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メ ッ セ ー ジ ・ 証 し 集


捕えられた者として歩みましょう(5)
   
2004.4.13(火)
ベック兄メッセージ(メモ)

 
引用聖句
ヘブル人への手紙 12章1節から3節
 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。


 先日の御代田の「喜びの集い」では、洗礼式もありましたし、記念会もありました。二つの結婚式もありましたし、祝福式もありました。式の名前は違いますけれど、内容的には全部同じです。全部イエス様を紹介する集いに過ぎません。だから、「喜びの集い」です。イエス様は生きておられます。
 洗礼式の時、13人の方が洗礼を受けられたのですけれども、その中には、姉妹たちのご主人がたもいらっしゃいました。このご主人たちがどうして導かれ、救われたかといいますと、姉妹たちが走り続けたからです。祈り続けたからです。誰でも一度は祈りますし、何日間か続くかもしれません。けれども、何年間、何十年間になると、やはり疲れやすくなるのではないでしょうか。だからこそ、へブル人への手紙の著者は、「イエスから目を離さないでいなさい。罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい」と書いたのです。
 十字架の上で犠牲になられたイエス様、復活なさったイエス様、また近いうちに再び来られるイエス様を仰ぎ見ると、やはり誰でも元気になります。今、司会の兄弟が言われたように、イエス様を仰ぎ見る時を作りましょう。これこそが、今の世の中で最も大切なのではないでしょうか。
 私たちは、いったいどうしてイエス様を信じるようになったのでしょうか。ただ、主の恵みによるのです。イエス様が、「みもとに来る者を決して、決して拒まない」と約束してくださったから、主が受け入れてくださったことを、誰もが確信することが出来るのです。「罪を告白すると、主は罪を赦してくださる」と、みことばが語っているから、私たちは安心して、信じることが出来るのです。いつも言われているように、大切なのは、人間の理性でもないし、人間の感情でもありません。主のみことばです。主が何を約束しておられるかだけを大切にすると、本当に心配から、不安から解放されます。
 結局、確信の土台は、主のみことばだけです。私たちは、それを理解出来るからではなくて、主は嘘をつかれない方であるから、信じることが出来るのです。
 そして、イエス様は、約束されたことを思っておられます。即ち、主は適当に処理することをなさらないで、嘘、偽りを知らないお方です。「赦されている」という確信の結果は何かというと、愛と感謝の表われとして、「ただイエス様お一人のものとなるべきである。イエス様のために生きたいという切なる願いである」ということになるに違いありません。即ち、意識的な献身が表われるに違いありません。「主よ。私は、あなたに私の持っているものをすべてお捧げいたします。私自身さえもお捧げいたします。なぜなら私は、あなたの御手のうちにある器にだけなりたいからです」。

パウロは、この間読みましたように、彼の書いた最後の手紙の中で告白したのです。
テモテへの手紙・第二 4章7節、8節
 私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。

 パウロはこの手紙を書いた時、間もなく殺されるようになるのではないか、殉教の死を遂げるようになるのではないかと思ったに違いありません。その時の彼の切なる願いとは、「テモテよ。何があっても信仰の戦いを勇敢に戦い続けなさい。走り続けなさい」という願いであり、また祈りでした。
 救われることとは、確かに素晴らしい、考えられない奇蹟です。けれど、「主に仕えるために、イエス様の再臨を待ち望むために救われた」ということを、絶えず覚えるべきではないでしょうか。

このテモテへの手紙・第二の中で、パウロは、この間話したように、一緒に働いている働き人、同労者について言っているのです。おもに二人のことについてです。デマスについて、また、マルコについてです。もちろん、自分のことについても証ししているのです。このデマスもマルコもパウロも、イエス様の恵みによって、イエス様との出会いによって変わりました。人生観が変わりました。考え方も変わりました。価値観も変わったのです。「イエス様の流された血によって、自分の過ちは赦されている」と、三人とも確信したのです。イエス様は赦すと忘れてくださいます。罪を犯さなかったかのようにしてくださるのです。「わたしはあなたの罪を二度と思い出しません」と聖書に書かれています。イエス様だけがお出来になります。
 けれども、イエス様は、罪を赦したり、重荷から解放してくださるお方だけではなく、恵みによって救われた兄弟姉妹一人一人を、ご自分の器として用いようと望んでおられるのです。
 この間、私たちは、少しだけデマスについて考えました。パウロは、「デマスは救われている者である」と言っているだけではなく、「彼は、私の同労者です。私は喜んでデマスとともに、イエス様を紹介する者です。愛する医者ルカ、それにデマスが、あなたがたによろしく…」と言っています。イエス様だけを紹介すると、イエス様だけが栄光をお受けになっていただきたいという気持ちを持つと、やはりいろいろな問題が出てきます。なぜならば、悪魔が猛烈に反対するようになります。自己否定こそが、このような奉仕の土台であり、また源なのではないでしょうか。
 
デマスが何年間パウロと一緒に働いたのか、イエス様を紹介したのか分かりませんけれども、彼は途中で止めてしまったのです。今まで走っていたデマスが、突然、「疲れた」と言ったのです。今まで、「自分は別にどうでもいい」と思っていたデマスが、突然、自分のことばかり考えるようになったのです。パウロがいかに悩んだか、苦しんだか、ちょっと言い表わすことが出来ないのではないでしょうか。
 パウロは、「そのような人たちは、十字架に敵対している人たちです」と言ったのです。デマスは、知らないうちに十字架の敵になってしまったのです。彼は、イエス様に対する信仰を捨てたのではありません。けれども、「もう十分です」。結局、彼にとって大切だったのは、みことばよりも、自分の気持ちだったのではないでしょうか。もし、彼が毎日、「主よ。語ってください。しもべは聞いております」という態度を取っていたなら、決して、そのようにならなかったのです。義務的にみことばを聞いたり、読んだりしただけなのです。「誤解されたくない。もう少し楽な道を歩もう」と思ったデマスは、結局、離れてしまったのです。
 ある時、イエス様はペテロに、「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と言われたのです。このみことばこそが、デマスにも当てはまる言葉なのではないでしょうか。彼は、主のことよりも、自分の思っていることを大切にしてしまったから、離れたのです。イエス様は言われました。
マタイの福音書 6章24節
 だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。

 だから、ヤコブはこの事実について、次のように言ったのです。
ヤコブの手紙 4章4節
 貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。

 デマスは、目に見えない世界よりも、見える世界を愛するようになってしまったのです。結局、いつまでも続かないものに頼るようになったのです。気の毒ではないでしょうか。悲劇そのものであるとしか言えません。デマスは今の世を愛するようになってしまったのです。確かにその後、どういうことになったのか、私たちには分かりません。けれども、主との交わりの素晴らしさと用いられる喜びなしに、自分勝手に選んだ道を歩まなければならなかったと言えます。もう平安はなかったのです。喜びもなかったのです。後で彼が、本当の意味で戻ったかどうかは、聖書には何も書いてありませんから分かりません。
「デマスは今の世を愛し、私を捨てた」。「私から離れた」だけではないのです。「私を捨てた」とあります。
彼は、おそらくテサロニケ出身の者でした。テサロニケ人への手紙を読むと分かります。パウロはただ3週間だけ、みことばを、即ち、イエス様を紹介したのです。そして、この3週間のうちに多くの人たちが救われ、導かれただけではなく、このテサロニケの信じる者の群れは、パウロの喜びの種でした。デマスもパウロも、主との出会いによって、新しく生まれました。二人とも、「イエス様が代わりに死なれたことは嬉しい。イエス様の流された血によって、自分の罪、過ちは赦されているだけではなくて、永久に忘れられている」と確信することが出来たのです。
けれどもイエス様は、罪を赦したり、重荷から解放してくださるお方だけではありません。やはり、救われた人たちを用いようと望んでおられます。ですから、
使徒の働き 16章31節
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」

「あなたの信じたとおりになります。信じると神の栄光を見る」とあります。

ちっぽけなどうしようもない人間は、偉大なる主の同労者となるべきです。デマスも、そのように福音を宣べ伝えていた者の一人でした。もちろん、犠牲なしに、走り続けられません。自己否定こそが、この奉仕の土台であるからです。

 主を愛し、イエス様のためにいのちがけで働き、そして、急に離れ、用いられなくなってしまったことは、本当に悲劇的なのではないでしょうか。

理由の一つは、「地上における名声」なのではないでしょうか。イエス様から目を離し、自分の栄誉のために奉仕する兄弟姉妹は、知らないうちにおかしい方向に行くようになります。
もう一つの妨げについて、パウロは、次のように書き記したのです。
テモテへの手紙・第一 6章8節、9節
 衣食があれば、それで満足すべきです。金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。

 結局、「不満足」は、罪です。「衣食があれば、それで満足すべきです」と、ここで書かれています。
イスラエルの民について、次のように書かれています。
民数記 11章1節
 さて、民はひどく不平を鳴らして主につぶやいた。主はこれを聞いて怒りを燃やし、主の火が彼らに向かって燃え上がり、宿営の端をなめ尽くした。

「主なる民が不平を鳴らした」とあります。その民は、多くの奇蹟的なみわざによって救われ、自由の身となり、奴隷の状態から解放され、彼らは、雲の柱、また火の柱について行きました。「主は生きておられる。主は信頼出来る導き手であられる」と彼らは経験したのです。けれども、これらの救われた信じる者は、「不平を鳴らした」とあります。彼らは不満でした。不平を鳴らす者は、主を見失います。不平を鳴らす者はそれによって、意識的に、或いは無意識に、主ご自身に文句を言います。はっきりとした態度を取るべきです。

パウロは、「不満を避けなさい」と書いたのです。また、自分の証しとして書きました。
ピリピ人への手紙 4章11節
 私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。

 パウロは、どうしてここで、「学んだ」という言葉を使ったのでしょうか。なぜなら、人間は、それを生まれつき持ってはいないからです。いろいろなつらいことを通して、このことを学ぶようになるのです。
 パウロの同労者であるデマスは救われていたのです。けれども、彼は走り続けなかったのです。主から目をそらしたから、疲れてしまったのです。用いられなくなってしまったのです。
 デマスに似ている者について、旧約聖書に書かれています。列王記・第二の5章の中で、エリシャの召使、しもべゲハジについて書かれています。彼も全くデマスのように、結局、この世を愛するようになったのです。結果は、らい病にかかり、用いられなくなってしまったのです。彼は、エリシャから離れなければならなくなったし、寂しい生活を送るようになったのです。
 このゲハジも、デマスのように本当に恵まれた者でした。なぜなら、神によって特別に選ばれた預言者であるエリシャと一緒にいたからです。エリシャの経験した奇蹟を、ゲハジは同じく経験することが出来たのです。それによって、「主は生きておられる。主は奇蹟をなすお方であられる。主にとって不可能なことはない」という事実を見ることが出来、体験することが出来ました。
 このゲハジは、ナアマン将軍に、主のメッセージを伝えたのです。「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい」と。最終的に、ナアマンはその通りにしたことによって、らい病から癒され、生ける唯一のまことの神の癒す力を経験することが出来、そして、主を信じるようになっただけではなく、心から主を拝むようになり、礼拝する者に変えられたのです。このゲハジは用いられたのです。けれども、主が働かれると、主が祝福してくださると、必ず悪魔は、用いられた人をめちゃくちゃにしようと攻撃します。
ゲハジの場合は、悪魔が成功したのです。彼は、自分の仕えていた主人である、預言者エリシャと全く違う態度をとったのです。ナアマン将軍は、癒された後で、感謝の気持ちでいっぱいで、お礼をしたかったのです。けれど、エリシャは、ナアマンの富を意識して拒みました。「けっこうです。それをしたのは私ではありません。主がなさったことです」。
けれど、このエリシャに仕えたゲハジは、この富をどうしても欲しかったのです。主から、この目で見えない世界から目をそらし、この世の富を自分のものにしようと思ってしまったのです。
列王記・第二 5章20節
 そのとき、神の人エリシャに仕える若い者ゲハジはこう考えた。「なんとしたことか。私の主人は、あのアラム人ナアマンが持って来た物を受け取ろうとはしなかった。主は生きておられる。私は彼のあとを追いかけて行き、必ず何かをもらって来よう。」

「主は生きておられる」。どうしてこのように言っているのかは、ちょっと分かりません。結果は、大変なことになってしまいました。
列王記・第二 5章27節
「ナアマンのらい病は、いつまでもあなたとあなたの子孫とにまといつく。」彼は、エリシャの前から、らい病にかかって雪のように白くなって、出て来た。

 もうエリシャとの関係がなくなったのです。聖書は、ゲハジが嘘をつき、それによって金持ちになったことを示しています。けれど、結果として、彼はらい病にかかりました。ゲハジは、「金銭を愛することがあらゆる悪の根である」というみことばを経験しなければならなかったのです。金銭を持つことは悪くありません。けれども、愛するようになればおしまいです。主よりも富を愛する者は、信仰からはずれてしまいます。その人はもはや主に結びついてはいません。ゲハジは、今までのように、主の器であるエリシャとともに働けなくなってしまったのです。主はゲハジを用いられなくなりました。主の祝福がなく、主との交わりを通して得られた喜びもなく、過ごすようになったのです。「彼は、…出て来た」と書いてあります。即ち、「らい病にかかって雪のように白くなって、出て来た」。

前に話したパウロの同労者であるデマス、またエリシャの同労者であるゲハジは、いったいどうして駄目になり、用いられなくなってしまったのでしょうか。走り続けなかったからです。自分のことを思うようになったからです。初めの引用聖句で読んでいただきました箇所の中に、「主イエス様のことを思いなさい。イエス様のことについて考えなさい。イエス様から目を離さないでいなさい」とあります。二人とも、主から目を離してしまったのです。

パウロは、彼が生きていた時代の伝道者たち、いわゆるメッセンジャーに向かって、次のように書いたのです。
ピリピ人への手紙 2章21節
 だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。

これは、私たちにも当てはまる言葉ではないでしょうか。デマスもゲハジも、自分のことを大切にするようになったのです。イエス様は言われました。「地に宝をたくわえるな。思い煩ってはならない。まず、神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはすべてみなそえて与えられます」と。
 主に頼ると、すべてを主に任せると、私たちは、確かにある意味で不安定になります。パウロも人々に語った時、弱く、不安であったことが聖書に書いてあります。パウロは、危険にさらされ、不安を身に感じ、死ぬのではないかと思った時もありました。よく引用される箇所ですが、パウロの正直な証しであり、また告白です。
コリント人への手紙・第二 1章8節、9節
 兄弟たちよ。私たちがアジヤで会った苦しみについて、ぜひ知っておいてください。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危くなり、ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。

 それは、全部主のせいでした。主は目的をもって許してくださったのです。
主の目的とは、
コリント人への手紙・第二 1章9節、10節
 これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。

 パウロ、またパウロの同労者たちは、確信したでしょう。「私たちは主に拠り頼んでいる者です」。けれども違ったのです。まだでした。主に拠り頼む者となるために、主は、このような理解出来ない悩みを、苦しみを与えてくださったのです。パウロはまだ、「私たちは圧迫されています。私たちは逃れ道がありません。迫害され、地に倒された者のようになっている」と告白したのです。これは、安全とおよそかけ離れた状態なのではないでしょうか。人間の心に深く願っていることは、「安楽な生活を送りたい。この身をいたわって生きたい」という願いなのではないでしょうか。イエス様は、これを全然願われなかったのです。
マタイによる福音書 20章28節
「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」

 イエス様は、この地上に一つの持ち物も持たれず、また、この世にふるさとを持っておられなかったのです。イエス様は、辱められて黙り、誤解されて自らを弁護せず、黙々として歩まれたのです。イエス様についての預言の言葉でしょう。
詩篇 22篇6節
 私は虫けらです。人間ではありません。

 「わたしは虫であって、人ではない」。人間は、自らを弁護することが出来ます。けれど、虫はそのようなことが出来ません。蛇と虫の違いは、大きさと力が違うというよりも、蛇は身の危険を感じると、鎌首をもたげて向かって攻撃しますが、虫は何もしないというところに違いがあるのではないでしょうか。私たちの自我は、あたかも蛇に似ているのではないでしょうか。虫はどんなにされても逆らうことをしません。ただ、なすがままにされています。イエス様は、「わたしは虫です」と言うことがお出来になったのです。イエス様は辱められ、殺されました。結局、イエス様は、私たちのために虫のようなものになってしまわれたのです。このイエス様は、「父がわたしを遣わしてくださったように、わたしもあなたがたを遣わす」と言われました。
 イエス様は、私たちの自我が打ち砕かれ、ヤコブが主と相撲をとって自我が砕かれたように、私たちも己に死んで、主に仕えることを望んでおられます。

デマスとゲハジは、確かに導かれ、主を知るようになり、主に仕える者でした。けれど、二人は身の安全を願い、また安楽な生活を送りたいと思っただけではなくて、楽しみたいという思いもあったから、「もう十分です。嫌です。耐えられません」という態度をとったのです。イエス様から目を離したからです。この態度をとると確かに疲れます。喜びもないし、どうしたらいいのか分からなくなってしまいます。
 けれど、この人たちにこそ、イエス様は言っておられます。「おいで。わたしのところに来なさい。休ませてあげます」と。休むこととは、言うまでもなく、みことばを学ぶことを怠り、祈ることを休み、集会に集うことをやめることを意味しているのではありません。それは、霊的ないのちを殺してしまうことであるからです。

イエス様は、私たちの心の奥底をよく知られ、私たちが、自分の時、自分の富、自分の計画、自分の楽しみを持っているかどうか、或いは、「主よ。私も、私の持っているものもみな、あなたのものです。あなたのみこころをなさしめてください」と願っているかどうか、すべてをご存じです。
 イエス様は、「わたしは自分のいのちを与えるために来ました。わたしは仕えるために来ました。わたしは自分の願いを持ちません。自分の立場をとりません。どうか、わたしの思いではなく、父よ、あなたのみこころだけをなしてください」という態度を取られたというよりも、取り続けられたのです。
 また、人の心に深く根ざしている願いは、「認められたい」という願いなのではないでしょうか。何とかして自分の人気を集め、人に自分の力を及ぼしたいという願いを心の中に潜ませています。大切にされ、誉れを得、自分を忘れてもらいたくないという願いを持っています。人に認められたいと願う人は、みじめになります。なぜなら、そのような者は、主に用いられないからです。

パウロのもう一人の同労者について書いてあります。彼は、デマス、或いはゲハジとは全く違う態度をとりました。エパフロデトというパウロの同労者についての箇所です。
ピリピ人への手紙 2章25節から30節
 しかし、私の兄弟、同労者、戦友、またあなたがたの使者として私の窮乏のときに仕えてくれた人エパフロデトは、あなたがたのところに送らねばならないと思っています。彼は、あなたがたすべてを慕い求めており、また、自分の病気のことがあなたがたに伝わったことを気にしているからです。ほんとうに彼は死ぬほどの病気にかかりましたが、神は彼をあわれんでくださいました。彼ばかりでなく私をもあわれんで、私にとって悲しみに悲しみが重なることのないようにしてくださいました。そこで、私は大急ぎで彼を送ります。あなたがたが彼に再び会って喜び、私も心配が少なくなるためです。ですから、喜びにあふれて、主にあって、彼を迎えてください。また、彼のような人々には尊敬を払いなさい。なぜなら、彼は、キリストの仕事のために、いのちの危険を冒して死ぬばかりになったからです。彼は私に対して、あなたがたが私に仕えることのできなかった分を果たそうとしたのです。

 パウロは、エパフロデトに対して、「私の同労者、私の戦友、私の兄弟」と呼びかけています。このエパフロデトは、パウロと同じく、永遠に朽ちない一つの目標を目ざして走る競技者でした。この一つの目標を心の目で見た者は、自分自身を顧みません。自我という足かせから解放されています。ピリピ人への手紙2章21節と30節は、実に著しい対照を示しているのではないでしょうか。
 21節は、はかない人の名声を求め、走る者の姿が書かれています。
ピリピ人への手紙 2章21節
 だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。

 30節には、朽ちることのない天の報いを求めて走る人の姿が書かれています。
ピリピ人への手紙 2章30節
 彼は、キリストの仕事のために、いのちの危険を冒して死ぬばかりになったからです。

 パウロ自身、前に何回も読んだ箇所ですけれども、次のように言ったのであります。
使徒の働き 20章24節
 けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。

 エパフロデトもパウロも、ただ一つの天の賞与を求めて走り続けました。
ピリピ人への手紙 3章13節、14節
 ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。

 パウロは、確かに有能な、主に用いられた者として、当時、既に認められていました。
「パウロは名声も得たし、残る天の栄誉を目ざして走ることは、それほど難しくないだろう。簡単なのではないか」と思われるかもしれないけれど、エパフロデトのことを考えてみましょう。彼は、名もない、誰の目にも目立たない当たり前の一人の信者に過ぎなかったのです。けれど、主の目からは、パウロもエパフロデトも全く同じく、主に仕える者として見えたのです。
 問題は、私たちが何と何をやったということではなく、私たちがどれだけ主に忠実で、従順であったかということなのではないでしょうか。

最後にもう一箇所読んで終わります。
コロサイ人への手紙 3章23節
 何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。


                                  了



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◆メッセージ(ベック兄)

※一部、テープの転換による不明部分あり

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