間を喜ばせようと思えば、おのれを喜ばせ、当り障りのない楽な生活をすることができるかもしれないけれど、主はそういう人々を用いることがおできにならないのです。
モーセはすべてを捨てたのです。苦しむことを選び取ったのです。どうしてできたのかと言いますと、主イエス様から目を離さなかったからです。
その結果として、200万人以上の人が、エジプトの奴隷から解放され、主に従うようになり、心から主を礼拝するようになったのです。
了
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